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プロローグ(並行世界A→Bへ)

 

 西暦2020年9月16日(並行世界A)。


 俺の名前は佐倉優さくらゆう、40歳の普通のサラリーマンだ。そして今、俺は自宅で死にそうになっていた。



 外はまるで夕暮れのように薄暗く、息が詰まるような不安が漂っている。数週間前から猛威を振るう「アロマウイルス」の影響で、街中はどこか張り詰めた空気に包まれていた。テレビでもネットでも、朝から晩まで流れるのはパンデミック、パンデミック。それに伴う死者数の増加――そんな言葉が延々と聞こえてくる。



 仕事から家に戻ってくるまでの道のりも、以前とは違う静けさがあった。人通りはまばらで、皆マスクを手放さない。軽く会釈する程度で会話も続かない。駅前には消毒用アルコールのスタンドがずらりと並び、どこか物々しい。俺はそれを横目に、自分は感染していないと強く願いながら、足早に帰宅した。



 自宅に戻るなり、急激に体調が悪化した。頭痛がひどい。熱もあるに違いない。体が妙に重く、咳が止まらない。絶え間なく襲う痛みに、嫌な予感が胸を締め付ける。



 こんな非常時でも仕事は休みにならず、仕事に行かなければならなかった。家に早く帰りたい、感染に気をつけなければ――そう思っていた矢先に、このざまだ。自宅のベッドに横になるが楽にならない。息苦しさは増すばかりだった。



「げほっ……ゲホゲホッ!」



 咳は次第に荒くなり、胸の奥が焼けるような痛みを伴う。耳鳴りがして、視界が霞む。口の中に広がる生臭い血の味に、思わず息を呑んだ。木造の床に飛び散った赤いしずくが、じわりと広がっていく。テレビのニュースで繰り返し聞いた『アロマウイルスの重症例』が、まさか自分を襲うとは。



 アロマウイルス。最初は「新種のインフルエンザもどき」と軽く考えられていたが、すでにWHOがパンデミックを宣言している。死者数は増える一方。もし俺がその犠牲になるとしたら? 考えたくはないが、嫌でも思考がそちらに向かう。



(このまま、本当に……死ぬのか?)



 心臓がドクンと跳ねた。激痛が走り、呼吸が乱れる。頭はぐらぐらと揺れ、意識が遠のきそうだ。



(愛と加奈子は……どうなる?)



 その瞬間、強烈な不安が胸を締めつける。二条愛にじょうあいとその娘の二条加奈子にじょうかなこは、大切な『家族』だ。同居する愛が帰宅して、こんな俺を見たらどう思うか。もしうつしてしまったら……。恐怖と罪悪感が混じり合い、わずかな理性が働く。俺はポケットからスマホを引っ張り出した。しかし指が思うように動かず、まともに文字が打てない。それでも「くるな」とだけ、なんとか送信する。わずか3文字。それが精一杯だった。



「はあ、はあ……」



 視界がぐにゃりと歪む。愛と加奈子の笑顔が脳裏にちらつく。どうにかして生きたい。強くそう思うのに、もう指先の感覚が冷たく消えかけていた。



「どうか……愛、加奈子……いきて……」



 かすれた声が出て、闇に溶ける。何かが遠のいていく気がした。深く沈み込むような感覚。思考が凍りつき、遠くからサイレンの音が聞こえたような気もするが、もう何も考えられない。そして、俺は完全に意識を失った。




---





 次に目が覚めたとき、薄暗かったはずの周囲は穏やかな光に満ちていた。どこかで見たような……懐かしい天井。ぼんやりと視界をさまよわせていると、子供の頃を思い出すような、郷愁に似た感情がこみ上げてくる。



(ここは……実家? いや、両親はもう亡くなっているはず)



 最後に来たのはいつだっただろうか。両親とも亡くなって以来、実家へ足を運ぶことはなかった。ましてや、こうしてはっきり天井を見上げる日が来るなど、夢でも見ているようだ。



 ベッドから上体を起こそうとするが、隣に人の気配があることに気づいて動きを止めた。艶のある黒髪が視界をかすめる。白い浴衣のような着物をまとった12歳ほどの小柄な少女が、こちらを向いて身体を起こすところだった。色白でまるで日本人形のような美少女。しかし、こんな少女に見覚えはない。



「もう朝なの? 優君、おはよう」



 気だるげに長い髪を揺らしながら、少女は穏やかにほほ笑む。その表情にどこか気品を感じ、俺は思わず目を見張る。そして、恐る恐る口を開いた。



「……誰?」



 自分でもわかるほど、声が震えている。まるで死の淵から引き戻されたような感覚が抜けきらないせいか、目の前の光景に現実味がない。



「え? お姉ちゃんのこと、忘れちゃったの?」



 大きな瞳を丸くした少女が、じっと俺を見つめる。俺には妹しかいないはずだ。姉など存在しない。わけがわからず混乱が深まる。一瞬、母や妹の面影が彼女に重なるような気もしたが、どうにも説明がつかない。



「すまない。俺には妹しかいないはずなんだ」



 そう答えるのが、やっとだった。少女はどこか納得したように小さく頷くと、優しい声で告げる。



「なら、初めまして、になるのかしら。私は佐倉絵里香さくらえりか。あなたを愛するお姉ちゃんよ」



 にこりと笑いかけるその様子は、まるで混乱する俺を安心させようとするかのようだ。だが状況が異様すぎて、頭がついていかない。



「いくつか聞きたいことがあるのだけど……あなたのお名前は?」



「……佐倉優」



「そう、いい子ね。何歳になったのかしら」



「40歳。普通のサラリーマンだ」



「……そう。じゃあ、今年は西暦何年?」



「西暦2020年になった」



 そう答えた瞬間、彼女は一瞬だけ目を見開いたものの、すぐ表情を緩める。そして俺に向かって言う。



「ちょっと洗面所まで連れて行くわね」



 長い黒髪の少女――絵里香はそう言うと、すっと俺の身体を抱え上げた。まさかのお姫様だっこに、羞恥と恐れが頭を混乱させる。ベッドに寝ている時点では気づかなかったが、明らかに身体が軽い。



 実家の洗面台らしき場所の前で下ろされると、彼女は俺の肩をそっと支えながら言った。



「いい? 気をしっかり持ってね。これは夢でも幻でもないの。そして、まぎれもない現実。鏡を見て」



 その指示に従って鏡をのぞき込んだ瞬間、俺は息を呑んだ。そこに映っているのは小学四年生くらいの小柄な男の子――あどけない輪郭の少年が、目を見開いている。短めの髪が少し跳ねていて、背丈は絵里香よりも低い。



「……そんな馬鹿な!」



 乾いた声が口から漏れる。



「あなたは佐倉優、10歳。今は西暦1990年よ。つまり、あなたは30年前にタイムリープしてしまったのよ」



 突拍子もない言葉に頭が真っ白になる。さっきまで西暦2020年のパンデミックで死にかけていたのに、なぜか昔の実家にいて、身体は子供の姿。膝が震えそうになるのを必死で押さえる。



「あなたが動揺するのも分かるわ。でも大丈夫。お姉ちゃんがついてるから」



 絵里香の声は優しく、落ち着き払っている。だが落ち着かないのは俺の方だ。



「嘘だろー!」



 声が裏返るほど叫んでしまう。それも小学生の少年らしい高い声だと気づいて、なおさら混乱は深まっていく。先ほどの病状が嘘のように消え去り、身体は驚くほど軽い。信じられないが、どうやらこれが現実らしい。



 さらに衝撃を受けたのは、両親がまだ元気で若い姿でいることだった。記憶の通りの顔だが、妹のまいはどこにもいない。一方で絵里香という姉が当然のように家族としてそこにいる。どこまでが自分の知る過去で、どこからが違う世界なのか。



 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。ここが西暦1990年であるならば、アロマウイルスが猛威を振るう未来まで約30年あるということだ。俺はあの恐ろしいウイルスで恐らく死んだ。けれど今、こうして生きている。そして愛と加奈子は、まだ生まれてすらいないだろう。もし今から行動を起こせば、あの凶悪なパンデミックを回避できるかもしれない。



 さらに、過去に起きた身近な人々の不幸な出来事も、知っている限り防げるのではないか。自殺、病死、事故死……いろんな悲劇を黙って見過ごすわけにはいかない。



 そう、自分は生き延びたのだ。もう一度、やり直すチャンスを与えられたのかもしれない。



(愛と加奈子を、そして家族を守るために)



 何かが心の奥底から湧き上がる。真新しい小さな手が、かすかに震えるのを感じながら、俺は強く決意した。ここから先、いったい何が起こるのかはわからない。だが、あの絶望の未来を回避する術があるのなら、すべてを試してみる価値はある。



 これは、身近な人々を、そしていずれは人類すら救うことになるかもしれない――そんな俺の物語のプロローグだ。


 

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― 新着の感想 ―
[一言] この歳の主人公世代だと、茶髪は『脱色』とか言われてて、中高生のヤンキーなら兎も角、父母の歳で茶髪にしてる人は殆どいないかそのテのひとだったかの様な… まぁ中途半端に田舎だった自分の周りだけか…
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