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厄介払いの結婚から一年、私を連れ戻す家族の前で旦那様に唯一の妻として選ばれます

作者: 冬野 しほ
掲載日:2026/08/22

鞭の音がした。


 フランカの右足は、厩門ではなく古城の玄関へ向きかけた。音の正体が、使者の靴に当たった革鞄だとわかっても、爪先はすぐには戻らない。


「ベルトラン男爵の命により申し上げます。ご令嬢に対する婚姻命令は、本日をもって撤回されました。お戻りください」


 定刻まで、あと七分。


 門前には六人。二人はフランカを見ている。二人は馬を見ている。残る二人は、もう退路を見ていた。帰る気のない立ち方だった。


「三番車を先に出してください。栗毛は右側から人を近づけないで」


 御者へ告げ、フランカは門扉を半分閉めた。六頭は鞭を使わず再調教した馬だ。大声が苦手な馬、頭上の布を恐れる馬、左後肢に古傷がある馬。一年前なら、三番車だけで出発が半刻遅れていた。


 今は、御者が合図の前に馬の耳を見る。


「お父様のご命令は承りました。私は戻りません」


「命令の撤回ですよ」


「はい。ですから、従う命令がございません」


 使者が革鞄を握り直した。


 荷を検めていた老馬商レオナールが、顔も上げずに言う。


「この方は嫁入り前、伯爵が怯えた馬を打つかと私に尋ねた方です。命令だけでは動きませんよ」


 フランカの肩が強張った。


 ヴァンサンが一歩だけ近づいた。前へは出ない。フランカが自分で断った場所を奪わない距離だった。


 一年前の婚礼荷に礼装はなかった。三日分の乾燥飼料と、折り畳んだ道順だけ。父は、厄介者に新しい衣装など要らないと言った。


 馬車列が動き出す。蹄は乱れず、門を抜けた。


 使者たちは、空いた道をそのまま帰っていった。


    *    *    *


 二度目の使者は、傷のある馬に乗ってきた。


「持参金の返還協議が必要です。家長命令も有効ですので、今度こそ——」


「その前に、この馬を降りてください」


 父の書記は口を閉じた。


 鞍の下で皮膚が擦れ、泡立った汗に血が混じっている。フランカは馬の鼻先へ手を出さず、半歩離れて呼吸を待った。


「誰が乗ってきましたか」


「私です」


 実家の御者が、おずおずと手を上げた。指の節が割れ、爪の際まで黒い。


「給金は」


「三月分、まだ」


「テレーズ。食事と寝床を。馬は鞍を外して、ぬるい湯を少しずつ。今日は帰さないでください」


「承知しました。未払い分は立替金として記録します」


 書記が声を尖らせた。


「男爵家の使用人ですぞ」


「腹を空かせた人と、鞍傷のある馬です」


 ヴァンサンは書記を見た。


「ほかに何か?」


 穏やかな声だった。書記の語尾が痩せた。


「……返還請求書を、お渡しに」


 差し出された書類束の紐を、書記自身が二度見した。


 隣の机には、フランカが作った運行票がある。用途も太さも違う紐なのに、端を折り返し、輪へ二度通して引く結び方が同じだった。


「この結び目は。以前、男爵邸へ届いた匿名の縁談書にも——」


「ある情報を、お父上の注文束へ入れました」


 レオナールは納品書を一枚抜き取った。


「頼まれましてな。それ以上は、まだ売り物ではありません」


 フランカは運行票を裏返した。


 ヴァンサンは何も問わなかった。ただ、裏返した紙の角が彼女の指を傷つけないよう、重しを置いた。


    *    *    *


「私が救われる家へ嫁がせてやったのです」


 馬市の中央で、ベルトランはよく通る声を使った。


 商人、御者、厩番、買い付けに来た貴族の代理人。人が多いほど、父の言葉は丁寧になる。


「娘は馬を暴れさせ、家の者を危険にさらしました。親として苦渋の決断でしたが、ヴァンサン伯爵ならば引き受けてくださると信じ、お任せしたのですよ」


 左右に控えた実家の護衛が含み笑いを交わした。かつて事故の報告書へ署名した二人だ。暴れ馬の前へフランカを一人で残し、柵の外から早く押さえろと命じたことは、別の欄に記載しておくべきだろう。


「その娘を、いま連れ戻すと?」


 ヴァンサンの問いにも、父は笑顔を崩さない。


「ええ。命令を撤回しようと思いまして。父娘の情というものです」


 その後ろで、実家の馬が腹を引き上げていた。


 毛艶が悪いだけではない。腰骨の周りが削げ、尾を忙しなく振っている。飼料を減らされた馬の腹だった。手綱を持つ御者の掌には新しい裂け目があり、革紐が応急の縄へ替わっている。


「輸送の注文が増えたのですね」


 フランカが言うと、父の目元から笑みが消えた。


「何の話だ」


「馬を二頭売り、残った馬の飼料を減らした。御者の給金も止めた。それでも受注だけは減らしていないのでしょう」


「お前には関係がない」


「私を戻して、立て直させるおつもりですか」


 父は群衆を見回した。まだ人前だ。


「娘が家業を手伝うのは当然ではありませんか。こちらで身につけたものを生家へ返す。美しい恩返しです」


 事故を出していた六頭は、いま月に九日多く走る。走らせる日を増やしたのではない。荷の偏りを直し、坂道の手前に休息を置き、御者を交代させた。無理をやめた結果、故障と遅延がなくなった。


 テレーズが帳面を開いた。


「昨年の秋から本日まで、フランカ様が組み直した便は百八十二。馬の転倒はゼロ、御者の負傷もゼロ。六頭すべてが予定どおり復帰しております」


「数字で親子の情を測るおつもりですか」


 ベルトランは彼女にだけ顎を上げた。


「役立たずを置いていただいた恩を忘れるとは、伯爵家の家令ともあろう方が——」


 テレーズの指が、帳面の無事故日を一日ずつなぞった。


「目がお悪い」


 市場の端で、誰かが咳に失敗した。


 父の耳が赤くなる。


「フランカ。帰路の中継厩を検分しろ。お前が直せると言うなら、それを見てから話を決める」


 人前用の敬語が消えていた。


「お父様の厩へ戻るつもりはありません」


「見るだけだ。伯爵家の護衛も同行すればよい」


 ヴァンサンが口を開くより先に、フランカは実家の馬を見た。右前肢へ体重をかけたがらない。このまま帰路へ出せば、石畳の下りで躓く。


「馬を休ませるためなら参ります」


「フランカ」


 ヴァンサンの低い声に、彼女は頷いた。


「大丈夫です、旦那様。検分だけです」


 大丈夫という言葉は、便利な覆い布だ。形の悪い荷ほど、よく隠れる。


 中継厩までは、市場から馬車で四半刻だった。


 ベルトランは途中で馬具商を呼び止め、荷の取り違えを騒ぎ立てた。伯爵家の護衛二人が照合に残り、もう一人は、脚を痛めた馬が膝を折ったため御者に付き添った。


「飼料庫にも古い革袋がある。見ろ」


 戸口から覗いたフランカは、革袋の下にこぼれた黒ずんだ麦を見つけた。飼料の傷みを確かめるため、中へ一歩入った。


 乾草。麦。豆粕。壁際に腰高の通風口。積み上げた木箱は三つ。


 背後で戸が閉じた。


 閂の滑る音は、鞭より低かった。


 フランカの足は、父の立つ戸口へ向いたまま固まった。


「お父様」


「命令を撤回する。帰れ」


 板戸越しの声には、見物人へ向けた柔らかさがない。


「今すぐ馬車へ乗れ。伯爵には、娘が自発的に戻ったと伝える。お前の持参金も、あの家で得た契約も、すべてこちらへ戻せ」


「御者の給金を払ってください」


「口答えをするな」


「馬の飼料も元へ戻してください」


「誰のおかげで伯爵夫人になれたと思っている!」


 拳が戸を打った。


 フランカの肩が跳ねた。喉の奥が閉じ、息が半分しか入らない。


 叩いても、父は開けない。


 泣いて待てば、昔と同じになる。


 フランカは戸から離れた。


 戸は外開き。内側には蝶番の頭がない。閂を直接外すこともできない。


 通風口は腰の高さ。横木が二本。肩幅より狭く見えるが、斜めなら通る。木は乾き、右端の釘だけが赤く錆びていた。


 箱の一つへ手をかける。動かない。中身は麦だ。二つ目は豆粕。三つ目は空に近く、押すと底板が鳴った。


 フランカは壁に掛かった馬具を外した。古い腹帯、切れた手綱、革の端を留める真鍮の金具。留め金を指で起こす。固い。腹帯を巻きつけ、両手で捻ると、針金が軋んで外れた。


 箱の下へ切れた手綱を差し込む。金具を支点にして、体重をかける。


 箱が指二本分ずれた。


 もう一度。


 床を擦る音が戸の外まで届いたらしく、護衛の声がした。


「何をしている」


「厄介者らしいことを」


 返事をしながら三度押し、箱を通風口の下へ寄せた。


 上へ乗る。蓋が沈み、足首が傾いた。壁へ左肩をつけ、外した金具を横木と石枠の間へ差し込む。錆びた釘の側から少しずつ。


 手が震え、二度滑った。


 大きな音が怖いから、馬を扱う資格がない。


 手綱を握れない日があるから、役に立たない。


 父が与えた言葉は、身体の奥へ釘のように残っている。抜こうとすると肉まで痛む。


 それでも、錆びた釘は動いた。


 横木が浮く。


 フランカは金具を差し直した。釘が抜け、横木の片側が落ちた。乾いた音に背が縮んだが、箱からは降りなかった。


「開けろ!」


 外で護衛が怒鳴る。


 戸が外開きなら、彼らはすぐには入れない。閂の前にいる自分たちが邪魔になる。


 フランカは通風口へ頭を入れ、片腕を外へ出した。肩が石枠に擦れる。息を吐き切り、身体を斜めにする。胸、腹、腰。衣服の脇が裂け、留め金が石へ引っかかった。


 足をばたつかせれば落ちる。


 外壁の出っ張りを爪先で探す。右足に石の角が触れた。体重を移し、腰を捻る。


 次の瞬間、フランカは厩の裏手へ転がり落ちた。


 肘を打った。膝も擦った。だが立てる。


 正面へ回れば、実家の護衛が馬を二頭引き出している。フランカを市場から遠ざけるための馬だ。興奮した鹿毛が白目を見せ、繋ぎ綱を高い位置へ張っている。このまま誰かが飛び乗れば、前脚を上げる。


 フランカは馬へ駆け寄らず、柵沿いに回った。


「追え!」


 父の声。


 鹿毛の耳が後ろへ伏せた。


「乗らないで! その馬は肩を痛めています!」


 護衛は鞍へ足をかけた。


 フランカは柵の結び目をほどき、繋ぎ綱を膝より低い横木へ移した。馬は頭を持ち上げられなくなり、後肢へ体重を逃がす。人を乗せる姿勢ではない。


「何をする!」


「あなたを落とさないためです」


 空荷の二輪車へ肩を当てる。


 重い。


 車輪止めを蹴り外し、轅を持ち上げた。傾いた荷車が石の上を半回転する。父の護衛が手を伸ばしたが、フランカは轅を押し切った。


 荷車が道へ横向きに止まった。


 中継厩の前は、馬一頭と人一人がすれ違える幅しかない。荷車を越えるには降りて動かす必要がある。傷ついた馬で追うこともできない。


「捕まえろ!」


 フランカは走った。


 昔なら、怒鳴る父の左肩が前へ出た瞬間、足が止まった。蹴る者は爪先を見る。殴る者は肩を見る。逃げるときは出口を見る。


 厩庭の門が開いている。


 彼女の身体は、そこへ向いた。


 市場へ続く道から馬車が来た。先頭で手綱を引いたのはレオナール、その後ろからヴァンサンが飛び降りる。


「フランカ!」


 名を呼ばれ、足が止まった。


 今度は恐怖ではない。もう走らなくてよいと、身体のほうが先に知った。


 ヴァンサンは彼女を抱き寄せかけ、裂けた袖と擦れた肘を見て両手を止めた。


「触れても?」


「はい」


 答えると、肩と背を一度だけ確かめるように抱かれた。強い腕なのに、痛む場所へは少しも触れない。


「予定の道を外れたと聞いた」


 レオナールが荷台から降りた。


「この方が、帰路の馬の脚を見れば中継厩へ寄るだろうと。旦那様は馬車を一台置いて走らせましたが」


「余計な納品報告は要らない」


 ヴァンサンはフランカから目を離さなかった。


 父と護衛が、荷車を押しのけて庭へ入ってきた。


「伯爵。これは家族の問題です」


「妻を閉じ込める家族の問題なら、夫が聞こう」


「妻? 私がこの家へ寄越さなければ、あなたはその役立たずを知ることすらなかったのですよ」


 フランカの喉が、また狭くなった。


 ヴァンサンが一歩前へ出る。


 けれどフランカは、その袖をつかんだ。


「旦那様。私が申し上げます」


 握った布が震えていた。彼の腕ではない。自分の指だ。


 父は鼻で笑った。


「何を言う。お前は私の命令で嫁いだ。それがすべてだ」


「いいえ」


 その一語で、庭の音が遠くなった。


「私は結婚の半年前から、逃げ先を探していました」


 父の顔から色が引いた。


 フランカはレオナールを見る。


 老馬商は小さく頷いた。


「最後の質問にも答えてよろしいですな」


「お願いします」


「フランカ様は、三つの条件を私に示されました。馬を打たない。使用人の給金を遅らせない。壊れた厩を隠さない。そのすべてを満たす家の縁談だけを知らせろ、と」


 レオナールは父へ向き直った。


「私は納品の話だけをした。あなたが注文書しか読まない方でしたので、その束へ一枚、匿名の縁談情報を入れました」


「誰の指図で」


「私です」


 フランカは言った。


「あの結び目で、私が運行票を束ねたのも、匿名書の紐を結んだのも私です。お父様がご自分で見つけ、ご自分の都合で命じたと思うようにしました」


「お前が、私を謀ったと?」


「はい」


 父の護衛が互いを見た。先ほどまでの含み笑いはない。


「レオナールには、旦那様が怯えた馬を打つ方か、嫁ぐ前に尋ねました。婚礼荷に礼装を入れず、三日分の乾燥飼料と道順を入れたのは、祝われに行くのではなく、戻らないためです」


 一年前、古城へ着いた日。


 壊れた厩の屋根は布で隠されていなかった。未払いの給金はなく、帳面は使用人にも開かれていた。暴れた葦毛を前に、ヴァンサンは鞭を捨て、今日の作業は終わりだと言った。


 だからフランカは、初めて馬房の中で息を吐けた。


「お父様が選んだのではありません。私がここを選びました。旦那様が私を望まなくても、生き延びられる場所として。それでも、できるなら——夫になっていただきたい方として」


 最後の言葉だけ、声が掠れた。


 ヴァンサンは動かなかった。


 その動かなさが、フランカには何より怖かった。


「恩知らずめ」


 父が吐き捨てる。


「家名を捨てれば、お前には何も残らん。持参金の返還請求権も失うぞ。従順な娘だという評判まで自分で潰して、何になる」


「その評判は、お父様へお返しします」


 フランカは父へ全身を向けた。


「持参金の返還も求めません。家名も要りません。お父様の生活と名誉を守るために、私の金も、地位も、仕事も差し戻しません」


「命令だ。帰れ」


「従いません」


「フランカ!」


「もう、お父様の娘として命令を待ちません」


 父との間に、荷車の轍が一本あった。


 越えずに済む境界だった。


「旦那様」


 フランカは振り返った。


 ヴァンサンの顔を見た途端、手綱が指から落ちた。


 彼の家へ入るために父を欺いた。


 善良なふりをして、一年間、黙っていた。


 有能な妻なら置いてもらえると思って、厩を直し、運行を整え、役に立てる日だけを差し出してきた。何もできない自分には、選ばれる理由がない。


 たまらなく惨めだった。


「私は、旦那様まで欺きました」


 頬へ落ちた涙が、顎から裂けた袖へ染みた。拭おうとしても、両手は役目を忘れたように震える。


「働けない日は、手綱も持てません。大きな音がすれば、いまも足が止まります。厩を直せない私には、何も——」


 ヴァンサンがしゃがみ、落ちた手綱ごと彼女の両手を包んだ。


「あなたを寄越した恩など、馬糞置き場へ捨ててください」


 父が息を呑み、テレーズがごく静かに頷いた。


「私は、六頭を立て直したあなたを尊敬している。御者の休息を増やして収益まで上げたあなたを、誰より信頼している」


 ヴァンサンの掌は熱かった。


「だが、妻にしたい理由はそれだけではない」


 彼は群衆の前で片膝をついた。


 馬市から父を追ってきた人々が、遅れて厩門へ集まり始めている。誰も声を挟まなかった。


「働ける日のあなたも。朝、飼料表を抱えて私の食事を忘れるあなたも。怖くて手綱を持てないあなたも。いま何も持てず、私の前で泣いているあなたも、ほかの誰とも替えられない」


 包まれた指から、力が抜けた。


「私の唯一の妻は、フランカ、あなただ」


 父の命令は、そこでようやく婚姻から剥がれ落ちた。


「命令ではなく、あなたの意思で。もう一度、私を夫に選んでくれませんか」


    *    *    *


 返事をしようとすると、息が崩れた。


 フランカは濡れた頬を拭わなかった。そんなことに手を使えば、包んでくれている指を握り返せなくなる。


「働けない私まで妻だと仰るなら——どうか、もう一度、私にあなたを選ばせてください」


 ヴァンサンの目が揺れた。


 フランカは初めて、夫を名で呼んだ。


「ヴァンサン様。私はあなたを選びます。誰の命令にも隠れず、私の夫として。これからも、あなたのそばにいたいです」


 彼は立ち上がり、フランカへ全身を向けた。


 父も、市場も、開け放した門も見ない。


 彼女だけを見ていた。


「抱きしめても?」


「先ほどは尋ねなかったのに」


「先ほどより、ずっと大事なところだから」


「はい」


 ヴァンサンの腕が背へ回った。次には身体が浮き、フランカは慌てて彼の肩をつかむ。


「肘を打っています。下ろしてください」


「医師に見せる」


「歩けます」


「知っている。あなたが一人でここまで出てきたことも」


 厩の御者たちが最初に声を上げた。使用人が続き、馬市の群衆からも拍手が重なる。テレーズは帳面を閉じ、レオナールは納品を終えた商人の顔で帽子をかぶり直した。


 ベルトランは役人に引き渡された。監禁に使った飼料庫、三月分の未払い給金、娘の成果を家名で売った帳面。証拠はそれぞれの持ち主から提出された。


 フランカは裁定の席へ戻らなかった。持参金の返還も、実家の名誉も、父の暮らしも引き受けなかった。


 その日のうちに、次の輸送便へ休息日を一日増やした。擦り傷のある馬と、三月給金を受け取っていない御者を、先に休ませるためだった。


 半月後、肘の傷が塞がった朝。


「一人で厩へ行くだけです」


「護衛を四人」


「厩まで四十歩です」


「二人に減らす」


「ゼロになさいませ」


 ヴァンサンは難しい契約書を読む顔で考え込んだ。


「では私が行く」


「お仕事は」


「厩でできる」


「机を運ばせる気ですか」


「椅子も要るな」


 フランカは彼の肩の向きを見た。もう玄関を塞いでいる。


「ヴァンサン様。過保護は馬にも嫌われます」


「馬ではなく夫だから、改善には時間がかかる」


「まず退路を塞がないところから再調教いたします」


「あなたの手綱なら喜んで」


 厩から、待ちくたびれた馬が鼻を鳴らした。


 ヴァンサンが少しだけ道を空ける。フランカはその隙間を通り、三歩先で振り返った。


 唯一の妻を一人で歩かせるには、夫の訓練がまだ足りない。


 彼女は差し出された手を取り、並んで厩へ向かった。

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