10 スパシーバ、ダスヴィダーニャ
女性は雑貨屋の正面で膝をついて悲しみに暮れていた。ここまで走ってくるあいだにウィリーから聞いた話によると、消滅してしまったのは彼女の現実世界での旦那とのことだった。パニックになり、咄嗟に助けを求めた相手がたまたまウィリーだったらしい。ウィリーは外套のポケットから清潔なハンカチを取り出し、彼女に手渡した。
「脈絡もなく、急に倒れて動かなくなったんです……。それからすぐに消えてしまいました……」
彼女はハンカチで涙を拭いながら、一言ひとこと振り絞るようにそう言った。ウィリーは彼女に手を貸して立たせ、横に寄り添ってゆっくりとベンチまで歩かせた。
「さあ、座ってくれ。そして何があったか、わかる限りでいいから俺たちに聞かせてくれないか?」
「はい、ありがとうございます……」
物腰の柔らかい、四十代前半程度に見えるアバターの女性だった。そこには自然な温もりが感じられた。きっと僕や葵と同じく、現実世界の外見をそのまま流用したアバターなのだろう。
彼女は旦那が倒れる前後のことを詳細に僕たちに話してくれた。途中で葵がやって来て事情を知り、彼女の隣に座って手を握りながら熱心に話を聞いていた。
「それじゃあ、現実世界で重い病気とかそういうのではなかったのね?」と葵は尋ねた。
「はい……。主人は至って健康でした。ですから、現実世界で命を落とし、それでアバターが消滅したというのではないと思います……」
彼女はそれからひとしきり泣き崩れ、葵はその肩を抱いて慰めたり励ましたりしていた。僕とウィリーは少し離れ、二人で事情を整理しようと努めた。
「本当に直前までなんでもなかったのに、唐突に倒れて消滅しちまったみてえだな……」とウィリーは言った。
「うん……。突発的な事故や事件で現実世界の身体が死を迎えたって可能性を完全には否定できないけれど、そうでないとすると一体どういうことだろう?」
「昨日の錯乱した男みてえなのがほかにもいて、ハイドスキルで姿を消して殺ったとかはないか? それか魔陽族が侵入してるとかよ」
「それはないと思う。HPが変動すると頭の上にHPゲージがありありと表示されるし、攻撃を受けたぶん目に見えて減少する。さすがに彼女が旦那さんのそれに気づかないなんてことはありえないよ」
短い相槌を打ち、ウィリーはどこか思案深い顔になって考え込んだ。それからまたすぐに口を開いた。
「あらためて考えてみると、俺たちって今、現実世界で丸一日近く寝てる状態なんだよな……。やべえよな、絶対にやべえよな、これ」
「あるいは外の世界はもうないのかもしれない」と僕は適当を言ってみた。「それか外の世界では時間が止まっていて、動けるのは各VRMMOの世界にいるアバターだけなのかもしれない。宇宙人的要因もあり得る。もしくは、この世のすべてはどこかのアロハシャツを着たオラウータンが組み立てているジグゾーパズルに過ぎないのかもしれない。うっかりおかしなところにおかしなピースをはめてしまったのかも」
「ほんとにそう思ってるか? 宇宙人的要因って、マトリックスみたいな?」
「考えないことだよ、外の世界の自分については。少なくとも考えても何も解決しないと思う」
葵がとことこと歩き、隣に立って怪訝な様子で僕の顔を見た。
「あなたたち、なんの話をしているの? オラウータンってなに?」
「いや、なんでもないよ」と僕は言った。「それより、彼女の様子はどう?」
「少し落ち着いたみたい。旦那さんとの思い出話を聞かせてくれたわ。かわいそうに、よりにもよって今日が結婚記念日だって。それにこの世界に降り立ってちょうど一年目でもあるらしいの。一年前の記念日に、前々から体験してみたかったVRMMOを二人で始めたんだって」
ちょうど一年目……と僕は声に出して繰り返した。「ちょうど一年目……」ともう一度言ってみた。それですべてが繋がった。アロハシャツを着たオラウータンが最後のピースをはめたみたいに、鮮明な一つの情景が浮き彫りになった。
僕は葵とウィリーにそのことを話した。それはあまりにも悲しい、変え難い運命だった。
*
葵はまたベンチまで戻り、彼女と手を繋いで懸命に話を聞いていた。彼女にはいくら語っても語り足りない旦那との思い出があった。葵は目を真っ赤にして、何度も大きく頷いた。決して泣かないと頑張っているようだけれど、その努力はエメラルド・グリーンの瞳からこぼれる落ちる涙に対してあまりにも無力だった。女性は自分が使っていたハンカチをまた半分に折り、葵にそっと渡した。そのもともとの持ち主であるウィリーも男泣きをしていた。
「どうにかならねえのか、イタル……」とウィリーは言った。僕は目をつむり、首を振った。
「サーバーの負荷を少しでも軽減させるため、一年経っても二次職にクラスチェンジしていないプレイヤーのデータは強制的に消去されてしまうんだ……。続々と新しい人が入ってくる世界だからね、少なくとも運営はそう説明している。二次職になるクエストを受ける条件は、レベル20に到達していることと、そこまでのメイン・クエストをすべて達成させていること。自分たちのペースで楽しんでいた彼女のレベルは14……。悲しいけど、今からどうにかなるものじゃないよ……」
彼女に残された時間は短い。旦那に遅れて三十数分後にアバターメイクを終え、この世界での冒険をスタートさせたらしい。これはそれとなく葵が聞き出したことだが、それがどういう意図を持っての質問なのかは葵は言わなかった。僕もそれが正しいと思う。せめて最後の瞬間は安らかでいてほしいから。
「あの人は……本当に現実の世界でも死んでしまったのでしょうか?」と彼女は葵に言った。
葵はすぐに首を何度も横に振った。そして涙で濡れる唇を震わせ、彼女を力いっぱい抱きしめてから囁くように言った。
「死んでなんかいないわ。きっと、旦那さんは先に現実の世界に帰ってあなたを待っているのよ。だから、涙を拭いて明日を見つめて。色づく明日の世界をその目にしっかりと焼き付けて」
女性は優しく微笑んだ。そして泣いている葵の頭をそっと撫でた。「あなたもね――」
そして女性は動かなくなった。電池の切れた人形のようにぴたっと停止し、しらばくして光とともに消えてなくなってしまった。
葵はいつまでも女性のいた空間を見つめていた。スパシーバ、ダスヴィダーニャ……。意味はわからなかったけれど、葵はそう口にしたように僕の耳には聞こえた。
こんな悲劇は絶対に繰り返してはならない。彼女が消えた瞬間、僕らはそう心に誓った。




