第四話 【山梨県の伝承】
午前零時のしじま堂は、今夜も深い沈黙の底に沈んでいる。
戸口に吊るした風鈴が、風もないのに鳴った気がした。
私は番茶をすすりながら、机の上に置かれた一冊の薄い和綴じ本を見下ろす。
……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある地方の山奥に伝わる影見様の話です。
その本を持ち込んだのは、二十代後半と思しき女性だった。
喪服姿のまま店に現れた彼女は、和紙に包んだそれを差し出しながら言った。
「祖母の遺品なんです。山梨の山奥に住んでいたんですけど、これだけはどうしても……処分できなくて」
包みを解くと、小ぶりな和綴じの本が現れた。題はない。
だが、表紙の端に小さく墨でこう書かれていた。
「此ノ頁、決シテ開クベカラズ」
――また開いてはならないページ、か。
女性は目を伏せて、続けた。
「一度だけ……祖母の家でそのページを開いたんです。
そしたら、その夜から、誰かが枕元に立っている夢を見るようになって。最初はぼんやりとした影だったのに……昨日、顔が見えたんです。真っ黒い、目だけがない顔」
私は無言でうなずき、本を預かった。
その本には、山深い集落で語り継がれてきた禁忌が綴られていた。
どうやら、「影見様」と呼ばれる存在に関する記録らしい。
その記述によると――
「影見様は人の世を覗きにくる。見てしまえば、向こうからも見られる。
影見様を見た者は、夢に引かれ、やがて影に染まる。
ただし、正しい頁を閉じ、塩と目を合わせれば、まだ戻ることが叶うやも知れぬ」
曖昧な文調が、却って信憑性を高めていた。
そして、本の真ん中あたり――一枚の和紙が、異様に新しかった。
その頁には、簡素な挿絵と、こう記されていた。
「これが影見様の影。
見れば気付かれ、夜の裡に迎えが来る」
その瞬間、店内の空気がふっと冷えた気がした。
その夜、しじま堂の棚が勝手に軋んだ。
振り返ると、帳場の奥――私の読み語りの椅子の前に、ぼんやりと“何か”が立っていた。
目を細めても、顔が見えない。輪郭すら曖昧だ。
ただ、見てはいけないものを、見てしまったという確信だけがあった。
私は本を開き、例の頁をそっと閉じた。
そして、店の裏に置かれた瓶から粗塩を三つまみ、入口に撒く。
ふと、ガラス戸を見ると、そこには片手分の湿った手形が残されていた。
何も言わず、その夜は明けた。
数日後、あの女性から手紙が届いた。
曰く、「あれから夢を見なくなりました」「誰かが、外に立ってるような気配もしません」
そして、こう結ばれていた。
「あの本を、閉じてくださってありがとうございました」
私は本を古布で包み、鍵のかかった戸棚へと仕舞った。
ページが開くことのないよう、頁と頁のあいだに封じ札を挟みながら。
世の中には、“見てはいけないもの”というのが、確かに存在するようです。
見た瞬間、こちらも“向こう側の視界”に入る。
ただ、それが見返しているのか、ずっとこちらを覗いていたのか――それは、誰にも分かりません。