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プッシーキャットは月夜に鳴く

お越しいただきありがとうございます。

お楽しみいただければ幸いです。

「ねぇおねーさん? そんなに寂しいなら俺の飼い主にならない? 俺を家族にしてよ」


 まん丸の満月が照らす公園のベンチ。

 その背もたれ部分にネコのように器用に立ち上がって。

 こちらを覗き込むようにしてそう宣った少年の目は、なんだかとてもキラキラしていて。

 まるで人懐っこい野良ネコみたいだと思ってしまったのが……運の尽きだったんだと思う。





 その日は朝から何かとツイてなかった。

 まず寝坊した。

 目を覚ましたら、家を出なきゃ行けない時間だった。

 慌てて支度したら、ストッキングが伝線した。ビビーっと。

 諦めてフットカバーだけ履いてパンプスに足を突っ込んで歩いてたら、今度はマンホールにヒールを引っ掛けた。ガリっと。

 駅に着いたら電車が遅れていて。

 電車の中でチェックしたスマホには疎遠になってた父からの連絡が入ってて。

 会社に着いたら、遅刻して出られなかった朝イチの会議で、めんどくさい仕事を勝手に割り振られていた。残業確定。泣いた。


 ひーひー言いながら残業して終わらせて、会社を出たところでスマホを見れば。

 付き合ってた男から別れを告げるメッセージが入っていた。

 たった一行だけの『別れよう』の言葉の薄っぺらさに、男と付き合ってた半年余りの関係の薄さが垣間見えて……。

 もう涙も出ない。


「……やっぱり縁切り神社に赴くべきかしら……」


 コンビニで買ったほろ酔える缶チューハイ片手に夜道を歩く。

 既に夜も更けていて、満月が頭の上に煌々と輝いていた。


「……でもなぁ。京都に行くのは遠いしなぁ。しかもあそこ、強過ぎるって噂だしなぁ」


 電車の中で調べた京都にある縁切り神社は、確実に悪縁は切れるが強力過ぎて、悪縁が切れるまでのストレスが凄いと書いてあった。


 だけど……。


 今のわたしにとっては必要なのかもしれない。


 何故なら……。


「なぁねーちゃん。一人で寂しいならオレらと遊ぼうぜぇ?」


 いかにも輩といった風情の男二人に絡まれてしまったからだ。

 悪縁ここに極めりだ。


「いえ結構です」


「それは結構なことですねってことだろぉ?」


 ぎゃはぎゃはと嗤う輩をどうにかしてくれ。

 話の通じる気配がない。


「いりません」


 きっぱり断ってみても、輩はどこ吹く風で。


「まぁ、いいからいこうぜぇ。天国つれてってやんよぉ」


 下品っ!

 肩に腕を回されそうになって避けるも、もう一人の男に腕を掴まれる。


 深夜も近いこの時間、他に人影はない。控えめに言ってピンチだ。


「はなっ!!」


 振りほどこうとしても男の力は強く、万力に挟まれたようになってる腕はビクともしない。


「離してっ!」


「いいからいいから」


「行かないってばっ!」


「……よぉねぇちゃん。静かにしねぇと優しくしてやんねぇぞ?」


 ドスの効いた声色に、無意識に身体が震える。

 だけどこのままではどんな目に合うかわかったもんじゃ……いやわかる。確実に酷い目に合う。

 だから精一杯の抵抗をするだけだ。


「離せっ!」


 バランスの悪いパンプスでなんとか踏ん張って、掴まれた腕を何とか振りほどこうともがく。


「離してってばっ!」


「うるせぇ!!」


 ひゅっと風を切る音がして、男の腕が高々と振りかぶられる。

 それが振り落とされた時の着地地点を想像して、ぎゅっと目を瞑ってしまう。


「あっ! ねえさんこんなところにいたっ! 父さんあっちで待ってるから早くいこっ!」


 全然聞き覚えの無い男の子の声が響いて、腕を取られる。


「あ! てめっ! 待てこらっ!」


 突然現れた男の子に手を引かれ、乱暴な男達の手を振り払って夜の街を猛然と駆け出す。

 満月に追い立てられるように走り続けていれば、気づけば男達の気配はなくなっていた。


 目についた公園に入って、二人荒い息を吐く。

 あぁ、社会人になってから運動らしい運動をしていなかったせいか、呼吸がなかなか落ち着かない。


 気づけば男の子はいなくなっていた。

 お礼も言えなかったと落ち着いてきた呼吸に胸を撫で下ろしていると、にゅっと視界にペットボトルが現れる。


「へ?」


 もちろんペットボトルが勝手に来るわけもなく、ペットボトルを差し出している手から辿って視線を上げていけば……。


 柔らかな金髪を月の光に遊ばせて、きゅっと目尻の上がった瞳をキラキラと輝かせた、整った顔立ちの男の子が立っていた。

 言わずもがな、先程わたしを乱暴な男達から救ってくれた救世主だ。


「どーぞ? 走って喉乾いたデショ?」


「……ありがと」


 差し出されたペットボトルを受け取ってキャップを回す。その手ごたえに未開封であった事を確認しながら、口を付ける。

 冷えた水が口内を満たして、喉を滑り落ちていく感触が心地よい。


 半分くらい一気に飲んで、ふうと息を吐く。

 そこで、ニコニコと微笑んだ男の子がこちらを見ている事に気づいて恥ずかしくなる。


「ご、ごめんなさい……。あの……助けてくれてありがとう」


「どーいたしまして」


 やっぱりニコニコしたまま男の子はわたしを見続ける。


「……あの……? なにかな?」


「ん? いやおねーさん溜まってるなぁって思って……。なんだっけ? 話聞くよ系男子? 俺、それやろうか?」


 ニコニコと微笑んだ男の子がとんでもないことをいう。

 

 けど……。


 確かにわたしは誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。

 気づけは箍が外れたように、決壊した水門のように怒涛の勢いで愚痴をこぼしていた。

 うん、多分さっき飲んでたチューハイが残ってたせいだ。間違いない。


 男の子は見ず知らずの女の話を時折相槌を打ちながら聞いてくれた。


 小学生の時に母親を亡くしたこと。

 たった一人残された家族で、愛妻を失って気落ちした父親とうまく関係を築けなかったこと。

 大学進学を機に一人暮らしを始めて、ますます父親とどう接していいかわからなくなったこと。

 それゆえか、恋人との関係も上手く築けなくて、ついさっきフラれたこと。

 その父親が近々再婚するらしいこと。

 ……一人取り残されたような気がしてしまって……どうしようもないこと。


 全部全部吐き出していた。


 だけど……。


 それですっきりさっぱりとはいかないわけで……。

 すっかり酔いの覚めた頭は、今度は羞恥で悶えるのに忙しい。


 どうする? どうすんのこれ?

 見た感じ高校生か大学生の見ず知らずの若い男の子にぶちまけるには、ずいぶんと赤裸々過ぎた。

 24にもなった女の、しょうもない愚痴を聞かせてしまって、彼も困惑していることだろう。

 チラリと視線を向ければ、こちらを見ている優しい瞳と目が合って、ますます居た堪れなくなる。


 ちゃぷりちゃぷりと水の残ったペットボトルを揺らしながら、わたしはこの場をどう切り抜けるかを考えていた。


「あ、あの……ね?」


「ん? あー。おねーさんさぁ、ネコ……好き?」


「へ?」


 思いがけない言葉に、思わずぽかんと口が開く。

 そんなわたしを後目に、男の子はぴょんと身軽にベンチに飛び乗った。


「だからさぁ、ネコ……好き?」


「嫌いじゃ……ないかな?」


 ぴょんぴょんと、それこそネコのようにベンチの上を飛び跳ねる男の子の姿を眺めながら、曖昧に頷きを返す。


「だったらさぁ」


 にんまりとチェシャ猫のように目を細める男の子。


 「ねぇおねーさん? そんなに寂しいなら俺の飼い主にならない? 俺を家族にしてよ」


 満月の魔力に勾引かされたのか、突拍子もないその言葉に……何故かわたしは頷いていた。



◇◇◇



「おねーさんおかえりー。俺お腹すいちゃったよー」


 玄関を開ければ一人暮らしのはずの部屋から何故か顔を出す一人の男の子。

 野良ネコみたいにふらりと現れては、ご飯を食べて、一緒の時間を過ごして……そしてふらりといなくなる。

 そんな関係が、既に三回ほど繰り返されていた。

 ちなみに合鍵は前回渡してあった。まだ名前も知らない彼に。

 ……自分のチョロさに自分で不安になる。


「……また来たの? 親御さんは心配しないの?」


 ふぅとため息を吐きながら、エコバッグを抱え直す。

 中に入ってる食材が、一人分には多いことを見ないふりしながら。

 

「んー? 俺のこと知りたい?」


 そう言ってチシャ猫みたいにニヤニヤ笑う額にデコピンを一つ。

 イテッとかなんとか言いながら、踊るような足取りでわたしの後を着いてくる。


 買ってきた物をエコバッグから取り出していると、スマホがメッセージの受信を告げた。


『再婚相手との食事会に参加してほしい』


 絵文字も何もない素っ気ない文字が、素っ気ない内容を告げる。


「……返信、しないの?」


 スマホを握りしめたまま動かないわたしに、彼がおもむろに声をかけた。


「……どうしようかなって……。いまさら家族が増えるって言われてもねぇ……。勝手にしてって感じ」


 本音なのか何なのか自分でもよく分からない感情を持て余しながらそう答えると、彼の手がわたしのスマホに伸びた。


「っ?! ちょっとっ!」


 トタタタッとリズミカルに彼の男の子らしい指が動き、あっという間に文字の羅列を作って送ってしまう。


『了解したよっ☆ 日時と場所を教えてねっ☆』


「……何するのよ」


 既に送信済みとなってしまった画面を見て、じっとりと男の子を睨む。

 ていうか、語尾に星のマークとか、わたしのキャラじゃないんだけど?

 

「……おねーさん素直じゃないから。さみしい時はさみしいって鳴かないと……ね?」


 俺みたいにさ。

 そう言ってにゃーんとネコの泣き真似をする彼に……毒気を抜かれたのか、怒っていた気持ちはどこかへ行ってしまった。

 その瞬間、ぶるりとスマホがメッセージの受信を告げる。


 画面を覗き込めば、どこか明るい雰囲気を感じ取れる父親からのメッセージのサジェストが表示されていた。


「……日時も場所ももう決まってるんじゃない」


 メッセージアプリを開けば、父親からのメッセージの詳細が表示される。

 そこには一ヶ月ほど先の日付と時間、ちょっと洒落たレストランの名前とURLが表示されていた。


「ふふっ! 楽しみだね~。おねーさん」


 どこか歌うようにそう告げる彼には内緒だ。


 でも、君は一緒に来てくれないんでしょ?


 なんて考えたことは。考えてしまったことは。





「俺はね、おねーさんと逆で、物心ついた時には父親がいなかったんだよねー」


 そんなことを言い出したのは、もはや彼の訪問回数を数えることがなくなったある日のことだった。

 ベッドに腰を下ろしたわたしの膝に、何故か寝転がった彼の頭が乗っていて。

 そんな近いような遠いような体勢で、古い映画を見ていた時だった。


 今の二人の関係を表す言葉は何だろう……。


 膝の上に温かな重みを感じながら、そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えていたタイミングだった。

 だから、反応が少しだけ遅れてしまった。


「……そうなんだ」


 わたしの安易な相槌に、彼がこくりと頷く。

 その拍子に、わたしの剥き出しの膝を柔らかな金髪が擽っていった。


「そうなんだよー。まぁ、別にね。母さんは看護師しててバリバリ働いてくれたから、経済的にどうこうって言うのはなかったんだけどさぁ。

 でも夜勤とか続くと……さ」


 彼が言葉を濁した続きを、敢えて聞くことはしない。

 たぶん彼が(いだ)いた感情は、亡くなった母を思い出さない為にか、仕事に没頭して深夜になっても帰ってこなかった父を待つわたしが抱えていた感情と同じだろうから。

 誰もいない部屋で、ソファに膝を抱えて座って、ぼんやりと流れるテレビを見続けるそんな時間。

 それはどこまでも、空っぽで虚しくて……孤独だ。


「……ふふっ。アタマ撫でられるの……きもちーねぇ」


 彼の声にはっとする。

 どうやら無意識に彼の頭を撫でていたらしい。

 色を抜いている為か、少しだけパサついた髪を梳り、まぁるい頭部のカタチを確かめるように撫でる。


「ねぇ、もっと撫でて……」


 甘えるように鳴かれて、抗えるはずもなく。

 既に興味を一片も抱けない映画を眺めながら、静かに彼の頭を撫で続けた。



◇◇◇



 このままではまずいな? と唐突に思ったのは、父の再婚相手との会食が三日後に迫った平日だった。

 仕事終わりのスーパーで、やっぱり一人分には多い食材を籠に放り込んでた時だ。

 ちなみにだが、彼はやたらと料理が上手い。最初の何回かはわたしが作っていた食事も、ある日あっさり主導権を奪われた。

 手際の良さも、味の良さも、食事ができると同時に調理器具やキッチンが片付いているという魔法のような所業も。

 何もかも彼の方が上手だった。

 どうも仕事が忙しい母親に変わって、家事を一手に引き受けていたかららしい。

 仕事が忙しいを言い訳にして、若干女性にあるまじき汚部屋寄りになっていた我が家も、彼が何くれと世話を焼いてくれた結果ずいぶんと居心地が良くなった。

 

 ……いや、これは言い訳だ。

 居心地がいいのは……部屋が綺麗なだけじゃ……ない。

 美味しいご飯が用意されているからだけじゃない。


 玄関を開けたら温かな人の気配があって。

 自分以外の人の顔を見ながら食べるご飯の美味しさに気づいてしまって。

 並んで映画を見ている時に不意に触れた肩から伝わる熱とか。

 すれ違った時に感じる家のものじゃない柔軟剤の香りとか。

 膝枕をしている時、膝にかかる呼気の柔らかさとか。

 ふとした瞬間に触れる自分以外のぬくもりに縋ってしまいそうで……。


 そこに気づいてしまえば、もうダメだった。


 だって……。


 わたしは 彼に 惹かれている。


 それを認めてしまえば……。


 もうダメだった。





「……もう……この部屋に来ないで欲しいの」


 かたりと箸をおいて、向かいに座る彼にそう告げる。

 とっくに食べ終わって、何が楽しいのかわたしがご飯を食べるのをニコニコ眺めていた彼にそう告げるのは……正直苦しかった。


 だけど……。


 このままでは縋ってしまうから。

 彼にずっとそばに欲しいと願ってしまうから。


 正確には分からないけど、明らかに年下の男の子に寄りかかってしまうから……。


 そんな自分を……認める訳にはいかなかった。


 だから……。


 嫌だ嫌だと子供のように泣き叫ぶ自分の心を無視して、押さえつけて、見ないふりをして。

 何を言われたのかわからないと言わんばかりの表情(かお)をする彼に、もう一度告げる。


「もう……ここには来ないで。あと、鍵も返して欲しい」


 きっぱりと言い切って、じっと相手の目を見つめる。

 しばらくわたしの言葉を咀嚼していたらしい彼が、ネコのように大きな目を瞬かせる。


「なんで?」


「なんで……って……」


 理由は沢山あるけど、全部正直に彼に告げるには辛すぎる。


「……ほ、ほらっ! 父親も再婚するし! そろそろわたしも婚活とかしようかなと思って!

 フラれてからさ! ちょっと時間も経ったし! 次の相手とかね? 結婚相手とかね? 探そうかとね?!

 そしたらさ、ほらっ! 年下の男の子とはいえ部屋に異性がくるのってダメじゃない?」


 内心を隠すように適当な言葉を羅列する。

 妙に饒舌な自分に羞恥が募る。

 そういえばわたしフラれたんだよなぁなんて今更ながらに思い出した。


「それってさ? 俺じゃダメなの?」


 しぃんと部屋が静まり返った。

 急に誰も喋らなくなって静まり返る瞬間を、『天使が通った』と表現するのはどこの国だったか。

 そんなどうでもいい事を考えてしまうのも、彼の言葉があまりにも、そうあまりにもわたしにとって都合のいい悪魔の囁きに他ならなかったから。


「……ダメだよ」


 なんとか口角を上げて、口元を笑みのカタチに歪めてそう言い切る。

 ここで、悪魔の囁きに身を任せる訳にはいかない。

 自らの孤独を埋めるために、この若い男の子を巻き込むわけにはいかない。


「君じゃ……ダメなんだよ」


 そう告げれば、彼の顔が歪む。


「なんで?」


 なんで? なんでかって? そんなの……。


「君みたいな若い子に、恋人になって! 結婚して! って言える訳ないじゃない……。

 だいたい君まだ高校生とかじゃない?

 わたし、色々ダメな人間だって自覚はあるけど……さすがに犯罪はしないよ」


 わたしの言葉にますます彼の顔が歪んでいく。


「おねーさんは……俺を捨てるの?」


 ……違うよ。捨てられるのは……置いていかれるのは……わたしだよ。

 いつだって、置いていかれるのは……わたし。

 母は言わずもがな。

 父だって新しい相手を見つけて、幸せに向かって先に進もうとしている。

 わたしだけ……動けない。どこにも行けない。


「……()()()


 幼き日、誰もいない部屋で、ソファに膝を抱えて座って、ぼんやりと流れるテレビを見続けていたわたしは……あの日から一歩も動けない。

 ツンと痛む鼻を、熱くなる目頭をなんとか押しとどめて、もう一度告げる。

 

「……()()()。そしてもう二度と来ないで」


 きっぱりとそう告げれば、彼が立ち上がる。

 するりとわたしの横を抜けて、玄関へと向かう。向かってしまう。

 そのパンツの裾を握り締めて、行かないでと縋ってしまいそうな衝動をなんとか抑え込む。


「……()()()。おねーさん」


 パタリと玄関の扉が閉じる音がして。

 涙腺が決壊する。


「……『また』なんて……ないんだよ」


 さようなら。ひと時だけ家族だった……名前も知らない野良ネコさん。

 

 流れる涙をそのままに窓を見れば、カーテンの隙間からほんの少しだけまん丸に足りない月が覗いていた。


 

◇◇◇ 

 


「初めまして。美尋(みひろ)さん。香月(こうづき)真彩(まや)と申します。

 ……あの……よろしくお願いしますね。

 ……えっと……こちらが私の息子の……」


 わたしが無反応のせいか、どことなく気まずげにこちらを窺う義母になる人の様子に、申し訳なくなる。

 だけどちょっと待って欲しい。今は自分の感情を制御するのに精一杯だ。


 彼を部屋から追い出したあの日から三日経って。

 今日は父の再婚相手との初対面の日だ。


 だけど……。

 でも……。


 今のわたしは思考停止中だ。


 だって……。


「香月(かえで)です。よろしくお願いします」


 そう言って。

 ちょっと長めに整えられた黒髪と、洒落た黒縁のメガネをかけて、義母の隣で別人のような顔をして笑う男の子の顔をまじまじと見てしまう。

 メガネのレンズの向こうに見える目は、ネコみたいに相変わらずキラキラしてた。


「楓くんは今年から大学生なんだ。だから美尋とは……六歳差か?

 一応美尋の方が姉という事にはなるが、この子はしっかり者に見えてどこか抜けていてな」


 頭を掻きながら、どこか照れたようにそう告げるのはわたしの父だ。

 ていうかお父さん、突然の事態に呆然としている娘に追い打ちをかけるのやめてください。

 あとお相手の方に年頃の息子さんがいるなんて聞いてません。


 詳細を聞こうとしなかった自分を棚に上げて、心の中で父親の襟首をつかんで思いっきり揺さぶる妄想を走らせる。


「楓くんは、看護師をしていて忙しい真彩さんに変わって家のことをよくやってくれたそうだよ。料理も得意なんだそうだ。

 楓くんのようなしっかりした弟ができて美尋も安心だな」


 ははっと笑う父親を思わず睨みつけそうになる。

 それは未だに掃除が下手で、雑な料理しかできない娘を揶揄しているのでしょうか?

 そもそも六つも年上で既に家を出ている姉と、今年大学生の弟がそんな深く交流を持つわけないじゃないですか……ねぇ?


 そうですよねぇ?

 義理のお母様のお隣でニコニコと好青年の笑みを浮かべている『楓くん』とやら?

 あのチェシャ猫のような笑い方はどこにいったのですかねぇ?


「いいえ、お義父さん。美尋さんは姉にはなりません」


「……え?」


「ちょっと楓?! アンタ何言いだすの?!」


 脳内で彼の襟首をつかんで揺さぶっていたことに気づかれたのか、とんでもない発言が耳に届いた。

 なんだそれ? 再婚には反対ですって意味? それともずぼらで未成年を部屋に連れ込む犯罪者(義理の姉)はいらないってことですかねぇ?

 

 良かれと思った発言を断られ、ショックを受けた顔をする父。

 突然の息子の暴言に動揺も顕わなもうすぐ義理の母。


 そして……。


「ねぇ美尋さん? ()のお嫁さんにならない? 僕をあなたの夫にしてよ」


 そうチェシャ猫のように目を細めて宣った彼は、あの日満月の光に照らされてた時と同じ表情(かお)をしていた。


 だからわたしは……とりあえず()の柔らそうなほっぺをむにーっと引っ張ることにした。




 

「ひどいなぁ。美尋さん。あそこは感動の再会ってことで、僕の胸に飛び込んできてもいい場面じゃなかったかなぁ?」


 始まりこそ不穏だったが、わたしと楓が以前から顔見知りだったということを詳細を省いて告げれば、食事会は穏やかなものとなった。

 ……若干一名、頬の赤い人はいたけれど、それは当然の制裁だ。


 何をどう勘違いしたのか、後は若い二人で……とかなんとか宣う父と義母に微笑ましく見送られながら、楓の手を引いてたどり着いたのは、いつかの公園に似た雰囲気の公園だった。


 二人並んでベンチに座れば、開口一番楓がそう宣う。


「ふざけんな。なぁにが『夫にしてよ』よっ! 大人を揶揄うんじゃありませんっ!」


 デコピンをお見舞いしようと伸ばした手が、楓に掴まれる。

 するすると親指の付け根を撫でられて、気づけはわたしの小さな手と楓の大きな手が絡み合うようにつながれていた。


「ちょっと?」


「……あの言葉に嘘はないよ。僕は美尋さんの家族に、夫になる」


 繋がれた手をそのままに、楓の口元に運ばれる。

 指先に僅かに触れる吐息が、やたらとアツく感じて、背筋がぞわぞわする。

 だけどそれは不快から来るものじゃなくて……。


「っ! だけどっ!」


「僕、五月生まれなんだよね。だから美尋さんと会った時には既に成人済み」


 だから何の問題もないね? 良かったね? 犯罪者じゃないよ?


 黒縁メガネの向こうで、相変わらずにんまりとチェシャ猫のように笑う楓に呆れてしまう。


「問題大ありでしょう」


 そもそも貴方これから大学生でしょう?

 四月になれば新しい出会いがあって、きっそそこには楓と年の近い綺麗な子や可愛い子がいるんだから。


 今この瞬間、己の心の思うままに楓のプロポーズに頷いて。

 もしその後、楓にいい出会いがあって、義理の姉弟に戻りましょう? なんて言われたってそんな簡単にできる訳ないじゃない。そこまで捌けた人間じゃない自覚はある。

 だいたいそんな人間だったら、ここまで父親との関係も拗れていない。


 三日前からずいぶんと緩くなった涙腺が仕事をしようと張り切り出す。


「……美尋さんはそういうとこ慎重なのに、変なとこザルだよね」


 唐突な話題の変化についていけない。けど、悪口を言われたことだけはわかる。出かかってた涙も引っ込んだ。


「ちょっと……どういう意味?」


 思わず楓をじとりと睨んでしまう。


「だってさぁ。僕と結婚するのは躊躇してるのにさぁ。()には安直に合い鍵渡したりするしさぁ」


 やれやれと言った表情の楓に言い返そうとして……言葉に詰まって、俯いてしまう。


「どうせ、僕との結婚を躊躇してるのだって、僕の方が年下だとか、大学生になって若い女の子に囲まれたら捨てられるとか思ってるからでしょー?」


「うぐぅ……」


 思ってたことを見透かされて二の句が吐けない。


「……それってさ? 僕の本気を、僕の気持ちを信じてないってことだよね?」


「……それは……っ!?」


 悲し気な口調でそう言われて、思わず俯いていた顔を上げる。

 

 そこには……。

 

 いつもの飄々とした、悪戯好きのネコみたいな表情(かお)はなりを潜め、心底辛そうにこちらを見やる楓がいた。


「……それは……そんなことは……」

 

「美尋さんの態度はそういうことだよ。まぁ、そこはおいおい……ね?」


 僕の本気、受け取ってね?


 そう言って指先に落とされた口づけは、触れた先から熱が広がって全身を熱くする。


「な……っ! なっ……!?」


「そういう訳で、明日からも美尋さんちいくから」


 とニヤニヤと嘯く楓に、やっぱり逆らう気にはなれなくて。


「……どうやってウチに来るのよ……」


 合い鍵は返してもらったはずだと、最後の抵抗を試みる。

 すると、若干、いやかなり残念な子を見る目で見られた。


「……ホント、美尋さん、危機管理薄いよね? ()が本当に合い鍵返したって思ってる?」


「……え?」


 ……あの日、彼にもう来ないでって告げて、合い鍵を返してって告げて……。

 それから……?

 合い鍵、返してもらったよね? ……返してもらった合い鍵、どこにしまったっけ?


「……え? あれ?」


 見当たらない合い鍵の行方をなんとか思い出そうと頑張っていると、目の前にチャラと音を立てて現れたのは……。


「ウチの鍵?!」


「……せいかーい」

 

 ちゃんと確かめなよ?


 そう言ってにんまりと笑う楓は、やっぱりチェシャ猫のようだった。


「だぁめ」


 取り返そうと手を伸ばしても、あっという間に鍵はこれは僕のと宣う楓の大きな掌の中に消えていった。


「っ! だいたいっ! いつから知ってたのよ?! それに夫にしてって言うけど、わたしのこと……っ!?」


 好きなの? なんてとても聞けなかった。

 彼に惹かれていたわたしにとって、同情とかでそんなことを言われてたらたまったもんじゃない。

 我ながら大人げない、拗らせてるとは思うけど、譲れない部分だ。


 わたしの真剣さを感じ取ったのか、ちょっと思案していた楓が真剣な表情になった。


「……正直……最初は好奇心というか……。実の娘と上手くいってない男と再婚する母親が心配だった……のかな」


 楓の言葉にきゅっと口元を引き結ぶ。

 まぁ、相手からすればそうだろう。家庭に問題を抱えている人と新しく家庭を築いていくっていうのは、相当な覚悟のいることだ。


「で、まぁ。美尋さんを見にいって。変な男に絡まれてるあなたを助けて……。

 ちょっと話してみれば、直ぐにふところに入れてくれて……」


 正直チョロいなって思った。って、そこは言わなくていいから。


「でも、本当は寂しがり屋なのに、精一杯突っ張って、それでも誰かに甘えたくて、でも甘え下手で……。

 そんな不器用な美尋さんを……僕が甘やかして、依存させて、僕以外見えないようにして……」


「て、怖い怖い……」


 最終的に、僕が就職して稼げるようになったら監禁するのもありだなって思ってた。


 そう告げられて素直に喜ぶ女性が果たしているのだろうか?


 ……ちょっとだけ、ほんのちょぉっとだけ、それいいなぁって思っちゃったのは絶対に言えない。


 けど、さっきまでの真剣な表情とは打って変わって、にんまりとわたしを見る楓には……バレてるのかもしれない。


「だから……ね?」


 僕の本気、受け取って?


 そう告げられてしまえば、わたしは呆気なく陥落するしかなかったのだ。


 

 

 

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改めて、最後までお読みいただきありがとうございました!

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