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第六話【神納の森】

午前零時のしじま堂は、ひときわ深い静けさに包まれていた。

 雨が止んだばかりの路地に、湿った空気がまだ漂っている。

 戸棚のガラスが、かすかな風に鳴るたび、誰かが触れたような錯覚を覚える。


 番茶の湯気は、さっきまでよりも少し細くなっていた。

 私は帳場の奥の椅子に腰を下ろし、一冊の本を手に取る。


 和紙で包まれたそれは、表紙に文字すらない。

 ただ、紙の中から滲むように浮かび上がる何かが、指先を冷たく濡らした。


……さて。語らせてもらいましょうか。

これは、とある本にまつわる話です。

その本は、和綴じの古文書のような体裁で、外見に題名はない。

ただ、表紙の内側に墨で、こう書かれていた。


「納めるのは神か、人か」


 


山梨県の山間部──地図にすら載っていない小さな集落に、

神納かんのう神社と呼ばれる場所がある。


その神社では、秋分の夜だけに行われる“納めの神事”が存在する。

それ以外の夜、境内に入ってはならない──

それが、この集落で古くから伝えられてきた掟であった。


だが、その“理由”を知る者は少なかった。

ただ一言、年寄りたちはこう言うのだった。


「神様は、喜ぶことと、喰らうことが同じなんだよ」


 


望月蓮もちづき・れんは、十四歳の少年だった。

彼は山間の学校に通いながら、古い慣習や宗教めいた戒めに

どこか反発を感じていた。


 


その年の夏、神納神社の伝承を授業で調べた彼は、

「どうせ誰も入らないから祟りもないんだろ」と軽口を叩いた。

そして決める。「秋分前に、一度行ってみよう」と。


 


その日の夜、友人と肝試しの約束をしていたが、

直前で友人は怖気づき、蓮ひとりで神社へ向かうことになった。


 


登山道は細く、苔が滑りやすい。

朽ちかけた鳥居をくぐった瞬間、森の音がぴたりと止んだ。

風も、虫の声も──すべて、消えた。


 


社殿は、思っていたよりも小さく、そして不気味なほど静かだった。

だが、蓮の目は、その奥にある“祠”に吸い寄せられた。


 


──音もなく、社の扉が開いた。


 


中にいたのは、ヒトの形をしている“何か”だった。

手も、足も、顔もある。

けれど、そのすべてが“少しずつ違う”。


 


「よく……来たな」

それは、声を出したのではない。

蓮の脳の奥に、じかに“思考の重さ”を流し込んできた。


 


──この存在が、“神様”だ。

そう、蓮は直感した。


 


しかし同時に、恐ろしいほどの違和感があった。

この神は、ヒトの信仰で“肥えて”いる。

与えられ、祀られ、祭られ、いつのまにか“喰らうもの”へと変わった存在。


 


蓮は逃げようとした。

だが足元で何かが動く。

自分の“影”が、地面に吸い込まれていた。


 


「君のような者が来るのを、長いこと待っていたよ」

“それ”はそう言った。

「君には、祈る心がない」

「だが、信じない者の影こそ、もっとも純粋な供物なのだ」


 


蓮は叫んだ。だが声は出ない。

影がちぎれるように揺れ、そして──祠の奥へと引きずられていく。


 


 


その晩、蓮は戻ってきた。

山道をよろよろと下りてきた姿を、祖父が見つけたという。

目に生気はなく、まるで夢遊病者のようにうわごとを繰り返していた。


「神様はいた……

  ……でも……神様じゃ、なかった……」


 


後に蓮は無事に日常へ戻ったが、彼の影だけは、微かにおかしかった。

動きが少し遅れ、光の角度によっては、違う向きを向いていたという。

……この話が本当にあったことかどうか、私にもわかりません。

 けれど、しじま堂にあるこの一冊には、実際の地図と、年ごとの神事の記録、

 そして“喰われたはずの者の名前”が記されていました。


 信仰は、人が神に近づくための橋であると同時に、

 “有害な神”を育ててしまう苗床にもなりうる。


 祈りは尊い。ですが、その祈りが何を肥やすのか──

 時には、気をつけなければなりませんね。


 


戸棚のガラスが、夜風にかすかに鳴った。

静けさのなか、私は番茶をひとくち啜った。

その湯気が、祠の奥にまだ漂っている“何か”の気配に似ていた気がして──

私はそっと、本を閉じた。

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