僕らのアシンメトリー
第一章:春風のトライアングル
都会の喧騒から逃れた丘陵地帯に広がる星城大学。そのキャンパスを撫でる春風は、いつも新しい季節の匂いを運んでくる。新緑が目に眩しい四月、俺たち三人は、今日も講義室のいつもの席に陣取っていた。
「やっべ、またギリギリ!」
スポーツ刈りの頭から汗を飛ばし、息を切らして滑り込んできたのは健太。その大きな背中の後ろから、肩まで伸びた髪をさらりと揺らし、涼しい顔で入ってきたのが優奈。そして最後に、どこか飄々とした足取りで現れたのが、メガネの奥で二人を見守る俺、拓海だ。
大学に入学して、もう三年。健太は経済学部、優奈は法学部、そして俺は文学部。専門は違えど、一般教養の授業だけは、こうして肩を並べて受けるのが俺たちの日常だった。
教授の静かな声が響く中、健太は机の下でこっそりスマホを覗き込み、時折小さくガッツポーズをしている。きっと、応援している野球チームの速報でも見ているのだろう。隣の優奈は、そんな健太には目もくれず、教授の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでノートにペンを走らせている。その横顔は、理知的で、どこか近寄りがたいほどの美しさを放っていた。
俺はといえば、ぼんやりと窓の外に広がる桜並木を眺めていた。風に舞う花びらが、きらきらと光を反射している。この三人の関係性の心地よさを、改めて感じていた。健太の太陽のような屈託のなさと、優奈の月のような静かな引力。そして、二人を繋ぐように、ただそこにいる俺。まるで、一本の幹から伸びた三つ葉のクローバーだ。それぞれが違う方向を向いていながら、根っこではしっかりと繋がり合っている。そんな、奇跡のようなバランスで、俺たちは成り立っていた。
出会いは入学式のオリエンテーション。初めはぎこちなかった会話も、健太の持ち前のコミュ力と、優奈の的確なツッコミ、そして俺ののんびりとした相槌が、いつの間にか絶妙なハーモニーを奏でるようになっていた。今では、互いの性格も考え方もすっかり理解し合った、まさに「親友」と呼ぶにふさわしい関係だった。ただ、時々ふと思う。『親友』というありふれた言葉では、この関係の重さの百分の一も掬い取れないような気がした。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、俺たちは決まって学食に向かう。「今日はA定食にすべきか、B定食にすべきか……それが問題だ!」とシェイクスピア風に大げさに悩む健太に、優奈が「どうせ最後は唐揚げ定食にするくせに」と呆れたように笑う。そのやり取りも、もう見慣れた日常の風景。その何気ない一コマ一コマが、俺にとっては何よりも代えがたい宝物だった。
食後は、キャンパスの芝生にごろりと寝転んだり、図書館でそれぞれの課題に取り組んだり。時にはゲームセンターでUFOキャッチャーに熱中し、健太が取ったぬいぐるみを優奈が呆れながらも受け取る。中でも、星城大学の片隅にある古びたカフェ「星城ブレンド」で過ごす時間は、俺たちにとって格別だった。将来の夢、最近観た映画、そして、恋愛の話。
もちろん、俺たち三人の間に、恋愛感情はない。だからこそ、何の気兼ねもなく、ありのままの自分をさらけ出せる。健太が所属するバスケ部の試合があれば、俺と優奈は声を枯らして応援し、優奈が所属する軽音楽部のライブがあれば、俺と健太は最前列でペンライトを振った。俺が参加する文学サークルの読書会に二人を誘えば、普段は本を読まない健太が意外な熱中を見せる。
そんな日々は、春風のように爽やかで、三つ葉のクローバーのようにささやかな幸せに満ちていた。何よりも代えがたい「親友」という絆に支えられた、輝かしい毎日。俺は、この時間が永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。
第二章:春の嵐
季節は巡り、大学四年目の春。就職活動という現実が、否応なく俺たちの日常に影を落とし始めていた。リクルートスーツに身を包んだ学生たちが行き交うキャンパスは、どこか浮足立ち、焦りの色が滲んでいる。
その日の午後も、俺たちは「星城ブレンド」のいつもの席にいた。面接帰りらしい健太は、ネクタイを緩め、深いため息をついている。
「はぁ、もう何社目だよ。落ちるたびに心が折れそうだ」
優奈はテーブルに広げた企業パンフレットから顔を上げ、優しい口調で健太を励ます。
「健太らしいよ。でも、きっと合う会社が見つかる。焦らず行こう」
「優奈は順調そうじゃん。この前も、あの超大手から連絡来たって言ってたし」
俺がそう言うと、優奈は少し照れたように笑う。「たまたまだよ」と。
そんな俺たちのテーブルに、文学部の翔太と美咲、経済学部の悠人、法学部の杏奈といった共通の友人たちが合流し、賑やかな雑談が始まった。面接での珍エピソードや、就活にまつわる都市伝説。座は笑いに包まれ、一瞬だけ、重苦しい現実を忘れさせてくれた。
そんな中、それまで黙って話を聞いていた美咲が、ふと俺たち三人の顔を交互に見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねえ、ずっと気になってたんだけどさ……健太と拓海は、優奈のこと好きじゃないの?」
その言葉は、春の穏やかな午後に突如として吹き荒れた嵐のようだった。健太は目を丸くし、優奈は一瞬、はっと息をのんだのが分かった。俺もまた、心臓がどくりと大きく跳ねるのを感じた。今まで意識の外に追いやっていた、決して触れてはならないパンドラの箱が、いとも簡単に開けられてしまったような感覚。
「だって、はたから見てたらめちゃくちゃ仲良いじゃん。正直、恋愛感情がないほうがおかしいと思うんだけど」
痛いところを突かれた、と思った。最初に沈黙を破ったのは、健太だった。
「いやいやいや! 何言ってんだよ美咲! 俺たち、親友だから! 家族みたいなもんだって!」
声が少し上ずっている。優奈も慌てて続いた。
「そうだよ。健太も拓海も、私にとって本当に大切な親友。恋愛とか、そういうのじゃないから」
俺も、二人に続くように必死で頷いた。
三人の必死の抗弁に、友人たちはそれ以上は突っ込んでこなかった。やがて話題は別のことに移り、美咲の問いかけは、その場の賑やかさの中に溶けていったように見えた。
友人たちが帰り、カフェに三人だけが残される。さっきまでの喧騒が嘘のように、テーブルの周りには気まずい静寂が漂っていた。誰もが、目の前の冷めかけたコーヒーを見つめたまま、言葉を発せないでいる。美咲の言葉が、耳の奥で何度も反響する。「恋愛感情がないほうがおかしい」。本当にそうだろうか?
その夜、自室のベッドに倒れ込んだ優奈は、天井を見つめていた。本棚に飾られた、三人の写真。屈託なく笑う健太と拓海、そしてその真ん中で少しはにかむ自分。あの写真の中の空気は、間違いなく本物だ。でも、と優奈は思う。
(美咲の言葉は、あまりに単純すぎる……)
友情か、恋愛か。世界がそんなに簡単に二分割できるなら、どれほど楽だろう。この名付けようのない感情の心地よさと、そして、その危うさに、優奈は誰よりも早く気づいていた。この完璧な三角形が、いつか崩れてしまうのではないかという、漠然とした不安。彼女は、その不安に蓋をして、ただ静かに微笑み続けてきたのだ。
第三章:南の島のさざ波
美咲の言葉がもたらした波紋は、俺たちの心に静かに、しかし確実に広がっていた。大学生活最後の夏休み、俺たちはその気まずさを振り払うかのように、卒業旅行を計画した。健太が熱弁した石垣島へのプランが採用され、俺たちの最後の旅は、南の島々に決まった。
旅行は、期待以上に最高だった。石垣島の青い海、西表島の手つかずのジャングル、竹富島の赤い瓦屋根の集落。潮風の香り、肌にまとわりつく湿気、遠くから聞こえる三線の音色。五感の全てが楽園の空気に満たされる。
しかし、そんな夢のような時間の中で、美咲の言葉は再び、亡霊のように俺たちの心にさざ波を立てるのだった。
ある日の午後、健太は少し離れた場所から、俺と優奈が二人で海岸を歩いている姿を目にした。白い砂浜を、ゆっくりと並んで歩く二つの影。俺が何かを指差し、優奈が楽しそうに笑っている。その光景は、あまりにも絵になっていて、健太は思わず足を止めた。胸の奥に、チクリとした痛みが走る。親友が、別の親友と楽しそうにしている。喜ばしいことのはずなのに、この胸の痛みは何なのだろうか。
その夜、今度は俺が、ベランダで星空を眺める優奈と健太の姿を見た。健太が優奈の肩にそっと手を回し、何かを囁いている。優奈はくすりと笑い、健太にそっと寄り添った。その光景は、あまりにも自然で、そして、俺の心臓を強く締め付けた。親友の幸せを願う気持ちとは、明らかに違う感情。その当たり前の光景が、なぜこんなにも苦しいのだろうか。
夜も更け、部屋で三人、酒を飲みながら語り合った。
「そういえばさ、大学に入ってから、私、告白されたことあるんだよね」
優奈が突然、明るい声で切り出した。俺と健太は、思わず顔を見合わせる。
「合同説明会で知り合った人。すごく真面目で優しい人だったんだけど……結局、付き合わなかった」
その言葉に、俺と健太はホッとしたような、それでいて少し残念なような、複雑な気持ちになった。
「なんかさ、その時、やっぱり彼氏とか作るより、皆とこうしてバカしてる方が楽しいなって思っちゃって」
屈託なく笑う優奈に、今度は健太が、そして俺も、同じように異性からの告白を断っていたことを打ち明けた。
「はぁ!? なんで!? 二人とも、そんな良いチャンスを!」
心底不思議そうに嘆く優奈を見て、俺と健太は思わず声を揃えて叫んだ。
「「お前も同じじゃん!!!」」
三人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。南の島の夜空の下、俺たちは確信した。結局、俺たちはこの三人でいる時間が、何よりも大切で、居心地が良いのだと。そして、その心地よさの奥には、親友という言葉だけでは括れない感情が、静かに息づいているのかもしれない、と。
第四章:東京の迷路
希望を胸に社会へと踏み出した俺たちを待っていたのは、甘くはない現実だった。卒業式の日に誓い合った「月一で会おう」という約束は、最初の数ヶ月こそ守られたものの、あっという間に立ち消えになった。
健太は大手広告代理店の営業部に配属され、想像を絶する数字へのプレッシャーと、終わりの見えない残業に追われていた。持ち前の明るさも、日々の激務の中で少しずつすり減っていく。優奈は一流法律事務所でパラリーガルとして働き始め、常に完璧を求められる仕事の重圧と、上司からの厳しい指導に、心が折れそうになる日も少なくなかった。俺も出版社で編集者としての日々を送っていたが、理想と現実のギャップに打ちのめされていた。締め切りに追われ、複雑な社内政治に翻弄され、人間関係の難しさに直面していた。
ある金曜の夜、俺は三人のための飲み会を予約していた。しかし、夕方になって健太から『緊急のトラブル対応で、今日は無理だ。すまん!』とLINEが来た。続いて優奈からも『ごめん、私も急な仕事を振られて徹夜かも…』と連絡が入る。俺は一人、予約した居酒屋の席に座り、キャンセルを告げた。会えない寂しさ、理解し合える仲間がいない孤独感。社会という迷路の中で、俺たちはそれぞれ、たった一人で出口を探して彷徨っているようだった。
健太はある夜、大きなプレゼンで失敗し、深夜のオフィスに一人残されていた。学生時代なら、すぐに拓海や優奈に電話していただろう。だが今は、スマホの画面を眺めるだけで、指が動かない。自分の不甲斐なさを、疲れているであろう二人にぶつけることなどできなかった。
優奈もまた、上司からの厳しい叱責に涙をこらえながら、満員電車に揺られていた。誰かに話を聞いてほしい。健太の励ましが、拓海の優しい相槌が聞きたい。でも、二人の負担を考えると、電話をかけることはできなかった。
LINEのグループチャットだけが、俺たちの繋がりをかろうじて保っていた。だが、そこには学生時代の軽やかさはなく、画面の向こう側の疲弊した顔が透けて見えるようだった。
第五章:核心を突く問い
社会人三年目。健太は会社の同僚である麻衣から飲みに誘われた。仕事の相談に乗るうちに、麻衣は健太への尊敬の念を口にした。
「健太さんはすごいですよね。男女の友情って、本当にすごい。羨ましいな」
健太が優奈と拓海の話をすると、麻衣は素直にそう言った。その言葉に、健太は少し得意になる。
しかし、麻衣の次の言葉は、健太の心に深く突き刺さった。
「でも、このまま40歳、50歳になっても、その関係を続けるんですか? その関係が壊れるのが怖くて、優奈さんに告白できないんでしょ?」
静かな店内に、麻衣の声だけが響く。かつて美咲に言われた言葉が、より鋭利な刃物となって再び健太に突きつけられた。
「もし、優奈さんに彼氏ができたら、素直に喜べますか?」
反論の言葉が見つからない。沈黙の後、麻衣は静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「私、入社してからずっと、健太さんのこと好きだったよ。でも、いつも健太さんの中には、優奈さんがいて……。私、待つから。健太さんが、自分の気持ちに整理をつけるまで」
そう言い残して、麻衣は店を出て行った。一人取り残された健太は、呆然とグラスを見つめていた。俺は、優奈のことが好きなのか? 気づかないふりをしてきただけなのか?
第六章:決壊
麻衣との夜から数週間後、健太は俺を飲みに誘った。
「久しぶりにサシでどうだ?」
その声には、いつもの軽快さはなく、どこか切羽詰まった響きがあった。
週末の夜、大学時代によく行った居酒屋の隅の席で、俺たちは向かい合っていた。最初は近況報告や仕事の愚痴を言い合っていたが、酒が進むにつれ、健太の口数が減っていった。そして、ジョッキのビールを飲み干した彼が、意を決したように口を開いた。
「なあ、拓海……俺、優奈のことが好きなんだ」
その言葉は、店内の喧騒を打ち消すほど、はっきりと俺の耳に届いた。驚きはなかった。心のどこかで、ずっと前から分かっていたことだったからだ。
「麻衣に言われて、気づいたんだ。いや、ずっと前から気づいてたのに、見て見ぬふりをしてた。この三人の関係が壊れるのが怖くてな」
健太は自嘲気味に笑い、新しいビールを注文した。そして、俺の目をまっすぐに見つめた。
「拓海は、どうなんだ?」
試すような、それでいて懇願するような瞳。俺は、もう逃げることはできないと悟った。
「……俺もだ。俺も、優奈が好きだ」
言葉にした瞬間、固く閉ざしていた心の扉が、ゆっくりと開かれるのを感じた。
「大学の時に美咲に言われた時から、ずっとそうだったんだと思う。でも、言えなかった。健太のことも、優奈のことも、どっちも大切だから」
互いに同じ想いを抱えながら、同じ場所で立ち止まっていたのだ。親友であり、恋のライバル。その事実に、俺たちは言葉を失った。重い沈黙が、テーブルの上に横たわる。
「このままじゃ、ダメだよな」
先に沈黙を破ったのは健太だった。彼の言葉は、俺の胸にも突き刺さった。
「……じゃあ、どうすればいいんだ」
俺が絞り出すように言うと、健太は真剣な顔で俺を見つめ返した。
「優奈に、選んでもらおう。……いや、違うな。俺たちが、選んでもらうんだ」
「選んでもらう?」
「ああ。このままじゃ、俺たちは親友のふりをしたまま、互いに嫉妬して、優奈をがんじがらめにするだけだ。そんなのは、もう嫌なんだ。だから、俺たちの気持ちを正直に伝えて、優奈に判断してもらう。それが、俺たちが親友として、そして一人の男として、彼女にできる最後の誠意だと思う。もし、このまま何もせずに優奈が誰かと付き合ったら、俺は一生後悔する。拓海もそうだろ?」
健太の瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。それは、友情と恋心が複雑に絡み合った、彼なりの最高の、そして最も残酷な提案だった。俺は、ゆっくりと、そして深く頷いた。俺たちの友情は、この瞬間、新しい形へと決壊したのだ。
第七章:北と南の選択
健太と俺が決意を固めた数日後、俺たちは優奈を「星城ブレンド」に呼び出した。店の奥の、いつもの席。しかし、そこに流れる空気は、いつもの穏やかなものではなかった。
「優奈、大事な話があるんだ」
健太が切り出すと、優奈は不思議そうな顔で俺たちを交互に見た。
「俺と拓海は、二人とも、優奈のことが好きだ」
健太のストレートな告白に、優奈は息をのんだ。その瞳が、戸惑いに揺れる。俺も続いた。
「だから、優奈に選んでほしい。俺たちのどちらかを」
残酷な提案であることは分かっていた。だが、これが俺たちが出した結論だった。
健太が、二枚の航空券をテーブルの上に置いた。
「来週末、俺は沖縄の竹富島で待ってる。拓海は、北海道の富良野だ。優奈が選んだ方の場所に、来てほしい。もし、どちらも選べないなら……来なくていい。それが、君の答えだと受け止めるから」
優奈は、言葉を失い、ただテーブルの上の航空券を見つめていた。その顔からは、血の気が引いていた。俺たちは、彼女に究極の選択を突きつけてしまったのだ。
その夜、優奈は自室のベッドの上で、二枚の航空券を前に呆然としていた。一枚は南へ、もう一枚は北へ。どちらも、彼女が愛する親友が待っている。
目を閉じると、思い出が洪水のように押し寄せてきた。
講義室で居眠りする健太の寝顔。それを呆れたように見つめながら、どこか楽しそうな拓海の横顔。学食の唐揚げ定食を巡る、くだらない言い争い。バスケの試合で、声を枯らして応援した健太の雄姿。文学サークルの読書会で、意外な感想を述べて皆を驚かせた拓海の真剣な眼差し。
健太を選ぶということは、拓海を失うこと。拓海を選ぶということは、健太を失うこと。そして、どちらかを選ぶということは、何よりも大切だった「三人でいた時間」そのものを、永遠に失うことだと気づいた。その事実に、熱い涙が頬を伝った。
違う。この問いそのものが、間違っているんだ。
優奈は、涙を拭うと、机の引き出しから日本地図を取り出した。北の富良野と、南の竹富島。二つの地点を、指でそっと結ぶ。そして、そのちょうど中間あたりに、毅然とそびえ立つ山の名前に、彼女の指は吸い寄せられるように止まった。
その瞳には、もう迷いはなかった。
第八章:富士の誓い
約束の七月最後の土曜日。健太は、白砂が眩しい沖縄・竹富島のコンドイビーチにいた。一方、俺は、紫色の絨毯が広がる北海道・富良野のラベンダー畑にいた。
待ち合わせの午後一時。しかし、その時が来ても、優奈はどちらにも現れなかった。
健太は、ビーチに座り込んだまま、遠い水平線を眺めていた。優奈は、拓海のところへ行ったのだろうか。胸の奥からこみ上げてくる、言いようのない孤独感に襲われた。
俺もまた、ラベンダー畑のベンチで動けずにいた。健太のところへ行ったのか。胸が張り裂けそうな痛みに、どうすればいいのか分からなかった。
時間だけが、重く、ゆっくりと流れていく。二人とも、そこから動けずにいた。
その時、健太のスマートフォンの画面が光った。同時に、俺のスマートフォンも震えた。
三人のグループLINEだった。優奈からのメッセージ。俺たちは息をのんで、その文字を目で追った。
『健太くん、拓海くん。
今日は誘ってくれてありがとう。
でも行けなくてごめんなさい。
やっぱり私には2人のうちどちらかを選ぶことはできないです。
私にとって2人はとてもとても大切な人です。
友達とか恋人とかそのような枠に囚われることはできないです。
親友ということは昔からよく言っていましたが、私にとってはそれ以上です。
だから選ぶことはできないです。
2人の気持ちは本当に嬉しいです。
私なんかのためにいつも笑顔で励ましてくれたり、時には叱ってくれたり。
泣いたり、笑ったり、沢山あったね。
その一つ一つが私のかけがえのない財産です。
2人の気持ち本当にありがとう。胸がいっぱいです。
2人に言えなかったこと、今言うね。
実は私、会社からアメリカに海外勤務の話があって、行くかずっと悩んでたの。
今、決心しました。
2人が勇気を出して行動してくれたこと。私はその思いに応えることができなかった。
このまま日本にいたら、また2人に迷惑をかけるし、甘えてしまいそう。
だから、私はアメリカに行きます。
2人の思いと一緒に。』
そこでLINEは終わった。その後、一枚の写真が送られてきた。
神々しいご来光を背に、そびえ立つ富士山の頂上から撮られた写真だった。
『今、富士山の頂上にいます。
どうしても日本を離れる前に行きたくて。
ちょうど2人の中間だね。
これからは、お互いの道を歩んでいきましょう。
でも、私たち3人の関係は、これからも続いてほしいと思っています。
わがままかな。
最後までごめんね。ありがとう。』
俺はスマートフォンの画面が滲んで、文字が読めなくなった。自室の窓から見える灰色の空を眺めながら、ただ静かに涙を流した。健太もまた、一人暮らしの部屋で、声を殺して泣いていたということを、後から知った。
優奈は、俺たちの問いには答えなかった。その代わりに、俺たちが提示した二元論を超えた、全く新しい答えを示してくれたのだ。それは、三人の絆を肯定し、未来へと繋ぐための、彼女なりの力強い宣言だった。
第九章:そして、青空
優奈がアメリカへ旅立つ一週間前。俺たち三人は、少し落ち着いた雰囲気の高級レストランで、久しぶりに顔を合わせていた。出会った頃からの思い出話に花が咲き、時間はあっという間に過ぎていく。
別れの時が来た。優奈は、涙ながらに微笑んだ。
「素敵な人と出会ったら、その方とお付き合いしてね」
その言葉は、俺たちの告白への、優奈なりの誠実な返答だった。そして、
「私たち三人の関係は、ずっと続くから……」
優奈の声は涙でかすんでいたが、その瞳は、確かな未来を見据えていた。
あれから、十年。
優奈がアメリカへ旅立ってからも、俺たちの関係は変わらなかった。季節の移ろいと共に届く絵葉書と、たまに動くグループLINE。離れていても、会えなくても、俺たちの間には、目に見えない絆があった。
やがて、健太はあの麻衣と結婚した。俺もまた、取引先の遥という女性と家庭を持った。麻衣も遥も、俺たち三人の特別な関係を心から理解し、尊重してくれた。優奈は式には参列できなかったが、心のこもった祝いの言葉とプレゼントを贈ってくれた。
そして、あの日から十年が経った秋の日、優奈が日本に一時帰国することになった。
羽田空港の到着ロビー。健太と俺は、それぞれの妻と共に彼女を待っていた。やがて、人混みの中から、見慣れた、けれどどこか大人びた優奈が現れた。彼女は俺たちの前まで来ると、にこりと微笑み、そして、その声は少し震えていた。
「ただいま」
その一言で、十年という時間が一瞬で消し飛んだ。
五人での食事は、笑い声に満ちていた。麻衣と遥は、憧れの「優奈さん」に会えたとすぐに打ち解け、女性陣の会話に花が咲く。その光景を、健太と俺は微笑ましく眺めていた。
別れ際、健太がずっと気になっていたことを尋ねた。
「優奈、彼氏はできたのか?」
俺も、固唾をのんで優奈の答えを待った。優奈は、にこりと微笑む。
「いないよ! 今は仕事が楽しくて、それどころじゃないかな」
いつものように明るく笑う彼女に、俺たちは安堵した。
「それにね……」
優奈が何かを言いかけたその時、麻衣と遥がタクシーを呼ぶ声がした。優奈は言葉を飲み込み、笑顔で二人を迎えた。
後日、アメリカに向かう飛行機の中、優奈は窓の外に広がる青空を見つめていた。
(あの時、言えなかったこと……)
優奈は、そっと目を閉じた。十年前に彼らへの返答としてついた、優しい嘘。本当に言いたかった、もう一つの真実は、ずっと心の奥にしまっておこうと決めていた。
『それにね……』と、優奈が言いかけた、あの言葉の続き。
「私、あの時、本当に大切に想う人たちがいたから、他の誰とも付き合えなかったんだ。……ううん、違う。誰かと比べることなんてできない、かけがえのない愛を知ってしまったから、もう他の愛を探す必要がなかったんだ。その想いは、失われたものじゃない。この十年、そしてこれからも、私を一人で強く歩かせてくれる、たった一つの宝物だから」
その言葉は、誰に届けるでもなく、優奈の胸の奥で、静かな充足感と共に繰り返された。それは過去への執着ではなく、唯一無二の愛を胸に、自らの足で未来を歩むための、力強い誓いだった。
飛行機は、青空の中を力強く飛んでいく。彼女の心には、新たな未来への希望と、そして、健太と拓海との変わらぬ、親友を超えた絆が、確かに息づいていた。その絆は、たとえどんなに離れていても、どんなに時間が経っても、決して色褪せることはない。永遠に続く、青空の誓いのように




