好きになるのが少し遅かっただけ
放課後の教室は、いつもより静かだった。
他の生徒たちは部活や帰宅準備に追われ、黒板に残る数式だけが今日の“授業”の名残をとどめている。
窓の外には、低い陽が沈みかけていて、長く伸びた影が教室の床に揺れていた。
そんな中、隣の席に座る女子が、小さく口を開いた。
「……もうすぐだね、卒業」
その言葉に、俺は「そうだな」と短く返した。
教科書を閉じて、少しだけ息を吐く。実感はまだないけれど、確かに“その日”は近づいている。
「なんか、あっという間だったな」
「うん。坂下くんとは、3年になってから隣の席になったんだよね」
「そうだったっけ」
「そっか。覚えてないんだ」
少し寂しそうに笑った山瀬に、なぜか胸がチクリとした。
名前をちゃんと覚えたのは、たぶん夏休み明けだった。
それまでは、ただのクラスメイト。特に目立つタイプでもなかったし、接点もなかった。
けれど、あるとき彼女が落としたプリントを拾って渡したら、驚くほど柔らかい声で「ありがとう」と言ってくれた。それから少しずつ、授業の合間に言葉を交わすようになって――気づいたら、彼女のことが気になっていた。
朝の挨拶、授業中の視線の交差、放課後に見せる素の笑顔。
どの瞬間も、少しずつ心に積もっていって、気がついたときにはもう“好き”になっていた。
「なあ、坂下くんってさ」
「ん?」
「誰か、好きな人いる?」
ふいに投げられたその言葉に、心臓が跳ねた。
急な話題に戸惑って、つい口ごもる。
「……いや、いないけど」
「そっか。よかった」
「よかったって?」
「ううん、なんでもない」
窓から差し込む光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。
白い肌、揺れる髪。少し照れくさそうに俯いたその姿は、たまらなく綺麗だった。
そんなふうに笑うなら――もっと早く言えばよかった。
「俺は、ずっと君のことが好きだった」って。
だけど、それが言えなかった。
この距離感を壊すのが、怖かった。あと少しで卒業というタイミングが、俺の背中を押すどころか、足をすくってくる。
*
「ねえ坂下、ここの問題ってこうなる?」
昼休み、山瀬がノートを差し出してくる。
数学の問題。彼女は理系が少し苦手で、たまに俺に聞いてくるようになった。
「いや、ここはこう置き換えると……この式になる」
「なるほど! 坂下くん、頭いいね」
「いや、お前が言うなよ」
「“お前”って呼ばないでよ〜。“山瀬さん”でしょ?」
「いまさら敬語に戻れないって」
ふざけ合うこの瞬間が、心地よかった。
周囲から見たら、ただのクラスメイト同士かもしれない。でも、自分たちだけが知っている“特別な距離感”が、確かにそこにあった。
たとえこの関係が、恋人じゃなかったとしても。
いまだけは、このままでいいと思っていた。
けれど――それも、長くは続かないと知っていた。
*
三月に入ってすぐの放課後、教室でプリントをまとめていると、山瀬がぽつりと呟いた。
「……卒業したら、さ。もう、会えないのかな」
「え?」
「私、引っ越すんだ。卒業してすぐ、親の転勤で」
静かに告げられたその言葉は、冷たい針のように胸に突き刺さった。
信じられなかった。心のどこかで「きっと、また会える」と思っていたから。
「……なんで、今まで言わなかったんだよ」
「だって、言ったら……気まずくなるでしょ?」
「気まずくなんか……」
「……ならないって、言い切れる?」
言葉が詰まる。
そうやって、俺はまた何も言えなくなる。
「本当はね、もっと前から気づいてたよ。自分の気持ち」
山瀬は、夕陽を背にして立っていた。
その声は静かで、でも確かに震えていた。
「好きだよ、坂下くん。ずっと、言えなかったけど」
言葉が、空気を変える。
心臓の音が、どくん、と跳ねた。
「でも、私だけが好きだったら……ちょっと寂しいよね」
彼女の笑顔は、悲しみに滲んでいた。
それを見た瞬間、ようやく心が追いついた。
「俺も……好きだったよ。ずっと前から。もっと早く言えばよかった」
彼女が目を見開き、やがて、静かに笑った。
「やっぱり、少し遅かったんだね、私たち」
「ううん、間に合ったよ。ちゃんと、気持ちは届いた」
言葉に出せた。ようやく、伝えられた。
たとえ明日、遠くに離れてしまっても――この想いは、消えない。
「連絡先、教えてよ」
「うん。卒業しても、忘れないように」
「今度は、俺が先に好きになる」
「……ずるい。私が先だったのに」
「じゃあ、また追い越してみろよ」
ふたりの声が、笑い声が、静かな教室に溶けていく。
外には、春の風が吹いていた。
まだ咲ききらない桜のつぼみが、やわらかく揺れている。
──これは、卒業の季節に芽吹いた、小さな初恋の物語。