第七話【誰かが録った声】
午前零時のしじま堂は、雨に閉ざされていた。
屋根を叩く雨音は、やがて遠いノイズのように細く変わり、空気に沈殿していく。
私は、帳場の奥に置かれた椅子に腰を下ろした。
手元にあるのは、一冊の本──ではない。
古びた茶色の紙箱に収められた、オープンリール式の録音テープ。
そしてその横には、タイプライターで打たれた「音声反訳記録」が添えられていた。
……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある“記録”にまつわる話です。
記録されたのは、ある地方都市の、ごくありふれた住宅街に住む一家の出来事。
父親は技術職で、家の様子をテープで録音するのが趣味だった。
昭和の終わり頃の話だ。
ある日を境に、家の中で奇妙な音が聞こえるようになった。
最初は玄関の扉が、誰もいないはずの深夜に「ギィ」と軋む。
次は、階段を「コツ、コツ」と上る足音。
家族は皆、部屋の中。
鍵も、閉まっていた。
父親は録音を続けた。
音声は鮮明だった。
扉の音。足音。布団のきしむ音。
──そして、知らない「声」。
反訳記録には、家族の声と、それとは別に分類された“未知の声”が記録されていた。
それは低く、少し濁っていて、それでいてどこか家族の誰かに似ていた。
録音が進むにつれ、「その声」は家族の言葉を真似し始めた。
最初はたどたどしく。
次第に、完璧に。
ある夜の記録では、家族4人の食事風景が録音されている。
箸の音。湯のみの置かれる音。笑い声。
しかし、テープには5人分の声が入っていた。
「あれ? さっきまで、5人いたような気がするんだけどな」
「……うちは4人家族よ」
「……そっか……そっか……」
その“声”は、家族の誰かと入れ替わるように、存在を深めていった。
いつのまにか、誰もそれを不自然に思わなくなっていた。
気づけば、その“何か”は日常の一部になっていた。
反訳記録の最後のページには、こう記されていた。
「たぶん、もう間違えられてる。
私たちの中に、“その声の人間”が一人いる。
でも、それが誰だったか思い出せない」
「……そして──たぶん、その“誰か”は、もう……家族じゃなかった」
それが、最後の録音だった。
以降、その家は手放され、取り壊されたという。
しかしテープと記録は、なぜかこのしじま堂に届けられた。
私は反訳記録を閉じ、そっとテープを箱に戻す。
店の片隅で鳴っていたはずのラジオが、いつのまにか止まっていた。
……人は、音で安心します。
家族の声、テレビの音、雨の音、風の音──
耳に馴染んだそのすべてが、日常を形作っているのです。
けれど。
もしその“音”すら、誰かに真似されていたとしたら?
あなたが今、聞いている“その声”が、
本当にあなたの知っている誰かのものだと、証明できますか?
窓の外で、雨がまたひとしきり強くなった。
私は茶を啜りながら、奥の棚へと視線を向ける。
ラジオが止まったはずのその棚から、確かに──微かに、「声」がした気がした。




