第三話 【Don't touch the Latin page ―禁じられた頁ー】
午前零時のしじま堂は、まるで深海のように静かだ。
古い柱時計の音が、一定のリズムで空気を揺らしている。
その合間に、小さなページをめくる音が混じるとき、私は時折――誰かがまだ、この店で本を読んでいるのではないかと錯覚する。
帳場の奥の椅子に座り、冷めた番茶をすする。渋みとともに、遠い記憶が浮かび上がる。
……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある本にまつわる話です。
その本を持ち込んできたのは、しじま堂の常連客で、古書の蒐集が趣味の老人でした。
革張りの装丁に、金の箔押し。けれど、タイトルはなく、背表紙には何も記されていない。
彼は本を抱くようにして差し出し、困ったように笑いました。
「……これは、読まないほうがいいかもしれません。読んだ途端に、頭の奥で“声”がするんです」
私は静かに頷き、本を受け取りました。
ページをめくると、古びた羊皮紙のような紙に、ラテン語の祈祷文らしき文字列がびっしりと綴られていました。
手書きか、それとも極めて古い印刷か、判別がつかない。けれど確かに、言葉の並びに“祈り”の形式がありました。
ただし――それは、天に向けた祈りではない。
文中に頻出する名詞の一つが、私には読めてしまったのです。
“Tenebris”(テネブリス)――ラテン語で「闇」あるいは「闇そのもの」
「読み始めてから、変な夢ばかり見るようになってね」
老人は笑みを消して言いました。
「夢の中で、誰かが私の名前を呼ぶんですよ。丁寧な発音で。時には祈るように、時には……呪うように」
そして、彼はふと声を潜めました。
「昨夜の夢では、私がその本を書いてる夢を見ました。手が勝手に動いて、ページに何かを書き加えてるんです」
私は無言で本を閉じました。
その瞬間、何かが本の中で“うごめいた”気がしました。音も風もないのに、紙の奥に水が流れたような違和感――。
その夜、店の灯を落としたあと、不意に棚の奥から音がしました。
紙の擦れるような音。ページが、勝手にめくられる音です。
鍵をかけたはずの棚が、微かに開いていました。
近づくと、本が勝手に開かれ、あるページの余白に黒い染みが浮かび上がってきている。
それは、インクでもカビでもない。
にじむようなその影は、やがて角のある、目のない顔の輪郭を描いていきました。
私は静かにページを閉じ、古書を封じる箱へと移しました。
その箱は、しじま堂の地下、鍵付きの棚にいまも眠っています。
開けるつもりは――二度とありません。
あの老人は、数日後に失踪しました。
自宅には、あの本と似た筆致で書かれた“祈祷文”の走り書きがいくつも残されていたそうです。
そして一枚の紙だけ、こう記されていたとか。
「読むな。
祈るな。
筆を持つな。
ラテン語のページには触れるな。」
文字には力があります。祈りもまた、言葉で構成された行為です。
もし“読むこと”そのものが向こうへの扉だとしたら――
どうか、あなたが最後に声を発する側でありますように。