18 おじいさんと子供
朝起きると、僕は同室のウィリーを起こさないように注意して準備を整え、宿を出て街の外れに向かった。おじいさんと小さな男の子が泊っている宿屋の前で出待ちをしてみようと思ったのだが、そう考えていたのは僕だけではなかったみたいだった。
「あら、イタルも来たの?」
宿の向かいにある古ぼけたベンチに葵が座っていた。彼女はいつもどおり普段着として黒いメイド服を纏い、文庫本を読んでいたようだった。
「おはよう」と僕は言った。「それはなんの本?」
彼女は無言で表紙を僕に見せ、栞を挟んで膝の上に置き、それからウィンドウを操作して『不思議の国のアリス』をインベトリにしまった。この世界にはこういった著作権フリーの古い文学が、街の本屋でアイテムとして売られているのだ。
「なんかイメージとぴったりだね。葵もせっかくの綺麗な金髪なんだから、そのメイド服を水色にしてみたら? アリスっぽくなるんじゃない?」
「嫌よ。私のソウル・カラーは漆黒なの」
ちょっとした提案を語気鋭く否定されてしまった。ずっと前にも似たようなことを聞いた覚えがあったが、その記憶の糸を辿ろうとする前に宿屋から小さな子供が出てきた。
「あの子よ」と葵は言い、立ち上がった。「やっと見つけたわ」
僕たちが男の子に近づいていくと、少し遅れておじいさんも宿の戸を開けて表に姿を現した。彼は僕と葵に気がつき、のどかな微笑みを浮かべて会釈をした。僕は朝の挨拶をしてから、一昨日マーケット広場に来なかった理由を尋ねた。
「ええ、この子が外で戦うのはどうしても怖いと駄々をこねまして……」
男の子はおじいさんの後ろに隠れ、中立的な眼差しで僕と葵のことを見ていた。葵は一歩前に出てしゃがみ込み、男の子の頭に手のひらを載せた。
「怖いことなんて何もないわ。攻撃を受けても、鉛筆の先で手の甲を突いた程度の痛覚しかないのよ?」
男の子の目に大量の涙が溢れた。葵の言葉で、何かしらの恐怖が心をほとばしったようだった。
「すいませんねえ、孫は先端恐怖症なんです」とおじいさんは言った。鉛筆の先というワードチョイスに問題があったようだ。
「このとおり、わたしと孫は戦いを楽しむためじゃなく、中世の街並みと壮大な自然を目当てにここにやって来たんです。一年以内に『レベル20になって二次職』にならないと消されてしまうという話は耳にしました。『レベル』も『二次職』もわたしらにはてんで意味がわかりませんが、幸い一年という期限までには三百日以上あります……。だからわたしはゆっくりと孫に外を慣れさせてあげたいんです」
そういう事情があるのなら無理に誘うわけにもいかない。それに、もしかしたら――希望的観測ではあるかもしれないけれど――彼らの期限を迎える頃にはこの世界も正常に復しているかもしれない。
葵は微笑み、男の子の頭に置いてある手のひらでそのまま何度もツンツン頭を撫でた。「じゃあ、もう少し大きくなったら一緒にモンスターをやっつけましょ。大丈夫、何があってもこのお兄ちゃんが体を張って護ってくれるし、もし鉛筆で突っつかれたら私がヒールで回復してあげるわ」
男の子の顔が見るみるうちに赤くなっていった。こんな小さな子供でも、葵という少女の美しさに心を惹かれているようだった。
「それじゃあ、お昼だけでもご一緒しませんか?」と僕はおじいさんに言った。「マーケット広場でレベル上げメンバーのみんなと食べているんです。お孫さんと結構近い年齢のアバターの人もいますし、仲良くなれると思います」
おじいさんは僕の申し出を快く受け入れ、迷惑でなければぜひお願いしますと言ってくれた。僕たちは名を名乗り合い、そこで手を振って別れた。
「助けになってあげたいわね。どうすればモンスターと戦う勇気を与えてあげられるのかしら?」と葵は歩きながら言い、すぐに顔を横に振った。「――ううん、勇気なんて与えられるものじゃないわね。私たちにできるのは、そのきっかけを作り出すことかしら」
僕は少し考えてから言った。「まずはお昼をともにして、少しずつ話をしよう」
彼女は力強く頷いた。その足取りは、二人を探しているときよりもだいぶ軽やかなようだった。
*
しかし彼らはマーケット広場にやって来なかった。
突然の雨が葵の足元を暗く染め、空には植物の根のように細く暗示的な稲妻がいくつも走っていた。
僕らが心配になって街を右往左往していると、僕と葵の前にまた望まないほうの二人組が姿を現した。
「よお、あんたたちか」といつもどおり筋骨隆々のウォリアーが言った。「どうした、雨が降ってるのに傘も差さずに」
「へへっ……もしかして、また爺さんとガキを探してるのかっ……?」と細身のドルイドがいかにも期待していそうな口調で言った。その顔つきは、黒魔術に使用した後の鶏の死骸を僕に連想させた。妙に細長い手足が不吉を示唆しているようで、少しだけ僕をイライラとさせる。
僕は黙って金貨を一枚彼に投げ渡す。「何か知っているなら話して。そうじゃなければ口を開かないで」
「な、なにおっかねえ顔してやがんだよ……。まあいいぜ、情報料さえいただけば商品は間違いなく渡してやる。……と言っても、ちょっとしたことだけどな」
「おい、急いでるみたいだから前抜きなしで話してやれよ」とウォリアーの男が促す。彼となら友達になれるかもしれない、と僕は思う。
「いやなぁ……一時間ほど前に爺さんに訊かれんだ。『あそこの花壇の花は、もともとどこに咲いていたものなのですか?』ってな。当然そんなことはオレの知ったこっちゃねえ。『さあな』って答えたさ。『そうですか、ではどなたか知っている人の心当たりはありませんか?』って食い下がってきやがった。オレも少しだけ好奇心が湧いてきた。『どうしてそんなことを知りたいんだ?』『孫がね、あの花をとある女性にプレゼントしたいって言うんです』。それでオレの頭はパニックよ。欲しいなら花壇から引っこ抜けばいいだろ? 爺さんは言ったさ。『それではだめです。自然が分け与えてくれたものを、孫にはプレゼントさせてやりたいんです』」
話が見えてきたが、僕は何も言わずに彼の話に耳を傾けていた。葵も熱心に聞いている。
「オレはチョックラ感動したわけよ。心を洗われた気分だったわけよ。それで思いついたわけよ。『あの花、たしか西エンシェルの東の森に咲いてたぜ?』ってタダで教えてやったさ。へへっ……レベル5のメイン・クエストでお使いさせられたロッジのあたりで見たのを思い出したんだ」
僕は近くの花壇を指差して尋ねる。「ちなみに、どの花のことをおじいさんは言っていたの?」
細身のドルイドは目を細めて花壇を眺め、指先でそれを指し示す。<エンシェルユリ>という、染色剤の材料にもなっている葵色の花だった。
僕は礼を言ってから葵の手を取り、急いでマーケット広場まで駆け出す。
「なに!? 全然話の意味がわからないんだけど!?」と走りながら葵は言う。
「なんでわからないんだよ! おじいさんとあの子は君へのプレゼントを採取しに森に向かったんだ!」
「私? どうして私へのプレゼントだってわかるのよ?」
やれやれ、葵はちっとも男心をわかっていない。
僕はそれ以上は何も言わず、彼女と手を繋いで雨のあがったねずみ色の空の下を走り続けた。
*
「なるほどな……。その孫は葵嬢に葵色の花を贈りたかったってわけか……マセてやがるな」
ウィリーは食べ終えた特製弁当のゴミをウィンドウをタップして消し去り、ここの花壇にも植えてある<エンシェルユリ>を見て続けた。
「西エンシェルの東の森か……俺もメイン・クエストで行ったが、あそこはアクティブ・モンスターが群れていやがるよな。たしか死霊系ばかりだったか?」
「うん、『亡霊の森』って呼ばれてるくらいだからね。まあメタ的にいえば、初心者プレイヤーにPTを組ませて、各ロールの動きをおおまかに理解させるための場所だ」
ウィリーは頷き、マーケット広場の隅まで歩いて、そこのテーブルに置いてある特製弁当を六つほどインベトリに納めた。
「葵の嬢ちゃんは街の外で待ってるんだろ? なら早いとこ俺たちも行こう。爺さんたちが発ったのが一時間前なら、走れば追いつけるかもしれねえ」
「うん。でも、なんでお弁当六個?」
「お前ら食ってねえだろ? それと爺さんと子供の分だ」
僕は内訳を少し考えてから納得し、レベル上げメンバーのみんなに事情の説明を始めたウィリーの頼もしい背中を眺めた。NM産のレア装備<ブルー・エンペラー・マント>が、風を受けて誇らしげにはためいていた。




