第八話【黄泉語(よみご)】
しじま堂に届いた、和綴じの薄い冊子。
黄ばんだ紙に、どこの国のものともつかない奇妙な文字が並ぶ。
言語学の研究者が私信として遺した“ある語り”の手記とともに──
……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある“言葉”にまつわる話です。
その男は、名を"高遠 瑛司"といった。
地方大学で古代言語を専門に教える准教授で、言葉と向き合うことを生業としていた。
そしてもうひとつ──
彼には、三年前に亡くした妻"志帆"がいた。
病による急逝だった。
それ以来、彼の言葉は、日常からぽっかりと切り離されていた。
ある日、大学の資料室で見つけた一冊の写本。
それが、すべての始まりだった。
装丁もない、記号のような文字ばかりが並んだ謎の文書。
奇妙なのは、それがまるで
"音を持っているように響く”
ことだった。
言葉にならない言葉。
読むでもなく、視るでもなく──それは、“聞こえてくる”。
その語は、ごく限られた文献の中でこう呼ばれていた。
「黄泉語」。
現代には存在しないとされる、“冥府の言語”。
死者と通じ合う術──あるいは、死者を“呼び戻す”ための構文。
高遠は夜ごと、自室でその語を音読するようになった。
最初は好奇心。
だが気づけば、彼はその言葉に、亡き妻・志帆の面影を探すようになっていた。
読み上げた夜は、部屋の空気が違った。
時計の音が止まり、窓の外の街灯が揺れる。
言葉を紡ぐごとに、部屋が“こちら側”ではなくなるのを感じた。
そしてある晩──
「……あなた……呼んだの?」
その声が返ってきた。
振り向けば、そこに志帆がいた。
死んだときとまったく変わらぬ姿で、微笑み、呼吸し、触れられた。
違うのはただ一つ。
彼女の口から出るのは──黄泉語だけだった。
高遠は夢中で言語の構造を読み解いた。
単語、語順、音律。
彼女ともっと会話をするために。
記憶の中の志帆ではなく、いま、目の前にいる“彼女”と話すために。
しかしその代償は、徐々に彼自身を削っていった。
彼は、日常の言葉を話さなくなった。
大学での講義中、沈黙のままスライドを指さすだけになった。
論文には、日本語ではない記号が並ぶようになった。
そして──自分の名すら、日本語でどう書くのか、忘れてしまった。
最後に残された手記には、こう記されていた。
「志帆と話すために、言葉を捨てた。
思い出も、意味も、名前も。
いまの私は、“伝える”ことなどできない。
ただ、彼女の声に応える“音”として在るだけだ。
でも──
本当に、あれが志帆だったのだろうか。
この言葉が導いたのは、彼女の形をした“何か”だったのではないか……」
手記の余白には、誰かの手でこう書き足されていた。
「発音してはならない。“意味を持たない音”は、門を開く」
「その先にいるものは、言葉では“帰せない”」
私はゆっくりと冊子を閉じ、防音の箱へと戻す。
その語の形が、どこか音符にも、蠢く虫にも見えたのは、気のせいだろうか。
……言葉とは、誰かと通じ合うためのもの。
けれどときにそれは、“違う世界”との橋にもなる。
あなたが目にした、知らない言葉──
それを“声に出す”前に、どうか考えてください。
それは本当に、誰かが伝えたいと思った言葉なのでしょうか。
それとも──“聞かせたかった”だけなのか...
窓の外、遠雷が響いた。
雷鳴のような低いうねりの中、
棚の奥から、微かに──どこか懐かしい声がした気がした。




