第1章4話 不思議な日常4
徹夜明けの朝は、息をするだけでもつらい。夜を通して作業に没頭した疲労が全身にのしかかり、足元がふらつく。一瞬でも気を抜けば本当に意識を手放してしまいそうだ。
ランドセルを背負い、手には例のパッドを握ったまま、ぼんやりした視界で学校へ向かう。たったこれだけの行為が、こんなにも苦行に思えるとは。
不思議なのは、今日は姉さんも真姫も朝から姿を見せないことだ。いつもなら、姉さんは当然のように隣を歩き、真姫もどこからともなく現れてはぴたりとくっついてくるのに、こういう日に限って誰の気配もない。きっと姉さんも昨夜は徹夜だったのかもしれないし、真姫も用事があるのかもしれない。正直、ありがたいと思う半面、少し拍子抜けした気分も否めない。
徹夜の甲斐あって、あのAIはある程度自分好みにカスタマイズできた。もちろん、そのせいで本来の姉さんからかけ離れた部分もあるが、そこは割り切っている。あくまで姉さんに似せたAIなのだから、まったく同じにはならないし、むしろ面白い個性が出たとも言える。夜中のうちは「ああでもない、こうでもない」と集中して楽しんでいたが、朝が近づくにつれ頭がぼんやりしてきて、今はもう限界寸前だ。自分の席にようやくたどり着くと、猛烈な眠気が押し寄せてきた。どう考えても、授業が始まったら耐え切れないだろう。
「優様、おはようございます。顔色が優れないようですが、夜更かしでもされたのですか?」
隣から真姫の声が聞こえる。席にどさりと腰を下ろし、眠気に抗いながら顔を上げると、いつもと変わらないまっすぐな瞳がこちらを射抜いていた。ただ、その瞳の奥には小さな疑念が宿っているようにも見える。
「エリーをカスタマイズするのに、徹夜しただけだよ」
素直に答えると、真姫はまるで浮気を疑う妻のように目を細める。
「エリー……ですか。それは女性の方ですか?」
その不穏な口調に思わず苦笑してしまう。そんなわけがないが、彼女の追及ぶりが本気っぽいのが厄介だ。こういうところは、かつての愛を連想させる部分もある。いや、逆なのかもしれない。
「うーん、性別はないかな。姉さんの疑似AIだから」
説明になっているようで、まったくなっていない。案の定、真姫の頭には疑問符が浮かんでいるのがわかる。ここは実際に見せるのが早そうだ。
「やっほー、真姫。元気してる?」
パッドの画面を真姫に向けると、そこに映し出された姉さんそっくりの映像が軽快な口調で声をかける。
「絵里香様!?」
真姫の表情がこわばったまま固まる。この時代では、こんな映像と音声を自在に扱う発明そのものが相当な衝撃なのだろう。
「姉さんの疑似AIだよ」
俺なりに端的に説明するが、真姫はまだ呑み込めない様子だ。
「ギジエーアイ、というのが、よくわからないのですが…」
小学生には難しい話だろう。こちらとしても、どうかみ砕いて伝えればいいのか悩む。
「姉さんの分身みたいなものかな。発明品だよ。ほら、見た目も声もそっくりだろ?」
「絵里香様の……本当にすごいですね。まるで本物のよう」
真姫はパッドにちらちらと視線をやりながら、感嘆の息をもらす。よほど衝撃的だったのか、関心の度合いが高いのが伝わってくる。
「この子、絵里香だと本人と区別がつかなくなるから、エリーって呼んでるんだ。それを昨夜カスタマイズしてて、つい徹夜してしまった」
頬をかきながらそう言うと、真姫の瞳がさらに輝きを増す。
「これがあれば、エリー様と会話をすることができるのですか」
「そうよ、すごいでしょう?」
画面の中からエリーが返事をする。その上から目線の口調には、姉さん本人にはない雰囲気が混じっていて、ちょっと不可思議な魅力を帯びている。
「さすが絵里香様。私もエリー様といろいろお話ししたいです。優様、少し私に貸していただくことはできませんか?」
真姫が上目遣いで頼み込んでくる。普段ならもう少し粘ってもいいが、徹夜明けの身にはその余裕がない。
「俺は眠いから、しばらく真姫に預けておくよ。お休み」
それだけ告げて、机に突っ伏す。瞬く間に視界が暗くなり、限界まで高まった眠気が一気に襲ってきた。かすかに聞こえる声が遠のいていく。
「優様ともっと仲良くなるには、どうしたらいいですか」
「いい質問ね。それはね……」
二人のやり取りはもう耳に入らない。まぶたを閉じると同時に、深い眠りの底へ落ちていった。
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夢を見た。昔の夢だ。
愛がいて、加奈子がいて、三人で暮らしていた頃。愛はまるで妻のように振る舞い、加奈子は無邪気な子供のまなざしを向けてくる。血のつながりはなくとも、俺にとってはかけがえのない『家族』だった。そのぬくもりを思い出しただけで胸が苦しくなる。今はもう幻でしかないとわかっているから、なおさら切なくなった。
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目を覚ますと、すでに昼休みだった。教室のざわめきの中、真姫の小さな声が耳に届く。どうやらエリーとの会話に夢中になり、給食を取りに行くのすら面倒だったらしい。それでもテキパキと配膳を始めるあたり、真姫の真面目さを感じる。
しかし戻ってきた瞬間、彼女は開口一番とんでもないことを言い出した。
「優様、いくらでエリー様を売っていただけますか?」
まるで大人のビジネス交渉のような口調に、一瞬思考が止まる。そこまで気に入ったという証拠だろうが、提示される金額は想像以上だ。
「私のポケットマネーで出せるのは1億まで…それでは足りませんよね? お父様にお願いして5億でどうでしょう」
さらりと言う5億の響きに、上流階級の桁違いな金銭感覚を思い知らされる。そもそもマリーを売るという発想がおかしいのだが、真姫は大まじめだ。
「悪いけど、姉さんの発明の試作品で売り物じゃないんだ。勝手に売ったら姉さんに怒られるし」
冷静に断ってみても、真姫はなお納得しきれない様子だ。
「そうですか。10億まででしたら、今月中に用意できますのに。絵里香様の意向でしたら、仕方ありませんね」
どれだけ大金を積まれようと、勝手に売れるわけがない。姉さんの機嫌を損ねるわけにはいかない。真姫もしばらく考え込んだ後、思い出したように切り出してくる。
「ところで、優様と私は婚約してますよね」
「そうみたいだね」
いきなり何の話かと思うが、彼女なりの理屈があるのだろう。俺には何となく狙いが見えてきて、胸にざわつくものを感じる。二条家と姉さんの協力の証として決められた婚約者同士なので、簡単には破棄できない立場だからこそ余計に警戒する。
「夫婦というのは、喜びも悲しみも分かち合うものですよね」
「一般的には、そうだね」
真姫の瞳がきらりと光を帯びる。予想どおりの展開に、俺はすでに身構えていた。
「ということは、優様の物は私の物ですよね」
「いや、違うけど」
自然な流れでエリーの所有権を主張してくるあたり、まったく隙がない。この程度で渡す気はないが、徹夜明けの頭では対抗が難しい。
「婚約というのは結婚に準ずるもので……」
「レディーファーストという考え方がありますし……」
次々と屁理屈を並べられ、眠気が残る頭には応酬する言葉すら追いつかない。真姫の勢いに押されるばかりだ。
「私のために争わないでー」
パッドのスピーカーから淡々と棒読みの声が漏れる。こんな押し問答も、妙に懐かしさを感じてしまうのはなぜだろう。愛と『偽装夫婦』をしていた頃の光景が頭に浮かぶ。だが、それはもう二度と手の届かない遠い日の思い出だった。