プロローグ『しじま堂へようこそ』
雨の降る夜だった。
夜更けの通りに、誰かの傘がアスファルトを叩く音だけが、遠くかすかに聞こえている。
その音さえも届かぬような路地の奥に、ひとつだけ、灯りをともす店があった。看板もなく、硝子戸にはくすんだ暖簾が揺れている。そこには、かろうじて読める古い筆致で――「しじま堂」と記されていた。
古書を扱う、静かな店である。
店内は、ほんのりと古紙と墨の匂いが漂っている。棚に並ぶのは、明治大正の随筆、欧州の怪奇文学、誰が書いたとも知れぬ文書……そして時おり、ただの“本”とは思えないものも、混ざっている。
帳場の奥、読書灯の下で、一人の男が本を修繕していた。
藤堂梓馬。
深緑の羽織に身を包み、眼鏡越しにページのひび割れを確かめながら、細い筆で糊を引いていく。
その指先には、何百冊と本に触れてきた者だけが持つ、慎重な感触と、どこか――祈るような気配があった。
傍らの棚の隅に、小さな額縁が置かれている。
モノクロの写真。若い女性と、笑顔の少女。
誰なのか、訊く者はいない。訊こうとする空気もない。
店にはルールがある。
どこから来たかを問わず、どこへ行くかも尋ねず、ただ本を迎え、見送り、静かに閉じる。
それだけでいい。そうでなければならない。
藤堂は、かつて一度だけ、そのルールを破ったことがある。
たった一冊の“開いてはいけない本”によって。
――何があったのか?
――何を失ったのか?
……その話を彼は、語らない。
ただ、それ以来。彼のもとには“そういう本”ばかりが集まるようになった。
誰かが捨て、誰かが隠し、誰かが忘れたはずのものたちが、風に導かれるように、しじま堂へとやってくる。
読書灯が、少しだけ強く瞬いた。
藤堂が立ち上がり、棚の奥から一冊の本を抜き取る。
表紙には何も書かれていない。ただ、乾いた血のような茶色の染みが、角に滲んでいた。
彼は椅子に戻り、本をそっと膝に置いた。
眼鏡を押し上げ、口元をわずかに緩める。
「……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある本にまつわる話です」
――静けさの中で、頁がひとつ、めくられた。