聖女の誤診と、黄金色のポトフ
深夜三時。
草木も眠る時間だが、この客の足取りは、眠気というよりは「過労」そのものだった。
ズルズル……と足を引きずる音。
暖簾が開くと、そこには真っ白な修道服風の装束を纏った女性が立っていた。
長い銀髪、慈愛に満ちた表情――のはずだが、今の彼女は顔色が紙のように白く、目の下には深いクマ。
手には身長を超える巨大な杖「ケリュケイオンの杖」を杖代わりに突き、今にも倒れそうだ。
Sランク回復術師、「セイント・マリア」。
激戦区で傷ついた魔法少女たちを癒やし続ける、生ける聖女だ。
「……いらっしゃい。顔色が悪いな。救急車を呼ぶか?」
俺が冗談抜きで尋ねると、彼女は力なく首を横に振った。
「……いいえ、大丈夫です。ただの魔力欠乏と、睡眠不足と、栄養失調気味なだけですから……」
全然大丈夫じゃない。医者の不養生とはよく言ったものだ。
彼女はカウンターに座ると、深いため息をついた。
「……温かくて、胃に優しくて、消化の良いものを……お願いします。固形物は……今はちょっと……」
俺は寸胴鍋の蓋を開けた。
今夜のスープは、牛スジと香味野菜でじっくり取った極上のブイヨンだ。
そこに、大きく切ったカブ、人参、玉ねぎ、キャベツ、そしてソーセージを入れて弱火で煮込んである。
野菜はスプーンで切れるほど柔らかい。
俺は皿に野菜とスープを盛り付け、最後に粒マスタードを添えた。
「特製ポトフだ。野菜の甘みが出てるから、弱った胃でも入るだろ」
湯気と共に運ばれてきた黄金色のスープ。
彼女は「……わぁ」と小さな声を上げ、震える手でスプーンを持った。
まずはスープを一口。
「……っ」
温かい液体が食道を通り、冷え切った胃袋に到達する。
野菜の旨味が溶け出した優しい味。
「……美味しい……。体が、解けていくみたい」
彼女は次に、クタクタに煮込まれたカブを口にした。噛む必要すらない。舌の上でトロリと溶ける。
ソーセージの塩気が、良いアクセントになっている。
彼女はゆっくりと、しかし確実にスープを体に染み込ませていった。
俺はその間、彼女が片時も離そうとしない、左目の「モノクル(片眼鏡)」に注目した。
常に赤い光が明滅し、高速でデータが表示されている。
「……おい。飯食ってる時くらい、その『バイオ・スキャナー』を切ったらどうだ」
彼女はビクッとして、モノクルを押さえた。
「だ、ダメです! これは常に起動しておかないと……半径一キロ以内の仲間のバイタルサインを見逃したら、取り返しがつかないことに……」
彼女の視界には、常に誰かの心拍数や魔力残量が表示されているのだろう。
それが彼女の精神を蝕んでいる。
「『……ピピッ! 警告、心拍数微増。』……ああっ、また誰かがピンチに!」
彼女はポトフを食べながらも、虚空を見て悲鳴を上げた。
「……おい、落ち着け」
俺は彼女の目の前に手をかざした。
「お前のそのスキャナー、メーカーは『メディカル・アイ』社だな。……アップデートはいつした?」
「えっ? アップデート……? 忙しくて、導入した時のままで……」
「やっぱりな。初期設定のままだと『過敏症モード』になってるんだよ」
俺はカウンター越しに身を乗り出した。
「ちょっと顔を貸せ。……誤診を直してやる」
俺は彼女が抵抗する間もなく、モノクルの側面にあるダイヤルを回し、小さなリセットボタンを長押しした。
ピロン、という音がして、赤い警告灯が緑色に変わった。
「……え?」
彼女は瞬きをした。
「……静か。警告音が消えた?」
「アラートの閾値を上げたんだ。擦り傷や、ただの動悸くらいじゃ反応しないように設定を変えた」
俺は説明した。
「さっきの警告も、ただ誰かが走って心拍数が上がっただけだろ。お前は全ての反応を『瀕死』として受け取りすぎなんだよ」
トリアージ(優先順位)をつけるのが彼女の仕事だが、全てを最優先にしていたら、術者が先に倒れる。
「自分自身のHPバーも見てみろ。……真っ赤だぞ」
彼女はハッとして、モノクルを自分の腕に向けた。
表示された数値を見て、彼女は愕然とした。
「……ストレス値九八%。栄養値低下。……私、こんなにボロボロだったんですか?」
「他人の心配ばっかりしてるからだ。……まずは、このポトフを完食して、その数値を回復させろ」
彼女は涙ぐみながら頷いた。
警告音の消えた静かな視界で、彼女は改めて目の前の料理に向き合った。
人参の甘み、キャベツの食感、ソーセージの肉汁。
一つ一つの味が、鮮明に感じられる。
「……美味しい。本当に、美味しいです」
彼女は最後の一滴までスープを飲み干した。
蒼白だった頬に、少しだけ赤みが差していた。
モノクルの表示も、危険域から脱している。
彼女は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。……私、自分のことは後回しにするのが『聖女』だと思ってました」
「医者が倒れたら、誰が患者を治すんだ? まずは自分が健康でいること。それが一番の治療だ」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、作り物ではない、本物の慈愛に満ちていた。
「はい! ……今日は帰って、泥のように眠ります!」
彼女は杖を突き、しかし来た時よりはずっとしっかりとした足取りで帰っていった。
背中のマントが、夜風に揺れていた。
「……聖女様も楽じゃないな」
俺は空になった皿を下げた。
野菜が溶け込んだスープの跡。
様々な具材が煮込まれて、一つの味になる。
人間も、時には誰かと混ざり合って、温め合う時間が必要ってことだ。
「さて」
俺は鍋の火を消した。
今夜はもう、誰も怪我をしないことを祈ろう。
店主の願いなんて、そんなもんだ。




