管理者の憂鬱と、真夜中の鯛茶漬け
深夜二時半。
妖精たちが帰った後、店内の空気が一変した。
湿度も気温も変わらない。だが、空間の「密度」が異様に高まった感覚。
屋台の周囲から、虫の声がピタリと止んだ。
音もなく、暖簾が開いた。
「……開いているか。人の子よ」
入ってきたのは、長身の女性だった。
透き通るような白い肌、黄金色の髪、そして宝石のような瞳。
服装は現代的なパンツスーツだが、その隙間から漏れ出るオーラは、隠しきれない「神性」を帯びている。
そして、髪の間から覗く耳は、人間よりも長く尖っていた。
俺は息を呑んだ。
見覚えがある。
十年前、俺がまだ大和重工の営業として防衛省の回廊を歩いていた時、SPを引き連れて歩く彼女を見かけたことがあった。
防衛省・魔法少女管理局、特別顧問。
全ての妖精と契約を統括する、妖精界の高級官僚、ハイ・エルフ。
「……いらっしゃいませ。まさか、雲の上が降りてくるとは」
俺が少し姿勢を正して言うと、彼女は疲れたようにカウンターに座った。
「……堅苦しい挨拶は不要だ。今の私は、ただの空腹な旅行者に過ぎない」
彼女は深いため息をついた。その吐息だけで、店内の空気が浄化されそうだ。
「……部下の報告書を読んでいたら、頭痛がしてな。……何か、清らかなものを頼む。胃にも、精神にも」
清らかなもの。
俺は頷き、冷蔵庫から、今朝市場で仕入れた真鯛の柵を取り出した。
刺身包丁を引く。
透き通るような白身を、薄く、美しく切り出す。
それを、すりごま、醤油、みりん、酒を合わせた特製の「ごまダレ」に潜らせる。
炊きたての白飯を丼に軽く盛る。
その上に、タレを纏った鯛の刺身を花びらのように並べ、刻んだ大葉と海苔、そして本わさびを添える。
最後に、昆布と鰹節で極限まで澄ませた「一番出汁」を、熱々の状態で上から回しかける。
ジュワッ……
熱湯で鯛の表面が白く霜降りになり、ごまダレの香ばしい香りが出汁の湯気と共に立ち昇る。
「真鯛の出汁茶漬けです。……まずはそのままで。途中からわさびを溶いて召し上がってください」
彼女は箸を手に取り、丼の中を覗き込んだ。
黄金色の出汁の中で、半生になった鯛が揺れている。
「……美しい。書類の山とは大違いだ」
彼女はサラサラと茶漬けを口に運んだ。
上品な出汁の味、鯛の甘み、ごまのコク。
それらが一体となって、喉を通り過ぎていく。
「……ふぅ」
彼女の張り詰めていた肩の力が、フッと抜けた。
「……美味だ。泥のように濁った心が、洗われるようだ」
彼女はゆっくりと食事を進めながら、独り言のように漏らした。
「……先ほど、この店に私の部下たちが来ていたそうだな」
「ええ。賑やかな連中でしたよ」
「『給料が安い』『労働環境が過酷だ』『マスターが話を聞かない』……そんな愚痴を言っていたのではないか?」
図星だ。俺は苦笑いで誤魔化した。
彼女はわさびを出汁に溶かした。
「……彼らの言い分も分かる。だが、管理する側の苦労も知ってほしいものだ」
彼女は遠い目をした。
「適性のある人間を見つけ出し、契約を結び、メンタルケアをし、時には……殉職した後始末をする。それを数千人規模で行うのだ。私のデスクには、毎日山のような『始末書』と『契約破棄申請』が届く」
不老長寿のハイ・エルフにとって、次々と入れ替わる魔法少女たちのサイクルは、あまりにも早くて儚いのだろう。
「……人間は脆い。だが、時折、計算外の輝きを見せる」
彼女は最後の一口を飲み干した。
「だからこそ、我々もこの世界に留まっているのだがな」
完食した彼女は、ナプキンで口元を拭い、俺を真っ直ぐに見た。
「……黒木、と言ったか」
「……名乗った覚えはありませんが」
「部下の報告書に何度も名前が出てくるのでな。『壊れた武器を直す人間がいる』『極上のエサ場がある』とな」
彼女は微かに微笑んだ。その笑顔は、女神のように美しく、そして少し悪戯っぽかった。
「お主は、私の部下たちにとっての『良き止まり木』であるようだ。……元・大和重工の営業マン殿」
バレている。
やはり、この人には敵わない。
彼女は懐から、一枚の葉を取り出し、カウンターに置いた。
ただの葉ではない。水晶細工のように透き通り、淡い光脈が走っている。
世界樹の葉
市場価値などつけられない、本物の神武器素材だ。
「代金だ。……釣りはいらぬ。これからも、愚かな部下たちと、そのパートナーを頼むぞ」
彼女は立ち上がり、颯爽と店を出て行った。
その背中には、もう疲労の色はなく、威厳ある管理者のオーラが戻っていた。
「……こいつはまた、とんでもないチップだな」
俺は震える手で世界樹の葉を拾い上げた。
これ一枚あれば、どんなポーションよりも効く薬ができる。
あるいは、最高級の武器の素材にもなるだろう。
「さて」
俺は空になった丼を洗った。
出汁の透き通った香り。
上には上の苦労がある。
雲の上の住人も、腹が減れば地上に降りてくるってことだ。
俺は葉を大切にしまい、再び包丁を研ぎ始めた。




