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~アルコーブより~

本日二話目の投稿です。

宜しくお願い致しますm(_ _)m






 赤ん坊になったと自覚してからは早かった。

それまでは殆ど寝てばかりで、あまり記憶がない。きっと疲れきっていたからに違いない。



 ぐたっとして、力が入らなかった手足は首が安定した頃から次第に力が入るようになっていった。バタバタ足を動かすのも長く出来るようになった。



 目が覚める。部屋の中はしんとしていて薄暗い。夜が明けて間もない位か。人の気配はないようだ。

 仰向けで転がっているので視線を上げれば天蓋ベッドの天井が見える。



 目や耳があまり上手く機能していなかったのも、やはり慣れれば問題なかった。

 今では良すぎる位に見えるし、聞こえる。



 青くどっしりとした生地には、白いローゼリアの花が美しく刺繍されていて四隅には楽しげな天使までいる。

 女神様の側にいなくて良いのだろうか。

 素朴な疑問だ。


 よし。

 アルコーブへ行く時間だ。


「だぁ」


 小さく気合いを入れて寝返りを打つ。

 横向きになると、今度は白いレースの天蓋のカーテンが目に入る。

 レースの模様もローゼリアの花だ。

 レースの向こうにどっしりした青いカーテンの色が透けて見える。子供っぽくない所が良い。


 真っ暗ではなく色が分かるくらいに明るいと思ったら、足元の天蓋カーテンがレースのカーテンだけになっていた。

 恐らくライラかメイドが、様子を見られる様に開けていったのだろう。赤ん坊だからな。


「だぁ」


 もう一度寝返りを打ちうつ伏せになる。

 ちょっとずつ背を丸め四つん這いになる。

 はいはいの姿勢だ。私はこのはいはいが得意で、とても楽しくなる。

 前に進むリズムが特に気に入っている。


 ちなみに寝返りは、かけ声がなくともちゃんと出来る。朝は眠いし気合いが大事なのだ。

 但し、メイドに気付かれないように小さな声にする事が重要だ。


 寝返り、はいはい、掴まり立ち。ここまでは安定している。今練習中なのは、1人歩き。

 頭が重いのですぐ転ける。バランスを取るのが難しいが、あと少しだ。


 まずは巨大なベッドから出なければならない。ベッドはふかふかしているので、進みにくくシーツに絡まり易い。

 このまるっこい小さな体は、すぐに引っ掛かって転がる。

 転がっての移動も可能だが、ちょっとプライドが許さない。


 シーツの上をゆっくりと転がらない様に慎重に進む。目指すは足元にある天蓋の柱だ。

 柱までたどり着ければ次はちょっと技がいる。


 柱に両手でしがみつきゆっくりとお尻を突き出す。じりじりと足を片方ずつベッドから押し出し、手の力を弛めると、足が床に着地する。

 いわゆる掴まり立ちの格好だ。そこからお尻をテンと床につけお座りし、はいはいの体勢になる。


 毛足の長い分厚い絨毯が敷いてあるため、手や足はまったく痛くないし音もたたない。

 初めて挑戦した時は床に足がつかず、思わず泣きそうになった。その内手が痺れてきて力が入らなくなり「落ちる!」と、目をぎゅっと瞑ると足がついた。

 ほっとして、また泣きそうになったが、ぎりぎりこらえた。いや、少しだけ、いや、気のせいだ。うん。



 よし。メイドには気づかれてはいない。

 ライラやメイドは、壁に目や耳が付いているのではないか?と勘繰る位には、すぐに色々と気付いて世話をしてくれる。ありがたい。


 だからこっそり何かをしたい時には、なかなか大変だ。

 別にライラやメイドがいても問題はないし、気にする事は何もない。ないのだが、私は何となく、一人でそっと父上を見たいのだ。


 逆行前、エントランスホールの柱の陰から一人でそっと見ていた様に。



 天蓋カーテンの裾から這い出ると、壁つたいにアルコーブへと進む。


 半円形のアルコーブには半分に切ったドーナツのようなソファーベンチがある。

 壁側はガラス窓になっていて、クリーム色のレースカーテンと濃いベージュ色の厚めの生地に、オレンジの糸で刺繍が入ったカーテンが2枚引いてある。

 ソファーベンチにはベージュのカーテンと同じ生地で、足下に箱ひだがあるカバーが付いている。



 その箱ひだにしがみつきソファーベンチによじ登る。

 カーテンの中に頭を突っ込み、窓ガラスに両手を付いて体を支える様にし、両足をソファーベンチの上で肩幅に開き出来るだけ踏ん張って、外を伺う。

 夜が明け、朝日が茜色に染めた美しい空がどこまでも続く。良い天気になりそうだ。



 私の部屋は三階にあるので、わざわざ見上げない限り見つからない。



 アルコーブの窓からは、正面玄関口からのアプローチと途中真ん中にある大きな噴水までがよく見える。


 噴水の周りをロータリーのようにぐるっと馬車道が整備され、そのまま真っ直ぐ正門まで長く続いている。馬車道から少し離れた両脇には美しいシンメトリーの前庭が広がっている。


 今の私は公爵邸から出たことがないので、このアルコーブから見える噴水と前庭までしか見たことがない。これは逆行前の知識だ。



 私の中で、この逆行前と現在の私はうまく混じりあっているようだ。

 若干幼い体と、周囲の幼子に対する扱いに流されていないでもないが、私の意識は大体が二十才だった時のそれだ。



 だが記憶に関してはあやふやな所も多い。

私が三才の時、母上が亡くなった。

 母上が亡くなった後、五歳くらい迄の記憶はあるのだが、それから先がはっきりしない。



 覚えている事。

 父上がまるで、王城に移り住んだかの様に戻られなくなった。

 元々母上が亡くなる前から、あまり公爵邸には戻って来られなかった。

 たまに戻られても、私の事など気にされた事はない。



 家庭教師は五歳から付いていた。おそらく家令が用意したのだろう。

 他にする事がないので、図書室から選んだ本を部屋に運んでもらい、いつもアルコーブで読んでいた。

 自室にも本棚はあったが、二歳を過ぎる頃には読み尽くしていた。

 読書も勉学も割りと好きだった。



 母上が亡くなった後、私はいつも柱の陰からそっと父上を見ていた。

 父上もいなくなってしまうのではないかと怖かったのだ。

 母上と同じように、私は父上のお顔も声も知らなかったから。



 二十才の記憶はしっかりある。

 あるが、何をしていたのかはよく分からない。自分の状況は分からないが、国や公爵家の事、諸々の常識的な事柄、勉学の知識等はほぼ記憶にあると思う。



 母上のお顔は知らない。

 父上のお顔はぼんやりとしている。


 エントランスホールでは、従者や護衛が重なって、父上のお顔はほとんど見えなかった。

 だが少しだけ見る事が出来た。

 背筋がぞくりとした、あの凍った鋭い眼差しは忘れられない。


 何より私は父上にそっくりだとよく言われた。瞳の色以外は。



 二十才の大人になった自分の顔や姿は覚えている。

 逆行前の父上のお顔はぼんやりとしているので、今の父上のお顔と比べてみる。

 確かによく似ているが、今の父上の方が断然格好良い。



 あとは、何もない。

 だから死んだのだと思う。

 いや、死ぬ時に逆行したのか?

 よく分からない。

 が、いまは気にしない事にする。どのみち戻れないのだし、どうする事も出来ないのだから。



 今の私の見かけは間違いなく幼子なので、出来る事が無くとも問題はない。


 成長に関しては恐らく一般的な赤子と比べれば、かなり常識が違うと思う。自覚はある。

 しかし私に普通の赤子の成長の仕方など分かるはずもなく、分かったところで、これも又どうしようもない。



 私は私。

 そう割りきって、まずは家族仲良く過ごしたい。



 そんな事をつらつらと考えている内に、玄関前がざわついてきた。



 逆行前、父上を柱の陰から覗き見ていたのは三才の時。

 なので、何とか扉を開けられたし、大体放って置かれていたので、一人で邸内をうろつく事も出来た。



 だが今は邸内どころか、寝室の扉さえ突破できやしない。ベッドからアルコーブまでの移動が私の精一杯だ。

 何しろ得意技は、はいはいと掴まり立ちだ。


 と、言う訳で近くでお顔は見られないが、姿は見えるこのアルコーブから覗いているのだ。

 むしろ視点が高いので従者や護衛の姿が重ならず、父上がはっきり見える。



 玄関前では、公爵家の家紋が付いた二頭立ての馬車と父上の護衛の騎士が数人、馬を引いて主人を待っている。



 見ていると、父上が従者達と共に出て来られた。



 白い近衛の騎士服は詰め襟で、両肩には黒地に金の星が三個ついた肩章が付き、胸元に金モールの飾緒。金ボタン。

 左胸には団長の階級章と、陛下の専属の印である、青いローゼリアのバッチが朝日に反射してキラッと輝いている。



 右外側の上腕には、王国の国旗(下半分が緑、上半分が青、真ん中に白い一輪のローゼリア)が刺繍され、袖口には黒と金の袖章。


 黒く頑丈そうなベルトの左腰には剣帯を付け、重そうな長剣が下がっている。

 黒いブーツに、セルリアンブルーの長いマントを羽織った姿は……圧倒的だ。



 マントの背にはローゼリア公爵家の紋章が刺繍されている。刺したのは母上だ。

 鍛えられた体に騎士服がとても良く似合っている。すっと背が伸びて堂々としていて、素晴らしく格好良い。



 あの人が私の父上だ。

 今生、私や母上のそばに居てくれる時の、笑み崩れた優しい父上とは別人のように見える。

 キリッとしていて、とても強そうだ。



 窓にペッタリと張り付いたまま見惚れていると、ふと父上が窓を見上げた。

 私のいる窓だ。

 濃い青の瞳は真っ直ぐに私を見ていて、心臓が跳び跳ねる。気付いてくれた。

 父上は一瞬目を見張ると、にっこりと微笑み軽く手を振って、さっと馬車へ乗り込んだ。



 逆行前の父上とは違うとわかっていても、毎回驚いてしまう。今の父上は子煩悩だ。

 ちゃんと私を見てくれるし、名も呼んでくれる。

 言葉にさえなっていない、ただ声をあげるだけで返事をくれ構ってくれる。

 憧れたすべてが目の前にある。



 両脇にすっと手を差し込み、父上の顔より上に上げられた時は流石に固まった。

 突然、高い位置に体が浮かびどうしたら良いのか分からなかった。


 けれども、段々と嬉しさが込み上げてきて、気付かない内に「きゃぁ、きゃぁっ」と、声を上げて笑っていた。

 とても、とても嬉しくて楽しかった。



 私はソファーベンチにペタリと座りこみ、そのままごろんと寝転ぶ。

 馬車の音がだんだんと遠ざかっていく。

 いつの間にかおねむがすぐ側まできていたようだ。うとうとしながら、私は思考の渦の中に身を任せた。





 逆行前、私は乳母が母上に話しているのを、聞いた事があった。扉越しに。



 曰く、政略的な婚姻ならいざ知らず、奥様を見初め陛下に幸せにすると誓いながら、この仕打ちはなんなのか、と憤っていた。



 陛下というのは、隣国の国王陛下で母上の兄上だ。

 父上と母上の出会いは、父上が王弟として外交の使者となり隣国を訪れた事がきっかけだ。

 仕打ちと言うのは、父上が王城から戻らずに放って置かれていた事だろう。



 聞いたその時はよく分からなかった。

 幼くて知識が足りず、言葉の意味を理解できなかったのだ。

 だが私は、聞いた言葉は覚えているし忘れない。今も乳母の声が耳に響く。



 成長し言葉の意味が理解出来た時も、世の中の常識を知り周囲の話を聞いた時も、やはり意味が分からなかった。


 あの両親が政略の婚姻ではなかった?

 恋愛で結ばれたと言うのか?

 あんなに仲が悪かったのに、何の冗談かと思ったが、私はそれ以上考える事はなかった。

 どうでも良いと、思ったのだ。



 改めて考えてみる。

 恋愛の婚姻が許されたという事は、婚姻によるお互いの家の利益よりも、個人の感情を優先する事を許されたという事。

 これは異例の事態だ。



 けれども父上と母上の場合、王子と王女という立場で身分は問題なかった。

 外交的にも同盟はうまく機能していたし、近年両国の王族間で婚姻はなかった。

 故に外交上の問題もなかった。むしろ歓迎された。

 本人達の恋愛感情はともかくも、両国ともに国益に繋がる婚姻であった。



 冗談ではなく、本当に恋愛で結ばれた婚姻だったのか。だが、本当に仲がわるか……

 いや、違う。そうだ、違う。

 思い込んでいた。仲が悪いと。



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 私の記憶によると、父上はそもそも、兄王子殿下(現セルリアン国王陛下)に王子が誕生するまで、婚約者は作らないと明言していた。

 兄王子を敬愛していたし王位争いを避ける為だ。



 しかし、父上が母上に出会った時には王妃殿下は既に身籠っており、弟を可愛がる陛下が父上の背を押した形だ。

 だから、父上が母上を見初め政略的な婚姻ではないと言うのが本当なら、婚姻した時二人はお互いを愛していたという事だ。



 出会いから、一年間婚約期間(準備期間)を置いて、母上はセルリアン王国に嫁いできた。

 普通なら子が出来たのかと疑う程の、王族ではあり得ない異例のスピード婚姻だ。

 父上の臣籍降下も決まっていたから出来たのかもしれない。



 母上は、アルブレヒト第二王子殿下の妃としてセルリアン王国に輿入れし、アルブレヒト第二王子妃殿下シャルロッテとなった。


 そして婚姻から一年後、臣籍降下された父上、アルブレヒト・フォン・ローゼリア公爵閣下の夫人、シャルロッテ・フォン・ローゼリア公爵夫人となった。



 乳母のあの言葉を聞いたのは、私が二才の時だった。

 どうしても母上にお会いしたくて、母上のお部屋の前まで行ってノックをしようと、勇気をかき集めて手を上げた時、声が聞こえてきたのだ。

 私は手を下ろし、強ばる体をゆっくりと動かし自室へと戻った。



 母上の声は聞こえなかったので、なんと返していたのかは分からない。

 分からないが、思い返してみれば乳母の発言は言い慣れていた。多分、母上によくこぼしていたのだろう。



 虐げられていた訳ではない。

 公爵家嫡子として世話はされていた。


 ただ、私の周りには人がいなかった。母上は私の部屋へは来なかったし、乳母も数えられる程しか来た事がない。

 必要な世話は何人ものメイドが交代でしていた。

 母上は元王女であるし、子育てなぞ普通の貴族家でも多分使用人任せだ。そんなものかな、とは思う。



 父上には何かお考えがあって、母上や私から遠ざかっていた。母上を愛しておられたのなら、きっと苦悩されていた。

 母上が、私にお会いになって下さらなかったのも、何か理由があったのだ。きっと。


 私はただ自分が邪魔だった、嫌われていたと、そう思いたくないだけなのかもしれない。

 逆行前の母上が生きていた頃に戻れたなら、もしもその時父上に尋ねる事ができたなら……

 分かっている。

 考えても仕方のない事だ。


 今生赤ん坊だと自覚し、腕に抱いて自分をあやしているその人が、母上だと知った時のあの驚愕。

 歯がないショックなど吹っ飛び、私は文字通り『生まれて初めて』愕然とした。



 初めて母上のお顔を間近で見つめ、目が離せなかった。

 柔らかい微笑みと甘い声。優しく私の頬を撫でる白い手。

 胸の奥底から沸き上がってくる、あの圧倒的な感情の名前を、私は知らない。


 何とも言えない安心感に眠ってしまいそうになる。ずっと見つめていたい。ずっとこの腕の中にいたい。

 これが母親という存在なのか……


 ひどく優しいその空間に、低く落ち着いた声が響く。父上の声だ。


「眠ったのか」

「ふふ、おねむに負けそうですわ」


 もう瞼が重くて開かない。

 二人の姿を見たいのに、夢じゃないと確認したいのに、生まれてちょっとのこの体は儘ならない。


 頭を大きな手で優しくなでられる。


「愛し子よ、ゆっくりと眠るのだ」


 こんなのおねむに負けるしかない。

 母上の腕に抱かれたまま、意識が遠くなりながら思った。


 この優しい父上と母上を、どうすれば守る事が出来るのか、と。







 私はソファーベンチの上で、すっかり登った朝日を浴びながらぐっすりと二度寝をした。






 **********





 天蓋ベッドの、暗い天井を見つめながら真剣に考える。

 人は眠れない時どうするのか。

 そもそも何故、眠れなくなるのか。


 朝、父上を見送った後、二度寝したからか。

 それとも、アルコーブでお昼寝したからか。

 生後半年で「眠れない」など、誰も信じないに違いない。


 私の逆行前の記憶は二十才で途切れている。

 恐らく死んだのだろう。


 公爵家の摘子が死んだのだ。余程のことがあったはずだ。病だとは何故か思えない。

 しかし、霞がかかったように思い出す事が出来ない。



 母上が亡くなった後、三才から五才くらいまで、自分自身の事で覚えている記憶についてはかなり鮮明だ。それ以降の記憶はなんとも曖昧で、あまり覚えていない。

 常識や国の事、本や家庭教師から学んだ内容は覚えている。

 だが、自分の事は分からない。


 公爵邸のエントランスホールの柱に隠れて、出掛けて行く父上を、いつもこっそりと覗き見ていた。

 母上が亡くなってから、エントランスホールに行くようになった。


 沢山の使用人がずらりと並び、周りは従者と護衛が取り囲んでいた。

 その隙間から、ちらちらと見え隠れする父上の横顔。鼻から下は、ほとんど誰かの頭や体で隠れ見えなかった。



 私が見る事が出来たのは、ちらっと一瞬見える横顔の目と髪だけ。

 後はたまに聞こえてくる、家令のアーベルに指示する声。護衛か従者か分からない、いくつかの名前。

 エントランスホールは反響が良いので、小さな声でも以外と聞こえる。



 私は一度聞いたり見たりしたものは頭に残っている。忘れない。

 後から思い返すときには便利だが、忘れたいのに覚えてる事も多い。



 私は父上にも母上にも、名前を呼んでもらった事がない。


 自分の名前は、誰にも呼ばれた事はない。

 『おぼっちゃま』は名前ではない。


 実は二才の時に、自分は何者かと不思議に思ったのだ。

 本に出てくる人物には、時には動物にだって名前がある。皆、名前で呼ばれる。

 きっと、私にもあるはずだ。きっと。


 ある歴史書に『系図』という物が出てきた。

 王家や貴族家など古くからある家では、系図を綴り一族の歴史を後世に残すのだそうだ。


 父上は元王子だし、母上は元王女だ。

 メイド達が話していた。

 ならば、この家にもあるのではないか?

 そう考えた私は、図書室で系図と思われる本を見つけた。私は三才になっていた。


 最初のページには、この家の成り立ちなどが書き綴られていた。

 初代当主は女性だった。

 彼女はセルリアン王国の最初の王女だ。つまり初代王妃、女神の娘の生んだ王女だ。


 驚く事実だが、私が知りたいのは()()ではない。()()だ。


 開いた最後のページ。

 丁寧な装飾文字で綴られていた。


 当主アルブレヒト・フォン・ローゼリア、

 妻シャルロッテ・フォン・ローゼリア、

 嫡子レオニード・フォン・ローゼリア。


 名前の下に、それぞれの生年月日が記入されている。没年が記入されていないのは、この三人のみ。推測するまでもなく、父上、母上、私だ。多分。


 この家はローゼリア公爵家。

 父上はローゼリア公爵家当主で、母上は公爵夫人だ。

 私は、ローゼリア公爵家嫡子、レオニード・フォン・ローゼリア。

 私の名前はレオニード。


 三才の私が知った所で、使う事も必要もない。知らなくても問題はなかった。

 だが名前を知り、公爵家の系図に自分を見つけた事で、足が地に着いた気がした。



 顔もまともに見た事はない、けれども名付けたのだから、多分、父上……が。

 一度位は呼ばれたはず。多分。



 自分の思考に溜め息がでる。

 天蓋のカーテンは閉めているので、溜め息くらいなら誰にも聞かれない。

 戻れない過去を思いだしても、良い事など一つもない。

 今の優しい両親と公爵邸の皆の事だけ考えていたい。



 もう一度溜め息を吐くと寝返りを打ち、朝と同じ要領でアルコーブまで行く。

 ソファーベンチに寝転ぶと、ほっと息を吐く。


 月は高く、その美しい姿で世界を照らしている。



 眠れない夜は、眠ろうと目を閉じていると、いつだって逆行前の幼い私が、ぼんやりと浮かんでくる。

 あまり表情の動かない、冷たく見える無気力な顔。



 母上が亡くなったのは私が三才になって少し経ってからだった。自分の生まれた日は知っている。

 公爵家の系図を見たから。



 いつかお話できると思っていた母上は、お会いする事は永久に不可能となった。

 あの日、母上のお部屋の前まで行ったとき、初めて母上のお声を聞いた。多分。



 「アル様……アル様……」と言いながら、泣いている様な声がした。乳母の声はしなかった。

 アル様、というのはおそらく父上のお名前だ。だから、母上だと思う。

 私はしばらく扉の前にいたけれど、その日も結局ノックする事はできなかった。


 私の手はいつも宙に止まったままだった。



 母上にお会い出来たかもしれない最後の一歩を、臆病者だった私は踏み出す事ができなかったのだ。



 翌日の夕方にはまだ早い時間、家令が部屋にやって来て「奥様がお亡くなりになられました」と告げた。

 意味が分からなかった。

 気付くと家令はとっくにいなくなっていた。



 私はたまにアルコーブから見える前庭を散歩と称して(自分の中で)うろうろしたり、剪定されてまん丸になってる低木の脇にしゃがんで、空を見たりしていた。


 本当は座りたかったけど、服が汚れてあれこれ聞かれたりしたくなかった。

 噴水のお水にも触ってみたかったが、見つかったら面倒だと思った。



 一応見つからないように注意はしていたけれど、見つかったり何か言われたりした事は一度もなかった。

 時々いやな視線を感じるけれど、監視を付けられるのは特に気にならなかった。



 部屋から家令がいなくなった後、何となく前庭にやってきて低木の脇にしゃがんで、地面のアリを見ていた。

 なぜだか目が離せなくて不思議だった。

 アリを見ながらぼうっとしていると、数人の大人の話し声が聞こえてきた。庭師見習い達だったと思う。



「奥様は気の毒だったなぁ」


「なんだ、茶会の帰りだったって執事が師匠と話してたなぁ」


「ジョゼは休みを替わってやって良かったって叫んでたぞ」


「あぁ、リムリーはついてなかったよな」


「わざわざエッカルドからきたのになぁ!」


「でも旦那様は嫌だったんだろ?お屋敷には帰って来ないらしいじゃないか」


「まぁ、跡取りのお坊っちゃまは生まれたんだし、貴族なんてそんなもんだろ」


「違いねぇ!」


「馬車がひっくり返ったのは何だったんだ?お前知ってるか?」


「あー……なんだ、馬が暴れたんだっけか?」


「違う違う、いや暴れたんだが、蜂に刺されたとか、蜂が耳に入ったとか……」


「どっちなんだよ!」


「はははっ!ダニーは金と女のこと以外覚えらんねーから仕方がないさ」


「なんだとっ!」


「そりゃそうか!」


 大きな笑い声が響く。


「お前達!道具は片付けたんだろうな!?」

「うわっ!師匠だ!」


 怒鳴り声が聞こえたと同時に一斉に駆け出す足音がドカドカとして、シーンとなった。



 驚きすぎて動けなかった。

 あのような話を聞くなんて、思うはずがない。けれど……家令から告げられた時よりも、ストンと胸に収まった気がした。



 そうか、母上は亡くなったのか。

 もう、頑張って扉をノック出来たとしても、そこに母上はいないのか。

 あのお声で、私の名前を呼んでもらう事は不可能になったのか。

 そうか。



 私は立ち上がり足下を見た。

 アリはもういなかった。

 夕暮れの真っ赤な空を見ながら、私は歩き出した。夕食までには、自室に戻っていなければならない。



 もう母上はいらっしゃらないのか。



 私は何事もなく自室に戻り、いつもの通りメイドが持ってきた食事を食べ、浴室でメイドに身を清めてもらい、ベッドに入って眠った。



 三日後の朝。

 朝食を持ってきたメイドと一緒に、また家令がやってきた。

 明日の午前中から、公爵邸で母上の葬儀が執り行われる事。隣国の国王陛下がいらっしゃる事。我が国の陛下もいらっしゃる事。私は幼い為、葬儀には出席出来ない事。以上を淡々と告げた。



 今回はちゃんと聞いていたので、凄く久しぶりに返事をしてみた。



「……それで?」



 家令は一瞬唖然としたが、すぐに無表情に戻り「旦那様よりのご指示で、ご報告に参りました」と告げる。



「そう」


 返事を返すと、朝食に取り掛かる。

 朝食といってもスプーンで掬って、カップから飲むだけ。一人で食べられる。



 悲しい、というのはよく分からなかったが、泣くような事はなかった。仕方ないと思う。

 『母上』だと知識で知っているけれど、お顔も知らないし結局お会いする事もなかった。


 もっと何か母上の事を聞いてみたかった気もするが、なんと言えば良いのか私には見当もつかない。

 それに……、それに知った所で、もう母上はこの世にいないのだ。


 今の私でも、知らない人が亡くなったからといって涙は出ないだろう。

 私にとって母上は、知らない人だ。


 いつの間にか家令はいなくなっていた。



 大きなざわめき、沢山の馬車や人が出入りしているのが分かる。

 わざわざ家令が報告に来てくれたので、この日は寝室の隣にあるリビングにいた。寝室にいるとアルコーブに行きたくなるからだ。

 何となく見たくなかった。

 だから、リビングのソファーで本を読んで過ごす。



 文字は、読めた。

 二才になった頃、ベッドの横に本棚があるのに気付いた。もちろん『本棚』とは分からなかった。

 なんだろう、と疑問に思い手に取ったのが、最初に読んだ本だ。



 『セルリアン王国の伝説』

 簡単に言えば、建国神話だ。

 少し古びた、幼い子供向けの絵本でほとんどが絵だ。しかしとても美しい絵で、優しい色使いが目を楽しませてくれる。

 文字がなくとも、何となく話が分かるようになっていた。あっという間に読み終えた。



 そうして、夢中になって本の絵を見て字を追う内に月日が経ち、本棚に並んだ本の最後の一冊を棚に戻す頃には、ちゃんとした文章も理解出来るようになっていた。

 この最初の一冊を手にした時から、本は私にとって大切な友となった。



 ベッドの横にある本棚は、逆行後の、今の私のベッドの横にもある。まったく同じ本が同じ配列で並んでいる。

 この本は、父上と母上が私の為に一冊一冊、丁寧に選んで並べたのだと、本棚を見ながら父上と母上が笑顔で教えてくれた。


 私は号泣した。



 幼なかった私があの時、何とはなしに手に取ったはずの絵本は、幼子が一番取り易い床に近い場所に、表紙が見える様に置かれていた。

 もちろん今の本棚にも同じ場所にある。


 最初に読んでほしいと選ばれた本だった。

 父上が、亡くなった父上の母上から初めて贈られた絵本なのだという。



 二十才まで生きた私は、視野が狭く何も分かっていなかったと、つくづく思い知る。



 私は目に見えるものばかりを求めていた。

 求めていたものは、正に目の前にずっとあったのに、込められた想いを知る事もなく、知ろうともしなかった。

 


 父上は葬儀の為に公爵邸に戻って来たようだった。

 だが、特に何か言うでもなく、もちろん私に会うという事もなかった。



 元隣国の王女という事もあり、母上の葬儀は盛大に執り行われたらしい。

 夜遅くまで、外はざわついていた。私はいつもの通り過ごし、眠った。



 葬儀の翌朝、父上は王城へと戻って行った。

 その時も私は柱に隠れて父上を見ていた。

アルコーブから馬車が待機しているのが見えたので、エントランスホールに急いで行った。



 公爵邸のエントランスホールには、両脇に暖炉やソファーセットが置いてある。

 そのソファーの後ろに柱があるのだ。柱の裏に使用人用の扉があって、ホールを横切らなくても飲み物等を提供できるのだ。



 柱の陰から父上を覗くと、背中がゾクッとした。

 青い瞳は鋭く、冷たい眼差しはどこを見ているのか分からなかった。

 家令にしばらく戻らないと言うと「ダスティン!」と声を上げる。

 その姿は、もう私からは見えなくなった。



 自室に戻ろうと背中を向けた時、家令の声がした。「旦那様、お坊っちゃまは……」と。

 父上は何も言わずエントランスホールから出て行った。


 

 気付いて欲しかったのだ。

 父上は私をいないもののように扱う。



 お顔を見たかった。

 名前を呼んで欲しかった。

 父上!母上!と、大きな声で呼んでみたかった。

 一人で食べる食事は嫌だった。

 庭師の息子のあの子のように、手をつないで歩いてみたかった。

 息子を高く抱き上げてくるくると回る庭師に、あの子は楽しそうに笑っていた。


 私も、私も、父上や母上と一緒に笑ってみたかった。




 エントランスホールで覗き見る父上に「行ってらっしゃいませ」と声を掛けたら、ひょっとしたら私を見てくださるだろうか。


 どきどきしながら、今度こそと勇気をかき集めていた時期もあった。

 しかし、結局エントランスホールで声を掛ける事は出来なかった。

 私は柱の陰から姿を現す事さえ出来なかったし、父上の青い瞳から鋭く冷たい眼差しが消える事もなかった。

 声を掛けるなど、とても無理だと思った。


 それでも、ごくまれに父上が戻られるたびエントランスホールに行くのを止められなかった。

 いつもノック出来ないのに、母上のお部屋の前まで行くのを、どうしても止められなかったのと同じ様に。



 乳母は公爵邸を出て、隣国の家族の元へと帰って行った。



 私は一人になった。

 けれどもそれは、今までと特段変わりない、いつもと同じ毎日だった。



 五才になる頃には、もうエントランスホールに行くことはなくなった。







 高くなってきた陽射しが、ぽかぽかと暖かく心地良い気分だ。

 アルコーブのソファーベンチに寝転ぶと、いつもぐっすり眠れるのはどうしてなのか……




お読み下さりありがとうございます。


毎週火曜日に更新予定としておりましたが、思っていたより早く執筆が進んでいるので、第一部完結まで毎日更新致します(*´ω`*)


宜しくお願い致しますm(_ _)m

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