第二話【三つ目のしおり】
午前零時のしじま堂は、外よりも静かで、内よりも深い。
窓の向こうで、雨が石畳を叩いている音がする。
けれど、この店の中では、その音さえも遠く、まるで過去の記憶のようだ。
私は、帳場の奥で番茶を手にしていた。
少し冷めた渋みが、眠気を和らげる。
静寂の中、棚の隙間に積もる埃と、時折きしむ床板の音だけが、時を告げていた。
……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある本にまつわる話です。
あれは春の雨がまだ冷たかった日のことでした。
大学帰りの青年が、ふらりと店に入ってきたんです。肩から濡れたトートバッグを下げて。
彼は本棚をしばらく眺めた後、懐から一冊の文庫を取り出しました。
私の方へ差し出しながら、こう言ったのです。
「……すみません、この本、どうしてもしおりが取れなくて」
見れば、それはよくある推理小説の文庫本でした。ページの間から――
妙に長い赤いリボンのしおりが、舌のようにだらりと垂れ下がっていた。
しおりというには、やけに質感が重たく、まるで布というより“肉”に近いものに見えました。
私は試しに引っ張ってみましたが、ページからまったく動かない。
それどころか、ほんの一瞬、リボンがぬるりと指にまとわりついた気がしました。
「読んでると、変な夢を見るんです」
青年は呟きました。
「最初は断片的だったんです。古い図書館みたいな部屋で、誰かが本をめくってるだけ。でも――」
彼は言い淀み、喉を鳴らしました。
「……その誰かが、俺の名前を音読してるんです。ページの向こうから、確かに“読まれてる”感覚があって。俺のこと、全部読まれてる……」
夢を見るたび、リボンが少しずつ長くなっていったそうです。
最初はページの隙間に数センチだったものが、今では本から垂れ下がり、地面にまで届いている。
ある晩、彼はさらに異変を見つけました。
「増えてたんです。しおりが。二本目が……」
彼は手のひらを広げて見せました。
手には、赤いインクのような染みがうっすらとついていました。
それから彼は、読むたびに“誰かの履歴書のような文章”がページの途中に挟まれていく、と話し始めました。
記憶のない誰かの情報――身長、体重、家族構成、最後に見た夢――
そしてその文章の下には、なぜか自分の名前が書かれている。
「ついさっき、三本目が挟まってたんです。間違いなく」
青年はそう言って、本をぎゅっと胸に抱えていました。
顔は青白く、目の奥には寝ていない人特有の虚ろさが漂っていた。
私は本を預かりました。
渡された文庫本には、確かに三本のしおりが挟まっていました。
どれも同じ赤いリボン。しかし、根元の方だけが黒ずみ、布地のようなものではなく――そう、“舌”の質感に変わりつつあった。
翌朝、店の戸口にその本だけが置かれていました。
青年は戻ってこなかった。
私はページを開く勇気が出ず、そのまま本を封印することにしました。
今は、棚の奥の鍵のかかった箱の中で眠っています。
……たまに夜中、箱の中から、ページがめくられるような音がしますけどね。
しおりというのは、本のためのものだと、ずっと思っていたんです。
でも、もしかしたら――
“あちら側”が、“こちら”を読むために挟んだ目印だったのかもしれませんね。