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相生の松 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
二〇一九年
7/44

お兄ちゃん

 其の日の夜は、震える佐織に、何とか食事を摂らせ、寝かし付けてから、龍顕は、岐顕と食器の片付けをした。


「龍、食洗機の洗剤何処?」

「あ、今出す」


 黒っぽい着流しの袖を襷掛けにして皿を与洗いする父親を見るというのは、久しぶりだと龍顕は思った。


「其れにしても。親父、如何(どう)思う?」

「うん…事故、か。しかし、社員旅行?…慰安旅行かね。鬼怒川温泉行きか…」

「佐織が居た頃は、慰安旅行なんて無かったって言ってたけどね。…有給のインターンの子には、最後の月に働いた分の時給を払わなかったのに…社員旅行…」


 今日の午後、東北自動車道で、高速バスが転倒。

 乗客の中には、佐織のインターン先だった病院の職員も乗っており、死者四名の他、重軽傷者が出る事故となった。


 キッチンの片付けを終えてから、龍顕は、岐顕と二人で、ソファに座り、テレビのニュースを見た。かなり大きな報道なのに、昼間はテレビをつけなかったので、気付かなかったらしい。


 岐顕は、うーん、と言った。

「しかも、この、亡くなっているのが…ピンポイントで、佐織ちゃんに(つら)くあたってた連中、と…」


 清水本家に居た男の子。

 佐織の前の職場から、一駅先の距離に出来た、『瀬原(せばる)』という、正体不明の企業と、其処に居る、白装束と黒服の男達。そして、亡くなった、佐織に良くない事をした人間達。


 嫌な符号だらけだな、と、龍顕は言った。


 まぁ待て、と岐顕は言った。

「結び付けて考えるのは()だ早いかもしれない。龍、俺が調べるまで、絶対に、此の問題には手を出すなよ」

「…分かった」


「其れよりも、今必要なのは、佐織ちゃんのケアだと思うよ。御前、あの子の事を、よく見てやっててくれよな。な、頼んだぞ、お兄ちゃん」


 最後の単語は、ずっしりと龍顕の胸に響いた。


 龍顕は、着ているTシャツの裾を少し引いて、目線を其方(そちら)に落とした。

 岐顕の目を見るのは(つら)い。

 自分の、ジーンズを穿いた足元の影が、黒く、ソファの下の床まで染みる(よう)な錯覚を覚えた。


「勿論、可愛い妹の為だからね」

 妹だなんて、結局思えなかったのに、如何(どう)いう心算(つもり)で自分は、親に、こんな事を言うんだろう、と龍顕は思った。




 あれから、三日経った。


 今夜は、岐顕の勧めで佐織を食事に連れて行くことになっていた。


 確かに、家にばかりいるのは良くない。メンバーは、龍顕と馨と佐織と麻那美だった。


 研修中の職場の在る新宿から直接、龍顕は渋谷に向かった。麻那美も、聖蹟桜ヶ丘の職場から向かってくるらしい。馨は、今日は仕事が休みだったらしく、自宅から向かってくるそうで、池袋か渋谷がいいと言っていた。


 佐織は、此の三日で大分落ち着いた。

 しかし、夜に、女の子を引き連れて渋谷の繁華街に行くのは、此処最近起こった事から考えると、随分浮かれた事の(よう)に、龍顕には思えた。


 渋谷は人が多過ぎる。

 其れでも、佐織の交通の便を優先して考えると、結局渋谷に現地集合になってしまった。


 店を予約してくれたのは麻那美だったのだが、場所が分かりにく過ぎて驚いた。

 方向音痴では無い心算(つもり)だったのに、地図を見ても店の場所がサッパリ分からず、結局、道玄坂の辺りで、某大手自然派石鹸販売店と、某大手電気店の間をウロウロしてしまい、到着してからも、結構時間が掛かってしまった。


 ビルの三階に位置する店で、看板が(ほとん)ど見えなかったのが原因だった。

 辿り着くまでに苦労はさせられたが、内装は赤が基調ので、なかなか洒落た店だった。


 間接照明に照らされて、細かい無数の水泡が縦に上っていく水槽や、ふんだんに飾られた赤い薔薇が仄かに浮かび上がっている。

 造花なのかもしれないが、照明のせいか、花弁の表面が、本物の薔薇の(よう)な、ベルベットの(よう)な光沢を持ち、そこはかとない高級感が演出されている(よう)に思えた。


 清水の名前で予約されている事を告げると、店の奥を示された。


 窓際の、スクランブル交差点が見渡せる席に、既に来ていた馨と佐織が、向かい合って座って、談笑していた。


 佐織の表情は、龍顕の側からは窺い知ることが出来なかったが、馨の表情には、ハッと胸を突かれるものが有った。


 本当に優しい、暖かい眼差しで、佐織を見詰めていたのである。

 うっとりと、何か大事なものを見るような目。綻びた口元が、本当に優しい笑みを形作っていた。


「もう、馨お兄ちゃん」

佐織の笑い声が聞こえる。其の時、龍顕は自分の胸が軋むのを感じた。


如何(どう)して俺は、『お兄ちゃん』になれないんだろう。昔も、今も。


「御待たせ致しました」

「あ、麻那美ちゃん達」

 気付くと、龍顕の背後に麻那美が居て、佐織と、御互いに手を振り合っていた。


 七品程のコースの食事に合わせて、二時間の飲み放題は有ったが、結局、佐織も麻那美も(ほとん)ど飲まず、馨だけが顔を赤くしていた。



 渋谷駅で解散してから、龍顕は佐織と東横線に乗り込んだ。


 生憎(あいにく)と、座席に座る事は出来ない混み具合だったが、都立大学駅までの十分くらいの距離なら、特に立っていても問題は感じなかった。


 龍顕は手すりを掴んで立つ佐織の隣で、吊り革を持って立った。

 ともすれば人を疲れた(よう)な姿に見せる、電車内の黄色っぽい光の中でも、佐織の肌は白く、其れを、着ている淡いピンクのワンピースや、小振りな装飾のシルバーのネックレスが引き立てていた。手には、淡いグレーのトスプリングコートを持っている。


「そういう服も持ってたの。モノトーンの服が好きなのかと思ってた」


「ああ、実は、インターンの時は、顔色が悪いって言われてしまっていたので、服を買う時は少しでも顔色が明るく見える(よう)に、肌の色に近い、明るい色の服を買うようにしていて。此れ、久しぶりに着ました」


 健気な義理の妹は、そう言って、ふわりと微笑んだ。

 改めて、過労とストレスは怖いと龍顕は思った。聞いているだけで可哀想になってくる。


「麻那美ちゃんみたいな服も可愛いなって思うんですけど、派手かなって思うと、なかなか自分で選んで買わなくて。でも、あの花柄のカシュクールワンピは、ちょっと羨ましかったですね。あんまり、大きい花柄の服って持っていないので」


 其れから佐織は、穏やかな顔で、馨に貰った、亡き愛犬ペロの写真の話をしている。

 守ってやらなければ、と龍顕は思った。

 兄にはなれなくても、昔から、其の気持ちだけは変わっていない。




 帰宅後、龍顕は、自室でベッドに俯せになった。


 シャワーの水音がする。

 佐織だ。


 頭に枕を被る。


 今日の、渋谷の店で感じた胸の痛みを思い出す。


 今の(まま)の関係は、兄妹と家族と恋人の間をフワフワしていて、心地好いかもしれないが、同じくらいの強さで、地に足が付いておらず、(つら)い。


 いっそ『兄』になれれば良いのかもしれない

 でも、『妹』に、恋人が出来たと言われたら、本当に祝福出来るのだろうか。其の人と結婚するのだと言われたら、本当に、仕方が無い事だと思えるだろうか。

 そして、其れが馨だったらと思うと、また胸が痛み始めた。

 しかし、大事にしたい佐織と恋人同士になる、という事のイメージが、龍顕には、なかなか掴めない。其れは、大事にする事と、必ずしも一致していないと思うからだ。


 今まで、こんな事で悩んだ事は無かった。自分には、無縁の事だと、頭の何処かで思っていた。以前は、自分が誰かに好かれているか如何(どう)かとか、そんな事を考えた事は無かった。寧ろ、自分の事を気にしている人間なんて、(ほとん)ど居ないだろうと思っていた。


 しかし、そんな龍顕を、五年前、岐顕と佐織は叱り、馨は、身の期間を顧みず、隠れ里まで、助けに来てくれたのだった。


『そんなに、自分の行動に無頓着でいたら、何時(いつ)か、竹箆返(しっぺがえ)しを食らいますよ』


 麻那美の声が聞こえた(よう)な気がした。


 無頓着。


 そう、今まで、あまりにも、自分に向けられる気持ちや、自分の想いに関して、龍顕は無頓着だったのではないだろうか。


 もしかしたら、今まで、誰かの気持ちを粗末にしてきてしまったのだろうか。


 麻那美に、那花(なのか)の顔が重なって思い出された。


 あの子は、如何(どう)だったのかな。

 十四で、どんな気持ちで死んでしまったのだろう。

 其れは、何と無く怖くて、遠い昔に蓋をしてしまった感覚だった。

 濃厚な、死の香りの思い出だったからである。

 

 今、自分が佐織に如何(どう)思われているのか。


 確認するのは、とても怖い。


 龍顕は、佐織を強く求める事を、とても恐れている。

 正確には、佐織を失う事を恐れている


 だから、なかなか思う(よう)に近づけない。


 龍顕の大事な人達は、龍顕が何も出来ないうちに、龍顕の前から消えてしまった。


 そういう宝物を、もう失いたくない。


 母の理佐(りさ)は死んだ。早佐(はやさ)も、那花も死んだ。


 死は何時(いつ)も、暗い場所で、龍顕の傍に(たたず)み、濃い、甘い香りを発散させている。


 龍顕は、其れを、見ない(よう)に、見ない(よう)にしながら、佐織が其の香りに染まる事を恐れている。


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