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第五話【水底の旅人】

 午前零時のしじま堂は、まるで深海のように静まりかえっていた。

 戸棚のガラスが、わずかな夜風にかすかに鳴る。秒針の音と重なるそれが、まるで水の中で響く音のようにも聞こえる。


 帳場の奥にある、ひとつの椅子。私はそこに腰を下ろし、ゆっくりと番茶を啜った。

 湯気がゆらゆらと立ちのぼり、やがて消える。いつも通りの時間、いつも通りの空気。だが、今日開くその本の中身は──


 ……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある本にまつわる話です。


 その本には、飾り気のない黒い布表紙がかけられていた。書名はない。背表紙には薄く、“旅人の記録”という手書きのインクが掠れている。


 書かれていたのは、“異界の水の門”についてだった。

 曰く、雨が七日七晩降り続いた夜、古びた井戸の底に現れる「水の門」。

 それを覗き込んだ者だけが、静かな水に満ちた別世界──沈んだ神々の国へ足を踏み入れる。


 藍木久遠あいき・くおんという青年がいた。彼の妹が、ある年の梅雨に忽然と姿を消した。

 警察も捜査を続けたが手がかりはなく、やがて「神隠し」という言葉が噂の中でささやかれるようになる。


 それを耳にした久遠は、奇妙な話に辿りつく。

 “古い井戸をのぞくな”──山奥の集落で語り継がれる、謎の禁忌。

 その井戸は、雨の夜だけに「異なる世界への道」として開くらしい。

 彼は向かう。あの夜、妹が見たであろう風景を、自分の目で確かめるために。


 水の門は、静かに開いた。

 底なしの水の奥に引きずられるように、久遠は“向こう側”へと落ちていく──


 そこに広がっていたのは、音のない水底の街だった。

 水の中なのに、息ができる。不思議なことに、重さも、寒さも、感じなかった。

 人影があった。だが皆、どこか奇妙に歪んでいる。顔の一部がぼやけ、名を呼びかけても、反応がない。


 やがて久遠は知る。

 

 最初の違和感は、時間の感覚だった。

どれほどこの“水底の街”にいたのか、久遠にはわからなかった。

空はない。太陽も月もない。ただ揺れる水の光が、永遠のように街を照らし続けていた。時計もない。朝も夜もない。人々も誰一人、時間を口にしない。


それでも久遠は、感覚で「何かがおかしい」と気づきはじめていた。

思い出すことに、わずかな痛みを感じるのだ。


──特に、“妹”のことを思い出すとき。


肩まで伸びた黒髪と、あどけない笑顔。

最後に会ったとき、彼女はこう言ったはずだった。

「お兄ちゃん、ぜったいに戻ってきてね」


その言葉を思い出そうとした瞬間、耳の奥に鈍い痛みが走る。

──“声”が聞こえない。


名前は? 年齢は? あのときの服は? どうしてこんなに霞んでいる?

久遠は両手で頭を抱えた。脳のどこかが、じくじくと痛む。

“忘れてしまっている”という恐怖が、首筋をつたって這い上がる。


それでも、久遠は繰り返すように彼女の姿を思い出そうとした。

胸に手を当てる。ポケットの中には、小さなキーホルダー。

妹が誕生日にくれた、くまの形をした手作りのもの。

それが唯一、この街の“現実”に抗っている証のようだった。


そして、ある日ふと気づいた──自分の名前が、咄嗟に出てこなかったのだ。


「……くお……おれの、名前……」


背筋を氷の刃で裂かれたような感覚に襲われた。

“名前”を思い出そうとするたび、胸がつかえて苦しくなる。

それでも、“久遠”という名は、記憶の断片として辛うじて残っていた。


久遠は街の住人に声をかけてみた。

誰も、自分の名前を知らなかった。いや、「名前」という概念そのものが、彼らの中で曖昧になっていた。

話しかけても、彼らはぼんやりと笑うだけ。顔も、どこか滲んで見える。


ある老婆にだけ、こんな言葉を聞いた。


「ここに長くいるとねえ、だんだん“外”のことなんて、どうでもよくなってくるよ。苦しみも、愛しさも、全部……流れて消えちゃうの。水の底に」


そのとき久遠は、ようやく理解した。

この街に長くとどまれば、“現実の記憶”は静かに溶けていく。

名前を忘れ、家族を忘れ、妹の声さえも──自分が誰だったのかも、次第に消えてゆくのだ。


そうして──かつて誰かだった“影”になる。



 久遠は必死に記憶を辿る。妹の名だけは、どうしても忘れてはならなかった。

 彼女の姿を、夢に出てきた声を、何度も思い返しながら、沈んだ「水の門」の奥へと進む。


 ──だが、最後の試練はそこにあった。

 最も大切な記憶──妹の名前と引き換えに、現実の世界に帰る扉が開く。


 彼は、震える手でノートに何かを書きつけ、静かにその門をくぐった。


 そして本の最後のページには、こう綴られていた。


 「目を覚ました彼は、なぜ泣いていたのかも、思い出せなかった」

 >「ただひとつ、指先が濡れていた」

 語りを終えると、店内にはまた、あの深い沈黙が戻っていた。

 番茶はすっかり冷めていた。口に含むと、わずかに苦みが広がる。


 古い柱時計が、カチ、カチ、と時を刻む。

 しじま堂の本棚では、一冊の本が微かに揺れた気がした。

 まるで、今語った“旅人”が、そっとページを閉じたかのように。


 ……記憶とは、儚いものです。

 それがもし、ひとつずつ水に沈んでいくものだとしたら──

 今このとき、あなたが覚えている“大切な誰か”も、次の雨で消えてしまうのかもしれませんね。


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