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消えゆく歌姫の遺言(アリア)と、終わりの醤油ラーメン


 その夜の雨は、いつになく冷たく、そして静かだった。

 屋台のトタン屋根を叩く雨音は、まるで遠い過去から響いてくる足音のように、一定のリズムで俺の鼓膜を震わせていた。

 午前四時。

 夜明け前の、世界が最も深く沈み込む時間帯。

 俺は寸胴鍋の火を落とし、換気扇のスイッチを切ろうとしていた。

 今夜は客が来なかった。こんな冷たい雨の夜に、わざわざ吹きっさらしの屋台まで足を運ぶ物好きはいなかったということだ。

 だが、安堵半分、寂しさ半分で手元を片付け始めたその時、俺の長年の勘が警鐘を鳴らした。

 気配。

 いや、それは「気配」と呼ぶにはあまりにも希薄で、儚いものだった。

 風に揺れる蜘蛛の糸のような、触れれば消えてしまいそうな存在感。

 俺は顔を上げ、濡れた暖簾の方を見た。

 そこには、いつの間にか一人の少女が立っていた。


「……いらっしゃい」


 俺は声を絞り出した。普段の無愛想なトーンを維持しようと努めたが、喉の奥が少しだけ強張ったのが自分でも分かった。

 彼女は、透けていた。

 比喩ではない。

 雨に濡れたアスファルトの景色が、彼女の体を透過して、ぼんやりと見えていたのだ。

 色彩を失ったモノクロームの姿。かろうじて輪郭を保っているだけの、幽霊のような少女。

 だが、俺はその姿に見覚えがあった。

 首元に埋め込まれた、複雑な機械仕掛けの発声ユニット(チョーカー)。

 両耳を覆う、巨大なスピーカーのようなヘッドセット。

 そして、五線譜をモチーフにした、古風なドレスアーマー。


「……随分と、懐かしい顔だな」


 俺が言うと、彼女はふわりと笑った。音のない笑みだった。

 彼女は音もなくカウンターに近づき、椅子には座らず、その少し上の空中に留まった。質量がないのだ。


「……お店、まだやってる?」


 声は、耳ではなく、脳に直接響いてきた。

 かつて世界中を熱狂させた、あの美しいソプラノボイスではない。

 砂嵐混じりのラジオのような、掠れて途切れがちな思念波。


「あんたなら、いつでも開けるさ」


 俺は再びコンロに火を点けた。


「……『セイレーン・ミスト』。いや、今はもうその名は捨てたか」


 彼女は少し驚いたように目を見開き、そして懐かしそうに目を細めた。


「……私のこと、覚えててくれたんだ。嬉しいな。もう、誰も私の名前なんて呼んでくれないのに」


 忘れるはずがない。

 三十年前。怪獣災害が激化の一途を辿っていた時期に現れた、伝説の「歌う魔法少女」。

 彼女の歌声には特殊な魔力波長が含まれており、聴く者すべての精神を安定させ、同時に怪獣の神経系を破壊する「広域鎮静化魔法」を行使できた。

 だが、彼女はある日突然、戦場から姿を消した。

 公式発表は「引退」。だが、業界の裏を知る人間たちの間では、もっと残酷な噂が流れていた。


「……注文は」

「ラーメン。……普通の、醤油ラーメンがいいな。ネギも、チャーシューもいらない。ただの、麺とスープだけのやつ」


 彼女は透明な指先で、カウンターの木目をなぞろうとして、すり抜けてしまうのを見て苦笑した。


「……今の私には、味なんて分からないかもしれないけど。最後に、温かい湯気だけでも感じたくて」


 最後。

 その言葉の意味を、俺は痛いほど理解していた。

 俺は黙って頷き、麺をテボに投入した。

 三十年前。俺は大和重工の開発部にいた。

 彼女が装備しているあのチョーカー、『ヴォーカル・ドライブ・システム』。あれの基礎設計に一部でも関わったのは、他でもない俺だ。

 喉の振動を魔力に変換し、増幅して放射するシステム。

 だが、あれには致命的な欠陥があった。

 魔力の変換効率を上げるために、術者の「生命力オド」を直接燃料として消費してしまうのだ。

 歌えば歌うほど、命が削れる。

 開発段階で危険性を指摘し、凍結を求めた俺の意見書は、上層部に握りつぶされた。

 俺はその一件で開発後、営業部に飛ばされた。

 そして、あの装備は「平和の歌姫」という美談と共に、彼女に与えられた。

 彼女の体が透けているのは、魔力の使いすぎによる「存在消失」の末期症状だ。

 肉体を維持する生命力すら、全て歌に変えてしまった成れの果て。

 今の彼女は、現世に残った最後の残響エコーに過ぎない。

 俺は丼に醤油ダレを入れ、熱々の鶏ガラスープを注いだ。

 黄金色のスープ。余計な具材は入れない。

 ただ、麺だけを泳がせる。


「……へい、ラーメンだ」


 俺はドンブリを、彼女の浮遊する手の位置に合わせて置いた。

 湯気が立ち上る。

 彼女はその湯気に顔を近づけ、深く息を吸い込んだ。


「……ああ、いい匂い」


 思念の声に、確かな感情の色が乗った。


「……懐かしいな。契約する前、学校の帰りに食べたラーメンの匂いがする」


 彼女は幻の箸を手に取り、食べる真似事をした。

 もちろん、麺は減らない。彼女の手はドンブリをすり抜ける。

 だが、彼女は「美味しい」と微笑んだ。


「……温かい。魂まで温まるみたい」


 俺はカウンター越しに、彼女の首元のチョーカーを見つめた。

 かつては白銀に輝いていた装甲は、今は錆びつき、彼女の半透明な皮膚と癒着しているように見えた。

 装備を外すことすらできない。呪いのように、彼女を縛り付けている。


「……なぁ」


 俺は意を決して口を開いた。


「そのチョーカー。……調子はどうだ」


 馬鹿な質問だ。調子がいいわけがない。

 だが、元・防具屋として、俺はどうしても聞かずにはいられなかった。俺が作った罪の結晶について。

 彼女は首に手を当てた。


「……うん。もう、声は出ないよ。昨日の夜、最後の歌を歌っちゃったから」

「最後?」

「誰もいない海の上でね。……私の中に残ってた、最後の命を使って。ずっと歌いたかった歌を歌ったの」


 彼女は遠くを見るような目をした。


「誰のためでもない、怪獣を倒すためでもない。ただの、私の歌。……そしたらね、体がふわっと軽くなって、気がついたらここにいたの」


 彼女は俺を見た。その瞳は、雨上がりの空のように澄んでいた。


「ねえ、店主さん。……これ、直せる?」


 彼女はチョーカーを指差した。

 直せるわけがない。

 そもそも、それは故障しているのではない。機能を全うして、使い手を食らい尽くしたのだ。

 それに、今の彼女に物理的な干渉はできない。ドライバーもレンチも触れない。

 だが、俺は言った。


「……貸してみな」


 俺はカウンターを回り込み、彼女の背後に立った。

 工具箱は開けない。

 代わりに、俺は自分の手を、彼女の冷たい首筋にかざした。触れることはできない。ただ、その輪郭に沿って指を這わせる。

 俺の記憶の中にある、設計図を呼び起こす。

 複雑な魔力回路。強引な増幅機構。

 俺は目を閉じ、心の中でその回路を一つ一つ、辿っていった。


「……ここだ。第三共鳴管が焼き付いてる」


 俺は独り言のように呟いた。


「出力リミッターが解除されたままだ。これじゃあ、喉が焼けるようだったろう」

「……うん。熱かった。でも、皆が喜んでくれるから、我慢したよ」


「馬鹿野郎」


 俺の声が震えた。


「設計段階で想定されてた限界稼働時間は、トータルで一〇〇時間だ。……お前、何時間歌った?」

「……わかんない。〜〜年間、毎日歌ってたから」


 数万時間。

 メーカー保証の数千倍。

 それは奇跡と呼ぶにはあまりに残酷な、魂の酷使だ。

 俺は空中の見えないネジを回す仕草をした。


「……共鳴係数をゼロに落とす。魔力供給ラインも遮断だ」


 俺は言葉だけで、整備メンテナンスを行った。


「もう、歌わなくていい。誰かのために声を張り上げる必要もねえ。……この機械の役目は、終わったんだ」


 俺の手が、幻のメインスイッチを切る動作をした。

 カチッ。

 静寂の中に、確かにその音が響いた気がした。

 瞬間、彼女の首元のチョーカーから、鈍い光が消えた。

 同時に、彼女の輪郭が、さらに薄くなった。

 装備による強制的な延命措置が切れ、彼女の存在が世界から解き放たれようとしていた。

 だが、彼女の表情は、これ以上ないほど安らかだった。


「……ああ」


 彼女の声が、微かなメロディのように響いた。


「……静か。……頭の中で鳴り止まなかったノイズが、消えた」


 彼女は振り返り、俺に微笑んだ。


「ありがとう、店主さん。……すごく、楽になった」


 彼女は空中に浮かんだまま、深々とお辞儀をした。


「ごちそうさま。……ラーメン、美味しかった」


 食べていない。味もしないはずだ。

 それでも、俺は空になっていないドンブリを見て言った。


「お粗末さん」


 彼女の体は、足元から徐々に光の粒子へと変わり始めていた。

 雨が上がり、東の空が白み始めている。

 朝が来る。夜の住人である彼女が、帰るべき場所へ還る時間だ。


「ねえ、店主さん」


 消えゆく彼女が、最後に問いかけた。


「私の歌、覚えててくれる?」


 世界中の人々は、もう彼女を忘れているかもしれない。

 平和に慣れた人々は、かつてその平和を守るために喉を枯らして死んでいった少女のことを、記憶の隅に追いやっているかもしれない。

 だが。


「……ああ、忘れるもんか」


 俺は断言した。


「俺が作った最高傑作じごくを、文句一つ言わずに使いこなした世界一の歌姫だ。……死ぬまで覚えてる」


 それは、開発者としての懺悔であり、一人のファンとしての誓いだった。

 彼女は満足そうに目を細め、最後に口パクで「ありがとう」と告げた。

 次の瞬間、朝陽が差し込み、彼女の姿は朝霧の中に溶けるように消滅した。

 

 屋台には、俺一人が残された。

 カウンターには、手付かずの素ラーメン。

 麺は伸び、スープは冷め始めている。

 だが、その水面には、朝陽を受けてキラキラと輝く小さな光の粒が、一つだけ浮かんでいた。

 それは涙の結晶か、それとも魔力の残滓か。

 俺はドンブリを手に取り、中身を裏手の土に還した。

 そして、空になったドンブリを、丁寧に、いつも以上に時間をかけて洗った。

 冷たい水が、俺の手の熱を奪っていく。

 だが、指先に残る、あの幽霊のような冷たい首筋の感触だけは、いつまでも消えなかった。


「……いい歌だったよ」


 俺は誰もいない虚空に向かって呟いた。

 かつてラジオ越しに聞いた、彼女のデビュー曲の旋律を、口笛で小さく吹いてみる。

 音程は少し外れたが、今の俺には、それがどんな名曲よりも美しく響いた。

 俺は屋台の提灯を消した。

 今日もまた、夜が終わる。

 だが、俺の中に刻まれた記憶だけは、夜明けの光の中でも、決して色褪せることはないだろう。

 消えゆくものたちが最後に羽を休める、この止まり木がある限り。


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