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先代の抜き打ち検査と、想い出の昔ながらの中華そば


 深夜一時半。

 客足が途絶え、俺が換気扇の掃除をしようとしていた時のことだ。

 暖簾をくぐる音と共に、聞き覚えのある、砂利を踏むようなしゃがれた声が響いた。


「……おい。出汁の匂いが少し焦げ臭いぞ。火力が強すぎるんじゃねえか」


 俺は雑巾を持ったまま固まり、振り返った。

 そこに立っていたのは、右目に古傷のある白髪の老人――この屋台の先代店主だった。

 ヨレヨレのジャンパーに、腹巻姿。隠居したはずのオヤジが、杖をついて立っている。


「……先代。生きてたんですか」

「減らず口を叩くな。近くの銭湯の帰りに寄っただけだ」


 先代は勝手知ったる様子で、奥の「指定席」に腰を下ろした。


「……味が落ちてねえか、確認しに来てやったんだ。一杯出せ」

「へいへい」


 俺は苦笑いしながら、麺をテボに投入した。

 この人が来ると、どうも調子が狂う。元・ブラック企業の営業マンである俺が、唯一頭の上がらない「師匠」だ。

 その時、再び暖簾がめくられた。


「こんばんはー。……あれっ!?」


 入ってきたのは、一人の若い女性だった。

 年齢は十九か、二十歳くらい。魔法少女の衣装ではない。トレンチコートにパンプス、手にはブランド物のバッグ。大学の帰りか、あるいは仕事帰りか。

 彼女は奥に座る老人を見て、目を丸くした。


「嘘……おっちゃん!? おっちゃんじゃん!」


 先代が顔を上げ、皺だらけの顔をほころばせた。


「……おう。誰かと思えば、『爆炎のリーナ』じゃねえか。随分と化粧が濃くなったな」

「もう! 今はリナでいいの! 引退して二年経つんだから!」


 彼女は嬉しそうに先代の隣に座った。

 彼女はかつて、この店に通い詰めていた常連の魔法少女だったらしい。今はもう戦場を退き、普通の女子大生として生きているようだ。


「懐かしいなぁ。おっちゃん、まだ生きてたんだ」

「お前もな。……で、今日はどうした? 彼氏と喧嘩でもしたか」

「違うよ。ちょっと近くまで来たから、昔の味が恋しくなってさ」


 彼女はカウンター越しに俺を見た。


「店長さん、お願い。『昔ながらの中華そば』。……おっちゃんの味、再現できてる?」


 挑発的なオーダーだ。

 隣で先代がニヤリと笑い、腕組みをした。


「ほう。……黒木、試されてるぞ」


 俺は無言で平ザルを構えた。

 プレッシャーは二倍だ。だが、この三年間、この屋台を守ってきたのは俺だ。

 鶏ガラと煮干し、香味野菜を弱火でじっくり炊き出した清湯スープ。

 醤油ダレは、先代から受け継いだ秘伝の継ぎ足し。

 茹で上がった縮れ麺をスープに泳がせ、具はシンプルに。

 豚バラチャーシュー二枚、メンマ、ナルト、海苔、そしてネギ。

 余計な飾り気のない、昭和のラーメン。


「……お待ち」


 俺は二つのドンブリを、先代と彼女の前に置いた。

 琥珀色のスープから、ふわりと魚介の香りが立ち上る。

 彼女はレンゲでスープを一口飲んだ。

 その瞬間、彼女の表情がふわりと緩んだ。


「……んんっ。これこれ」


 彼女は目を閉じた。


「戦って、泥だらけになって、悔しくて泣きながら飲んだ味だ。……うん、変わってない。美味しい」


 彼女はズズッと麺を啜った。

 先代も無言で麺を口に運び、小さく頷いた。


「……少し塩気が強いが、まあ、許容範囲だな」


 それが、この偏屈な師匠なりの最大級の賛辞だと俺は知っている。

 彼女はラーメンを食べながら、バッグから何かを取り出し、カウンターに置いた。

 古びた赤いペンダントトップのようなものだ。

 中心の宝石はひび割れ、光を失っている。


「……これね、未だに捨てられないの」


 彼女は寂しげに笑った。


「もう魔法は使えないし、変身もできない。ただのガラクタ。……でも、たまに夜中に『ジジジ』って変な音がして、熱くなることがあって。捨てようと思っても、なんとなく怖くて」


 引退した魔法少女が抱える「後遺症」の一つだ。

 デバイスに残った微弱な魔力回路が、完全に停止できずに暴走しかけている。

 俺は洗い物をしながら、横目でそれを見た。


「……『フレア・ハートMk-Ⅱ』。大和重工の傑作だが、経年劣化で魔力漏れ(リーク)を起こしやすい機種だ」


 彼女が驚いて俺を見た。


「えっ、わかるの?」

「現役時代のお前の戦い方が荒かった証拠だ。……貸してみな」


 俺はペンダントを手に取った。

 先代が横目で俺の手元を見つめている。これは、味の検査以上の「試験」だ。

 俺はポケットから、極細の針金を取り出した。


「こいつはまだ、あるじを探してるんだよ。お前が引退したことを理解できずに、必死に信号を送ろうとして空回りしてる」


 俺はペンダントの裏蓋の隙間に針金を差し込み、内部の水晶振動子を一突きした。

 パチン。

 小さな音がして、ペンダントから微かに漏れていた熱が消えた。


「……回路を物理的に切断した。これで音も鳴らなきゃ、熱くもならねえ」


 俺は完全に沈黙したペンダントを彼女に返した。


「ただの、綺麗な赤い石だ。……これからは、思い出として大事にしてやんな」


 彼女は冷たくなったペンダントを握りしめた。

 それはもう、戦うための道具ではない。彼女の青春を閉じ込めた、静かな宝石だった。


「……そっか。お疲れ様、私の相棒」


 彼女はペンダントにキスをして、バッグにしまった。

 その顔は、入店した時よりもずっと晴れやかだった。

 完食した彼女は、千円札を置いた。


「ごちそうさま! 店長さん、おっちゃんの味、ちゃんと守ってるね」


 彼女は立ち上がり、先代に手を振った。


「おっちゃんも長生きしてね! また来る!」


 彼女はヒールの音を響かせ、夜の街へと帰っていった。

 もはや戦士ではない。未来を歩く一人の女性の背中だった。

 店には、俺と先代だけが残された。

 先代は空になったドンブリを置き、タバコに火をつけた。


「……あの子のペンダント。あそこまで古くなってりゃ、修理して現役復帰させることもできただろう」


 先代が紫煙を吐きながら問うた。

 俺は中華鍋を洗いながら答えた。


「引退した人間に、武器は必要ありませんよ。……あの子に必要なのは、戦う力じゃなくて、過去を終わらせるきっかけでしょう」


 先代はフンと鼻を鳴らし、ニヤリと笑った。


「……マニュアル通りの修理工じゃなくなったようだな」


 先代はよっこらせと立ち上がり、カウンターに代金を置いた。


「釣りはいらねえ。……味も、腕も、俺の店よりマシになった」


 先代は杖をつき、出口へと向かった。


「たまには顔見せろよ。腰を痛めねえようにな」


 ぶっきらぼうな背中が、暖簾の向こうに消えた。


「……ありがとうございます」


 俺は誰もいなくなった店内で、深々と頭を下げた。

 カウンターに残された二つの空のドンブリ。

 一つはかつての常連の、もう一つは師匠の。

 どちらも綺麗に空っぽだ。


「さて、と」


 俺は新しいスープの火加減を調整した。

 合格点は貰えたらしい。

 だが、俺の店はまだまだこれからだ。


 夜は長く、腹を空かせた客は、いつだって迷い込んでくるのだから。


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