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見えない色  作者: かつを
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四章:暗い想い

 第四章:暗い想い


「次入って」


 感情の籠らない無機質な声。そこに並んで座っていた俺と残りの三人が一斉に立ち上がり、アルミ製の扉に向かう。扉が空いた瞬間、俺達の纏う空気が変わる。


「失礼します」


 先頭の者が、張りの有る大きな声で挨拶しながら、軍隊さながらに、足音を鳴らして歩く。誰かが言った。先頭の奴は受かる確率高いらしいぜ、と。誰かも言った。いやいや、最後の奴が一番受かり易いって、と。俺は今、前から三番目。後ろからは二番目。どっち付かずの中途半端な位置は、俺の心情を表している様な気がして、思わず足が震えた。


 もっと早く来るべきだったか。心の中で今更ながらに後悔する。部屋に入ると、何も無い広い部屋に、横長の簡易テーブルが置いて有り、そこには三人の面接官が座っていた。


 次第に迫ってくる面接官の顔は、俺達の事を憎んでいるのでは? と思うほどに険しい物だった。


 喉が乾いて仕方がない。面接中に催してはいけないと思い、水分を控えたのがまずかったか。歯の裏を舌で舐め、無理やりに絞り出した唾液を飲み込む。乾いた粘膜が擦れる様な、不快な感触を喉の辺りに感じる。


「では座って」 


 俺と他の三人は、面接官の前に並べられたパイプ椅子に腰掛けた。面接官は履歴書に目を落とし、それを横へ横へと順番に回していく。そして一通り回ると中心に座る面接官の元に戻された。


「では、そちらの君から順番に、名前と自己PR、それと弊社を選んだ志望動機を述べてください」


 中心に座った面接官が、俺の隣に座る男を手で示した。隣の男は、最後に入室したにも関わらず、一番始めに指名された為か、若干動揺している様子を見せた。


「はっはい! かっ、かがわじゅんいちです! 私は、大学時代アメフトを営んでいて、その中で培った厳しい上下関係が今の私を作っていると言っても過言では有りません! それに人からは元気が有るとよく言われます! 次に、御社を志望した動機は、営業の分野で、いち早く海外への目を向けた御社の先見性に惹かれたからで有ります!」


 面接官達から失笑が漏れる。当然だろう。言っている事が滅茶苦茶で、何一つ言いたい事が分からない。


 アメフトを営むって何だ。お前はクラブチームのオーナーか。それに、培った上下関係が作った人間とはどんな人間だ。


 自分の口元が綻ぶのを感じる。アメフト男の逆隣りに座る男を盗み見ると、笑いを堪えているのか、体が小刻みに震えていた。


「君ねえ。そんなに怒鳴らなくても聞こえているよ。ここは軍隊じゃないんだ。それにアメフトは営むものじゃない。プレイするものだ。それともう一つ勘違いをしている様だが、うちが海外部門に手を出し始めたのは二年前だ。遅いとも言えないが、早いとも言えない。しかも営業ではなく、製造コスト削減の為の工場を作ったんだ。まあでも、君に元気が有る事は良く分かったよ。座っていい」


「はっ! ありがとうございます!」


 何が面白いのだろうか、明らかに面接に失敗しているにも関わらず、男は口元に笑みを浮かべている。


「褒めてないぞ」


 面接官の一人が、声を上げた。再び場に失笑が湧き、男は分かり易いほどに肩を落とした。まさか褒められていると思っていたのか? 俺は隣に座る男の神経を疑った。


「次!」


 緩んだ空気を締め直すかの様に、面接官はより威厳の篭った声で言ったが、その声に一度緩んだ空気を締め直す程の力は無かった。


 隣の男の分かり易い失敗のせいかは分からないが、俺の肩に重くのしかかっていた緊張はいつしか消え、俺は、面接官の質問に詰まる事も無く、自分でも上手く行き過ぎでは無いかと思う程に、上手く立ち回れた。その時はそう思っていた。しかし俺の元に届いたのは、不採用を知らせる便りと、同封された自分の履歴書だった。


 その後、大学のサークルで知り合った友人の、そのまた先輩がその会社に勤めていると言う事で、俺はその時採用になった人間の事を知った。採用になったのは、俺の後に面接を受けた男でも、その次に受けた男でも無い、なんとあの、脳みそ筋肉男だったそうだ。採用理由は元気が有って宜しい。と言う事と、面接官が大のアメフト好きだったと言う理由らしい。他にも理由が有るのかも知れないが、それが採用動機だとすればそんな理不尽な事はない。


 その事を俺に教えてくれた友人は、人事の採用理由が社外に流出する事はまずいから、他言無用で頼むと言っていたが、本当の所は、社外に漏れる事が問題なのでは無く、理由自体が問題なのだろうと俺は当たりを付けた。


 俺の腹の中に、耐え難い屈辱と、黒い嫉妬の情念が溜まるのを感じる。何故あいつなんだ。あいつよりも、俺の方が仕事が出来るはずだ。あんな脳筋男に負けるなんて。あの男が許せない。面接官が許せない。――いや、本当に許せないのは、勝つ事の出来なかった俺だ。その事に気が付いた時、俺には、何か全てがどうでも良くなった。


 俺が持つ負の感情は、外に発散されずに自分自身の中に降り積もっていった。結果俺の元に届いた不採用通知は、五十を超えた。


 俺は社会に否定された。そう思った。お前はいらないのだと、そう言われた気がした。俺はいてもいなくてもいい、そんな存在なのか。誰か教えてくれ――。




 瞼の向こう側に光を感じる。俺はどうなってしまったのだろうか。あの化け物に水の中に引き摺り込まれ、もしかすると死んでしまったのだろうか。もし死んでしまったのならば、今この瞼の向こう側に感じる光が、俗に言う死後の世界なのだろうか。俺が今いるのは地獄なのか、それとも天国なのか。


 生きている間、俺は何かを成しただろうか。その答えは、俺が誰よりも知っている。答えは、何も成していないだ。高校を卒業した後、周りに流されるままに大学に進み、そしてそのまま何の目的も無く卒業へ。その後も流れるように就職をと思っていたが、目標も特技も何も持たない中途半端な俺は、流されるどころか、周りの流れに乗れぬまま脇道に入り込み、取り残された水溜りの様に澱み腐っていった。


 澱み腐った水など誰が必要とするのか。精々ボウフラの温床として役に立つ程度だ。しかしそうやって生み出したボウフラでさえも、成虫となり蚊と成れば、人からは倦厭され疎まれる。


 苦労や努力を避け、怠惰の流れに身を任せた俺は、結局中途半端な存在なのだ。ダンテは神曲の中で、怠惰な者の行く末に有るものは、煉獄だと言った。ダンテが言う事が正しいのならば、俺はこの先、この瞼の向こう側に有る世界で、自らの怠惰を後悔しながら、煉獄の山をひたすら歩く事になる。


 終わりの無い険しい山路を、後悔と懺悔の念を背負い、ひたすらに歩く自分を想像して、俺は少しだけぞっとしたが、すぐにそれも悪く無いと思い直した。


 何も考えず何も思わず、ただ流れに沿って歩くだけ。そこには、他者との競い合いもなければ、争いも無い。怠惰な俺にはお似合いの場所だ。いや、その場所こそが、俺にとっては天国なのかもしれない。そこにいよう。ずっとそこで歩き続けていよう。


 でも、今はまだ歩きたくない。もう少しだけ眠っていたい。俺は、瞼の向こう側に有る光から目を逸らした。そしてもう一度、暗い闇の中に身を投じた。




『本当にそれで良いのか?』


 意識が暗闇の中に溶け込む寸前で、何処からか声が聞こえた。誰の声だろうか。何となく聞き覚えの有る声に、俺の意識は少しだけ覚醒した。


「誰?」


 俺は暗闇に向かって声を掛ける。しかし、しばらく待っても応えは無かった。眠りに落ちる前の、夢と現の狭間で聞いた空耳だろう。俺はそう思い再び闇の方へと意識を向けた。


『本当に良いんだな』


 ――やはり聞こえる。俺は声のする方に意識を向けた。そして誰かいるのならば、その姿を見る為目を開けようとするが、目は何故か開かなかった。もしかすると、俺は暗闇の夢でも見ているのかも知れない。


 仕方がなく俺は、意識だけでその声の主を探った。不思議と声の方に意識を集中すると、意識の中に暗い闇がノイズの様に割り込んで来て、何故か声は遠ざかる。それはまるで、闇が俺の事を声から遠ざけようとしている様だった。


 俺の中で、声に耳を傾けようとする自分と、もう良いではないか。面倒だからこのまま眠ってしまえ。と言う自分が、せめぎ合っている。一体どちらの自分が俺の本心なのだろうか。そう考えていると、先程聞こえて来た、本当に良いのかと言う声がまた聞こえて来た。


 何処かで聞いた事の有る声。――俺は、頭の中でその声を何度も繰り返す。そして繰り返していくうちに、ふと有る映像が目の前に浮かんだ。


 映像は学生時代の物の様だ。その中で俺は、数人の友人達とテーブルを囲んで何かを話している。テーブルの中心には、小さな機械が置かれていて、赤い小さなランプが灯っていた。これは、ボイスレコーダー?


 思い出した。確かこれは、大学のサークルで、題材は何だったか忘れてしまったが、それについてディベートをした時の映像だ。何故そんな物が、目の前に映像として映し出されているのか不思議に思ったが、これは夢なのだと勝手に自分で納得した。それよりも、何故この記憶が映像として現れたのか、その意味を今は探るべきだろう。もしかしたらさっきの声は、この中にいる誰かの声なのだろうか。


 俺は、そこにいる友人達の顔と声を順番に思い出した。小林、松田、笠原、音山、北川――。


 あの声は男の声だった。松田と音山、そして北川は女だから外すとして、後は小林と笠原。あの声はこの二人とは違う。それは分かる。二人とも少し高めの声で、あの声は少し低くて太い声だった。この中に声の主はいない。ならば誰の声なのか。考えているうちに、映像の中ではディベートが終わり、ボイスレコーダーの再生が始まっていた。


 自分の記憶があやふやなためか、ボイスレコーダーから漏れ聞こえる声は断片的で聴き取りにくい。それでも俺は、ボイスレコーダーから聞こえて来る声に、意識を集中した。


 集中していくうちに、次第に当時の記憶が蘇ってくる。これは確か――。そうだ、思い出した。この時、新しい物好きの小林が、当時の最新式ボイスレコーダーを買ったとかで、試しに使ってみないかと言い出した事が有った。それで、どうせ使うのならとディベートを行ったのだ。ディベートのお題は確か、『ラーメンとカレー毎日食べるならどっち?』だった。最新式のボイスレコーダーに初めて録音する内容が、なんとも非建設的な、ラーメンとカレーに言及した物になるとはと、小林が苦笑いしていたのを覚えている。


 記憶を遮る靄が晴れると、ボイスレコーダーの声はより明瞭に聞こえる様になった。ボイスレコーダーから、ラーメンとカレーについて真剣に答弁する声が聞こえて来る。


『せやから、カレーにはな、種類が無いやんか。あっても辛さだけやん。そんなん毎日食べられへんわ』


 これは笠原の声だ。


『いやいや、それは自分らがカレーの事知らんだけやって! カレーにはな、チキンカレー、ビーフカレー、ポークカレー、キーマカレー思い付くだけでもこんだけ有るし、他にも国によって全然ちゃう味や。インドにタイ、それから日本。さらに数十種類のスパイスから生み出される味は無限やで! それに比べてラーメンなんか、塩、醤油、豚骨、味噌くらいやないか。インド人毎日カレー食べてんねんぞ! インドの歴史舐めんなよ!』


 始め苦笑いしていたはずの小林が、この時には既に率先して熱弁を振るっている。俺は少しだけおかしくなり笑った。


『ちょっと待てや! ラーメンかてな、中国四千年の歴史と日本の出汁の文化が巧みにやな……』


「この声は!」


 俺は思わず声を上げた。ボイスレコーダーから聞こえて来た声は、間違いなく先程俺に良いのかと問うて来た声だった。


 声の主は、相変わらずラーメンについて熱く語っている。そしてその話の内容に俺は聞き憶えが、いや、話した憶えが有った。あの声は、そこにいた誰の声でもなく、録音された俺自身の声だったのだ。その事に気付き、俺は自分の本心を知った。


 眠ってはいけない。俺はそう言っている。そう思った瞬間、目の前の映像はフツと消え、先程の声が、明瞭な響きを持って耳に聞こえて来た。


『お前のするべき事はなんだ。就職か? それとも毎日遊んで暮らす事か? どうなんだ。お前は今までそれを、少しでも真剣に考えた事が有るのか? 考えろ。そして分からずとも、考えて考えて考え抜いて前に進め。お前に足りていないのは考える事だ。ただでさえ働いていない脳みそなんだ。少しくらい働かせてから死ね』


 考えろ。だと? 俺は考えている。考えているからこそ、悩み苦しみ息苦しい社会に喘いでいるんだ。今だって考えて――いたのか?


 時間にしてどれくらいか分からないが、少し前までの自分を思い出した。俺は、何も考えずただ流される事を望んだのでは無かったか。そして終わりの無い、ただ、ひたすら歩くだけの道を選ぼうとしていた。何故だ。俺は何故そんな煉獄の道へ自ら進んで行こうとしたのだ。冷静に考えてみれば分かる。何の光も見出せない、そんな無間地獄へ何故。俺は、俺は――。


 再び瞼の向こうに光を感じた。何処からか、目を開けろと言う声がする。瞼が鉛のように重たい。それでも俺は、目を開かなければならない。瞼の向こう側に光が有るのなら、俺はそれを見なければならない。瞼の裏の赤い世界に、薄っすらとした白い線が走る。


 開け開け開け……。俺は、心の中でただそれだけを呟き、瞼にさらに力を込めた。そして瞼は開き、俺の目に明るい光が射し込む。唐突に飛び込んで来た明るい光は、俺の瞳孔を激しく刺激し、目の奥に、鋭く重い痛みをもたらした。


「世話かけるんじゃ無いよ! まったく」


 俺の耳に、聞き覚えの有る老婆の声が聞こえて来る。


「磯野! 磯野!」


 町田と栄子が代わる代わる俺に声を掛ける。そして、光の中に二人の姿が像を結び始めた。


「俺――どうして。ここは?」


 俺は仰向けになって倒れていた。二人の頭越しに見える景色から、ここはどうやら、あのダムの底に沈んだ町に行く前にいた、通りらしいと言う事が分かる。


「ほんまにお前は。無茶すんなよ」

 町田が心底心配そうな声で声を掛けてくる。栄子は泣きながら「うちのせいで、ごめんな」と何度も謝っていた。


 俺の体は、水では無く汗でぐっしょりと濡れていて、相当気持ち悪かったが、二人の顔を見ると何故か急に嬉しくなった。


 照れを隠す為に二人から目を逸らすと、俺は通りの建物の間から見える空に目をやった。空は相変わらず青く雲一つ無かった。


「お前何笑てんねん!」


 町田が俺に突っ込むが、俺はしばらくそのまま空を見ていた。


「おい! しかとすんなや! 心配してんぞ!」

 そのやり取りを見てだろうか、栄子の笑っている声が聞こえる。


「もう大丈夫だね。この貸しは高く付くよ」


 少し離れた所から、あの通りの店にいた老婆の声が聞こえた。老婆が俺の事を救ってくれたのだ。俺は老婆に、礼を言わなければならない。でも今はまだ、もう少しだけ、この空と二人の事を見ていたかった。




「それより町田。よくあの時あの場所にダムの上に登れる場所が有るって分かったな」


 俺達三人は、老婆の後について、あの『時』の揺らぐ通りを歩いていた。俺達三人が、どうしてあんなダムの底に沈んだ町に行ってしまったのか、老婆に訊こうと思ったのだが、老婆は、店を長くは空けられないから話なら店で聞くと言い、俺達はそれに従った。


「あのダムはな、重力式コンクリートダム言うてな、ロックフィルダムと違うて、水を貯める上流側はほぼ垂直やねん。だからな――って、お前ら聞いてんのか?」


 俺と、町田の口から流れるように出て来た言葉に、耳を疑った。栄子を見ると、栄子も同じ気持ちなのか、ぽかんと口を開けて、町田の事を見ていた。


「いや、すまん。聞いてるけど、重力式? ロック何?」


「ロックフィルや。そんなんも知らんのか。アスワンハイダムて社会の時に習ったやろ。あれがロックフィルダムや。それに対して、さっき俺らが見たんが重力式コンクリートダムや」


 町田は苛立たしげに言った。


「いやごめん全然分からん。アスワンハイダムを習ったんは覚えてるけど、でもそれが何で今出て来るんかが分からん」


「かぁ! お前らはほんま何にも知らへんな!」


 何故だろうか。俺が、町田の言うそのダムの事を知らないのは確かだが、それに対して何も知らないと町田に言われると、無性に悲しくなる。栄子を見ると、栄子も悲しそうな顔をしていた。


「ええか? ロックフィルダムの特徴はやな、河に対して台形に、粘土やら砂やら砂利やらをやな、積み上げて作んねん。せやから、下流側からでも上流側からでもダムに登る事は可能や。でも、俺らが見たような重力式コンクリートダムは、さっきも言うた様に上流側は河に対して垂直に作んねん。だから、正面は無理やと思うて横に回り込んでん。横やったら、重力式でもロックフィルでも、同じ様に河の斜面を舗装してるから登れるんちゃうかと思うてん。そしたら案の定や」


 町田の言っている事は何となく分かるが、それにしても、何故こんなにも町田がダムの事に詳しいのかは分からなかった。 


「なあ町田。一つ聞いてええか? お前何でそないダムの事詳しいねん」


 町田は信じられない物でも見る様な目で俺を見た後、呆れた様に言った。


「磯野――俺、一応建築学科卒業してんねんぞ」


 ――そう言えば町田は、俺と同じ大学の建築学科に在籍していた。俺は、町田に言われるまで完全にその事を忘れていた。何故なら俺の記憶では、町田は代返塗れで、ろくに授業など受けていなかったからだ。


「お前授業なんて代返ばっかでほとんど受けてへんかったやんけ」


「あほか。そない人生甘無いわ。大事な授業はちゃんと受けてるわ。それに俺ダム好きやねん。特に今回はかなり貴重なもん見せてもろたわ! 苫畑ダム言うたらな、お前凄いねんぞ! 何や言うてもあの土木学会のやな――」


 町田は、好きな物に対しては異常な程の集中力を見せる。そしてその事に対して話し始めると、もはや誰の声も、町田の耳には届かない。俺は町田を無視する事にして、栄子に話を振った。


「なあ、栄子。どうやって元のって言うかこの道に戻って来たん? 俺その辺の記憶が全然無いねん」


 栄子は、前を歩く老婆を見ながら話した。


「あんな。うちもちょっと意識が飛んでたから、町田から聞いたんやけど、町田が言うには、磯野が水の中に沈んで行った後、いきなり景色にひびが入り始めて、あのお婆さんが現れたんやって。町田が持ってたあのランタンを持ってな。ほんで、ランタンに吸い込まれるように景色が消えて行ったらしいわ。そしたら水も一緒になって消えてしもて、うちと磯野がそこにおったらしいわ」


 景色が消える。あの景色は、原山の故郷に対する『想い』が生み出した物だったはずだ。それならば夢喰みは、原山の『想い』を食べてしまったのだろうか。それとも、原山が奥さんの元へ戻ったから、景色が消えたのだろうか。


 それにしても、町田が持っていたランタンを、何故老婆が持っていたのだろうか。


「何で町田が持ってたランタンをあのばあさんが持ってたん?」


「何か、ごっつい嫌な『想い』の音が聞こえて、あそこに行ったら落ちてたらしいわ」


「そうなんや。俺等があの湖見つけた時には無かったのにな」


 俺は、老婆が亡者と呼ぶ物に出くわしたあの『夜』の事を思い出した。


「ほんでその後、うちと磯野に夢喰みをかざしてたら、まずうちが起きて、その次にあんたが起きたみたいやわ。もっとも、あんたの場合はうちが起きた後もだいぶん夢喰みに『想い』を食べられとったけどな。で、その『想い』が黒いのなんのって。うちから見てもあんたかなりやばい状態やったわ。うちもあんたもあのままほっとかれたら多分死んでた。うちら、あのお婆さんに、かなり感謝しなあかんな」


 俺は黙って栄子に頷いた。


 黒い『想い』の原因。それはきっと、俺を襲ったあの気味の悪い黒い化け物なのだろう。もしかすると老婆の聞いた嫌な『想い』の音と言うのもあの化け物が発した物なのかも知れない。『想い』の存在しないこの世界に於いて、あれ程の大きな化け物が発した音ならば、老婆の耳には途轍もなく大きな音に聞こえたに違いない。


 俺はそこまで考えて、有る疑問を抱いた。ここは『想い』の存在しない世界のはず。ならば何故、あんな町一つと言う強大な想いの塊が存在していたのだろうか。


 この世界は、人々から忘れ去られた町などを取り込むと老婆は言っていた。あの町は確かに水の底に沈み、人々から忘れ去られていた。だからその点に関しては問題無いだろう。しかし、原山にとっては忘れたくとも忘れられないほどの想いが、あの町には有ったはずだ。それなのに何故あの町はこの世界に取り込まれたのか。そして何故、この世界に取り込まれたにも関わらず、『想い』が留まり続けていたのだろうか。


 老婆に聞かなければならない事が、また増えてしまった。


「おい! 磯野聞いてるんか!」


 町田にいきなり怒鳴られ、町田の話を全く聞いていなかった俺は、町田に、お前のお陰で助かったと、取り繕う様に感謝の言葉を掛けた。


 それは、俺の町田に対する素直な思いに違い無かったのだが、町田はそれを聞いて、なお勢いを増してダムの事を話し始め、それから俺と栄子は、老婆の店に着くまで、ずっと町田に相槌を打つ羽目になってしまった。




 俺達は、老婆の店に戻ると驚きの物を目にする事になった。 


 それは――。


「お婆ちゃん。正刻町店のお爺ちゃんから電話だよ」


 何と言うか――。


「可愛い――」


 先程まで、止め処なくダムの事を語り続けていた町田が、急に口を噤んだと思ったら、次に吐いた言葉がそれだった。


 そう。その驚きの物とは、今しがた町田が可愛いと言い放ったその対象の事。


 そこには、年の頃にして二十歳前後の女の子がいた。女の子は、老婆の着ている着物とよく似た着物を着ていて、耳の少し上に、花の形の七宝焼きが付いた髪留めを付けていた。顔付きは、何処となく異国を思わせる様なオリエンタルな雰囲気が有り、少し広めの額には、キメの細かそうな艶の有る黒い前髪が垂れていた。そしてそれが少し目にかかる事により、大きな目をより一際大きく見せていた。


 女の子は、俺達にはにかむ様な笑顔を向けた後、小さくお辞儀をして店の奥に消えて行った。俺達三人は、お互いの顔を見合わせる。


「この店、て言うかこの世界にまだ人がいたんや」


 栄子がぽつりと言った。


 店の奥から老婆の声が聞こえて来る。


「何だい個性的って! 要するにそれは不細工って事じゃないか。そんなんじゃ良い値は付かないよ。え? 分かったよ。見るだけだね。じゃあ明日の十時に行くよ。いいかい! 見るだけだからね! 気に入らなかったらそのままわたしは帰るからね」


 受話器を叩き付けるような音がした後、先程の電話に対する声とは打って変わった様な、優しい老婆の声が聞こえる。


「サワ。わたしの留守中何も無かったかい?」


「何も無いよお婆ちゃん」


「そうかいそうかい。有難うね」


 老婆がこちらに向かって来る足音が聞こえる。


「おい、今の聞いたか?」


 俺は二人に言った。


 二人は頷くと、栄子は電話と言い、町田はサワちゃんと呟いた。


「ええ名前やなあ」


「町田黙れ」


 俺が町田にそう言ったところで、老婆が現れた。


「ったく。あんた達がここに来てからろくな事が無いよ。嫌な音は聞くわ、正刻の爺いは厄介な事言ってくるわ」


「あの! すみません」


「さっきの女の子は?」


 俺が電話の事を聞こうとすると、町田に言葉尻を取られてしまった。


「おい町田!」


「なんやねん! ええやんけ」


「なんだい。さっきの子ってサワの事かい。サワがどうしたね」


「そう! そのサワちゃん! あれ誰なん?」


 町田の勢いは止まらない。栄子と俺は顔を見合わせ、肩を竦めた。


「サワはわたしのひ孫だよ。それがどうかしたかい」


「ひ孫!」


 俺達三人は、同時に驚きの声を上げた。


「何だい悪いかい。わたしにだってひ孫くらいいるよ」


 ひ孫と言う事は、この老婆は一体何歳だと言うのか。いやそれ以前に、ひ孫がいると言う事は、孫がいて、子供もいると言う事になる。


「婆さん子供おんの!」


 町田は口に出して聞けない事をズケズケと言う。こいつの鋼鉄の心臓がたまに羨ましい。


「何言ってんだい! ひ孫がいるんだから、子供もいるよ! あんた達わたしの事を何だと思ってんだい!」


「いや、このヘンテコな世界に住む妖怪か何かかと……」


 町田。お前は……。


 老婆の顔が赤くなり、怒りが沸点に達したところで、店の中に弾ける様な笑い声が響いた。


「ごめんお婆ちゃん。もうだめ、私我慢出来ない。お婆ちゃんにそんな事言う人始めて見たよ!」


 そこには、腹に手を当て笑い転げる先ほどの女の子がいた。


「サワ! 出てきちゃダメじゃないか!」


 サワと呼ばれた女の子は、ひとしきり笑った後、栄子を見てこう言った。


「いいの。その人達なら大丈夫。それに何か有ったら、ね?」


 女の子は老婆の傍に置かれて有るランタンを見た。そして老婆も困ったような顔でランタンを見る。ランタンの中には、夢喰みが静かに光を放っていた。


「後、そっちの女の子も『視える』んでしょ? その子と話してみたいの」


 そっちの子も? 俺はサワと言う女の子が言った言葉に引っかかる。


「そうだけど、外の人間に会ったらまた気分が悪くなるよ。あんたはそうでなくても耳が良いんだから」


 老婆は心配そうに女の子に言うが、女の子は構わず老婆の横に座った。


「初めまして。私サワって言います。糸偏に少ないで紗。平和の和で紗和。あなたは?」


 老婆は諦めたのか、何も言わずに紗和の事を見ていた。


「俺は町田! で、こっちの奴が磯野で、こいつは栄子て言うねん。ほんで俺が町田ね」


 明らかに紗和は、栄子の方を向いていたにも関わらず、町田が答える。そして何故二回も自分の名前を言ったんだ、町田よ。


 紗和は「ありがとう町田さん」と言い町田に微笑みかけると、栄子に語り掛ける。


「栄子ちゃんって呼んでいいかな?」


 栄子は頷いた。


 町田は、紗和の笑顔に戦意を喪失したのか、遥か遠くの方を見つめたまま動かなくなった。これでようやく話が進む。


「お婆ちゃんに聞いたんだけど、栄子ちゃんて色の覚知者なんだよね?」


「えと、うん。そうみたいですわ」


 栄子は、標準語に慣れていないのか、微妙なイントネーションで返した。


「栄子ちゃん普通に話していいよ。普段通りでいい。私達きっと年も近いはずだし。私は二十三才栄子ちゃんは?」


「えと、そしたら――。うちは二十二になったばっかりやわ」


 栄子は戸惑っていたようだが、それでも、いつもの様に話した。


「そうなんだ! やっぱり年近いね。えっと何から話したらいいかな。そうだ。あのね、私も覚知者なんだ。私は目じゃ無くて耳なんだけどね。お婆ちゃんと一緒。隔世遺伝てやつかな。お母さん達は何ともないんだけど、何でか私だけなんだよね。栄子ちゃんの周りにはいるかな? 覚知者」


 紗和がお婆ちゃんと一緒と言った時に、老婆の顔付きが少しだけ険しく変わった。どうやら老婆は、紗和が自分の力を受け継いでいる事をあまり良く思っていないようだ。


「うちの周りにはいてへんな。覚知者て言葉もここに来て初めて知ったくらいやし」


「えっそうなの? 私はてっきり、表の世界で『想い』を感じ過ぎて疲れちゃったから、誰か他の覚知者に聞いてここに来たのかと思ったのに。じゃあ、元いた世界が嫌で嫌で仕方が無いーって感じじゃないんだ」


 紗和と老婆が不思議そうな顔をする。


「いや、そこまでは思うてないよ。確かに前おった所は、目がチカチカして吐きそうな時も有ったけど、嫌で嫌で仕方が無いとまでは思って無いし、今だって早く帰りたいくらいに――あっそうや、町田のせいで忘れるところやった。さっきの電話もしかして、前うちらがいた世界に繋がってたりしてたんですか?」


 栄子は急に話の矛先を老婆に向けた。


 そう言えば、俺も忘れてしまうところだった。電話の中で老婆は明日の十時とはっきりと言った。と言う事は、時間の概念がしっかり存在すると言う事だ。という事はつまり――。


「そうだよ。あの電話は狭間堂正刻町店、つまり、正しい時を刻む町に有る店に繋がってた。うちはその狭間堂の本店さ。表の世界では手に入らない珍しい物を表の店に卸してるのさ。しかし嬢ちゃん。そんなに元の世界に帰りたいのかい?」


 電話の電気はどこから来ているのだろうか。俺はふとそんな事を思った。


「はい! 帰りたいです! あっ、そうや磯野、切り札やほら! 出して早く!」


 切り札? そう言えば、栄子が町田を追ってこの店を出て行く時にそんな事を言っていた様な。だが、俺にそれを出せとはどう言う事だ。それを言い出したのは栄子のはずだ。


「いや、ちょっ、待てって。分からへん。何の事やねん」


「あんた、出し惜しみしてる場合ちゃうで! 早くあんたのそのリュック出しいや」


 そう言うが早いか、栄子は俺の足元において有るナップザックを奪い取った。


「おい! 何やねん!」


 栄子は、俺を無視してナップザックのファスナーを開けると、中を漁り何かを取り出した。


「これで何とか元の世界に戻る方法教えて貰えませんか!」


 栄子の手には、この通りに入る前に、町田が遅刻の詫びにと、俺達におごったチェリオのライフガードが握られていた。


「なんだいそれは」


 老婆は訝しげな目を、栄子の手にやる。


「それって、町田の。俺完全に忘れてたわ。――でもそれが切り札てどういうことやねん栄子」


 栄子は俺の質問に答えず老婆に言った。


「お婆さん。前この店で林檎まずそうに食べてたじゃないですか。これ、ここに来る前に買った飲み物なんです。これやったら多分まだ味すると思うんです。だから……」


 栄子の言葉の最後は老婆の大きな笑い声に掻き消された。


「何か勘違いしてやしないかい? そんなに帰りたきゃ帰ればいいじゃ無いか。わたしゃ別に引き止めたり、帰り方を隠したりなんかはしてやしないよ」


 老婆は顔ににやにや顏を貼り付けたまま言った。


「それが出来たらこんなにお願いしてません!」


 栄子は、笑われた事を少し怒ったのか、声を荒げた。


「お婆ちゃん! からかっちゃダメだよ。ごめんね栄子ちゃん。お婆ちゃんちょっと変わってるの」


 ちょっと変わっている。そうだろうか。大分変わっていると俺は思うが。


「紗和、随分だねえ。まあいいよ。それはありがたくもらっておくよ。さっきあんた達を助けた分の礼としてね。ここでは、味の有る飲み物は貴重な事に代わりは無いからね」


 命を救われた礼がチェリオとは少し安すぎないかと俺は思ったが、他に渡せる物も無いので黙っていた。


「あのね、私音の覚知者って言ったよね」


 老婆と栄子のやり取りを見ていた紗和が急に話し始める。


「――でね、私。表の世界にいる時、人の嫌な『想い』の音ばかり聞こえて来て、表の世界に生きていられなくなっちゃったんだ。音はさ、目と違って二十四時間聞こえて来るの。だから、私頭がおかしくなりそうで、それでお婆ちゃんに言ってここにいさせてもらってるんだ」


 紗和は何が言いたいのだろうか。


「あのね、ここの世界って、普通の人はまず来れないの。たまに、感の鋭い人なんかが間違って迷い込んじゃったりするんだけど、それでも普通は直ぐに出て行っちゃう。ここの世界って、入り込む事よりも、出て行く事の方が圧倒的に簡単なのよ」


 俺と栄子は訳が分からないと言う顔で、紗和の言葉を待った。出て行く事が簡単なのならば、俺達は何故今ここにいるのか。


「説明難しいな。お婆ちゃん。どう説明したらいいかな?」


 話を振られた老婆は、壁を指差し「あれがヒントだよ」と言った。老婆の指差した壁には、狐の剥製が飾ってあった。


「あっそっか! 狐か! あのさ、こんな話聞いた事無いかな? 車なんかで道を走ってると、何でか分からないけどいつまでも同じ所をぐるぐる回ってる気がして、狐に化かされてるんじゃないかって言う話」


 それならば、よく聞くお伽話だ。俺と栄子は聞いた事が有ると言い頷いた。


「あれってね、感の鋭い人が無意識に、この世界に迷い込んでる時に起こるの。でも、帰りたい帰りたいって本気で思ったり念じたりすると何時の間にか戻ってるの。――分かるかな? だから、普通の人はこの店に辿り着く前に、何時の間にか戻ってるはずなの。でも、この店に辿り着くくらいまでこの世界を歩いたって事は――」


「戻りたく無いと思った?」


 栄子が言った。


「そう! もしくは本気で帰りたいと思っていない。って事なの。だから私は、栄子ちゃんが元の世界が辛くて戻りたくないのかなって思ったの。私みたいに」


「でもうちは……」


「そう。帰りたいって本気で思ってるよね。さっきの態度で分かったよ。だから栄子ちゃん以外の人が、元の世界に帰りたくないって思ってるって事になるんだけど――」


 紗和は俺と町田の顔を見た。


「町田さんここから出たい?」


 急に紗和に声をかけられた町田は、勢い良く立ち上がり「紗和さんがいるなら、ずっとここにいたいです!」と言った。


「町田! あんたか!」


 栄子が町田に詰め寄る。

「栄子ちゃん。多分町田さんじゃない。――町田さんありがとう」


 町田はまたうっとりとした表情を浮かべ、俺達のあずかり知らない世界へと再び旅立った。


「じゃ、誰なん?」


 栄子は言うが町田と栄子が違うのならば――。


「俺?」


 町田以外の全員が俺の事を見る。


「栄子ちゃんの、帰りたいって言う本気の思いを打ち消すほどの思い。しかも、あんな深い所まで潜っちゃうほどの」


 紗和が俺の目をじっと見つめる。黒く大きな澄んだ目。俺は恥ずかしくなり目を逸らそうとするが、何故か、紗和の目から視線を外す事が出来なかった。


「深い所?」


 栄子が言った。


「あんた達が行った、あの『想い』だけで出来た世界だよ。よっぽどの想いが無いと普通あんな所までは行けないんだ。あんた、元の世界で何が有ったんだい」


 俺の頭の中に、老婆の声が分け入って来る。『想い』だけで出来た世界。原山の『想い』の世界。あの水の底に沈んだ町。


「俺は、俺は――」


 俺の頭の中に、老婆の放った言葉を起因とした波紋の様な物が広がる。俺は、あの黒い化け物に取り込まれそうになった時の、あの感覚を思い出していた。


「紗和。どうだい?」


「聴こえる。深く暗い音」


 紗和はじっと俺の目を見つめたまま言った。


「俺は、俺は現実から逃げ出したかった――」


 俺の口から自然と声が漏れる。そして俺は、心の内に有るものを全て曝け出した。この世界に残っていたかったのは俺だったんだ。唐突に理解した俺は、人目も憚らず頬を濡らした。


 夢喰みが何故か、リンと言う鈴の鳴る様な甲高い音を立てた気がした。




「そっか。就職活動って大変なんだね」


 俺の話を一通り聞いた後、紗和は感慨深そうに呟いた。話し終えると急に気分が楽になり、それに伴って、俺の気持ちは冷静さを取り戻していく。そして初対面の、しかも一つ年上の可愛い女の子に涙を見せた事による気恥ずかしさが、俺の中で沸き起こった。


「あの、俺達が行ったあの町って何なんですか? あの町では食べ物に味も有ったし、栄子によると『想い』もちゃんと有った様だし、この世界には想いは無いんじゃなかったんですか?」


 俺は、気恥ずかしさを誤魔化す為に老婆に尋ねた。


「あの世界はね、さっきも言ったけど、想いだけで創られた町なんだよ。あそこには、ある特定の場所に執着し過ぎた者達がいるんだ。あんた達が行ったのがどんな所だったかは知らないけれど、そこの主には会ったかい?」


 主とはやはり原山の事だろう。俺は頷いた。


「その主が創り出した世界なんだよ。あそこはその主の想いだけで創られているから、あの中は、表の世界とほとんど変わらない。でもね、本当の所実態は無いから、あの中で、例えお腹を満たしてもそれはまやかしさ。あの世界から出ちまうと、直ぐにその効果は消えるんだ」


 俺は腹に手をやる。そう言えば、あれほど腹いっぱいに猪汁を食べたにも関わらず、腹が空いている気がする。


「そして主は、あの中でゆっくりと時間をかけて想いを喰われていくんだ。そして想いも何も無くなったら、晴れてこの世界の仲間入りさ」


「じゃあ、あのままあそこにいたら……」


「主と共に世界に喰われていたかもね」


 老婆はいたずらに不安感を煽る言い方をする。老婆が言う事が本当ならば、あのままあそこにいたら、俺も栄子も町田も、そして原山も、この世界に取り込まれ、この想いも何も無い世界の一部になっていた。そう考えると、俺は恐ろしくなり、身を震わせた。


「――あのもう一ついいですか?」


「なんだい」


「俺、あそこから逃げようとした時、黒い気味の悪い化け物に捕まってしまって、あいつは何なんですか?」


 老婆は顎に手をやると、少し考えた後言った。


「――あんた達あの中で何をやったんだい」


「何って――」


 俺は、あの町で起こった事や夢で見た事を全て話した。話を聞き終わると、老婆は驚いた様に目を見開いた。


「あんた達、そりゃまたど偉い事をやらかしたもんだね! そりゃあ、主の執着心を崩壊させちまったんだよ。あの世界に喧嘩売っちまった様なもんだ。びっくりだね。本当なら、じっくり時間をかけて食べようと思ってた御馳走が、目の前で消えちまったもんだから、あの世界が怒って、そんな化け物みたいな奴を、あんた達にけしかけたのかもね。まあそれにしても、よくもそんな所で生きて帰って来れたもんだ!」


 そう言うと老婆は笑い、話を続けた。


「しっかし、あんたそれあのなんだ、あんた名前は?」


「お婆ちゃん。磯野君だよ」


 紗和が老婆に助け舟を出す。


「そうそう、磯野ってのかい? 面白い名前だね」


「はあ。――よく言われます」


 俺は、人生で何百回目かに言われた名前の事について、いつもの様に返した。


「あんた、覚知しかけてるよ。普通の人間がそんな夢を見たり、ましてや、あの世界を崩壊させる事なんて出来ないからね。気を付けてないと完全に覚知しちまうよ」


 老婆は、驚きの台詞を事も無げに言った。


「そんな事有るんですか!」


 そしてその事に一番驚いたのは、栄子だった。


「有るともさ。あんた達の目の前にいるこの子がそうだからね」


 老婆は少しだけ悲しそうな顔で言いながら紗和を見た。


「磯野君私と一緒だ。私もね、中学生くらいの時に覚知したんだ」


 紗和は、老婆の気持ちを知ってか知らずか、あっけらかんとした感じで言った。


 俺はその時、横顔にただならぬ視線を感じ、そちらを振り向くと、町田が俺の事をじっとりと睨んでいた。


「おい磯野! お前だけ紗和ちゃんと、なに仲良くなろうとしてんねん! おい婆さん、俺も紗和ちゃんと同じになりたい! 俺もその白痴って奴にしてくれ!」


 町田……。白痴じゃない。覚知だ。


「あんた馬鹿言っちゃいけないよ! 覚知ってのはね、なりたいからなれたり、嫌だから辞めたりってそんな簡単なものじゃないんだよ!」


 町田は老婆の剣幕に押され、黙り込んだ。


「お婆ちゃん怒っちゃ駄目だよ。ごめんね町田さん」


 町田の顔が弛緩する。忙しい奴だ。


「あのね、町田さん。覚知って、ならない人は一生ならないし、なるとしても、きっかけが無いとならないものなの。私の場合は、中学生の時に友達と肝試しに行ったのね。今思うと、バカな事しちゃったなって思うんだけど、その時に聞こえちゃいけない音みたいなのが聞こえちゃって、お婆ちゃんから音の覚知の事は聞いてたから、すぐにそれだと分かった。それからなの。私が『想い』の音を聞く様になったのは。磯野君はそんな事無い? 何かきっかけみたいなの」


 肝試し。それは例えば、曰くの有る廃病院などに行くあの類だろうか。


「もっとちゃんと注意しておくんだったよ――」


 老婆がポツリと呟いた。


 俺は過去を振り返る。そんなきっかけなら、思い当たる事はいくつか有る。町田の寮で遭遇した恐怖、そして、この世界で有った不思議な事全てだ。


「ちょっと前に、肝試しやないんやけど、町田が住んでた寮で、変な手みたいなんを見てしまいました。後、この世界に来てから全部がおかしい事だらけで、この世界自体がきっかけかも」


「ふん。この世界はあまり関係無いね。何せきっかけになる強力な『想い』ってのがこの世界には存在しないからね。でもその変な手ってのが気になるね。詳しく話してご覧」


 老婆は眉間にシワを寄せたのだろう。眉を寄せ、目をしかめた。しかし俺には、顔全体のシワが少し動いたようにしか見えなかった。


「変な手ですか――」


 俺は数ヶ月前に味わった恐怖を思い出し、身を震わせた。その気持ちを聴き取ったのか、紗和と老婆の顔が曇る。


「それは、町田が勤めていた会社の寮に、俺と栄子で遊びに行った時に見た物なんです。町田が言うには、毎晩部屋の中に有る箪笥の奥から、カリカリと言う鼠の齧る様な音が聞こえるから、原因を一緒に調べて欲しいと言う事でした」


 老婆は頷く。


「それで俺と町田は、その箪笥を動かそうとしたんですけど、栄子はやめた方がいいと言いました。その時はまだ栄子がその、覚知者って事知らなくて、何を言ってるんだ? くらいに俺は思っていました」


 老婆は栄子を見た。


「あの、変な風に見られるのが嫌で隠してたんです」


 老婆は紗和を少しだけ見ると「そうだろうね」と呟いた。


「それで、その時初めて俺と町田は、栄子から色の話を聞きました。もちろんそんな話を急に言われても信じられなくて、俺と町田は何言うてんねんくらいに思って、箪笥をそのまま動かしました。その後の事を思ったら、栄子の話をちゃんと聞けば良かったと、後悔しています。箪笥を動かして直ぐに栄子は、町田の部屋を飛び出して行きました」


「あの、町田の寮に着く前に、凄く力強い色を持った人がいたんで、その人なら何とかなるかなって思って探しに行ったんです。私じゃ無理だって思ったから――」


 栄子は俺の話を遮り、付け足した。


「誰も責めてへんて。そのお陰で俺も町田も助かってんから」


 老婆が手を上げ何かを言おうとしたが、そのまま何も言わずに手を下ろした。


「いや、いいよ。何でも無い、続けておくれ」


 俺は頷き話を続ける。


「それで俺と町田は、箪笥の裏に扉を見つけました。扉と箪笥の裏にはお札みたいな物が貼ってあって、そのお札は随分古かったです。その札には引っかいた後の様な傷がいっぱい付いていて、扉の方に貼られていた札は破れていました。で、俺と町田は何なんだろって感じで見てたら……」


「そうそう! びっくりしたであん時はほんまに! その後扉が勝手に空いたと思たら、部屋中にカリカリカリカリ言うて音が鳴るわ、体はあれなんて言うんやったっけ? あれあれ、あの体が動かんなるやつ――」


 突然町田は、俺の話に割り込んで来てそのまま話し始めた。


「金縛り?」


 紗和が町田に助け舟を出す。


「そうそう! 流石、紗和ちゃん! 栄子とは比べ物にならんくらい可愛いね!」


 古来より口は災いの元と言うが、町田はその諺をきっと知らなかったのだろう。俺が、この件と可愛いは関係無いだろうと思うより前に、町田は栄子に殴られていた。


「何ふんねん栄子!」


 町田は口を押さえながら言った。


「うっさい! いっぺん死ね!」


「紗和ちゃーん。栄子がこんな事言う」


 町田が言うが、紗和は腹を抱えて笑っていて、何も言えないでいた。どうやら紗和にとって、町田はつぼらしい。


「で、それからどうなったんだい」


 老婆はニコリとも笑わずに話の先を促した。


「それから、俺と町田は体が動かなくなって、扉から一杯手が出て来て、俺達の体を這い上がってきました。でも、その手は俺にしか見えなかったみたいで、それで、もうダメだって思った時に、栄子が、どっかからお婆さんを連れて来て、お婆さんには這い上がって来る手に白い砂みたいな物をかけたんです。すると、手は燃える様に熱くなった後消えました。そのお婆さんによると、そこは昔金鉱山だったらしく、その手は、昔落盤事故で亡くなった人達の、未練の思いだと言っていました。――想い?」


「お婆ちゃんこれって」


 紗和が心配そうに老婆を見る。


「――手が見えたってかい。そりゃあ悪い想いに障られたんだね。多分それがきっかけだよ。そのせいで視覚の中に有る『形』の覚知をしちまったんだ。一番ポピュラーな部類だよ。『想い』の形が見えちまうのさ。よく幽霊を見たなんてのは全部そうさ」

 シュレーディンガーの時もそうだったが、こんなにシワシワの老婆の口からポピュラーなんて横文字が出て来ると、かなり違和感を感じる。


「で、その後他に何か見たかい?」


「いや、その後散々町田と栄子に馬鹿にされて、俺はその事を勘違いって事にしたんで、何か見えそうだなって思っても目を逸らしてました。だからそれからは見てないです」


 老婆に言った後、俺はあれからの事を改めて思い出した。町田の寮であの体験をした後、街などで不意に違和感を感じる事が有った。だが俺は、それを意図的に見ない様にして来た。笑われる事が嫌だったんじゃない。あの恐怖に、再び曝される事を避けたのだ。


 奴等は、見られていると感じた時からその見ている者に襲いかかって来る。そんな確信が俺には有った。何故なら、箪笥の裏でその気味の悪い手達に襲われている時、明らかに町田よりも俺の方に手は集って来ていた。


 その時は、恐怖でそんなことを考える余裕は無かったが、後で町田から手が見えなかったと聞いた時に、漠然と俺は思ったのだ。 


「懸命な判断だね。そのまま、『想い』に気付かないふりをしている事が一番だよ。前にも言った様に、『想い』ってのは、見られてると分かった瞬間から、寄生し始めるからね。それに、覚知しない為には、『想い』を認めないってのも大事なんだ。『想い』の存在を認識しちまうと、覚知にぐんと近付くからね。うちの紗和は、わたしの事を知っていたから、一度それに気付いてからは早かったよ。あんたも覚知したくないんなら気を付けな」


 老婆は紗和に対する責任を重く感じているのか、紗和の事を話す時、少し悲しそうな顔をした。気を付けていれば覚知はしない。俺は、そんな老婆の話を聞いて安心した様な、少し残念な様なそんな気がした。


 他人には、聞こえなかったり見えなかったりする世界。危険だと知りつつも、俺はそんな世界に少し憧れていたのかも知れない。


「そうだ。話の中でちょいと気になったんだがね、その老婆ってのは何者なんだい? あと白い砂ってのも気になるね」


 老婆はそう言うと席を立ち、店の奥から、布で出来た小さな白い袋を持って来た。


「その婆さんに渡された白い砂ってのはこんな袋に入ってやしなかったかい?」


 俺はそれを見て、老婆が机の上に出した物に、確かに似ていると思った。俺の想いを読み取ったのか、老婆は一つ頷くとこう言った。


「その婆さんの名前分かるかい?」


 俺は、あの時紹介された名前を思い出す。


「えっと確か、ヤマカワだったかな。でもなんか違う様な……」


「ヤマガミ。野山の山に神様の神で山神、そう言わなかったかい? その婆さん」


 老婆は、俺の言葉尻を捉えて言った。


「そうです! 確かそんな名前でした。漢字までは分からないですけど、確かそう言ってました。知ってるんですか? あのお婆さんの事」


「知ってるも何も常連だよ。うちの客さ。これを買いに来るんだよ。しかし最近見ないと思ったけど、まだ生きてたんだね」


 あくまで予想だが、あの時見た山神と呼ばれる老婆よりも、今目の前にいる老婆の方が、多分年上だろう。他人よりも自分の事を心配した方が良いのではないのだろうか。


「いらない心配だよ」


 老婆は俺の想いに気が付いた様だ。これではろくに物も考えられない。


「ところで、その山神の婆さん以外にもう一人いなかったかい? 婆さんよりは少し若い女なんだけどね――」


「いや、他には――」


 俺はそこまで言ってふと思い出した。俺はあの時、何か夢を見た様な気がする。そしてその夢の中で、女の人の声と、甲高い鈴の音の様な音を……鈴? 夢喰み?


「いたんだね?」


 老婆は呟いた。


「いや、いたかどうか分からないですけど、女の人の声と、夢喰みが鳴らす鈴の様な音を聞いた気がします。あと、茉莉花の香りも嗅いだ様な……」


「そうかい。……やっぱりね」


 老婆はそう呟くと、少し考え込み、紗和に何かを耳打ちする。そして紗和は大きく頷いた。


「その女の人に何か有るんですか?」


 俺が訊くと、老婆も紗和も何も無いから気にするなと言った。二人の意味深な言動を、気にならない者などいないと思うのだが、二人はもう何も語ろうとはしなかった。場を不可思議な沈黙が支配する。そして俺は栄子を見た。


 栄子は、俺達の話に興味が無かったのか、老婆の持つ布の袋を食い入る様に見つめていた。「あの、それってもしかして――」


 老婆はニヤリと笑った。


「気が付いたかい?」


「それって夢喰みですか?」


 栄子は言うが、夢喰みはピンポン球くらいの大きさだ。砂ではない。


「おしいね。正確には、夢喰みの欠片さ。夢喰みは想いが無くなり枯れ果てると、粉々になって仮死状態になる。山神の婆さんは、これを使って悪い想いを喰わせたのさ。夢喰みは想いを食べると熱を発するからね。それで手の見えた部分が燃える様に熱くなったんだ」


 夢喰みの欠片。老馬はあの時、群がって来る手に向かってそれを投げた。夢喰みの欠片を、老婆は直接手で掴んだ。と言う事は――。


「そりゃそうとあんた達。いつまでここにいる気だい? 早く帰らないとまた夜が来るよ」


 俺の思考を遮る様に老婆は言った。そして俺は老婆の言葉に、自分のせいで、今までこの世界から出られなかった事を思い出した。


「でも、帰れるかどうか――」


 自分の心の中に潜む闇を、俺は恐れていた。


「大丈夫だよ。もう自分の気持ちを知っちまった以上、それを上回る本気の想いで帰りたいって思えば、元いた場所へ帰れるはずさ。それとも何かい? ここに就職でもするかい?」


 老婆はいたずらっぽく笑った。


「頼む婆さん! 俺をここで雇ってくれ! そしてゆくゆくは紗和ちゃんと……」


「馬鹿冗談だよ。わたしゃ誰も雇う気は無いよ! とっとと帰んな!」


 町田がすがる様に老婆に言うが、老婆は手で、町田に追い払う仕草をして見せた。そして俺達は、老婆と紗和に礼を言うと店を後にした。もっとも町田だけは、いつまでもここにいたいと言ってただをこねていたが。それでも、俺と栄子が店から出て行くと、ここに留まる事を諦めたのか、肩を落とし、とぼとぼと付いて来た。


 俺達は、老婆の店を出ると、またあの人気の無い通りを歩き始めた。帰りたい。元の場所に戻りたいと強く思いながら。


 老婆の店から二百メートル程も歩いただろうか、その時後ろから声が聞こえて来た。


「栄子ちゃーん! 磯野くーん!町田さーん! ちょっと待ってー!」


 紗和だった。紗和は、大きく手を振りながら、こちらに向かって走って来ていた。


「紗和ちゃん!」


 町田が駆け出す。


「おい町田! 待てって!」


 そう言うと、紗和のいる場所まで俺と栄子も走った。


「――これ、お婆ちゃんが持って行けって」


 紗和は、俺達が着くなりそう言うと、俺と栄子に小さな箱を手渡した。


「これは?」


「えっとね、栄子ちゃんのは夢喰みの欠片を閉じ込めた瓶で、もし目が疲れたら、『想い』を吸い取ってもらうと良いって。夢喰み程力は無いけど、気休めくらいにはなるって言ってたよ。あと、磯野君に渡したのは、もしこの先また悪い『想い』に取り込まれそうになった時は、これ持ってると良いかもだって。なんか、昔仲のいい兄弟がいて、その二人の事を護ってくれた物なんだって。私も詳しくは知らないんだけど、お婆ちゃんが持ってなさいって言ってたよ」


「ちょっと待って! 俺のは?」


 町田が今にも泣きそうな顔で言う。


「ごめんなさい。町田さんにはお婆ちゃん何もくれなかったの――」


「そんな……」


「あっ、でもちょっと待って――」


 紗和はそう言うと、髪に留めて有る花飾りの付いた髪留めを外し、町田に手渡した。


「私があげられる物なんてこれくらいしか無いけど。これお気に入りなんだ」


 町田は感激しているのか、先程にも増して泣いてしまいそうだった。


 俺は、紗和に渡された箱を見た。渡された箱には見覚えが有った。あの時俺が見ていた、ビー玉の入っていた箱だ。箱を開けるとそこにはやはり、白い綿の中に埋もれる様にして、少し大きめのビー玉が入っていた。


 俺はこれを、何処かで見た事が有る。一体何処で見たのだろうか。遠い記憶を探るが、俺はついに思い出す事が出来なかった。


「これ――」


「ビー玉やな」


 栄子は俺の手の中を覗き込み言った。


「本当だね。ビー玉だ。でも凄く良い音がする」


「うん。うちにも見える。すごく良い色」


 紗和と栄子はそう言うと顔を見合わせた。そして二人して笑った。


「これ貰っちゃって良いんかな? さっきこれの値段見てんけどめっちゃ高かった様な――」


「良いんじゃないかな。お婆ちゃんが渡して来なさいって言ってたし。あっでも、条件として、またもしここに来る様な事が有ったら、美味しい林檎を持って来いって言ってたよ」


 俺は、あのまずい林檎を食べている時の、老婆の悲しそうな顔を思い出した。


「ありがとう。次もし来る事が有ったら、必ず美味しい林檎持って来るよ」


 俺は、ビー玉の入った箱を大事に上着のポケットにしまった。俺が何故このビー玉に惹かれたのか、それは分からない。でも、俺の中に眠る遠い記憶が、このビー玉を欲していたのかも知れない。


「栄子のはどんなん?」


 俺は、栄子に箱を開ける様に促した。


「これも高いんちゃうん? うち、貰って良いんかな」


 栄子はそう言いながら、紗和からもらった箱を開けた。そして中から小さなガラスの瓶を取り出した。


「いいと思うよ。それに多分、お婆ちゃん栄子ちゃんと昔の自分重ね合わせてるのかも」


 紗和は特に表情も変えずに言った。


「どう言う事?」


「お婆ちゃんから聞かなかったかな? お婆ちゃん。実は目も覚知してるの。だから、栄子ちゃんの事気になるのかな。そんな事言ってた。でも、夢喰みもそれくらいの量なら、多分そんなに高くないから気にしなくていいと思うよ」


 耳に加えて目まで。あの老婆は、一体これまでどれ程の想いを、視て聴いて来たのだろうか。


「――そうなんや。ありがとう」


 栄子はそう言うと手の中に有る瓶をしげしげと見つめた。


 瓶の中に有る夢喰みの欠片は、沖縄の土産屋に置いて有る星砂に似ていた。


「星砂に似とうな」


 栄子は目の高さに持って軽く瓶を振りながら言った。


「うん。実際星砂の中に混じってる事も有るらしいよ」


 星砂は珊瑚の死骸が砕けた物だと聞いた事が有る。これが、夢喰みの欠片。まるで死んだ珊瑚の様だ。


「ううん。違うよ。これは夢喰みの仮死してる状態。だから死んで無いよ。でも、『想い』を食べさせ過ぎると危ないから使う時は気を付けてって」


 何故、俺の考えている事が――。


「ごめんね。聴こえちゃった。私、お婆ちゃんよりちょっとだけ耳が良いんだ。だから、結構細かい所まで分かっちゃう。気持ち悪いよね」


 紗和の顔に影が射す。その影の濃さが、俺達が元いた世界で、紗和の身に何が有ったかを物語っていた。


 紗和が覚知したのは中学年。幼く未熟な思春期の中学生達が、異質な者にどう対応したかは想像に難く無い。もしかすると、露骨にいじめなどをする者もいたかも知れない。いや露骨な場合はまだ良い。紗和には心の声が聞こえる。表向きは普通に接して来たとしても、裏の顔では紗和の事を気味悪がったり、嫌っていたりしたらどうだろうか。それこそ、友の心からの裏切りに、紗和の心は傷付き人間不審になっていっただろう。


 紗和は、心配しないでと言いた気な笑顔を俺に向けた。紗和の笑顔に、俺の心は傷んだ。


「気持ち悪くなんか無い! そう言うのって個性やと思うし、それに……俺、紗和ちゃんのそう言う所好きやで!」


 町田は既に泣いていた。


「――ありがとう。町田さん」


 紗和は町田に微笑みかける。俺は、このままだと町田の未練が募ってしまい、帰りたく無いと言う思いが、俺達の帰りたいと言う思いを上回るんじゃないかと、本気で心配した。


「あんな、紗和ちゃん。さっき聞けんかってんけど、もしかして覚知者同士って『想い』を感じられへんって事無い?」


 栄子は唐突に言った。


「え? 何で?」


「いやな、うちらがあの水に沈んだ町に行く前、紗和ちゃんのお婆さんの色が見えへんかって、それでちょっと疑うって言うか、お婆さんの事変な目で見てしもうてん。でも紗和ちゃん見た時、紗和ちゃんの色も見えへんかったから、もしかしたら、覚知者同士はお互いの事分からへんのかなって思ってん。だからもしそうやったら、お婆さんに悪いなって思って。助けてもろてそんなん考えてたら失礼やんか、だからな、ちょっと気になってな――」


 確かに栄子は、あの時そんな事を言っていた。あのお婆さんは嘘を吐いていると。


「何だそんな事かあ。それね見えなくて当然なんだ。ここに来るお客さんはね、ほとんどが覚知した人達ばかりだから、私達の『想い』が見えない様に特種な生地で作られた服着てるの。お婆ちゃんが『想い』がばれたら足元見られるって。だから、私は栄子ちゃんの音も聞こえてるよ。服脱いだら私の『想い』も見えると思う。でも、ここで服脱ぐ訳にはいかないから、私の想い口で言うね。私ね、栄子ちゃんや磯野君。そして町田さんに出会えて良かった。お話し出来て凄く楽しかった。後、お婆ちゃんからの条件もう一つ有るの。それはね、たまにはここに来て、私の話し相手になってねって。そう言ってた。私の楽しそうな顔久し振りに見たからって。お婆ちゃん口は悪いけど本当は優しいんだ。だから、また来てね。約束」


 紗和は、そう言うと笑った。俺達はもちろんだと返した。町田はさらに号泣した。――俺達は、本当に元の世界に帰れるのだろうか。


「ありがとう。じゃ私もう店に戻るね」


 紗和は、寂しそうに笑った。


「……でも! ここに来るにはどうしたら良いんかな? それさえ分かったら――俺! 毎日でも来たいくらいやわ!」


 町田はかなり本気らしい。町田の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。


「町田さんは覚知者じゃ無いから一人では無理かも。でも、栄子ちゃん達と一緒ならきっと来れるよ。私とお婆ちゃんのいるこの世界は、みんなに忘れられてそうな、路地裏なんかのすぐ隣に有るの。本当にすぐ隣。遠い様だけれどすぐ近く。だからいつでも来れるよ。――私達の事忘れないでね。そしたらまた会えるから。じゃあ今度こそ私戻るね。バイバイ!」


 そう言うと紗和は、何度も振り返りながら店へと戻って行った。俺達は大きな声で、「ありがとう! バイバイ! また来るから!」などと口々に言い、紗和が見えなくなるまで手を振った。

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