第十二話【喪われた風景(ロスト・ビュー)】
午前零時のしじま堂には、濃い静けさが満ちていた。
窓の外を流れる風はひどく穏やかで、それでもどこか、異国の街角を通り抜けてきたような、薄い埃の匂いが混じっていた。
さて。語らせてもらいましょうか。
これは、とある“絵本”にまつわる話です。
その本が届いたのは、雨の夜だった。
包みは古びた茶封筒に無造作に包まれ、宛名は手書きのかすれたインク。
差出人の名は記されていなかった。
中に入っていたのは、一冊の絵本だった。
装丁は古く、革張りの表紙には、見慣れない金の箔押しの文字。
アルファベットのようで、そうではない。
かすかにギリシャ語にも似ているが、意味を成さない奇妙な記号の連なりだった。
ページをめくると、最初の見開きには、“窓からの風景”が描かれていた。
白いレースのカーテン。窓枠に触れる曇った光。
外には、しっとりと濡れた石畳の通りと、細い煙突。
どこか寒々しい色合いの、灰色の空。
次のページには、別の窓があった。
小さな食卓の隅。レトロな柄の椅子。
窓の外には木の電柱と、少し離れた線路。
その奥に、見覚えのある坂道。
──いや、見覚えがある。
この窓の外は、自分がかつて見たことのある風景だ。
藤堂は気づいた。
それは幼い頃、母方の祖父母が住んでいた長屋の二階の窓から見た景色だった。
忘れていた記憶が、ページをめくるたび、浮かび上がってくる。
修学旅行で泊まった民宿の部屋。
大学時代に一度だけ訪れた、旧友の下宿先。
その友人の名前はとうに思い出せない。
けれど──その窓からの景色だけは、なぜか絵本と寸分違わず描かれていた。
どの絵にも、人は描かれていない。
ただ、窓と、外の風景。
時間帯も、天気も、匂いまでもが、記憶の中とぴたりと一致している。
……おかしい。
どこかで「これはただの偶然だ」と思おうとする自分と、
「これは記録だ」と確信する自分が同時に頭の中にいた。
そして、最後のページを開いたとき──
藤堂は、ごく浅く息を吸った。
その見開きには、“現在”が描かれていた。
正確に言えば、今、彼がいる“しじま堂の帳場”の景色だった。
読みかけの番茶。傍らに積まれた数冊の古書。
背後に控えた読み語り椅子。
カウンターの上に置かれた封筒と、この絵本。
そして、帳場の窓──その外に、影がひとつ、立っている。
藤堂はゆっくりと顔を上げた。
窓の外には、誰もいない。
風が少し、ガラスを震わせた。
……それなのに、ふいに「目が合った」気がした。
どこかの誰かと、目が合った。
その感覚だけが、脳の奥にじんと残っていた。
視線を戻すと、絵本の中の景色が微かに滲んでいる。
その中に──藤堂自身の後ろ姿が描かれていた。
彼は何も言わずに、そっと絵本を閉じた。
だが、その瞬間。
視界が、ごくわずかに“遠ざかる”ような感覚があった。
何かが、視神経の奥を撫でる。
まるで、“今見ている視界”が、自分の目を通して見たものではないような、奇妙な違和感。
彼の中で、ふとした考えが浮かんだ。
──これは、誰かが見ている景色なのではないか。
私の過去。私の現在。
それを“誰か”が絵に描いたのではない。
絵の中の視点が、私の目を使って、世界を見ようとしているのではないか──
藤堂は絵本を机に伏せ、その上から布をかけた。
灯りをひとつ落とし、長く息を吐いた。
視界の端には、まだ、誰かのまなざしの余韻が残っていた。
……この本の作者の名は、いまだ判明していない。
けれどその視線は、今もどこかで“窓越しに世界を覗いている”かもしれない。
──そしてその視点は、今夜も、
誰かの目を通して“続きを見ている”のかもしれない。




