第一話 【アカツキ文庫 “棄てられた卒業文集”】
午前零時のしじま堂は、ほとんど息をしていない。
戸棚のガラスが、夜風に微かに鳴る。その音さえも、時計の秒針と同じくらいに静かだ。
私は、いつもの場所に座る。帳場の奥、読み語りの椅子。
湯気の消えかけた番茶を一口すすると、記憶の底から声が上がってくる。
……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある本にまつわる話です。
***
それは数年前、しじま堂の仕入れに紛れてきた一冊の古本だった。
表紙にはこう印刷されていた。
「令和元年度 第三小学校 六年一組 卒業文集」
裏には“アカツキ文庫”のスタンプが押されていた。
聞いたことのない発行元だったが、まれに小規模な学校が自費出版に使う業者名かもしれない、と私は特に気にせず棚に置いた。
数日後、一人の若い女性が来店し、その卒業文集を手に取った。
彼女はページをめくりながら、ふと眉をひそめてこう言った。
「……あれ? 同じ子が、二回、作文書いてる」
私は覗き込んでみた。そこには“森山さやか”という名前が二か所に載っていた。
最初の作文は、家族旅行の思い出。
二つ目は、誰かが真似したような拙い文章で、「おともだちになれてうれしかったです」とだけ書いてある。
奇妙なことに、その“森山さやか”の顔写真は、どちらも違っていた。
一つは屈託ない笑顔の少女。もう一つは、黒目の大きな無表情の少女。
女性は少し青ざめた顔で、文集を閉じて帰っていった。
そしてその翌日、別の客がまたその文集を手に取った。
「名前、増えてません……?」
今度は“森山さやか”が三人いた。
私は本を手に取って確かめた。確かに、似た名前の子が三回出てくる。顔も文章も違う。
そしてページの裏に、鉛筆で書かれた小さな走り書きが見つかった。
「この子は、いなかった」
私は背筋に冷たいものを感じ、本を預かることにした。
しかし、それからしばらくの間、なぜか本棚の隙間にその文集が“戻って”きていた。
誰が置いたのか、あるいは戻ったのか――
ふとした思いつきで、私は本に関する情報をネットで調べてみた。
“アカツキ文庫”という名前で検索をかけると、ひとつだけ、10年前の掲示板ログがヒットした。
【怖い話】アカツキ文庫って知ってる?
卒業文集とか詩集とかの体裁だけど、読んだ名前を忘れられなくなる
増える。あの本の中の“子どもたち”が。目を合わせるな
……名前を、忘れられなくなる。
そして増える。
あの黒目の大きな少女が、ずっと誰かに読まれるのを待っていたとでもいうのか?
私は最後にもう一度だけ、その文集を開いた。
すると一番最後のページに、一行だけ書き加えられていた。
「つぎは あなたの なまえを かいていい?」
私はその本を、燃やした。
しっかりと、誰にも読まれぬように。ページが灰になるまで見届けた。
それでも……いまだに夜の棚に、誰かがそっと何かを置く気配がするときがある。
『……さて。あなたの名前は、なんとおっしゃいましたか。』
『どうかお気をつけて。夜中に古本を開くのは、あまりおすすめしませんよ…』
『ときに、“読む”のはあなたの方ではないかもしれませんから…』