9 君の手を
僕はさっそく街のマーケット広場まで行き、カウンターのNPCにアイテムの出品を依頼した。ウィンドウにマーケットUIが表示され、僕はエルへのメッセージに使う五つのアイテムの値段を設定していった。
後ろから覗いているウィリーが口を開く。「ヴァンゲイルの肉、クロウの羽根、ドン・キホーテ・スピア、始まりの福音書、街路樹……。頭周辺の文字で、『ヴァンクロウド始まりの街』か……。本当にそんなんでそのエルって奴は読み取ってくれるのか?」
ウィンドウをフリックして消し、僕は振り返った。
「読み取ってくれるよ、エルなら確実にね。問題はこの世界にいるかってことだ」
「そっか……いるといいな」とウィリーは言った。「でも、まさかイタルが『ヴァンツァー・カンパニー』のギルマスだったとは驚いたぜ。まあ、レベル1なのにやたらと詳しいからサブキャラだと思っちゃいたがな。けどよ、なんでサブキャラの存在を誰にも知らせてなかったんだ?」
「うん……まあ、一人でボーッとするのもいいかなって思ってさ。あれ、でもウィリーはまだ日が浅いだろうに、ヴァンツァー・カンパニーを知ってるの?」
彼は葵のいる噴水まで歩いていき、彼女から一人分のスペースを開けて縁に座った。僕は二人のあいだに腰を下ろし、ウィリーの言葉を待った。
「俺が初めて組んだPTで話題に上ったんだ。魔陽族ギルドの旗で埋まる天魔境界を、少しずつだが天陰族の色に染めていくギルドがあるってな。『今や、すべての天陰族の希望となった巨大ギルド『ヴァンツァー・カンパニー』。その始まりは魔陽族の支配を良しとしなかった無謀な四人の天陰族の集結。すなわち聖騎士ヴァンクロード、神巫女ツバキ、暗黒騎士ナルザーヴァル、魔導法師エルヴィン。彼らは寂れた酒場で杯を交わし、必ずや天陰族の未来のために天魔境界の統一を成し遂げると誓ったのだった』。名前は忘れちまったが、PTの誰かがまるで叙事詩のようにそう語ってたのをよく覚えてるよ」
杯を交わした記憶はないが、僕は否定せずに曖昧に笑っておいた。
「まあ、話は大きくなるものだよ」と僕は言った。「それに僕たちには大義なんて何もなかった。ただ最高の仲間だと全員が確信する出会いがあったから、最高の何かがしたかっただけさ」
僕はふと隣に座る葵の横顔に目をやった。彼女はあまり面白くなさそうに唇を結んでいた。僕は話を続けた。
「でも、僕がヴァンクロードのサブキャラってことは黙っていてほしい。魔陽族はもちろん、天陰族にだってヴァンクロードに恨みを持っている人がいるかもしれないからね。それは僕にとってあまり喜ばしいことではないし、何より一緒にいる葵とウィリーに迷惑をかけちゃうかもしれない」
ウィリーは僕の背中を軽く叩き、諭すような顔で僕に言った。
「わかるぜイタル……。俺だってそりゃ数々のVRMMOを渡り歩いてきたが、どこだって有名人に対する根も葉もない噂や中傷は酷かったってもんだ……。俺自身、掲示板に晒されたことがある。『変態、触るな危険』ってな……。『彼はいつでもパンツを覗いている』……いつでもじゃねえよ! だいたい、VRMMOでおパンツ様を覗けるチャンスなんてリアル並みにねえだろ! って面と向かってそいつに言ってやりたいが、誰が書いたか見当もつきゃしねえ。
まあ、その程度の不愉快なら我慢すりゃいいが、ここではそうもいかねえもんな。死んだら即終わりの世界。まだレベルの低いイタルがヴァンクロードだと知られたら、魔陽族がわんさかとこの天大陸に乗り込んでくるんじゃねえか? 同族からも背中を刺されたりな」
ウィリーは話を終えると、もう一度僕の背中を手のひらで押すように触れ、すっと立ち上がって歩き出した。振り返って彼は言った。
「ちょいと試しに<ブルー・スライムの体液>をマーケットに出してくるわ。まだ出品したことねえからな――誰にも言わねえよ相棒、言うわけねえだろ?」
僕は微笑みながら頷き、彼の背中を見送った。いつでもおパンツ様を覗いている男、ウィリー。そして同時に、信頼のおける男でもある。
「それで――」と突然葵が言った。あとに続ける言葉を直前まで迷っているような声の響き方をしていた。
「エルがメッセージを受け取ってこの街にやって来たとして……それでイタルはどうするの?」
「どうするって?」
「つまり、聖騎士ヴァンクロードとして、『ヴァンツァー・カンパニー』のギルド・マスターに着任するのかってこと。私とあの変態をここに置いて」
僕はすぐに返事を返せない。エルが僕を見つけてくれた後のことは考えていなかったからだ。
僕はなんとなくここから見えるマーケット広場の光景をゆっくりと眺めまわした。色とりどりの花が植えられた花壇の前のベンチに、女が二人座っていた。どちらもNPCではなく、僕らと同じ境遇のプレイヤーだ。二人とも、どこか現実感の乏しい薄い表情をしている。ほかの人たちも概ねそんな表情だ。少し離れたベンチで空を見上げている青年。木陰であぐらをかいて座り、地面と睨めっこをしている少女。ゆっくりと僕の視野に入り込み、そしてゆっくりと外れていく男女のカップル。みんな楽しくなさそうだ。僕は葵のエメラルド・グリーンの瞳を見つめる。
「たぶん……そうなると思う」と僕は言う。それからまた街の情景に目をやる。
みんな楽しくなさそうだ。ログアウトのできなくなったこの世界で、どうすればいいかと途方に暮れている。あるいは途方に暮れているように僕には見える。それはあたり前のことだけれど、本来この美しい世界にあってはならないことでもある。
無限に広がる空と、有限だけれどどこまでも歩いて行ける大地。川のせせらぎと香る花々。鳥のさえずりや、獣の咆哮。財宝が眠る洞窟と、いくら時間があっても足りないぐらい雄大な海。天空を貫く塔と、無限に続く地下迷宮。そして何より大切な仲間たち。あと、天陰族と魔陽族の終わりのない争いが少々。
楽しいことはここにある。きっと誰もがそれを見つけられる。たとえどんな状況であれ、どんな悲劇が待っていようとも、僕たちはみんな夢中になれる瞬間をここで――たかが、ログアウトができなくなっただけのこの世界で――見出すことができる。その気持ちさえ忘れなければ。
「イタル? 大丈夫?」と葵は僕の顔を見て心配そうに尋ねる。
大丈夫、と僕は言う。大丈夫。ほんの少しだけれど、僕がここでやるべきことが見えた気がする。
「ヴァンツァー・カンパニーは初心者の支援なんかもやっていたんだ。装備をただ同然で造ってあげたり、メイン・クエストで魔大陸に行かなくちゃならない人たちの護衛をやったり……。僕が言い出したことだけど、ツバキは喜んで初心者ヒーラーのお悩み相談室なんかを設けていたよ。エルもNM討伐ツアーを週一で開催していた。ナルザーヴァルはあまり乗り気じゃなかったみたいだけど、それでも何度か初心者を連れて魔大陸で暴れまわっていたな……。ごめん、僕しゃべりすぎてる?」
葵は憂いげな表情で首を振った。ここにも笑顔になってほしい人がいる。
「つまり……ヴァンツァー・カンパニーの力で、ここのみんなに希望を取り戻してもらえたらなって思ったんだ。死亡したら消えちゃうなら、少しずつでも戦えるように支援してあげたい。それでも駄目ならヴァンツァー・カンパニーが盾になってあげたい。僕らにはその力がある。もちろん、明日にでもログアウトできてこのおかしな世界から逃れられるようになる可能性もある。だけど、僕は今日もこの世界の人々には笑っていてもらいたいんだ」
僕は葵の手を取ってぎゅっと握る。彼女の顔が見るみるうちに赤くなっていく。葵はすぐに顔を赤くする。
「もちろん、エルが迎えに来てもお別れなんかじゃないよ。ヴァンツァー・カンパニーに招待するから、入ってくれると嬉しい。もちろんウィリーも一緒にね。だから葵、悲しい顔をしないで?」
僕は葵のなんらかの返事を、彼女の小さな手を僕の手で包みながら待っていた。けれど、僕はそれを聞くことができなかった。
「おいイタル! また人が死んだぞ! くそっ……どうながってやがんだ!」
ウィリーが僕らのもとへ駈け込み、葵と繋がっている僕の手を無理やり取って引っ張った。そしてどこかに僕を連れて向かっていった。
「急に倒れて、動かなくなったみたいだ! それからすぐに消滅したんだとさ!」
離れた瞬間、葵の手は宙を扇ぐようにして僕の手を追いかけていた。とても儚く、とてつもなく広い砂漠の真ん中に置いていかれた氷細工のように僕には見えた。