営業マンの命拾いと、秋のきのこ蕎麦
午後八時。
急に冷え込みが厳しくなってきた。
俺は屋台のラジオから流れる秋の歌を聞きながら、寸胴の火を強めた。
乾いた風が、枯葉をカサカサと鳴らして通り過ぎる。
この季節の匂い――湿った土と、冷たい空気の匂いを嗅ぐと、俺はふと、あの日のことを思い出す。
あれは、俺が開発部から営業部に飛ばされて、数年が経った頃の秋だった。
今の俺のような作業着ではなく、パリッとした、しかし中身のないスーツを着ていた時代だ。
あの日も俺は、アタッシュケースに最新鋭の魔導兵器のカタログを詰め込み、得意先回りをしていた。
突然、空が裂けるような警報音が鳴り響いた。
『緊急地震速報、ではありません。怪獣発生警報。市民の皆様は直ちにシェルターへ――』
逃げる間もなかった。
目の前のビルが、巨大な節足動物型の怪獣に粉砕された。
降り注ぐコンクリートの豪雨。ガラスの破片。悲鳴と粉塵。
俺は足がすくみ、頭上から落下してくる数トンの瓦礫を、ただ呆然と見上げることしかできなかった。
死ぬ。
そう思った瞬間だった。
キィィィィンッ!!
俺の目の前に、黄金色の光の壁が出現した。
瓦礫がその壁に激突し、凄まじい音と共に弾け飛ぶ。
「……動かないで! おじさん!」
瓦礫の山の向こうで、少女が叫んでいた。
オレンジ色の髪、琥珀色の瞳。身の丈ほどの巨大な盾を構え、震える腕で懸命に支えている。
まだ中学生くらいに見えた。
彼女の膝は笑い、額からは血が流れていた。それでも彼女は、俺を守るために一歩も引かなかった。
俺は見た。
彼女が構える盾の裏側に刻印された、『YAMATO』のロゴと、製造番号を。
それは、俺が先週、防衛局に納品したばかりの『ガーディアン・ウォール・モデルⅣ』だった。
俺が「コストダウンのために装甲厚を三ミリ削った」あの盾だ。
ミシミシと嫌な音がする。盾に亀裂が入る。
(やめろ……壊れる……逃げろ……!)
俺は叫びたかったが、声が出なかった。自分が売った欠陥品が、目の前の少女の命を危険に晒している。
だが、彼女は最後まで耐えきった。
支援部隊が到着し、怪獣が撃退されるまで、彼女はずっと俺の盾であり続けた。
去り際、彼女はボロボロになった盾を引きずりながら、へたり込む俺に笑顔を向けた。
「……怪我、なくてよかったね」
その言葉が、俺の胸に焼き付いて離れなかった。
俺が今の仕事を――壊れた武器を直し、彼女たちに美味い飯を食わせる仕事を始めた原点は、間違いなくあの瞬間にある。
「……こんばんは」
鈴虫の声に混じって、穏やかな声がした。
俺はハッとして顔を上げた。
暖簾をくぐってきたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
ニットのカーディガンに、ロングスカート。手には買い物袋。
そしてその手は、小さな女の子の手をしっかりと握っていた。
「いらっしゃい」
俺は彼女の顔を見て、息を飲んだ。
髪は落ち着いた茶色に染められ、目尻には優しい皺がある。だが、その琥珀色の瞳は、あの日、瓦礫の下で俺を見たあの瞳と同じだった。
かつて俺を守った、盾の魔法少女。今はもう引退し、一人の母親になっていた。
「……ん? いい匂い」
彼女の隣にいる、8歳くらいの女の子が鼻をヒクつかせた。
その顔立ちは、かつての彼女に瓜二つだった。
「ママ、お腹すいたー」
「ふふ、じゃあ食べていこうか。……店主さん、子供連れでも大丈夫ですか?」
「ああ。構わんよ」
二人は並んで座った。
「注文は……温かいお蕎麦を二つ。一つは少なめでお願いします」
「あいよ」
俺は蕎麦を湯がいた。
カツオと昆布で取った濃いめの出汁に、醤油とみりんを効かせた甘めのつゆ。
具材は、秋の味覚をたっぷりと。
バターでソテーした舞茸、しめじ、エノキ。そして、甘辛く煮た鶏肉と、彩りの春菊。最後にゆずの皮を一片。
「秋のきのこと鶏肉の蕎麦だ。……熱いから気をつけてな」
二つのドンブリを出す。
湯気と共に、ゆずと出汁の香りが広がる。
「わぁ〜! キノコだ!」
女の子が嬉しそうに声を上げた。
「いただきます!」
親子は揃って手を合わせ、蕎麦を啜った。
母親は、娘が熱くないかを確認し、フーフーと冷ましてやっている。
かつて巨大な盾で誰かを守っていたその手は、今は小さな子供を守るための優しい手になっていた。
「……美味しいですね」
彼女がふと、俺を見て微笑んだ。
「なんだか、懐かしい味がします。……昔、仕事の帰りに食べたような」
「……そいつは光栄だ」
俺は短く答えた。
彼女は俺のことを覚えていないだろう。あの日、彼女が助けた数え切れないほどの市民の一人に過ぎない。
それでいい。
彼女が命がけで守った未来が、こうして俺の目の前で、温かい蕎麦を食べている。それだけで、俺の罪滅ぼしには十分すぎる。
「ママ、これなぁに?」
「それは舞茸よ。食べると強くなれるの」
「じゃあ食べる! 私、ママみたいに強くなるの!」
女の子が大きな口を開けた。
彼女は娘の頭を撫で、困ったように、でも誇らしげに笑った。
「……強くなくていいのよ。ただ、元気でいてくれれば」
完食した二人は、仲良く手を繋いで帰っていった。
「ごちそうさまでした! また来ます!」
女の子が元気よく手を振る。
母親が会釈をする。
「……おう。また来な」
俺は深く頭を下げて見送った。
秋の夜風が、店の中に吹き込んだ。
だが、もう寒くはなかった。
俺は空になった二つのドンブリを下げた。
かつての恩人が残した、温かい出汁の残り香。
「……立派になったな」
俺は誰にともなく呟いた。
あの日の盾の傷は、もうどこにもない。
あるのは、平和な日常と、明日へと続く小さな命だけだ。
「さて、と」
俺は洗い物を始めた。
水は冷たいが、俺の手は、あの日震えていた時より、ずっと確かに動いている気がした。




