ep7.バベルの塔編 二層 巨大な海中空間
地獄風スタミナシチューを平らげ、一同はしばしの休息を取っていた。創夜は満腹感から、壁にもたれて軽くうたた寝をしていた。先ほどの激戦の疲労が、美味な食事と塔の静寂によって一気に押し寄せてきたのだ。
ミーナが空になった皿を創夜のアイテムボックスにしまうと、隣に座っていたセリアが静かに口を開いた。
「創夜、寝たふりはもうお終い。これからが本番でしょ?」
創夜は目を開け、軽く息を吐く。
「悪い、考え事をしていた……ヘビモスとの戦闘で、一つ確信を得た。この塔は単純なダンジョンじゃない。一層でボスを倒したはずなのに、何も起きず、こうして食事をして休憩している異様な状況だ」
フィーリアが突っ込みを入れる。
「あんたが寝てることが異常よ」
ミリィも突っ込む
「それは、創夜だからダンジョン内で食事をしていられるのよ。これが普通だったら食事をしていられる状況じゃないわ」
リンが焚き火に薪をくべながら、創夜を見た。
「あのバケモノ、山一つ分の大きさのボスだったアルか?倒したのに、何も出なかったネ」
「ああ。あれだけ強大な魔物が、待ち構えていて、アイテムドロップもなかった。そして、俺たちは二層へと続く階段や扉を一切見つけていない」
創夜の言葉に、一同はハッとして周囲を見渡した。山一つ分もある広大な草原と、休息に使った石室。上層へ続く構造物は皆無だ。
創夜は立ち上がり、ヘビモスが出現した草原の方向を見た。
「二層へ行く道は、この一層と呼ばれる次元そのものを突破した先に隠されているはずだ」
フィーリアが急いで周囲の解析結果を再確認する。
「特に変わったところはないわね」
「うーん。町の中みたいに敵の反応も何もないわ」
創夜は迷うことなく、草原の奥、ヘビモスが消えた場所へ向かって歩き出した。
「魔方陣とか、階段を出現する装置とかなのか!?2層にはどうすれば行けるんだ?」
一同が草原に戻ると、そこにはまだ熱気が立ち上っていた。
その時、エジスが創夜の前に滑り出た。
「お兄さんちょっと待ってて」
そういうと、エジスは遠くに走っていった。
「この辺に石碑があった気がするんだけど、えーっとあ!これだ」
エジスが何か地面にあるものを、操作している。
特異な性質を持つ草を吸い寄せながら、ゆっくりと巨大な石碑を形成した。
石碑は高さ10メートルほどで、金属光沢を帯びた黒曜石のような素材でできている。その表面には、無数の幾何学的な紋様が刻まれ、中央には手のひらを置くための円形の窪みがあった。石碑が完全に立ち上がると、地割れはぴたりと塞がった。
創夜達はエジスのもとへ駆け寄り、手を引っ込めた。
「エジス……何か分かるのか?」
エジスは無言でうなずき、石碑の中央の窪みに、自分の右手を静かに置いた。
次の瞬間、石碑の紋様が青白い光を放ち、エジスの体から光が逆流するように石碑へと流れ込んだ。
「解析開始……。言語パターン、魔力回路、頂上座標設定。よし、二層への転送プロトコルをアクティベートする」
エジスが複雑な電子音を発しながら、まるで石碑と対話するように操作を行うと、石碑の背後の空間が歪み始めた。
空に向かって、巨大な青銅色のパネルが、無数の魔力線に縁取られながら、音もなく浮上してきた。
パネルは鏡のように滑らかで、その質感は一階の異世界感とは全く異なり、未来的な昇降機のようだ。
パネルの周囲の赤黒い夕焼けの空は、パネルに映り込むことで、青と金色に歪んで見えた。
ミリィが羽を震わせる。
「わあ、これが二層へのエレベーターなのね!」
セリアが微笑む。
「ふふ、さすがエジスね。こんな複雑な装置をすぐに起動させるなんて」
創夜はエジスに声をかけた。
「よくやった、エジス。これが二層への移動装置か。昇降機のようなものだな」
エジスは手を石碑から離し、軽く息を吐いた。
「うん。これは、次元転移昇降機だ。頂上へ向かう塔の法則に則り、次元を貫いて物理的に昇る。さあ、時間がない。乗って、昇ることしかできないけどね」
創夜はためらいなく、光を放つ青銅色のパネルに足を踏み入れた。リンたちが続いて、全員がパネルの上に立つと、エジスが最後に石碑を軽く叩いた。
フィーリアは、これをメトロポリスの科学と比較して考えた。
「それにしても、アナログね、ただ、不思議な力を感じるわ」
キィィィィィィン――!
高周波の駆動音が響き、パネルが急速に加速し始めた。一階の広大な草原が、まるで巨大なパノラマ映像のように、みるみるうちに眼下に遠ざかっていく。
通常の昇降機ではありえない、凄まじい速度だ。フルオーラで強化されているとはいえ、普通の人間ならGで圧死していただろう。
そして、パネルが赤黒い空を突き抜け、塔の天井に空いた、青白く脈打つ巨大な穴へと吸い込まれていく。
一瞬の眩い光と、次元の壁を通過する独特の浮遊感の後――
全員の足が、固い地面に着地した。
創夜がゆっくりと目を開ける。
次なる階層への扉が開くと同時に、エジスが唐突に告げた。
「これから先は海の層みたいだよ。みんな、水着に着替えて次のフロアは水の中みたいだね」
目の前には海が広がっていた。
全員エジスの指示に従い、フィーリア以外、水着に着替えた。
――オーシャンブレス
創夜は水の中で呼吸できるように全員に魔法を唱えた。
そこは、果てのない海の中だった。
上下も距離も曖昧で、光の届かぬ青い虚空。
ただ、静かに流れる水流の中に、心そのものが溶け込んでいくような感覚。
水は冷たく、しかし生きていた。
触れるたびに心を揺さぶり、奥底の感情を映し出す。
まるで、この層そのものが心の海であるかのように。
そのとき、海底から低い唸りが響いた。
大地が震え、光が揺らぎ、巨大な影が深淵から浮かび上がる。
水を纏い、形を持たぬ龍が姿を現した。
蒼く透き通る鱗のような水膜が幾重にも重なり、その瞳は深淵の闇を宿している。
感情が具現化したかのような存在――第二層の守護者、《水流竜レヴィアタン》。
「強い……こいつ、ただの魔物じゃないわ」
セリアの声が震える。彼女の魔力感知が、異常を告げていた。
水の層そのものが『生きている』。レヴィアタンはこの海と同化しているのだ。
その咆哮は、音ではなく衝撃だった。
水が反転し、空間がひっくり返るような衝撃が仲間たちを襲う。
一瞬で全方位から押し寄せた高圧の奔流を、エジスが展開した黄金の結界が防いだ。
泡ひとつ通さぬ絶対防護。だが、その圧は、心をも砕くほどに重かった。
レヴィアタンの水流は怒りに染まり、悲しみに濁っていた。
その感情の波は、見る者の心を削ぎ、恐怖を呼び覚ます。
セリアは魔力の乱れを感じ取りながら、震える指で杖を握りしめた。
創夜が指先を鳴らす。
青白い稲妻が水中に走り、雷の槍となってレヴィアタンへ突き刺さる。
しかし――届かない。
雷光は途中で歪み、波に飲まれて霧散した。
まるで海そのものが『拒絶』しているかのようだった。
リンが続けざまに拳を叩き込む。
衝撃波が水を裂き、龍の胸を打ち抜く――が、その輪郭はすぐに崩れ、波紋の中へと溶けていく。
「まるで、切っても切れない……水そのものアル」
セリアが息を呑み、魔力を収束させた。
彼女の放った火球が海中を照らす。だが、次の瞬間、炎は一瞬で凍り、音もなく消えた。
創夜は歯を噛みしめる。
「……攻撃が通らない。斬っても、燃やしても、電撃でも駄目か」
ミリィの心に浮かんだのは、ただ“この悲しみを終わらせたい”という想いだけだった。
創夜の身体が光を帯びる。
水中でも、そのオーラは炎のように揺らめき、周囲の水を蒸発させていく。
彼の放った雷光が、瞬く間に水を貫き、レヴィアタンの胴を貫通した。
だが、次の瞬間にはその巨体が霧のように消え、別の位置で再構築される。
それは無数の『感情の影』だった。
怒り、悲しみ、孤独、恐怖。
どれもが本体と同じ波動を持ち、どこに刃を向けても無に還る。
リンが動いた。
水を蹴り、龍族の脚力で渦を裂く。
拳の衝撃が波を穿ち、水龍の顔面を砕いた。
水が爆ぜ、空間が震えたが、敵は再び姿を変え、周囲を取り囲む。
感情が渦を巻き、世界が混沌と化す。
レヴィアタンは咆哮と共に、怒涛の波を押し出した。
それは物理ではない。魂を圧し潰すような力。
創夜は仲間を抱きかかえ、瞬間移動でエジスの後方へと転移した。
刹那の判断が、全員を救う。
波が静まり、海の底に再び沈黙が訪れた。
その静けさは、嵐の前ではなく――心の奥を試すような間だった。
創夜の視界が滲む。
水の中で、何かが流れ込んでくる。
温度ではない、感情の侵食。
気づけば――彼はもう、海の底にはいなかった。
灰色の校舎。
ざわめく教室。
耳に残る笑い声。
「なあ、あいつ、またアニメの話してきたんだけど」
「やばくね? マジで痛いやつ」
「うわ、オタクのくせにイケてる顔してんのムカつく」
周囲のざわめきが遠ざかり、創夜の心臓がゆっくりと冷えていく。
手にしていた教科書が水のように溶け、足元が崩れ落ちた。
暗闇が迫る。
(……なんだよ、これ。今さら、そんな過去を……)
レヴィアタンの声が、心の奥から囁いた。
――“お前は何も変わっていない”
――“誰も、お前を本気で見てはいない”
創夜の拳が震えた。
怒りではなく、悔しさだった。
“過去の声”が、胸の奥に突き刺さる。
だが、そのとき――
「創夜!」
リンの声が、海の闇を裂いた。
光が差し込み、創夜の視界が一気に戻る。
手を伸ばすと、そこにリンの手があった。
その掌は、いつも通り温かい。
「現実に戻るネ!」
リンの拳が空間を砕き、幻が水泡となって消える。
創夜は息を吸い込み、荒い呼吸を整えた。
「……助かった。まじで、心がやられるところだった」
リンが不敵に笑う。
「こんな幻覚、拳で壊せば終わりアル!」
だが、創夜が周囲を見渡すと――
セリアが杖を落とし、目を見開いていた。
ミーナは無言で耳を塞ぎ、震えていた。
その瞳には、誰も知らない過去の影が映る。
ミリィもまた、剣を下ろし、震えていた。
フィーリアは何が起こっているのか、何をしたらいいのかわからないでいた。
それぞれの心が試されている。
レヴィアタンの攻撃は、肉体を狙わない。
心の奥に潜む“痛み”を暴く。
リンが振り返る。
「みんな、立つアル! これ、ただの幻! 思い出じゃない!」
だが、水の流れが再び歪んだ。
青が黒に染まり、深淵の底から再び龍の眼が開く。
感情の海が沸き立ち、世界が裏返る。
創夜は胸の奥で、かすかに笑った。
「……ああ、そうか。お前は“俺たち自身の心”ってわけか」
雷が指先に集まり、海を裂くように走る。
リンが叫んだ。
「こいつ許せないアル!」
リンの拳が水を割り、波が霧散する。
創夜が息を吐くと同時に、空間が再び歪んだ。
レヴィアタンの咆哮が響き渡る。
それは音ではなく――魂を揺さぶる怒りそのものだった。
幻が消え、仲間たちの意識が戻る。だが、セリアもミーナも、膝をついたまま動けない。
その胸の奥には、まだ幻の残滓がこびりついていた。
リンは一歩、前に出た。
目の奥で光が瞬き、周囲の水が一瞬で沸騰する。
「……仲間の心を、汚すな。それは私が、絶対に許さないアル」
声が低く震え、海そのものが共鳴する。
怒りではない。
もっと深い、魂の拒絶。
レヴィアタンの瞳が揺らめく。
それはまるで、恐怖に似た反応だった。
リンの気が膨張し、波動となって空間を満たす。
水が逃げる。圧が消える。
すべての“理”が彼の周囲から剥がれ落ちていく。
創夜が息を呑む。
「……リン?」
リンの様子がおかしい!リンは急に下を向き動きを止めた。リンは静かに拳を握りしめた。
その瞬間、世界の音が――止まった。
海の泡が浮かび上がる途中で止まり、
レヴィアタンの波が形を失ったまま凍りつく。
創夜たちの声も、遠くの光も、
すべてが“リンの気”に押し潰され、沈黙の底へと沈む。
リンの意識は、そこになかった。
怒りでも、恐怖でもない。
ただ――空白。
“無我の境地”。
身体と魂が分離し、ただ“拳”として存在する。
あらゆる気の流れが一点に収束し、
リンの拳に、宇宙の中心のような輝きが宿る。
レヴィアタンが動いた。
その巨大な身が水のように歪み、波となって覆いかぶさる。
だが、リンは一歩も動かない。
拳を、静かに振り抜いた。
――衝撃ではない。
その一撃は、概念を破壊した。
音も光も存在しない。
ただ、世界が一度“無”になり、次の瞬間、
水の大地が裂け、塔全体が震えた。
レヴィアタンの姿は、跡形もなく消えた。
波も、音も、悲しみも。
すべてが、拳の軌跡の中で塵と化した。
静寂の中、リンはゆっくりと振り返る。
だが、その瞳には何も映っていない。
リンの元へセリア、ミーナ、ミリィ、フィーリア、創夜が駆けつける。
創夜が叫ぶ。
「リン! 聞こえているか!もう敵はいない」
セリアが杖を伸ばすが、光が届かない。
リンの周囲を、目に見えぬ気流が渦巻いていた。
それは神域に近い圧。
ミリィが息を呑み、震える声で呟く。
「……リン、聞こえてる? 私たちだよ……」
だが、返事はなかった。
リンはただ、静かに立っていた。
リンの体から強烈な闘気が流れているのが分かる。
セリア、ミーナ、ミリィ、フィーリア、創夜がリンに抱き着いた。
「……リン、ありがとう」
その声が届いた瞬間――リンの気が、ふっと穏やかに溶けていく。
紅く燃えていた瞳が、いつもの色へと戻った。
「……みんなどうしたアル? 敵はどこアル!? みんなもう大丈夫アルか?」
リンは首をかしげながら辺りを見回す。
仲間たちは顔を見合わせ、思わず笑った。
創夜が小さく肩を落とし、苦笑を漏らす。
「……ああ、大丈夫だよ。もう全部、終わったんだ」
「そういえば、エジスはどこに行ったんだ!?」
エジスがにこやかに海底からにこにこ笑いながら声をかける。
「おーい、お兄さんたちこっちこっち!僕怖くてなんもできなかったよ。終わったみたいだね、三層はこっちだよ!」
「私には何が起きているのか全くわからなかったわ」
フィーリアはキョトンとしていた。
水の残滓が光となって漂い、静かな青の海に還っていく。
――《心の海》の戦いは、こうして終わりを告げた。




