害草
鳥は自由に飛べていいな、猫はどこへでもいけていいな、あの優等生はみんなから好かれなんでもできていいな、草になりたいな
草になりたい。こう思ったのはいつからだったろうか。草と言ってもたくさんの種類がある。たんぽぽやドクダミ、スギナなどは多くの人が見たことがあるのではなかろうか。別に、どんな種類の草だろうとかまわない。自分にとって必要なのは誰からも必要とされずひっそりと生えて増殖することである。生物としての義務を果たして、誰の記憶に残ることなく消えていきたい。
「○○で草」という現代ワードを聞いたことがある。ここでの草とは元々ネットスラングで笑えるという意味の元使われていたアルファベットのWが草のように見えたため今日で使われるようになったそうだ。羨ましいと思う。笑いの象徴として存在できていて、日本語をより豊かに退廃的にしていて。憎い。醜い自分を見せつけてきやがって。不完全で不寛容な自分を俯瞰してきて。自分だって成れるなら不感症になりたかった。多くの虫に感謝され、そよ風を浴び、雨に打ち付けられて、たくさん踏まれて。誉は捨てて咎めからは逃れられる。ズルい。
本気で草になりたいと思ったのはいつ頃だったろうか。確かみんなそれぞれの色や数のチューリップを咲かせようとしてた頃だったと思う。自分の鉢にはマリーゴールドしか咲けなかった。今思うと弱肉強食のこの世界じゃ至って当たり前のことだったと思う。生物の多様性において自分は負の側面だと考えてた。自称行為は気持ちよかった。死のうと考えたことも何度かあった。でもやり方がわからないという言い訳で勇気がないことを、何をやるにも空っぽなことを誤魔化してたんだと思う。親や親族を恨んだこともあった。性欲を満たした結果生まれた産業廃棄物を産廃たらしめず、多様性などと言った退廃的な言葉で生かしたこと。幼稚園や学校の先生だってそうだ。変に夢や希望といったメルヘンチックなものを見せず、最初から人生レースをギブアップさせてほしい。徹底的に差別してほしかった。助けてほしかった。
無害な人を親の仇のように見ることがある。自分の非力さ、凡庸性、将来性の無さ、これらを見ないようにするには他人を恨んでそのことで頭が満たされないといけない。みんなが将来のことや今のことで満足している中、自分は自身の心が空っぽだと痛いほど打ち付けてくる。何かを感じるための心の面積も深さもなくなればいいと思った。
来世があるのならば心の空白に草をはやせるようになりたい。ああそうか、自分は草になんかなりたいわけじゃない。ただ空白を埋めたかったんだ。
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ご清覧ありがとうございました