第2章1話 幼馴染1
夢を見ていた。砂場で遊ぶ夢。
そこには、俺のほかにもう一人いた。髪の毛がぼさぼさの女の子だ。
姉さんでも妹でもない、真姫でもない。どことなく懐かしい感じのする女の子。
その子と笑い合いながら、ただ砂をいじる。それだけの光景なのに、目が覚めそうなほど鮮明だった。
俺は一体、誰と遊んでいたんだろう。
薄闇に沈む意識の中で、その子の顔がかすむ。それを追いかけようとした瞬間、「優君、朝よ。起きなさい」という声が聞こえた。
エリーの目覚ましによって、俺は現実へと引き戻される。
この世界に来てから、もう半年は経つだろうか。最初は戸惑ってばかりだったが、今ではずいぶん慣れた。
エリーも、そして姉さんも、それぞれの形でこの生活をサポートしてくれている。とりわけエリーはあの猫型ロボットのように頼りになる。
「幼馴染を助けたい?」
「ああ」
自室でエリーに相談する。姉さんは家にいないことが多いので、実質この家で俺が最も頼りにしているのがエリーだ。
「えっと、優君の幼馴染って誰のこと?」
「湾子だ」
エリーは首をかしげながら、データを検索するように視線を下に向ける。やがて小さく「ああ」とつぶやいた。
「確か、犬コロみたいな子だったかしら。昔住んでいた団地の下の階に住んでいた」
「ああ、あいつは俺が中学1年生の時に……自殺している」
無意識に苦い思い出が脳裏に蘇る。
「……原因はイジメとか、そういうものかしら?」
「わからない。でも、助けを求められたんだ……。電話口で泣いていたのに、子供の俺にはどうにもできなかった」
エリーは気まずそうに眉を寄せ、冷静な分析を止めるかのようにして口を開いた。
「好きなの?」
「嫌いじゃない」
どうしてそんな質問になるのか、俺にはよくわからなかった。好き嫌いの次元ではない――人の命がかかっているのだ。
「言い方を変えましょうか、優君は真姫という婚約者よりも、湾子のほうを優先するのね?」
「そういう話じゃないと思うが」
いつも穏やかな笑みで俺を肯定してくれるエリーが、ここまで否定的なニュアンスを出してくるのは珍しい。
真姫との交流があるからこそ、ということなのか。彼女は独占欲が強い。それをエリーも知っているのだろう。
「……真姫を説得できたら、考えてあげるわよ」
「わかった」
エリーが言うなら、間違いはない。真姫も話せばわかってくれるはずだ――と、俺はそのとき楽観的に考えていた。
だが、真姫がどんなに独占欲の強い性格か、俺は本当の意味で理解していなかったのかもしれない。
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その日は日曜日。いつも通り真姫と出かけることになっていた。今回の予定は演劇鑑賞。正直、俺にはあまり響かなかったので、途中でうとうとしてしまった。
一方で、真姫はロミオとジュリエットの舞台にすっかり魅了されていたらしく、カーテンコールが終わってからも「素敵でした」と目を輝かせていた。
「お話は素敵ですが、やっぱり私はハッピーエンドのほうが好みです」
赤いドレスにお団子ヘアという華やかな装いで、どこかお姫様じみた風格すらある。そして、頭には銀のティアラを載せている。舞台の感想を語る真姫は、確かに美しい。
観劇のあとは喫茶店へ行く。そこで、湾子を助けたいという話を切り出すチャンスがやってきた。俺は少し緊張しながら、深呼吸をした。
「話があるんだ」
「はい、何でしょう?」
真姫はいつもと変わらず柔らかな微笑を浮かべている。だから、俺は安心して真姫に湾子の事を話した。
「湾子という方は女性なのでしょう? でしたら、それは浮気です」
単刀直入にそう言い放たれ、俺は目を丸くする。
「いや、それは違うだろ。人の命が掛かっているんだ。そういう問題じゃない」
真姫はふー、と長い息を吐く。よく見ると、彼女の手元のカップには少し強く力が入っている。
「湾子さんがイジメにあっているのかもしれない、ということですが……それは学校や家庭が解決するべき問題でしょう?」
見た目には穏やかな笑顔のまま、突き放すような正論を放つのが真姫の怖さだ。
「正論だが、自殺してしまってからでは遅いだろう?」
あの苦い後悔を、繰り返したくない。それだけは譲れない。
「なぜ、自殺をすると思い込んでいるのかはわかりません。ですが、私には『好きだから助けたい』という風にしか聞こえないのです」
「幼馴染だから、死んでほしくないんだ」
俺の声は震えていた。タイムリープのことを伝えるわけにもいかず、断片的な言葉しか出せない。もどかしさで胸が締め付けられる。
「……一つだけ確認します。私と湾子さん、どちらが大切ですか?」
真姫の瞳は真っ直ぐに俺を射抜く。少しでも迷えば、それが突き刺さってしまいそうだ。
「……真姫だよ」
時間にしてほんの数秒の沈黙だっただろうか。それでも、彼女には伝わったらしい。
「少し間があったのは気になりますが、優様を信じることにいたしましょう」
そう言うと、真姫は浅く息をついてから、どこか挑むような表情を浮かべた。
「優様がなぜこれほど必死になるのか、私にはわかりません。ですので、婚約者としてご一緒させていただきますね?」
「え?」
まるで浮気現場を押さえに行くような言い草に、俺は思わず言葉を失う。
「私が一緒だと何か問題でも?」
さっきまでの怒りや嫉妬を潜ませた笑み。独占欲の強い真姫が、俺を見張るように同行すると言い出すのは、ある意味想定内かもしれない。それでも、ここまで露骨に言われるとさすがにたじろぐ。
「……問題ないよ」
そう答えるしかなかった。彼女の独占欲に言いたいことはあるが、ここで食い下がれば余計に拗れそうだ。
しかし、そんな俺の戸惑いを余所に、真姫は優雅にカップを口に運びながら、どこか勝ち誇ったように微笑んでいた。
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自室にて。エリー、真姫、そして俺で作戦会議が始まった。
「だから、お姉ちゃんは真姫に相談するように言ったでしょ? 後でもめることはわかっていたからね」
「エリー様、さすがです」
二人のやりとりは相変わらずだ。何やら気が合っているようだが、俺の胸には焦りが募る。
「問題を整理するわね。湾子は他人に重度に依存するタイプ。依存先の優君が引っ越したこととイジメが重なって、自殺するであろう、と予測するわ」
エリーの分析はだいたい正しい。それに、湾子が空気を読めない所もイジメの対象になりやすいのだろう。
「優様に依存? それって、湾子さんは優様のことが好きってことですか?」
「そういう風にしか見えなかったわね」
真姫の不安を煽るようなエリーの言葉に、嫌な空気が漂う。話がまた変な方向へ流れそうだ。
「お姉ちゃん、ちょっと気づいちゃったんだけど……優君、引っ越したのっていつだっけ?」
「何年か前だったと思うけど」
姉さんからそう聞いている。エリーは静かながら険しい声を向ける。
「依存先の優君がいなくなったのなら、もしかしたらもう……時間はあまりないかもしれないわよ?」
胸が苦しくなる。最初の世界では、俺が中学1年の時に引っ越して、その年に湾子は自殺している。この世界では、既に引っ越してから数年が経っている。もしかしたら……もう手遅れかもしれない。
(しまった! パラレルワールドによる誤差を計算に入れてなかった!)
その時、家の電話がけたたましく鳴り響いた。携帯が普及していないこの時代、家の電話こそが大事な連絡手段だ。
「もしかしたら、湾子かもしれないわ。優君出てみなさい」
俺は急いで居間に向かい、慌てて受話器を取る。
「もしもし」
「その声、優くん? 湾子です。遊び相手がいなくて寂しいです。遊んでほしいなー」
「ああ、いいよ。ぐす……」
何十年ぶりに聞く湾子の声に涙腺が緩む。生きていてくれた――それだけで胸がいっぱいになる。
「優くん、泣いてるの? なでなでしてあげようか」
「いや、大丈夫。どこで遊ぼうか?」
「うん、近所の公園がいいな。待ってる」
それだけ言うと電話は切れた。懐かしさと後悔がせめぎ合い、息が苦しい。
「優様はなんで泣いているのでしょうか?」
「さあ、お姉ちゃんにもわからないわね」
背後で交わされる声が耳に入る。俺は慌てて目元を拭い、深呼吸をする。ここで取り乱している場合じゃない。湾子を救うために、次の一手を打たなければ。