5 想像すらしたことのない
ウィリーに気絶した男を担いでもらい、僕たちはルヴェサイユ銀行の前まで戻った。<ハード・クラッシャー>で破壊されたむごたらしい銀行の壁や窓はそのままだったが、負傷した人たちは快復したようで、一か所に集まって何か話をしていた。どの顔もかなり深刻そうな表情で固まっている。
「イタル、そっちはどうだった?」
葵が僕に気づき、歩み寄ってきた。僕はウィリーと顔を見合わせ、それから壁に書かれていた文字群を彼女に告げた。
「『おれたち全員この世界に閉じ込められたんだ! 全員ここで死ぬんだ!』……。この人がそう書いたのね?」
葵は汚らわしいものを見るような目でウィリーの肩の辺りを睨んだ。ウィリーが気絶した男をその場に降ろすと、葵の視線も追従して下方に移動した。
「そういうことだ、可憐なお嬢ちゃん。そんで、みんなしてなに辛気くせえ顔してるんだ?」
こいつ誰? という風に、葵はウィリーを指差して僕の顔を見た。
「ウィリーだよ、ウィリー・ポッター。ソーサラーのレベル10。彼と協力してこの男を捕らえたんだ」
「ポッター……。うわ、最悪。私の美しい映画の思い出が汚されるわ」
面食らったような顔でウィリーは僕の顔を見て、彼女についての説明を求めた。やれやれ、僕は結婚相談所のコーディネーターか。
「この子は葵。プリーストのレベル……いくつだっけ?」
葵は黙って右手の指五本と左手の指二本を立てて僕にだけ見せた。レベル7ということだ。
「レベル7のプリースト。それでついでに僕はスカウトで、レベルは1のまんま」
「レベル1っ……!? お前レベル1でPK野郎に挑んだのか!?」とウィリーが驚いて訊いてきた。ついでについでにいうと、彼は好青年風のアバターで、体格のいい短く刈った黒髪だ。若干馬面ということを除けば、まあまあハンサムでもある。
僕はウィリーの驚愕にあまり耳を貸さずに、彼の『みんなしてなに辛気くせえ顔してるんだ?』という質問を引き継いだ。葵はその場でぐるっとまわりを見まわしてから口を開いた。
「ログアウトができないの」と葵は言った。ログアウトができないの?
葵の言葉と気絶している男の落書きが、僕の頭のなかで必然的に重ねられた。僕もウィリーも反射的にウィンドウを開き、スライドして《ログアウト》をタップした。しかしなんの反応もなかった。
葵が僕のウィンドウを覗き込み、「ね?」と言った。彼女の金色の細い髪が宿命的な風に吹かれ、僕の鼻先をくすぐった。
*
「ちょっとみんな聞いてくれ」
集まっている人たちに声をかけ、ウィリーはさっき僕たちが見たものについて説明した。すぐになんやかんやと質問が殺到した。
閉じ込められたってどういうことだ!? 全員死ぬってどういうことだ!? そこの気絶している男はなんでそんなことを知ってるんだ!? 魔陽族じゃないのかそいつ!? そいつが殺した天陰族はなんで消えたんだ!?
まあだいたいこんなところだった。ウィリーは黙って気絶している男の外套をめくり、背中を露出させた。そこには天陰族の証である、<月の紋章>がありありと刻まれていた。
「俺たち全員の背中にあるものと同じだろ? 間違いない、こいつは天陰族だよ。天陰族が天陰族を殺したんだ。あとのことは俺たちにもさっぱりわからねえ。なんでログアウトできないのか、俺があんたらに訊きたいぐらいだぜ」
気づけばこの街に滞在している多くの人々が集まっていた。そして伝染するように話が広まっていき、誰も彼もウィンドウを開いて煮え切らないような表情でタップを続けていた。老若男女、総勢五十名といったところだろうか? 各々が通過儀礼のような行動を終えると、自然と視線がウィリー一人に注がれることになった。彼は刈り上げられた後ろ髪をぽりぽりと搔き、すっとその場に座り込んだ。
「少し経てばログアウトできるようになるかもしれねえ。障害のアナウンスが運営から入るかもしれねえ。どっちみち、今は待つことしかできねえだろ?」
ここにいるほぼ全員が彼に倣い、落ち着きを取り戻して静かに腰を下ろした。何名かは黙って街のどこかに消えていった。
僕もウィリーの近くで腰を下ろし、少し遅れて葵も僕の隣に座った。たしかに、とりあえずは変遷を期待して待ってみるしかないだろう。
しかし、一時間経っても何も変わらなかった。そのあいだにいくつかの新しい事実が判明しただけだった。
「テレポート機能の不具合か……」
誰かがゆっくりと咀嚼するようにそう呟いた。通常であれば、大きな街や施設に設置されている<祈り子像>に触れてコネクションを済ませることで、それを通じて瞬時に街の行き来ができるようになるのだが、どういうわけかそれが機能していないのだ。
それと、プレイヤーの検索やメッセージでのやり取りもできなくなっているようだった。葵は適当なアルファベットが並んでいる検索ウィンドウを閉じ、ため息をついてから口を開いた。
「これじゃあ、この街以外の状況がまるでわからないわね。イタルはどう思う? つまり、私たちだけじゃなくて、この世界のプレイヤー全員が閉じ込められているのかってこと」
「たぶん。そう考えるのが自然じゃないかな。あの紫色の妖しい雲……きっとあれがこの状況の幕開けだったんだと思う」
この状況。未曾有の事態。ログアウトできずにVRMMOの世界に閉じ込められるなんて、きっと誰も聞いたことのない(そして想像すらしたことのない)震天動地の現象だ。スティーブン・キングの小説にだってこんなものはないだろう。馬鹿げているし、創作物としてもリアリティを欠きすぎている。
しかし、それは今や僕らにとってのリアルそのものだった。非常事態と判明してから数十分は、きっと誰もが『一時的な出来事』として捉えていた。しかし一時間経ち、二時間経ち、三時間が経過すると、次第にみんなの顔に焦りの色が浮かび上がってきた。誰かが運営会社を痛烈に批判し、誰かが空に向かって助けを乞うように叫んだ。誰かが誰かを罵倒し、誰かが誰かを殴りつけた。
そのようにして、天陰族の初心者エリア『始まりの街・ルヴェサイユ』は騒動後初の夜を迎えることとなった。闇が息を潜めて僕らの動向を窺い知ろうとしているような、そんな妙に静かな夜だった。




