第2章2話 幼馴染2
町田までは電車を利用するとそれなりに時間がかかる。だが、今日は真姫の家の車を出してもらったおかげで、たった三十分ほどで公園に到着した。
車のドアが開き、俺が降り立つと、程よく暖かい空気が肌に心地いい。真姫は車から降りるなり、少し髪を整えながらキョロキョロとあたりを見回している。彼女の華やかな服装が街中よりも地味な公園の風景に際立って見えた。後部座席には、パッドの画面に映るエリーが置かれていたが、車内ではあまりしゃべらなかった。どうやらAIとはいえ、乗り物の振動が苦手なのかもしれない――と考えてから、いやそんなわけないだろ、と自分で苦笑する。
公園自体はごく普通の規模で、鉄棒、砂場、ジャングルジムが並んでいる。広すぎず狭すぎず、人影もまばらで、ちょうど子ども同士がのびのび遊ぶには悪くない場所だ。視線を巡らせると、すぐに目当ての人影を見つけた。
砂場の端に座り込んでいるのは、ぼさぼさの長い髪をした少女だ。服は安物のTシャツに短パンで、やせ細った手足が痛々しいほど目につく。彼女こそ、俺の幼馴染――湾子。年は1つ下のはずだが、その痩せた身体のせいか実年齢よりも幼く見える。
湾子がこちらに気づいた瞬間、ぱっと表情が明るくなり、嬉しそうな声を上げながら駆け寄ってきた。まるで愛犬が飼い主に飛びつくような勢いでタックルされ、俺は思わず倒れ込む。
「優くーん!」
「うおっ!」
湾子は全く遠慮せずに抱きついてきて、くしゃくしゃの髪を俺の服にこすりつけている。かすかに砂や土のにおいが混じっていて、そこにはどこか懐かしい感触があった。
「優くん、ああ優くんだ!」
そう言って頬をすりすりしてくる湾子を、俺はなんとか引きはがそうとしながら笑った。
「落ち着け、湾子。ステイ、ステイ!」
昔、飼い犬に教えた指示のように言ってしまい、湾子をまるで犬扱いしている自覚はある。だが興奮しきった彼女を静止するには、これが手っ取り早かった。
「ステイって、なに? おいしいの?」
「いや、食べ物じゃないって……ははは……」
困ったように笑う俺の背後で、少し離れて見ていた真姫が眉をひそめているのが視界の端に映った。優雅に結い上げられた髪と高級そうなワンピースが汚れることを嫌がっているようにも見える。それでも真姫は意を決したかのように一歩前へ出た。
「湾子さん、はじめまして。優様の婚約者の二条真姫と申します。よろしくお願いします」
真姫がお嬢様らしい丁寧な口調で名乗ると、湾子はきょとんとした。
「こんやくしゃ……ってなに?」
その無邪気な表情からして、どうもコンニャクと混同しているらしい。俺は心の中で苦笑いする。
「将来、結婚するということですよ」
真姫の目は笑っていない。言葉だけは丁寧だが、婚約者という立場を強調してくるあたり、少なからず牽制の意味があるのだろう。
「湾子もするー!」
日本語が通じない――というより、彼女はひたすら人懐っこいだけなのだ。真姫はあからさまに疲れたような表情を浮かべ、仕方なく車へと退却していった。ほんのわずかな接触ですら、真姫の神経をすり減らすほど湾子の距離感は近すぎる。
だけど、俺にはそれが逆に愛おしくもある。かつて一緒に遊んだ仲。だが、湾子には他に友だちがいない。彼女のその姿を見ていると、何としても救いたい、と思わずにはいられない。そこにはタイムリープした俺自身の後悔の念も強く絡んでいる。
俺は童心に返ったように湾子と山を作り、トンネルを掘って砂の城を築いたりして過ごした。
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気づけばあたりは茜色に染まり、太陽が沈む時刻になっている。夕暮れの風が少し冷たく、子ども連れの家族も帰り支度を始める時間帯だ。
「なあ、学校は楽しいか?」
山を作りながら、それとなく探りを入れる。きちんと学校に通えているのか不安だった。
「……つまんない」
湾子は砂を触る手を止め、俺をじっと見つめる。その瞳は、なぜか泣きそうに揺れている。
「新しい友達、できないのか?」
「うん……」
ぽつりと答えた湾子の声音は幼いというより、途方に暮れているように聞こえた。学校で何かあったのか? いじめられているのか? 何もわからないまま、俺の胸だけがざわついていく。
「ごめんな、変なこと聞いて。嫌な気持ちになったなら悪かった」
そう言いながら、俺は湾子の頭を撫でようと手を伸ばした。しかし、瞬間的に湾子はその手をはじき飛ばす。
「ヤッ!」
短い悲鳴のような声。撫でようとしただけなのに、彼女は恐怖に身を縮こませるかのように頭を抱える。まるで、強烈なトラウマを思い出したかのようだ。
衝撃を受けて立ち尽くす俺に、湾子の小さな背中が震えているのが見えた。 恐る恐るその背中を優しく撫でる。
「大丈夫だから……大丈夫だから、湾子」
背中へのタッチは拒絶されなかった。俺の声と手のひらを感じたのか、湾子は次第に静かになっていく。だが、その姿を見ていると、胸が痛んで仕方なかった。
そうこうしているうちに、公園の街灯が薄暗く辺りを照らし始め、夜の気配が近づいてきた。
「暗くなってきたな。そろそろ帰ろうか」
穏やかに声をかけると、湾子はこくりとうなずく。手をつないで公園を出ると、砂がついたままの指先がじゃりじゃりして、なぜか懐かしい気持ちになる。かつては俺たち家族も住んでいたという四階建ての団地が近づき、その一階が湾子の家だ。
扉の前まで来ると、中から険悪な声が聞こえてくる。
「酒持って来いってんだよ、おい!」
「もうないって言ってるじゃないの!」
激しく怒鳴り合う男女の声。何かが倒れるような音も響き、思わず繋いでいた湾子の手を見ると、ぶるぶる震えているのがわかった。彼女の顔色は青ざめていて、今にも泣き出しそうだ。
「なあ、帰るのはもう少し後にしないか? これじゃ……」
俺としては、この修羅場に湾子を放り込むのが忍びなかった。下手したら、とばっちりを受けるかもしれない。
しかし、湾子は弱々しく首を振って俯く。
「……遅くなると、怒られるから。また遊んでね、優くん」
そう言うと、彼女は手を離し、ドアをそっと開けて中へ消えてしまった。荒れ狂う怒声と酒の匂いが一瞬漏れ出した気がして、心臓が嫌な形で跳ねる。
俺はぼう然と扉を見つめた。すぐにでも追いかけて行きたい衝動に駆られ、ノブへ手をかける。だが、背後から声がした。
「優様、待ってください!」
「落ち着きなさい!」
誰かに抱きしめられるようにして止められ、振り返ると、それは真姫だった。少し遅れて、パッドを抱えた二条家の運転手もやってくる。どうやらエリーが画面越しに大声で呼びかけたのはこの男性を通じてらしい。
「……真姫」
俺はうわ言のようにつぶやく。衝動的に行動しても、湾子の家の中に飛び込んでも、果たして何ができるのか……。思考がまとまらないうちに、真姫の意思に押されて車へと向かわされる。彼女自身も顔色が悪く、嫌な思いをしたのだろうが、それでも俺を落ち着かせようとしているのが伝わってくる。
結局、真姫に促されるまま、俺は二条の車に乗って、そのまま家に帰ることになった――しかし、あの扉の向こうの湾子の姿が、頭から離れない。あの小さな震えと泣きそうな瞳が、まるで「助けて」と叫んでいるように感じられた。
それでも、どうすることもできなかった自分が、ひどく悔しかった。
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帰宅後、汚れた服のままは嫌だという真姫の希望もあり、俺は風呂に入るように促された。小学生同士といっても、男女は一緒に入れるわけない。結局俺が先に風呂に入り、その後で真姫が姉の浴衣を借りることになった。
お湯につかりながら、さっきの光景が頭を離れない。夫婦喧嘩に怯える湾子の姿、それでも帰るしかない彼女の姿。もし俺がドアを開けて入ったところで、状況を好転させられただろうか。
「……無理だよな……俺はまだ子どもの身体だし」
タイムリープしているとはいえ、浅はかな衝動で動いてはいけないと痛感する。前の世界でも俺は結局、助けられなかった。くやしさと後悔が入り混じって、胸が苦しくなる。
風呂を出て居間を通ると、パッドに映るエリーがいた。彼女は姉の人格を再現したAIのはずなのに、本物の姉のように腕を組んで待ちかまえている。
「優君には言いたいことが山ほどあるわ」
「私も、です」
すぐ横で真姫が浴衣姿のまま頬をふくらませている。どうやら俺が衝動的に扉を開けかけたことについて、二人そろって説教をするつもりらしい。
「優君、湾子の家に行って何をするつもりだったの?」
「……夫婦喧嘩の仲裁をしようかと」
「10歳のあなたが? 大人のけんかを? 無謀なことはやめなさい」
エリーが呆れたように言い放つと、真姫も負けじと口を開く。
「優様はああいう子の方がお好みなのですか?」
「いや、そういうわけじゃなくて。あれは……ただの幼馴染同士のスキンシップだよ」
真姫はじとっと俺を睨む。
「本当に浮気じゃないのですね? やはり好きなのでは?」
「妹みたいなものだってば」
そう必死で弁解しながらも、真姫の嫉妬深さに思い当たるところはある。そもそも婚約者という関係自体、俺の都合とはあまり関係なく決まってしまった面もあるが、彼女は本気で俺を意識しているようなのだ。
そんなこんなで二時間ほど、二人から延々と責められ続けた。
その後、ようやく説教が一段落し、建設的な作戦会議に移った。
「湾子は恐らく両親から虐待を受けているわ」
エリーがそう切り出すと、俺と真姫は無言でうなずく。嫌な予感はとうにしていたが、実際に指摘されると気分が沈む。
「学校でもイジメに遭っているでしょうね。今日の様子を見ても、その可能性は高いと思うわ」
真姫は苦い表情で視線を落とす。お嬢様育ちの彼女にも、イジメに対する思いがあるのだろうか。
「良かったことは、まだ手遅れではないということぐらいね」
俺は口を挟もうとしたが、真姫にはまだピンとこないらしく、疑問が残る顔をしていた。
「それで、優君はどうするつもりなの?」
エリーが促すようにパッドの画面越しに問いかける。その表情は淡々としているが、人工の瞳の奥には心配がにじんでいる気がする。
「とりあえず、湾子と一緒に遊ぶ機会をできる限り増やすよ。彼女の心の支えになることしか、今の俺には……」
「精神的ケア、というわけね。本質的な解決にはならないかもしれないけど、最悪の事態を回避する糸口になるかもしれない」
言葉どおり、ベストではなくともベターを取りにいくしかない。子どもの俺がすぐに大人同士の問題を解決するなんて無理な話なのだから。
「エリー様、PTAや児童相談所などに相談するのは?」
真姫が恐る恐る口を開く。
「正論だけど、証拠が無ければどこも動いてはくれないし、ましてや子供の言う事を真に受けるほどヒマでもないでしょうね」
「そう、ですか……」
真姫はショックを受けたようにうつむく。世の中が正論だけで動くなら、誰も苦しまない。それは俺もよくわかっている。
「真姫、二条家の力を使って湾子の周辺をもう少し調べてくれる?」
エリーの頼みに、真姫ははっと顔を上げる。
「はい。お父様や家の者にも協力をあおげば、きっと詳細がわかるはずです」
俺は二条家の力をまだ実感していないが、少なくとも彼女の熱意は頼もしいと思う。
「優君は引き続き、湾子の心のケアをよろしく。焦らずにね」
「わかった」
こうして、当面の方針はまとまった。だが、実際に行動を起こせば壁にぶつかるのは目に見えている。すでに気が重い話ばかりだが、ここで踏みとどまるわけにはいかない。
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その夜、真姫は浴衣のまま、俺の部屋に泊まることになった。姉の部屋に空きがあるはずだが、真姫は「もう少し優様とお話していたいのです」と言って譲らない。結局、小学生同士ということもあり、同じ布団で寝る形になった。
もちろん、何かやましいことが起きるわけではない。本当に一緒に横になるだけだ。だが、真姫が柔らかな髪をほどき、少し顔を赤らめながら俺の隣に寝る姿は、いつもと違って見える。
「ねえ、優様」
「ん?」
「私のこと、少しは好きになってくれましたか?」
急にそんな質問をされ、心臓が跳ねる。もちろん嫌いではないが、俺には愛の事がある。真姫を本気で好きになってはいけない、という意識がどこかにあるのだ。
「俺は、普通に君のことが好きだと思うけど……」
曖昧に答えると、真姫は納得いかないように首を振る。
「私の好きと優様の好きは違うと思います。……わかっているんです。優様は私を、婚約者として心から求めてはいませんよね」
ドキリとする。そんなこと、どうしてわかってしまうんだろう。
「私は、記憶を失う前の優様と今の優様、そのどちらも好きになってしまった。最初は打算だったかもしれません。でも、一緒にいるうちに可愛いところも、情けないところも、たまらなく愛しく感じるようになったんです」
「……そうか」
「会えない時間が寂しくて、会えたら嬉しい。そういう気持ちが積み重なって、どんどん相手のことを大切に思うようになる。私は、そういう恋をしてしまったんです」
俺はただ「すごいね」と相槌を打つことしかできない。もともと恋愛は得意ではないし、湾子やアロマウイルスのことを考えれば、俺にそんな余裕はない。
「……いつか必ず、私のことを好きにさせてみせますから」
真姫は意を決したようにそう言い、俺の手をぎゅっと握る。ぬくもりが伝わってきて、逆に申し訳なさと後ろめたさが胸を締めつけた。
長い一日だった。湾子のことで頭がいっぱいなのに、真姫にこんなふうに想われる俺は幸せなのだろうか。いろんな感情がごちゃ混ぜになりながら、俺は睡魔に引きずり込まれていく。真姫の手のぬくもりを最後に感じながら、意識が遠のいた。
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それから数か月が過ぎた。俺はできるかぎり時間を作っては湾子と遊ぶようにしている。まだ彼女は生きている――つまり、自殺は回避できている。しかし、湾子の家庭問題やイジメの根深さは変わらず、根本的な解決には至っていない。
だが、一つだけ大きな進展があった。真姫が車の中からこちらを見守るだけでなく、一緒に遊びに参加するようになったのだ。最初は嫌そうにしていたが、服が汚れるのを承知で体操服に着替え、砂場に入り、鉄棒にぶら下がり、笑顔で湾子と遊ぶ姿を見せる。湾子も戸惑いつつ、だんだん真姫を受け入れていった。意外にも子どもの相手をするのが上手なのか、真姫が誘うと湾子ははしゃぎながらついて回ることが多い。
そんな穏やかな日々が続けばいい――そう願っていた矢先、真姫は深刻そうな顔で俺を呼び出した。自室に戻ると、パッドの画面には険しい表情のエリーも映っている。
「優様、落ち着いて聞いてください。湾子さんは、学校での集団イジメを受けています。そして、両親からも虐待を受けています。特に、父親からは……その……性的虐待を」
一瞬、頭を殴られたような衝撃が走る。気が遠くなりそうになるのを、歯を食いしばってこらえた。
「落ち着いてください、優様!」
真姫が強く俺の腕を掴んで制止する。その目には涙が浮かんでいた。
「私だって悔しいです」
エリーの冷静な声が続く。
「今のところは、裸にして写真を撮って、それを好事家に売ってお小遣い稼ぎをしている程度よ。まだ最悪ではないわ。でも、湾子の両親は離婚するそうよ。それで、どっちが親権をとるのかで激しく揉めているわ。そして、父親が親権を取った場合は売春させるつもりみたいね、もう少し大きくなってからだと思うけど」
「最低です!」
真姫は青ざめた顔で吐き捨てる。俺も、湾子の父親を殴りたい衝動を抑えられない。
「だから、優君は母親について行くように説得しなさい。母親も問題があるけれど、父親に比べればましよ。最悪の未来を避けるために必要な選択だと思って」
俺は唇を噛んだ。ベストな解決策ではないが、ワーストを回避できるならそれに賭けるしかないのか。
「……やるしかないよな」
「ええ。失敗したら後はないかもしれない。気を引き締めてね」
真姫の顔をうかがうと、うなだれて元気のない様子がすぐにわかった。先ほど聞いた事実があまりに重いのだろう。俺はそっと手を伸ばして、彼女の手を握る。
「真姫、つらいなら無理しないで自宅で休んでいてもいい。あとは俺がなんとかするから」
しかし、真姫は首を横に振る。きっぱりとした意志がその動作に表れていた。
「私、知りませんでした。世の中にそんな下劣でおぞましい大人がいるなんて! 私とそんなに年も変わらない子がそんなひどい目にあっているなんて! そんな事も知らないで、私は湾子さんを見て『汚い』と思ってしまって……。私は、そんな自分を許せません!」
妹を守ろうとする姉のような瞳だった。俺はその申し出を断るつもりはない。真姫の力は大きな助けになるだろうし、何より彼女にとっても大切な存在になっているのだろう。
「……わかった。一緒に頑張ろう」
そう告げると、真姫の瞳にわずかな決意の光が宿ったように見えた。エリーもパッドの画面越しに静かにうなずいている。
俺達で何とかするしかないのだ。