ep18.バベルの塔 五階 狼神本能の試練氷原の夜
風が止み、眩い光が収束していく。
それぞれの試練を終えた仲間たちが、ゆっくりと地上――バベルの塔・第四階層の中心へと戻ってきた。
浮遊する島々は、すでに静寂を取り戻している。
中央の転移陣の前で、エジスが腕を組み、仲間たちを迎えた。
「……みんな、無事に戻ったね。」
その声はいつもよりも少し柔らかかった。
創夜が息を整えながら笑う。
「“自由”って言葉、あんなに重いとはな……」
リンは拳をぐっと握り、少し照れくさそうに頷く。
「修行よりきつかったネ。けど……なんかスッキリしたアル。」
セリアはため息をつきながら、肩の力を抜いた。
「自分と向き合うなんて、もうこりごりよ。でも……悪くない気分。」
ミーナは少し俯きながら、それでも微笑んでいた。
「みんなと一緒だから、怖くなかった……ありがとう。」
エジスは静かに仲間たちの顔を見渡す。
「それぞれが、“自分”という敵に勝った。
この階層は、自由と心を試すための場所。
塔はきっと、これから“心の奥”をさらに問うてくるわ。」
転移盤の光がゆっくりと強くなる。
エジスは手を伸ばし、魔力の操作を始めた。
「次の階層は――第五階。
試練の名は《本能の克服》。
……みんな、覚悟して。」
光が弾け、視界が白に塗り潰された。
氷の風が吹き抜ける。
息を吐けば、それが即座に凍りつくような極寒。
そこは、果てのない氷原だった。
空には揺らめくオーロラが広がり、夜空を覆っている。
静寂は美しく、しかしどこか不吉で――息をするたびに心が削がれていくようだった。
「……寒っ……! ここ、まじで氷点下じゃ済まないだろ!」
創夜が思わず肩をすくめる。
リンはそんな彼を見て笑いながらも、背筋を伸ばした。
「油断するナ。ここ、空気が違うアル。気が……ざらついてる。」
そのとき、地を這うような低い唸りが響いた。
氷の地面が割れ、闇が揺れる。
霜をまとった黒狼が、ゆっくりと姿を現した。
全身は夜のような黒に染まり、瞳は血のような紅。
吐息ひとつで氷柱が生まれ、足跡のたびに地面が凍る。
――第五階層の守護者、《狼神フェンリル》。
「……来たな。」
創夜が剣を抜き、仲間たちが構えを取る。
その瞬間、風が荒れた。
氷の嵐と共に、フェンリルが咆哮を上げる。
大地が揺れ、氷の棘が四方八方から飛び出す。
エジスが咄嗟に詠唱を開始する。
「黄金障壁――“エギス・シェル”!」
光の壁が仲間たちを包み、氷の奔流を受け止める。
ミリィの瞳が淡く光り出す。
「来る……右から、三秒後に跳ぶ!」
未来視の声に合わせてリンが跳躍し、氷刃をかわす。
「ナイス、ミリィ!」
リンの拳が唸りを上げ、フェンリルの肩に直撃した。
しかし、狼神は微動だにせず、氷煙を巻き上げながら咆哮を返す。
その体から、黒い影が広がる。
まるでフェンリル自身の“狂気”が形を持ったように。
「っ!? これ……分身じゃない、影そのものだ!」
セリアが叫ぶ。
フェンリルの“影”が無数に現れ、地を這いながら仲間たちに襲いかかる。
その速度は本体以上。刃のように鋭く、動きに理性がない。
創夜は歯を食いしばり、剣を構える。
「くそっ、押し切られる前に数を減らす!」
しかし、斬っても斬っても霧のように形を変え、再生していく。
エジスが空に手を掲げ、声を放つ。
「――《ガーディアンズ・サモン》!」
黄金の魔法陣が展開し、聖なる獣たちの幻影が氷原に降り立つ。
巨大な獅子の咆哮が氷を砕き、翼を持つ鷲が影を焼き払う。
それでもフェンリルの咆哮は止まらない。
ミリィが息を詰め、瞳を閉じた。
「……この戦い、終わりが見えない。でも、勝ち筋は……ある。」
リンが拳を構え、創夜が剣を握り直す。
エジスが防御の詠唱を続ける中、仲間たちの間に共通の決意が走った。
「狂気も破壊も、俺たちは超えてみせる。」
「本能に負けたら、自由の意味がないアル!」
「行くわよ――みんな!」
氷原の夜が震える。
オーロラが砕け、光の下で、狼神と人の激闘が再び始まった。
そしてその影の奥――
フェンリルの赤い瞳が、静かに笑っていた。
まるで“本当の試練”は、まだ終わっていないと告げるように。
氷原に吹く風が止んだ。
仲間たちの攻撃をすべて受け止めたフェンリルが、ゆっくりと首をもたげる。
その瞳には、狂気ではなく――どこか、悲しげな光が宿っていた。
創夜は息を吐き、剣を構え直す。
霜が頬を切り裂くほどの冷気の中、ただ一人、狼神の前に立った。
「……まだ終わらない、か。」
フェンリルの声が、直接頭の中に響く。
それは低く、しかし雄々しい声だった。
『人よ……貴様らは“理性”を誇る。
だが、それは“本能”を縛る鎖でもある。
なぜ抗う。破壊も、怒りも、恐怖も……生命の証ではないか。』
創夜は瞳を細めた。
「たしかに――お前の言う通りだ。
本能は生きる証だ。
けど、俺たちは“理性”で、それを超えることができる。
仲間を守りたい、誰かを救いたい――
その想いもまた、本能じゃない“意思”だ。」
フェンリルが口を開く。冷気の奔流が世界を包み、氷原がきしむ。
『理性はやがて、己を欺く。
秩序に従うお前たちが、混沌を否定するのは矛盾だ。
それでも……なお、立つか。』
「立つさ。」
創夜の瞳が光を帯びる。
「俺たちは“生きる”ために戦うんじゃない。“生かす”ために戦うんだ。」
フェンリルが静かに頷いた。
その巨体の周囲に、氷の嵐が巻き起こる。
夜空のオーロラが裂け、星々が降るような光景の中、
狼神が吠えた。
――氷原が爆ぜ、世界が白に染まる。
リンが叫ぶ。
「創夜! 下がるアル!!」
セリアも続ける。
「無茶よ! この範囲、魔力が崩壊してる!」
ミリィが未来視を発動し、叫んだ。
「来る! 本体が……この空間そのものを飲み込む!」
だが創夜は、仲間たちの前に手を広げた。
「――みんな、下がれ。」
その声に、誰もが息を呑んだ。
その声音は、凍てつく空気の中でも不思議と温かく、
背中で語る決意がすべてを物語っていた。
「ここは……俺に任せろ。」
仲間たちは言葉を交わせず、ただ信じて後退した。
創夜が一歩、氷原の中央に進む。
空を見上げ、ゆっくりと剣を掲げた。
炎、氷、雷、風、土、闇、そして光。
七属性の魔力が剣に収束し、やがてそれは無数の光へと分裂していく。
創夜の頭上――夜空の星々が共鳴した。
光が集い、星が形を持ち、
一振り、また一振りと“星剣”が生まれていく。
空には、無数のアルティメットブレードが星のように配置された。
その数、数百、数千。
氷原の夜を照らすほどの輝きが、創夜の意志に応えて舞い上がった。
フェンリルが吠える。
『愚かな人よ! 星の数を以て我を討たんとするか!』
創夜は微笑んだ。
「星の数だけ、人の願いがある。
それを束ねるのが――俺の“理性”だ。」
空を裂くように、剣が降り注ぐ。
七色の光が尾を引き、星々の剣が流星となって落ちていく。
雷が走り、炎が唸り、氷が砕ける。
無数の刃がフェンリルを包み込み、夜空を貫いた。
その中心で、創夜の声が響く。
「――星が尽きるまで、終わらない!」
轟音が世界を裂く。
眩い閃光が氷原を飲み込み、
フェンリルの咆哮が、静かに遠ざかっていった。
オーロラが再び輝きを取り戻し、氷の風が止む。
残ったのは、星屑のように光る氷の欠片と、
静かに剣を下ろす創夜の姿だけだった。
リンが駆け寄り、目を丸くして呟く。
「創夜一人で倒しちゃったネ……」
ミリィが柔らかく笑い、セリアが安堵の息をつく。
エジスは静かに手を組み、呟いた。
「……理性が、本能を越えたのか。」
創夜は空を見上げた。
星々は、まるで祝福するかのようにまたたいていた。
――第五階層、試練達成。
転移陣が輝きを放ち、次なる階層への道が開かれた。
だが、その光の奥で、誰もが感じていた。
塔の頂に近づくほど、
試されるのは“力”ではなく――“心”だということを。




