6 RMT
ルヴェサイユ銀行の前の人気は次第にまばらになっていき、ひとり、またひとりとどこかに去っていった。ここでじっと事態の収束を期待して待っていることに疲れたのだろう。
やがて僕と葵とウィリーと気絶している男だけになると、街の時計塔が二十時の鐘を打った。僕は立ち上がり、ウィンドウを開いて初期装備のナイフを具現化させ、気絶している男のもとまで歩いた。
「どうするの?」と葵が僕に訊いてきた。
「こうするんだよ」と僕は言って、ナイフで男の手を縛っている縄を切った。
ウィリーは驚いて跳ね起き、男を注意深く見つめたまま樫の木の杖を構えた。
「じ、自由にしてやんのか?」
「まさか。ちょっとアイテム欄と所持金を覗かせてもらうんだよ」
僕は男の人差し指をつまんで空中に小さな円を描かせ、インベトリ(所持アイテム欄)を表示させた。しかし、この街のクエストで取得できる物がちらほらと並んでいるだけだった。
「へえ……本人の指で操作すればこんなことができるのか……」とウィリーは一緒に男のインベトリを見ながら興味深げに言った。
「覗けるのはインベトリと所持金だけだけどね。たしか次の街で魔陽族のスパイの持ち物を調べろってクエストがあったはずだよ。だから、だいたいはみんなそこで学ぶことになる」
期待するような物はなかったので、次にまた男の人差し指でZを描いた。そこに表示されている金額の桁数を見て、ウィリーは欲の塊みたいな息を音を立てて呑み込んだ。
「な、70,000,000Zel……。なんだこいつ……なんで初心者なのにこんなに持ってやがんだ……?」
葵が蔑んだ目ではっきりと口にした。「RMTに決まっているじゃない。不正行為者だったってわけね」
僕は曖昧に頷き、男の指でウィンドウをフリックして表示を消した。
「わかってたって顔をしてるな」とウィリーが言った。「人がいなくなるのを待ってから不正をあばいた理由はなんだ?」
僕は再び男の手を縄で縛りながら、彼の質問に答えた。
「この人が装備していた<ハード・クラッシャー>はデンデケ砂漠の大型NMが稀にドロップする、クリティカル確率がすごく上がる剣なんだ。適正レベルは55だけど、レベル90のカンスト連中もいまだに欲しがる逸品だよ。その効果のおかげで、要所ようしょで有効だからね。だからマーケットで買うとなるとボッタクリに近い金額を払うことになる。初心者が手にしていて見過ごせる武器じゃないんだ。そして――案の定の所持金というわけさ。
人がいなくなるのを待っていた理由は……まあ、それでもRMTだと断定はできないからね。フレンドから貰った可能性も少しはある。疑わしいというだけで、不特定多数の前でレッテルを貼るべきじゃない」
へえ、と気の抜けた返事をウィリーはした。「そんなもんかねぇ。……まあ、こんな奴にでもお前は情けをかけてやったってわけか」
しかし、僕の最低限の思いやりは無駄に終わることとなった。突然目を覚ました男は縛られているとわかると声を限りに叫び散らし、激しく身体をうねらせて抵抗を示した。僕もウィリーも気を鎮めさせようと努力したが、男はわけのわからない宇宙的言語のようなもので喚くだけだった。
そんな錯乱状態がひとしきり続き、それから急に男は動かなくなった。まるで糸を断ち切られた操り人形のように、ぷっつりと。
僕たちは男のとった行動を知って、言葉を失った。
男は舌を噛み千切り、口から大量の血を噴き出して死亡していた。
*
天陰族のソルジャーみたいに、目の前の男も光とともに消え去ってしまった。やはり蘇生猶予時間もなければ、ホーム・ポイントに飛ばされることもなかった。
背反的可能性を僕は考える。男は死亡して現実世界に戻ったのか、それとも現実世界でも死亡したのか……。どちらにせよ、彼はもうこの世界には存在しない。明かされるべきいくつもの事柄を抱えたまま、彼は消滅してしまったのだ。
最初に口を開いたのは葵だった。
「それで、これからどうするの?」
「とりあえず――」と僕は言った。「ご飯を食べよう。なんかリアル世界みたいに腹が減ってきた気がするよ」
僕たちはこの街の北部にある食堂に足を運び、それぞれ好きなものをカウンターのNPCに注文した。すぐにトレイに載せられた料理が隣の配膳台に現れ、僕らはそれを持ってテーブルに着いた。
僕は親子丼を注文したのだが、ひと口ひと口食べるたびに、不思議なことに食物がちゃんとお腹にたまっていく感覚があった。以前も美味しいと脳に錯覚させるシステムではあったが、ここまでリアルに知覚することはあり得なかった。お腹もしっかりと膨れてきている。この世界はいったいどうなってしまったのだろう?
葵もウィリーもだいたい僕と同じ感想を漏らしながら、食事を口に運んでいた。葵はタラコスパゲッティーで、ウィリーはハンバーガー三つとフライドポテトだった。
「ごちそうさま、おごってくれてありがとう」と僕は食べ終えてからウィリーに言った。
葵も紙ナプキンで口許を拭い、『ゴチソウニナリマシタ』と苦し紛れのセキセイインコのように言葉を発した。
「まあ、このなかじゃ俺が一番レベル高いし、何より見た目が少年少女のお前らと割り勘てのも気が引けるからな。でもこれで社会的責務は果たした。次からはきちんと各自で払うんだぜ?」
「ツギカラハ」と葵は口にした。今度は冬眠前のツキノワグマのような目つきと口調だった。
彼女は結局、追加でかつ丼とエビグラタンとチョコレートパフェとチーズケーキを注文し(もちろんすべてウィリーが代金を支払った)、全部残さず綺麗に食べた。そして少し風にあたってくると言って外に出ていった。
しばらくすると、ほかに客もいないというのに、ウィリーは隠し事を明かすような小さな声で僕に言った。
「あいつの異常な食欲と俺の軽くなった財布のことは置いといてよ……なんかあいつ、俺のこと嫌ってないか?」
「たしかに、ちょっとトゲトゲしい感じはするね」
「なあ、なんでだ? 俺がポッター性なのがそんなに気に入らなかったのか? ウィーズリー性にしとけば良かったのか?」
僕は腕を組んでうーんと唸った。ポッター性とウィーズリー性? 元ネタがわからない。
「悪かったわね、別にそんなんじゃないの」とテーブルの脇に立った葵が言った。いつの間にか戻っていたようだった。「ただ、私かなりの人見知りなのよ。だからあなたとも普通に話せるようになるまで時間がかかると思う」
はいすべて解決、という風に、葵はすっきりした顔で僕の隣に座り、優雅に紅茶をすすった。僕はその姿を見ながら呆れ気味に言った。
「いや、僕とだって五時間ぐらい前に会ったばかりだろ?」
するとウィリーはまた驚いた顔で大袈裟に口を開いた。彼のそんな表情は馬がいななくときと少し似ている。
「お前たちカップルか仲のいいフレンドじゃなかったのか!? 俺はそんな、あいだに入りにくい空気をずっと感じてたぞ!?」
「いや、違うよ。ウィリーと出会うほんの少し前に顔を合わせばかりさ……って、なんで照れているの?」
同意を得ようと葵の顔に目をやると、彼女の顔はまた真っ赤になっていた。
「う、うるさいわね。別に照れてなんかいないわよ」と照れながら彼女は言った。
ウィリーは鬼の首を取ったように手を叩いて笑い、僕もつられて笑った。僕らはそれから長いあいだ笑っていた。たぶん必要以上に笑っていた。きっと、舌を噛み千切って死んだあの男の残像を頭のなかから追いやりたかったのだと思う。
けれど、それはしばらく消えることはなかった。いつまでも思考の中央にこびり付いたままだった。
だから僕たちは眠った。信じがたいことに、それは現実の世界のような直截的な眠りだった。