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社畜の胃潰瘍と、先代の醤油ラーメン


 三年前の冬。

 みぞれ混じりの雨が降る、最悪の夜だった。

 俺は泥のように重い足取りで、国道沿いの砂利道を歩いていた。

 安物のスーツは雨を吸って重くなり、革靴は泥まみれ。胃の腑はキリキリと痛み、数時間前に取引先で頭を下げた時の屈辱が、まだ喉の奥にへばりついている。

 大和重工・営業部第三課、黒木。それが当時の俺の肩書きだ。

 仕事は、コストカットでペラペラになった量産型シールドを、「最新軽量モデル」と偽って防衛省や芸能事務所に売り込むこと。

 言わば、少女たちの棺桶を売る仕事だ。


「……やってらんねえな」


 吐き捨てた言葉は、白い息となって消えた。

 辞表は胸ポケットに入っている。だが、出す勇気も、出した後の当てもない。

 ただ、都市部の喧騒から逃げたくて、こんな外れまで歩いてきた。

 その時、暗闇の中にポツンと、赤い提灯の明かりが見えた。

 ボロボロの屋台だった。

 風でバタつく暖簾には、ただ「ラーメン」とだけ書かれている。

 吸い寄せられるように、俺は暖簾をくぐった。


「……いらっしゃい」


 しゃがれた声が迎えた。

 店主は、右目に大きな古傷がある白髪の老人だった。

 無愛想で、頑固そうで、だがその立ち姿には妙な隙がなかった。

 俺は濡れたコートを脱ぎ、丸椅子に腰を下ろした。


「……ラーメン。温かいやつ」

「あいよ」


 老人は無駄のない動きで麺を湯に放り込んだ。

 店内には、先客が一人いた。

 店の隅で、背中を丸めて丼を啜る少女。

 フリルのついたピンク色の衣装は煤で汚れ、肩には包帯が巻かれている。魔法少女だ。

 彼女の足元には、真っ二つに割れた杖が転がっていた。

 俺は見覚えがあった。うちの会社が先月納品した『マジカル・ステッキ・エコノミーモデル』だ。耐久性に難ありとして、開発部が反対したのを、営業部が押し切って販売した欠陥品。


(……ああ、やっぱり折れたのか)


 俺は胃が焼けるような罪悪感に襲われ、目を逸らした。

 少女は泣きそうな顔で、折れた杖を撫でていた。


「……まだ、ローン残ってるのに」


 その呟きが、俺の心臓を刺す。


「へい、お待ち」


 老人が俺の前にドンブリを置いた。

 透き通った醤油スープ。縮れ麺。ナルトにメンマ、そして分厚いチャーシュー。

 何の変哲もない、昔ながらの中華そばだ。

 俺は箸を割り、スープを一口飲んだ。


「……っ」


 熱い。そして、優しい。

 鶏ガラの旨味が、荒みきった胃袋にじんわりと染み渡る。冷え切った指先まで血が巡るようだ。

 気がつけば、俺は無心で麺を啜っていた。

 会社のノルマも、上司の怒鳴り声も、一瞬だけ頭から消えた。

 その時、老人が動いた。

 寸胴鍋から小さな器にスープを取り分け、さらにチャーシューの切れ端を乗せて、少女の前に置いた。


「……サービスだ。食え」

「え、でも……お金……」

「金なんざ、ある時でいい。腹が減ってちゃ、明日も戦えねえぞ」


 ぶっきらぼうな物言い。だが、そこには確かな温かさがあった。

 少女は涙をこぼしながら、そのスープを飲み干した。


「……ごちそうさまでした。また、頑張ります」


 彼女は折れた杖を大事そうに抱え、深々と頭を下げて出て行った。

 店には、俺と老人だけが残された。

 俺は残りのスープを飲み干し、ふと口を開いていた。


「……あの杖、直せますよ」


 老人が手を止めて、俺を見た。


「ほう?」


「あそこの継ぎ目、接着剤じゃなくて熱圧着なんです。バーナーで炙って叩けば、応急処置なら繋がる。……強度は落ちますけど」


 俺は自嘲気味に笑った。


「売った張本人が言うのも、なんですけどね」


 老人はしばらく俺をじっと見ていたが、やがてニヤリと笑った。


「……詳しいな、兄ちゃん。同業者か?」

「いえ……ただの、疲れたサラリーマンです。……あんな不良品を売りつけて、彼女たちを死地へ送るだけの」


 俺は懐から辞表を取り出し、カウンターに置いた。


「もう、疲れました。こんな仕事」


 老人は辞表を一瞥し、タバコに火をつけた。


「だったら、こっち側に来るか?」

「え?」

「俺はもう腰が限界だ。この店も、今月いっぱいで畳もうと思ってた。……だが、腹を空かせたガキどもを見捨てるのも寝覚めが悪くてな」


 老人は紫煙を吐き出し、俺のドンブリを指差した。


「あんた、いい食いっぷりだったぞ。それに、その『知識』があれば、ただ腹を満たす以上に、あいつらを助けてやれるかもしれん」


 ラーメン屋。

 考えたこともなかった。

 だが、今の俺にとって、あの少女の笑顔を作った一杯のラーメンは、会社で売り上げた数億円の契約よりも、遥かに価値があるように思えた。

 俺は空になったドンブリを見つめた。

 底には『止まり木』という屋号が、擦れて消えかかっていた。


「……料理なんて、趣味の菓子かカップ麺くらいしか作れませんよ」

「出汁の取り方から教えてやる。……どうせ暇なんだろ?」


 老人は新しい麺を鍋に放り込んだ。

 俺はネクタイを緩め、大きく息を吐いた。

 不思議と、胃の痛みは消えていた。


「……ああ。暇になりました。丁度今から」


 俺はカウンターに置いた辞表を、ゴミ箱へ放り込んだ。

 これが、俺――黒木が、「店主」になった夜の話だ。

 あの時のラーメンの味だけは、今でもまだ、先代オヤジには敵わない気がしている。


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