鼓
佐織は、足の痛みで目が覚めた。
―そう、確か、馨お兄ちゃんと一緒に、ペロのお散歩コースだった道を歩いてて。其れで、四辻の、スーパーの前の横断歩道を一緒に渡ってたら、車が来て、其れから、其れから如何したんだっけ。…馨お兄ちゃん…倒れてた?
ふと見ると、佐織は、奇妙な木造の建物の中に居た。
「此処は…?」
汚れたガラス窓から見える空は、もう夜なのか、真っ暗だった。
部屋の中は、ぼんやりとした蝋燭くらいの明かりしか光源が無い。
―此の手触り。畳?
板間の上に、佐織が座る分だけ畳が敷いてある。
壁に沿って、幾つかの几帳と、数本の蝋燭が灯っている。
いや、蝋燭ではない。
紐が数本、火の灯った皿の下から伸びている。
燈台というものだろうか。
よく見ると佐織は、変形した十二単の様な、厚着した巫女の様な、奇妙な服を着せられていた。
―此の服には、覚えが有るわ。
袴は藤色である。
佐織は、馬鹿にされている様な気分になった。
ふと触れると、自分の髪の先に、髢が結わえられているのが分かった。
髪が、服の丈から少し余る程、長く見える。
―其れにしても、足が痛いわ。何なの?
「ああ、痛み止めが切れちゃった?」
聞き覚えのある声がした。見れば、吉野楽だった。白装束を着ている。
「左足の足首に、傷。其れに、足の小指に、ヒビが入っているみたいだから、一週間は歩かない方が良いね。痛みは、明日になれば引いてくるってさ」
「此れは、如何いう事でしょう。此処は、何処ですか?」
「君は、横断歩道で、車に引っ掛けられた。軽くだったけど、足首に、タイヤの金属部分が当たっちゃったから、あと数センチずれていたら、神経を掠ってたかもしれないって。運が良かったね。頭も少し打ったみたいだけど、大した事は無いみたい」
「車に?」
―あの車に?と、いう事は、私は事故に遭ったという事?
「此処に、食べ物と薬を置いておくから」
楽は、佐織の座っている畳の傍に、何かを置いて行った。
―如何して、こんなに暗いの?
「待って、待ってください。此処は、何処ですか?」
楽は、佐織の問いに答えずに行ってしまったので、佐織は其の儘暗、闇で、一人にされた。
目は慣れてきたが、燭台の幽けき光の中では、薬と思しき物と、水差しを見分けるのがやっとだ。
―つまり、怪我をした私を、此処に誰かが連れて来たという事?其れとも、私を車で轢いて、其の儘、此処に攫ってきたという事?誰が?…まさか、楽さんが?
痛みは有るが、此の、痛み止めと称される薬を信頼して飲んでいいものだろうか、と、佐織は葛藤した。
―飲んで意識を失う様な物だったら如何しよう。そして、意識を失っている間に、また何か、よく分からない事が起きたら?
佐織は、痛みと恐ろしさで、泣いてしまいそうになった。
―馨お兄ちゃんは如何したの?
「痛いの?」
ふと、男の子の声がした。
声のする方を見ると、佐織の傍らに、ぼんやりと、白装束を着た小柄な人物が佇んでいる姿が浮かんでいた。
佐織は驚いて、小さく、ひっ、と声を上げてしまった。
「お薬、飲んで?飲ませてあげるから」
声の主は、五、六歳くらいの、可愛い男の子だった。燈台の光で、男の子の髪の毛が、ほんのりと鳶色に光った。
「も、もしかして、鼓君?」
「さおりさま、僕の事知ってるの?」
其の子は、佐織の名を知っている様子だった。
そして。
―やっぱり…。そっくり、此の顔。
「初めまして。僕、さおりさまと結婚するの?」
「え?」
「皆が、僕は、そう決まってるって言ってた」
「ちょっと、待って、鼓君」
佐織は全身の血の気が引いた。
―此の子は、何を言っているの?
「あんよ痛いの?さおりさま、お薬飲んで。怪我してるんでしょ?」
小さな手から渡された其れは、見慣れた、市販の鎮痛剤だった。
銀色のパッケージ入りで、特に、睡眠薬に差し替えられている様な事も無さそうである。
「…ありがとう」
先ずは、此の痛みを取る事にしよう、と佐織は思った。
頭が、ちっとも働かないのだ。
薬を受け取ると、小さな手は、次に、硝子のコップを手渡してくれた。
コップには、水が溢れんばかりに入っていた。
其の不器用さが、如何にも、小さな子が、思い遣りでしてくれた事、という様子で愛らしく、ホッとすると共に、佐織は、更に困惑した。