3 青りんご味のドロップみたいな
やがて紫色の雲は潮が引いていくように散っていき、しばらくして完全に消えてなくなった。また太陽の光が地上を照らしはじめ、桜の木の影が石畳の上で陽炎のようにほのかに揺らめいていた。
僕はベンチに座ったまま、目の前に落ちているその影を見ていた。気のせいだろうか? VRMMOの世界のくっきりとした濃い影から、現実の世界のどこか輪郭がおぼろげな薄い影に変わっているように感じられた。そこに違うかたちの影が重なり、突然声が響いた。
「さっきのはなんだったの?」
僕は顔を上げて、その影と声の持ち主を見上げた。春風と桜の花びらに翻弄されていた、金色の長い髪の女の子だった。
「さあ、なんだったんだろう?」
彼女のエメラルド・グリーンの瞳を見ながら僕はそう答えた。なんだったんだろう?
少女は初心者のようだった。プリーストが最初に与えられる胴装備と脚装備を身につけていた。メイド服のようなデザインの装備だ。その短いプリーツスカートも、ゴシック調のシャツも、真っ黒に染められていた。たしかもともとは白を基調としたものなので、少なくとも装備の染色が可能になるレベル5には到達しているみたいだ。
「あなた名前は?」と女の子は僕に訊いてきた。名前?
「ああ、フレンドか同じギルドメンバーじゃないと何も表示されないんだっけ」と僕は彼女の目を見ながら言った。
そのエメラルド・グリーンの瞳を見ていると、僕は小さい頃に好きだった缶容器のドロップをふと思い出した。なかでも青リンゴ味が一番のお気に入りで、母さんが買って帰ってくると、僕は真っ先に青リンゴ味をすべて抜いて、透明な皿の上に並べ、それを飽きることなく眺めていた。
綺麗で、そしてとてもおいしい青リンゴ味のドロップ。彼女の瞳の色はあれとよく似ている。
「イタルだよ」と僕はしばらくしてから答えた。彼女は怪訝そうな表情で質問を重ねた。
「中世ファンタジー風VRMMOにそぐわない名前ね。もしかして本名?」
「そ、そうだけど」
「ふうん」
僕はいまだかつて『ふうん』で会話を閉じる人間には出会ったことがなかった。しかし出会ってしまったみたいだった。彼女は腕を組んで立ったまま、ベンチに座る僕を見下ろしていた。
「き、きみはなんていうの?」と僕は空白を埋めるように尋ねた。
「……葵」と彼女は言った。
「アオイ」と僕は繰り返した。
金色の髪と、エメラルド・グリーンの瞳と、そして葵という名前。なるほど素晴らしい色の採り合わせだ。そしてそこに赤みが加わった。感情に反応して、彼女のアバターの頬がだんだんと赤く染まっていったのだ。
「な、なんで照れてるの……?」
「う、うるさいわね。別に照れてなんかいないわよ」
強がって見せる彼女はとても可愛らしかった。いや、アバターなのだから可愛いのがわりと普通なのだけど、それを超越した自然なキュートさが彼女にはあった。雰囲気もどこか親密性に充ちているように感じられる。
「もしかして、外の外見をそのまま反映させてる?」
僕は訊きながらも、既に確信していた。この自然さと親しみやすさは外の外見の流用に決まっている。ヴァンツァー・カンパニーにも何人かそういう人がいて、やはり共通して暖かい空気のようなものを纏っているのだ。
「あなたもでしょ?」
僕は頷いた。倉庫用のサブキャラなので、最初にデフォルトとして形成される自分の外見のまんまでいいやと思ったのだ。ただ、髪の色だけは銀色に変更してある。アバターをかっこいい銀髪にするというのは、僕のVRMMO人生における命題なのだ。彼女の金髪やエメラルド・グリーンの瞳もそうなのかもしれない。
「ふうん」と彼女はまた言った。けれど、今度はすぐにまた続けて口を開いた。「隣、座ってもいい?」
僕は頷く。しかし、彼女はそれよりも早くベンチに腰を下ろしていた。あるいは未来予知の力でも具わっているのかもしれない。
「あなた、背が低くて可愛い顔をしているのね」
「可愛い顔? 僕が?」
「そうよ。他に誰がいるっていうの?」
「初めて言われたよ。……いや、小さい頃はよく言われたっけな」
少しのあいだ沈黙が続いた。野原の真ん中にできた陽だまりのような沈黙だった。僕は彼女と並んで座っていて、とても心地よく感じているみたいだった。
不思議な感覚。どちらかといえば僕は人見知りで、このサブキャラで誰かと膝を突き合わせて話をしたこともないというのに、彼女と共有するこの沈黙には少しも居辛さのようなものを覚えなかった。もう少しこのまま黙っていようと思ったぐらいだった。どうしてだろう?
僕は彼女の横顔を見た。ぴったりと真横に口が結ばれていた。とても可憐で、不可侵性を帯びた唇だった。そしてそれが開かれようとしていた。
「あのね――」と彼女は言った。同時に、何かが破壊されたような轟音が鳴り響いた。
「っ……!」
僕は音の方向に顔を振った。桜並木のずっと先、ルヴェサイユ銀行の辺りに人だかりができているのが見えた。
「あれなに? どうかしたの?」
「わからない。でもなんだか様子が変だ、行ってみよう」
そこで僕たちは異様な光景を目の当たりにすることとなった。通常ではあり得ない、建物への破壊行為の痕跡がありありと残されていたのだ。
粉々になったガラス、崩れ落ちたレンガ。そして、粉砕に巻き込まれて負傷した数名の天陰族。その犯人らしき者の姿はどこにも見あたらない。
「銀行の壁……よね。ぽっかりと穴が空いているわよ?」と葵は言った。
「新しいイベントかな……」と僕は言った。けれど、そんな楽しげな催しでないことは明らかだった。
僕は葵に治癒を指示し、辺りを注意深く見まわした。しかし、彼女は一向に動こうとはしなかった。
「治癒……私が?」
「そうだよ、きみプリーストだろ!?」
「ああそうね。わかったわ、任せて」
他にも何人かのヒーラーが負傷者のもとに駆け寄り、ヒールをかけてあげていた。みんな初心者なので一様に低回復力だが、それでも怪我を負った人たちはウィンドウのなかの自分のHPゲージが伸びていくを見て、ほっとした表情を浮かべていた。
葵も治癒に取りかかっていた。彼女のヒールの光が地面に織りなす弱々しい陰影を目にしながら、僕は瞬間的に考えを纏めた。そして街路を西へ駆け出した。地理的に、犯人が逃げ込むならこのメイン通りの外れから伸びる裏通りしかない。
同じことを考えたプレイヤーが二人いた。革鎧の男と魔導衣の男だった。どちらの胴装備もレベル10から装備可能で、この街のメイン・クエストをすべて達成するとNPCから貰えるものだ。つまり、まだこのVRMMOに慣れていない初心者ということになる。
「少年、お前は危険だからついてくるな!」と魔導衣の男が走りながら言った。彼は既に樫の木の杖を手にしていた。
角を曲がったところで、この人は僕に言っているのだと気がついた。ああそうか、僕は今サブキャラで、しかも初心者と評した彼らよりも低レベルなんだ。
「ありがとう、でも無理はしないから大丈夫!」と僕は言った。裏通りに入り、僕たちは足を緩めることなく奥へと急いだ。
ドンピシャだった。行き止まりの薄暗い路地の先に、見るからに怪しい人影があった。
しかしどこか様子がおかしい。僕らが慌ただしくやって来たというのに、人影は(どうやら色褪せた外套とフードを纏う男らしい)灰色の壁に赤いスプレー缶で何か一心不乱に書き殴っていた。
少し離れた位置で僕たちは立ち止り、息を整えながら男の出方を窺う。
「俺の知らないあいだにアップデートでもあったのか? つまり、街の建物を壊したり、壁に落書きできるようになったのか?」
魔導衣の男のおぼつかない問いに、僕はきっぱりと首を振る。そんなアップデートは行われていない。
突然、横に立つ革鎧の男が「ヘヘっ」と笑った。ウィンドウを操作して直剣を具現化させ、それを力いっぱい握りしめた。
「ここのクエストは全部済ませたと思ってたが、まだ残ってやがったか! 報酬はなんだっ!」
直剣を振りかざし、革鎧の男はスキル<速足>で狭い路地を駆け抜ける。そして怪しい男の背中を力任せに斬りつける。
「おっ……おいやめとけ!」と魔導衣の男がその場から声をかける。「どう見てもNPCじゃねえだろ!」
革鎧の男が「へっ?」と口にしながら振り返る。
それから少し遅れて怪しい男も後ろを振り向く。そしてスプレー缶を投げ捨て、腰の剣を緩慢な動きで引き抜き、剣先を皮鎧の男の背中に走らせる。
「へっ……?」
叩きつけるような背中への斬撃だった。HPが減少したことによって革鎧の男の頭上に真っ赤なHPゲージが現れ、それがゆっくりと半分のところまで減っていった。
彼は何が起こったのか理解できていなかった。大きく仰け反り、予想外の出来事に対して薄ら笑いさえ浮かべていた。
僕は叫び声をあげる。「クリティカル・ヒットだ! 仰け反ると何もできずに追撃を食らうぞ! 早く体制を立て直せ!」
僕の声が虚しく路地裏に響き渡った。結果的に、ということだけれど、まるで硬いアスファルトの上を吹き抜けていく風のように、僕の声は彼の行動に一切の変化をもたらすこともなく、少しばかりの反響を残して消えていった。
怪しい男の足元で、革鎧の男は腹を斬り裂かれて仰向けになって倒れていた。HPがゼロになり、刹那的な光が体全体を包み込むようにして覆った。
そしてしばらくして淡い光が消滅すると、もうそこに皮鎧の男の姿はなかった。ただ一本の直剣を残し、光とともに消え入るようにしてそこからなくなっていた。
「ケケケ……ガガケケ……」と怪しい男が笑った。