愛しい息子 2
残酷な描写があります。
苦手な方は自衛下さい。
宜しくお願い致しますm(_ _)m
「ずっと見ていたんでしょう、女神の娘よ。
姿を現したらいかがです。
すっかり滅びてしまうまで、もう少し待ちますか?
それとも、早く滅亡させる為に最後の一人を殺しましょうか?」
美しいローゼリアの庭園は、しんとしていてとても静かだ。
これだけ沢山のローゼリアが咲き乱れ、泉は満々と清らかな水を満たし、美しい光景を呈しているにもかかわらず、ひどく不自然に感じる。
風もなく、虫も動かない。花びら一枚として揺れるものもない。泉の波紋はゼリーのように固まり、まるで、絵画の中にいるようだ。
広い庭園をぐるりと見渡してみると、泉の向こうに小さなガゼボが見えた。
泉を廻ってガゼボの側まで行くと、一人の女性が泉の畔に佇んでいた。
泉を見ていた顔を私に向け、真っ直ぐに目が合う。
その瞬間、彼女こそが女神だと分かった。
「わたしに会いたかったのでしょう?」
身体ごとこちらに向き直り、私が立っている傍まで近付いてくると、薄く微笑みながらそう言った。
「あなたが女神の娘か。いや、女神、なのですね?」
彼女が動くたびに、さらさらと流れる様に輝く、濃い金の長い髪。
まるで暖かな春の夜の満天の星を映し取った、濃く柔らかな青の瞳。
彼女の瞳は星屑だった。
「王家の色は、あなたの色だったのか……」
「あら、知っていたのではなくて?」
彼女がさっと手を横に振ると、泉に真っ黒な『何か』が映し出された。
「……まさか…、これは、スーザ、なのか……?」
その光景に戦慄した。
もはや、そこは街ではなかった。砦がなければスーザとは分からなかった。
黒い獣に埋め尽くされ、色の有るものは見当たらない。
しかし、泉に映っている光景は何も動いていなかった。跳躍した黒い獣が不自然に空中で止まっているのだ。まるで、この庭園の様に。
「……どう、なってる?」
「驚いた?
あなたはその傷を負った後、騎士団とスーザの砦に向かう途中で落馬したのよ。だから王城に運ばれた。
その傷と落馬がなければ、騎士達の休養の為にスーザに留まり、きっとあの中にいたでしょう」
「ではっ、では交代で森に向かったはずの近衛騎士、達は……」
顔から血の気が引くのがわかった。
彼女は泉の光景を見つめながら、ゆっくりと首を横に振った。
「……なぜ、この光景は止まっているのだ。泉の中に映しているからか?」
「いいえ。あなたがこの庭園に足を踏み入れた時から、世界の時を止めたの」
泉から目を離し、天気の話しでもしているかの口調でさらっと言った。
世界の時を止めた、と。
「………………は?」
私がおかしいのでは無いと思う。
なんとか理解しようと、言葉を絞り出す。
彼女は私を面白そうに見ている。
「……時、は止まるもの、なのか?」
「ふふ。勝手には止まらないわね。
わたしが止めない限り。
さあ、これで大丈夫よ」
彼女が私の顔の傷に手を翳すと、傷が無くなった。
そうか。彼女は女神だった。
『女神の娘』では、ない。
創造神である、女神だった。
「なるほど。
女神と女神の娘とは、あなた一人の事なのか」
「そうね。呼び名にあまり意味はないけれど。
あなたは『あの本』を読んで知ったのでしょう?」
「あぁ、読んだ。十才になる頃、ローゼリア公爵家の図書室の隅で見つけた。
本と言うより、走り書きの紙を纏めて綴じた、って感じだったな」
とても古くインクと紙は変色していたが、不思議と脆い感じはなくちゃんと読めた。
その何枚かしかない綴じられた紙には、驚く事ばかりが書かれていたが「そうかもしれない」と思える言葉ばかりだった。
最初この庭園に足を踏み入れた時、皮肉気に『女神の娘』へ向けて放った言葉も、この本から引用したものだった。
曰く、王家の色を持つ者が死に絶えた時、王国は滅び世界は消える、と。
今現在、王家の色を持つ者は私しか存在しない。
だが、信じていたわけではなかった。
「黒の森は人の悪意を土壌に蓄え、それを糧に成長する」
「黒い獣は悪意で出来た物、つまり黒の森の中で育った物を食べる事で、その身に人の悪意を溜め込んで巨大化し狂暴化する」
「その通りよ。でも、付け加えないと。
人の悪意、間違ってはいないわ。けれども正しくは『セルリアン王国の人間』の悪意、だわ」
絶句する。
……真実だったのか。
先程の泉の光景を思い出す。
師匠に致命傷を与え、私の顔に爪痕を残したあの黒い獣。
悪意、悪意だというのか。セルリアン人の。
あの狂暴な巨大化した獣。
首を落とさなければ絶命しない。
なんという皮肉!
人の悪意は、首を落とさなければ止まらないという事か。
納得、以外の言葉が浮かばない。それは倒せない訳だ。悪意を持たない動物にとって、そんなものが体の中に溜まっていけば、狂うのは当然だ。その体を動かすのは『動物』ではなく、動物の中に入り込んだ『悪意』が動かしていたのだ。
悪意は目に見えない。見えないが、目に見えた悪意は狂暴極まりないものであった。
突然体が巨大化し気が狂い、元凶である人間に殺される。ただ穏やかに、生きていただけだったのに。
動物達の味わった恐怖は言語に絶する。
私は昔あの本を読んで、黒の森と黒い獣は人の悪意から生まれたと知っていた。
だが、知っていただけだ。
ただ『黒い獣を屠る事』それしか頭になかった。いつも自身の身の上を『何故だ』と思い続けて来たというのに、だ。
明らかに異常な『元動物』達に対して深く考える事もなく、倒す事だけが念頭にあった。
本の内容を思い出し、真剣に考えたとしても、人の悪意をどうにかするなど、途方もない事だ。けれども……
何か出来たのではないか、何か方法があったのではないか、と考えてしまう。
だが一方では、知っていながら私は何もしなかったのだと、そう思う自分の声が聞こえてくる。
「……なんと…いう」
黒い獣が増え出したのは、いつからだったか?
父上と師匠がスーザの英雄と呼ばれるよりも、もっと前……
「確か、先王陛下の時代か……?」
ふっ、と笑った声が聞こえて、自分以外にも女神がいる事を思い出した。しばらく考え込んでいたようだ。
「気にしなくて良いわ。
でも、思った通りあなたは大丈夫ね」
彼女は少し困った風に笑って、また泉に向かって片手を振った。
泉に新しく映っていたのは、城内の光景だった。
折り重なった数える事も出来ない、死体しかないような床。エッカルドの者や騎士だけではない。あらゆる者達が死んでいる。
騎士、文官、貴族、メイド、コックまでいる。
何がどうなれば、このような殺し合いになるのか、見る限り生きている者はいないという事に言葉を失う。
「これは……私が死ななくても、この国は間違いなく滅びるだろうが、どうなのだ?」
彼女は驚いたように、私を見て「驚いた」と言った。なんだか笑ってしまう。そんな場合ではないというのに。
そして私が笑った事に、彼女はまた驚いている。
おかげで私は笑いが止まらず、まだくすくすと口から漏れてくる。
「いや、ふふ。すまない。不謹慎だったな。
もう、大丈夫だ。
それで?やはり、私が死んだ方が早いのではないか?そうすれば、同じ死ぬとしても苦しまずに死ねる者も、いるのではないか?
あの本に書いてあった事、その全てが真実であるなら、セルリアン王家の色を持っている者が皆死んだ時、この国は滅びるのだろう?」
「わたしは長い間、人間という生き物をずっと見てきたけれど計り知れないわね。いつも思ってもみない事を言い出すわ。
あなたは死ぬ事が怖くはないの?」
「死ぬ事は別に怖くないな」
呆れたような、困ったような……
仕方がない人ね、とでも言うように彼女はため息を吐いた。
「わたしは、あなたに聞きたい事があって、姿を現したの。だから、時を止めたのよ」
「聞きたい?私に?
私に答えられる事なら何でも良いが?
だが、私が答えられる事なら、あなたは何でも知っているだろうに」
少し困惑してそう返すと、彼女は「いいえ」ときっぱりと言う。
「あなたでないと、駄目なのだと思うわ」
「ますます分からない。聞きたい事とはなんだ?」
彼女はひとつ頷くと真っ直ぐ私の目を見た。
「あなたはこの国を救いたい?」
「特にこの国を救いたいとは思わない」
彼女はまた、これ以上は瞳が零れ落ちるに違いないと心配になるほど、目を見開いている。
「何をそんなに驚く事がある?」
「どうしたら驚かないでいられるの?」
彼女は目を細め「計り知れない、計り知れないわ人間は」と、ぶつぶつ言いながら、私を見ている。
私はまた面白くなってきて、笑い出してしまった。こんなに私を笑わせる事が出来たのは、今のところ彼女だけだ。
女神とは皆こんな感じなのか?
いや、女神は一人しかいない?
「笑い話ではないのに!
なぜ救いたいと思わないの?」
「すまない。そもそも、私が大事だと思う人達は皆亡くなった。例え国を救ったとしても私に生きる意味はない。
第一、どうすれば救えると言うのだ。
今、泉に映っているのは王城だが、あれは一番広い謁見の間だ。床が見えない程の死者の山、生きている者などいなかった。
スーザもそうだ。ほとんど崩れていたが、あの砦がなければ誰にもスーザとは分からない。
真っ黒だ。空以外、色はなかった。
あなたが泉に映さないだけで、他の場所も似たような事になっている筈だ。
どんな理由があれば、あのような身分も職種も性別も違う、一生会うこともないだろう人達が、なぜ謁見の間で殺し合い、そして皆が死ぬのだ。
もしも生き残り助かったとして、先程まで殺し合いをしていた者と、手を取り合って復興しようと思えるのか?有り得ない。
そんな事は地獄でしかない。
滅びた方が誰も苦しまない、私はそう思う」
「あなたは優しいのね。
謁見の間の殺し合いにも、ちゃんと理由があるわ。
あれはね、黒の森が吸収出来なかった悪意が、持ち主に戻って来たのよ。
動物が黒い獣になって狂ったように、悪意が体に入って狂ったの。可笑しいわよね、元は自分のモノだったのに。ふふ。
蛾が灯りに引き寄せられるように、悪意はより強い悪意に引き寄せられる。
その時謁見の間では、騙し討ちで王と王太子が殺されていたわ。
スーザが真っ黒だったでしょう?
動物は全て黒い獣になってしまった。にもかかわらず、悪意は溢れ続けている。
本当に、人は計り知れない。
でも、あなたは勘違いしているわ。わたしはこのまま救う、とは言ってない」
悪意が持ち主に戻った。
身から出た錆を呑んだのか。
しかし女神の言葉の意味が分からない。
このままじゃない?このまま以外?
全く分からないが、彼女は自信ありげに微笑んでいる。
なんだか嫌な予感がするのは、気のせいだろうか……。師匠が、よく似たような顔をしていた。師匠か。ただいまと、言っていなかったな……。
「大丈夫?」
「あぁ……、意味が分からないなって考えていたのだ。このままでは無いなら、一体どうすると?」
「時を戻すのよ」
しばしの間、無言が続いた。
「戻したとして何も変わらない。同じ事を繰り返す。人とはそういうものだ。
いずれまた、自分が吐き出した悪意を呑み込み、殺し合いを始めるだろう。
そもそも、だ。なぜ私だ?
私は王家の人間ではないし、私よりも父上や王太子の方が相応しいだろう!時を止められるなら、二人に聞くべきだった」
「聞いたわよ?
あなたの父親は「自分にその資格はないし、国を、この先をどうしたいのかは、息子に選ばせてあげて欲しい」そう言ったの。それに、あなたの母親に謝りに行きたいのだって」
父上……
「で、王太子?あれは駄目ね。
あなたはこの国を救いたい?って聞いても、『なぜ私が?』とか『そんな事分からない』とか。挙げ句泣き出して、とにかく話にならなかったの。
おかしいわよね?星屑を持っているのに」
今、大事な事を言わなかったか?
星屑を持っているのに?
「『星屑を持っているのに』とは、どういう意味だ?あれは、国に危機が訪れる時、王家の直系の男子に現れる『救国の力』を持っている特別な瞳。私はそう認識している。
まだ他に条件があったのか?あの本も、私の理解する事と同じ内容だった。
それに、だ。
なぜ私の瞳が、突然星屑になっている?」
「まず、王家の色は直系にしか現れない。正しいわ、今は。国が興って最初の王子王女達が生まれた。その子達にまた子が生まれた。
実は生まれた子、全員に王家の色は継がれていたの。でも、ある理由があって直系以外の色を私が消した。
色を持つには、魂に『力』がいるの。色には『力』があるから」
「色の『力』は目に見えないもの、一見そうとは分からないものが多いわ。
強い生命力、体格が良く健康、精神力が強い、成長が早かったり思考力が高かったり。
本当に色々よ。
後は、黒い獣の首を一刀両断出来るわね。
強い体、強い精神、強い意志。
この三つが揃って初めて、黒い獣に取り付いた悪意を、断ち切る事が出来るの。
言うまでもないけれど、日々の努力の上よ?
例え三つが揃っていても、剣を持った事もない者に黒い獣は倒せない」
「……それは、王太子の事か?
ただ血が有るだけでは無理だと」
よほど、うんざりしたのだな、と苦笑いする。
首を断ち切る事が出来るのは、漠然と王家の血が流れているからだと思っていた。
師匠の伯爵家には、王家の傍系の血が流れているから疑問には思わなかった。
師匠に色はなかった。魂に『力』があったという事か。
「魂に『力』がないのに色を持つと早世するわ。体と心が『力』に耐えられない。
でも、星屑は特別よ」
「色に『力』があり子に継がれるのは、あなたの血が流れているからなのだな?」
「その通りよ。例え、金の髪や色の濃い瞳に生まれたとしても、決して王家の色と同じにはならない。もちろん『力』も無いわ。
わたしが与える者にだけ、色は現れる」
それが、セルリアン王国王家の直系子孫という事か。
だったら『何故、私に色がある?』
これは私が長年疑問に思い、父上に対して間違った推測をした原因でもある。
しかも今では星屑まで付いている。
「あなたの髪と瞳には理由があるわ。けれども、まずは星屑の瞳ね」
「星屑の瞳。ふふ、なかなか素敵な呼び方よね?
瞳の中の金の欠片は、私の力の欠片よ。
血を継ぐって面白いわ。
色の『力』と違う所は、持ってるだけでは使えないって事かしら。
色は持っていれば、健康になるし長生きできる。賢いしね。あなたの記憶力も色の『力』ね。
けれども、星屑の『力』は、神が振るう『力』、たとえそれが欠片であっても。
魂の力が強くなければ、色の力に耐えられない。元々、セルリアンの王族はわたしの血の加護、血統があるから魂と色の力が強いわ。直系で色を持たない子はいない。
星屑の瞳は魂と色の力が、飛び抜けて強く出た者に現れるの。二百年に一人、二人位ね。
その星屑を持っていても無駄な場合が多い。
あの王太子もそう。黒い獣の首を落とせない理由と同じ、鈍な剣をいくら振り回しても疲れるだけ。
磨きあげ鍛えなければいけないのは、剣だけではない、人間も同じ。
だから、あの王太子は無駄。星屑を持っていても鈍になったのは、もちろん本人の性格もあるけれど、環境ね。
富と権力を持つ者は、自分や周りの才能を潰し、人間を無能にする傾向にある。
あの王太子は頭で考えられる様になる頃に、問題から逃げ他者に依存する事を覚えた。
王子としての真っ当な環境を与えられず、学ぶ事を制限され放っておかれた。
原因はともかく、自らで考える術を持たない者には、色の力さえ到底使えない。意志も心も体も、酷く弱い。
色の無い者よりも若干良く見えるのは、容姿くらいかしらね。
星屑、いえ魂と色の力を持つ者に、年齢は殆んど関係ない。
生まれて半年から一年も経てば、自ら考え行動する。
さすがに言葉を話せない内は、仕方がないでしょ?だから、殆んどよ」
「なるほど。確かに私は二才で本を読んでいた。母上の部屋へ初めて行ったのは、二才になる前だったはず」
自分の幼少期に当てはめると、色々と納得がいった。
王家というのは正常に機能していれば、厳しい環境だ。王族の教育は中々に過酷だからだ。
しかし、今の王家は真逆をいく。当然だ。
侯爵家が王家を毒と薬で操っていた。子がまともに育つはずも無い。
だが、彼女が言っているのは『楽な方に逃げた』事だろう。
毒を盛られた国王、薬を盛られた王弟、毒と薬で人を操っていた王妃。
王太子は一番近くに居たのだ。何も気付かなかった、知らなかった筈はないし通らない。
王太子は何もしなかった。
唯一彼だけが事態を覆す事が出来た。立場も機会も権力もあったのだ。
二十年以上の長い時間も……
「王太子の罪は深いのだな……」
「そうよ。何と言っても王族なのだから。
逃げてはいけないし、逃げられない。
話を戻すわね。
星屑の力を使うには条件がある。
本来持てる筈のない『神の力』を、人間が例えば「時を止めたい」なんて願った所で『力』を使って時を止める事は不可能。
星屑を持っていても。
人間が星屑を使うには、強い強い意志がいる。よく人間は「命と引き換えにしても」なんて言うけれど、自分と直接関係ない事に命を掛ける人間なんて、見た事ないわね」
それはそうかもしれない。耳が痛い言葉だ。
私にしたってスーザの惨劇も、謁見の間の狂気の沙汰もこの目で見た。
父親は王弟で、私は一応公爵家の嫡子。しかも王立騎士団の副団長だ。間違いなく、国を守り民を守るべき立場にある。
しかし、女神に「この国を救いたいか」と聞かれて「なぜ私だ?」と思ったのだ。
「だからそうね、八百年の間に星屑を使えた者は二人だけよ」
二人もいたのよ、すごいでしょ?とでも言いたげな顔をしている。ため息が出る。
「過去、王家には四人、今の王太子を入れて五人星屑の瞳を持っていたと記録にある。
だが、誰一人として使った者はいなかった。セルリアン王国だけでなく、世界中がそう認識している、はず。
……その顔は……――――違うのだな。
知らない、知らされていない。同じ事か」
彼女は足元にしゃがむと、咲き乱れるローゼリアの花を愛しげに見つめ、掬うように優しく揺する。
「人の命は儚いわね。ともすれば、この小さなローゼリアよりもあっけなく、その命の灯を消してしまう」
ローゼリアの花を一撫ですると、立ち上がり私を見つめる。
「最初に星屑の瞳を使って、この世界を救ったのは、セルリアン王国王太子レオニード・アステル・セルリアン。
建国から二百五十年。セルリアン王国は北方民族の侵略に遭い、国土は蹂躙され王国民は奴隷として扱われ、セルリアンの名は世界から消える寸前だった」
彼女の話に愕然としながらも、やはり、と思う所があった。
『レオニード』の名には驚いたが。
「王太子レオニードは捕らわれていた地下牢で、一心に、女神への祈りを捧げた。
もしもこの星屑の瞳に、本当に『救国の力』があるのなら、どうか私に使わせて欲しい、と」
「あなたは時を止めて彼に会ったのか」
「会ったわ。こう彼は言ったの。
『確かに、この状況を助けてもらえるのならば、本当に嬉しく思う。けれども、二度と北方民族から攻められないようにするには、どうすれば良いのか。それを防ぐ力を貸して欲しい。
スーザから黒騎士団と近衛の主力が戻れば、必ず形勢は逆転する。
しかし、海から援軍が来れば、それも無駄になる。だからどうか、力をお貸し下さい!お願い致します!』
彼には、国を守るのだという揺るぎない強い信念があった。そして絶望的な状況を覆そうとする強靭な精神力。
彼ならば『力』を使う事が出来ると、すぐに分かった。
だから、彼の片方の星屑の『力』を使って時を戻すと言ったの。これで蹂躙された国土と民は元に戻る。
北方民族から侵略されないようにするには、もう片方の星屑の『力』だけでは足りない。色の『力』まで必要になる。
色の『力』を使えば命だけではなく、あなたの存在が消える。あなたは生まれなかった事になる。それでも良いのか、彼に尋ねた」
「存在が、消える!?」
『星屑の瞳』の力を使っても、それだけでは足りない。『強い意志』というのは、その存在を懸けても、揺るがぬ程の救国の意志。
そういう事か。しかし―――……
人間とって『存在』というのは、命よりもある意味重要なのではないか。
究極の仕返しは忘却だという。忘れ去られるという事は、人にとってそれほどに重い事なのだ。
たとえ自分が死んでも、家族や誰かが覚えていてくれる。その人達の為ならば命など惜しくない。それならば、理解も納得もできる。
けれども、この王太子の場合は違う。
自分が命を懸け『存在』まで失って助けた国民は、女神が時を戻し、何事もなかったかの様に日々を過ごす。北方民族の脅威も消え、脅威と思った事実さえも消え失せ、安心して日々を暮らす。
しかし誰一人、たったの一人も彼の『存在』を覚えていない。
「それは理不尽、ではないのか?
彼は、王太子とは、そこまでして国を民を守らなければならないのか?」
胸が苦しくなる。
話の続きは聞かなくても分かる。
今この国があるからだ。
彼はその全てを捧げたのだ。
自分が守りたかった彼等の為に。
その存在さえも、何もかも。
涙が溢れる。だが、この涙は止めたくなかった。彼の為に泣きたかった。
今私が涙を流せるのは、今私の『存在』があるのは、彼の献身があったからだ。
けれども私は、彼の存在を知らなかった。
当然だ。彼の存在は消えてしまった。
「……レオニード王太子は、自らの献身で救った祖国の姿を、その目で見る事はできたのだろうか?」
「もちろんよ。彼の星屑の『力』は彼にしか使えない。わたしは少し助言する位しか出来ないわ」
「……女神の力を振るうのでは、なく?」
彼女は苦笑して小さく息を吐く。
「わたしが力を振るうなら、『星屑の瞳』も色の『力』も必要ないわ」
その通りだ。
「レオニード王太子は星屑の力を使った。
まず左の瞳の星屑で時を戻し、止めた。
それからわたしが導き、世界を俯瞰したの。
北方民族がセルリアン王国を攻撃するには、海からしか方法はない。
だから、海流を変えた。もう北方からは大陸を迂回しなければ、セルリアン王国には辿り着けない。
海には流れがあるから、結果エッカルド王国と接する海域の海流が、自然に流れを変えたの。
そして、時を再び動かした。セルリアン王国は平和に戻った。
レオニード王太子はとても喜んだわ。
この光景をもう一度見たかったのだと言って。
わたしは、もう誰もあなたを覚えていない、後悔はないのか、そう尋ねた」
まるで、そこに彼の姿が映っているかの様に、彼女はセルリアンブルーに輝く、美しく澄み渡る空を優しく見つめる。
薄く微笑み空を見上げるその瞳は、濃く青く星屑が煌めいていて、とても美しかった。
「……彼は、レオニード王太子は何と言ったのだ?」
彼女は、ゆっくりと顔を私に向ける。
「彼はこう言ったの。
『あなたが覚えているだろう?
私はそれだけで満足だ。
心から感謝する。
ありがとう、我が女神よ』
そして、晴れやかな笑顔を見せた後、キラキラと輝きながら、その命の灯を消したの。
人の命は儚いわね
けれども、その命を燃やす時
星を凌駕するほどの輝きを放つ
あの幾千の星々は散っていく人々の
命の欠片なのかもしれないわ」
にっこりと笑うと、彼女は泉の方へ歩き出した。歩きながら振り返り、言い放った。
「その瞳の事を知りたいのでしょう?」
お読み下さりありがとうございますm(_ _)m