三章:水色の町
第三章:水色の町
俺は暗い道を歩いていた。辺りに人はいない。何処からか美味しそうな夕飯の香りが漂ってくる。しかし辺りは暗く、夕飯の時間には少し遅いかと思い、俺は空を見上げた。しかし空は暗いわけでは無く、赤い夕焼け色をしていた。
暗かったのは、俺が歩いている道の両脇が、高く高くそびえた塀に遮られていたからだった。赤い夕焼けの空は、遥か高い所で赤い川の様にどこまでも続いていた。
明らかに異常な光景にも関わらず、俺はそれを、何故か至極当然の事の様に受け入れていた。
俺は再び道を歩き始める。両脇の塀には、扉はおろか窓さえも存在していなかった。窓も無いのに、この夕飯の香りはどこからやってくるのだろうか。俺は香りに導かれる様にふらふらと足を動かす。
「……」
どこか遠くから声が聞こえた気がして俺は足を止める。
「町田? 栄子?」
俺の発した声は、塀の間で反響を繰り返し、耳障りな雑音となって、周りの空気と混じって消えた。
「……の……」
やはり声が……。どこから? 俺は高くそびえる塀に近寄り、耳を当てる。声は、何故か塀の向こうから聞こえた気がしたからだ。塀からは、無機質で冷たい温度が伝わってくる。
「……その……い……その」
名前、呼ばれて?
その時、頬に感じていた冷たい塀がぐにゃりと歪み、そのまま俺は、塀の中に取り込まれる様にして倒れ込んだ。そして目を開けると、そこには町田と栄子が俺の顔を覗き込んでいた。
町田と栄子の顔の向こう側には、古い日本家屋の様な、梁が一本渡してある天井が有り、そしてその梁からは、黒くくすんだ、鉄の自在鉤が伸びていた。
「ここ……どこ?」
体を起こしながら二人に訊く。どうやら俺は、並べられた座布団の上に寝かされていたらしい。
「おお、起きた」と町田が言う。栄子は、少し困った様な顔をして「おはよう」と言った。
首だけで部屋の中を見渡すと、その部屋は四方を襖で囲まれていて、部屋の中心には暖かな火の灯った囲炉裏が有った。
囲炉裏には大きな鍋が火にかかっており、白い湯気が、木で出来た鍋蓋を押し退け立ち上っていた。鍋から漂う食べ物の香りに、俺の体は無意識に反応する。
俺は気を紛らわせようと、鍋から視線を外し、部屋の中をもう一度見回した。部屋に使われている柱の一本一本には、高級そうな檜が使用されている。そしてその柱は、時代を感じさせる力強さと、艶やかな光沢をたたえていた。
「ここどこなん?」
俺は二人に同じ質問を繰り返した。町田と栄子は、俺の質問に答える代わりに、顔を見合わせた後、肩を竦めた。二人にも分からないのだ。
「おお、起きたんじゃのう」
突然襖が開き、いかにも好々爺と言った感じの老人が現れると、そう口にしながら囲炉裏に近づき腰を下ろした。老人は鍋の蓋を開けると、柄杓の様な物で鍋の中身をかき混ぜる。部屋の中に、ぐつぐつと言うとろみを帯びた液体の煮立つ音と、美味しそうな香りが立ち込めた。
「あの……」
「とりあえずこれでも食べて体温められえ」
俺の言葉を遮ると、老爺は木で出来た腕に鍋の中の物を入れ、三人の前に腕と箸を並べた。腕の中には、大根や人参、里芋や椎茸などがたっぷりと入っていて、豚肉の様な物が入っていた。
「豚汁?」
「猪の肉じゃ。わしの畑を荒らしよった奴じゃ。この前仕掛けとった罠に、今朝見たら掛かっとったけえ、わしが捌いたんじゃ。あったまるけえ食べんせえ」
町田の呟きに答える様に老爺は言うと、鍋をまたかき混ぜ始めた。
「美味しい」
栄子は腕に口を付けると、深い息を吐き出すと共に言った。俺も栄子に倣い口を付ける。猪と聞いて獣臭さを覚悟していたが、猪汁は甘く香る美味い脂の味がした。
体の中に、暖かい猪汁が染み渡っていく。猪汁は、空腹だと言う事とは関係無く美味しく、俺は気が付くと、腕の中身を全て飲み干していた。
「お代わりは有るけえの、遠慮せんと食べんせえ」
老人は俺達に背を向けたまま言った。
「ありがとうございます」
気が付くと、三人共が三杯もお代わりをしていた。
疲労感も有ったとは思うが、漫然とした満腹感と、囲炉裏の暖かい火に当てられて、俺達はうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。
「疲れとるみてえじゃの。奥の部屋に布団敷いとるけえ寝て行きんさい」
俺達は礼もそこそこに、促されるまま部屋を移動した後、泥の様に眠り込んでしまった。
寒い――。
俺は凍える様な寒さの中一人歩いていた。これは夢だろうか? しかし夢にしては、体に感じる寒さや雪からの照り返しは、あまりにリアルだった。
辺りには一面雪が降り積もり、青く染まった世界からは、雪の中から芽吹く様に突き出した家屋が、ぽつりぽつりと点在していた。
雪が積もっていて、はっきりとは判別が付かないが、俺はどうやら田圃の畦道を歩いている様だ。
俺は田圃に転がり落ちぬ様、慎重に足を運ぶ。しかし、深く降り積もった雪に足を取られ、ただ歩くだけの行為が、荒行の様な苦痛を伴う。体も冷え切り、太腿が悲鳴を上げ始めた頃、大勢の人間が歩いた様な足跡が目の前に現れた。
歩き易さを求め、俺は自然にその足跡をなぞり歩き続ける。何故こんな所を歩いているのか。そう思いながらも歩いていると、足跡は、この辺りでも一際大きな屋敷へと消えていった。
俺は暖を求め、足跡の消えている屋敷へと足を踏み入れる。
「すみません、誰かいませんか?」
人の声は聞こえるのだが、誰も出て来てはくれない。俺は、悪いとは思いながらも屋敷に立ち入った。
屋敷は、歴史を感じさせる木造の家屋で、壁は土で出来ている。土間には雪寒地用の靴が多数並び、中にいる人間の多さを示していた。
雪でぐっしょりと濡れた靴を、その場に脱ぎ捨てると、靴は、ぐちゃりと音を立て転がった。俺は、靴をなるべく目立たぬ様、土間の端の方に寄せて揃えると、屋敷の奥に向かって「お邪魔します」と声を掛け部屋に上がり込んだ。
板敷きの床に、湿った足跡が付いているのを見て、俺は靴下を脱ぎ、声のする方へと進んだ。
床は氷の様に冷たく、一歩歩く度に体が更に冷え込んでいくのが分かる。屋敷の奥の方から、何か白熱した様な、怒鳴る様な声が聞こえて来る。
「苫畑ダムは絶対反対じゃ! わしらの生まれ育った町を、水の底なんかに沈めちゃいけん!」
「じゃけどダム建設反対派の町長は、この三年で三人も辞めとる。これ以上は無理じゃねえじゃろうか」
「高橋! 何をそねえな弱気な事言うとるんじゃ! わしらが最後の砦なんじゃけえ、絶対負けたらいけんのんじゃ!」
俺は、襖を細く開けると中を窺う。部屋の中には、コの字に並んだ座卓が有り、様々な年齢の男達が二十人程もいるだろうか、そこに座り異様な熱気を放っていた。
「そねえ言うてもげんちゃん考えてもみいや、県の方はわしらの町への補助金も絞って来よる。その上に行政は決まっとった公共事業もどんどん取り上げていきよるんじゃ。このまんまじゃったら、わしら皆干上がってしまうで」
話の流れから今話していたのは高橋と言う男の様だ。そして、その話を聞き、固く腕を組み唸り声を上げた男がいる。
どうやら、先程熱く語っていたのは、部屋の奥で真ん中に座る男の様だ。そしてその男の座っている後ろの壁には、『苫畑ダム建設阻止期成同盟会定例集会』と書かれた横断幕が掲げられていた。
「しかもやな、山中ん所も小林ん所も、それから杉本ん所もダム建設に賛成したらしいんじゃ。他にも、言うてねえだけで何軒かは賛成派に移りよるらしい……」
「何ならそりゃ! あいつら裏切りやがったんか!」
高橋と呼ばれた男の発言に対して、奥の席に座る男は激昂する。どうやらこの男がげんちゃんと言う男の様だ。
「げんちゃん。仕方が無かろう。あいつらは元々中立じゃったけえ。それに、あいつらは移住組じゃ、この町に大して思い入れが有る訳じゃねえ。金貰うて新しい家に住めるて聞いたら、喜んで土地明け渡すわい」
げんちゃんと呼ばれた男は、また唸り声を上げると腕を組んだ。
俺はあまりの寒さに耐えかね、襖を静かに開けると、部屋の中にこっそりと体を滑り込ませる。しかし、寒さで足が覚束なくなり、体のバランスを崩して転んでしまった。
突如として乱入して来た、見た事も無い男の登場に、さぞかし場は騒がしくなるだろうと予想したが、場は、俺の事など始めから存在していないかの様に、何事も無く進んでいく。
「なあげんちゃん。もうそろそろ潮時じゃねえか? 行政の方も、親父の代の時と比べても破格の金をくれるて言うとるし、あんまりごじゃばあ言いよったら、貰える物も貰えんくなるで」
「高橋! おめえどっちの味方なら! さっきからあっち側に有利な事ばあ言うてからに――ちょっと待て、おめえ何で金の事知っとんなら。おめえ、もしかして――」
げんちゃんと呼ばれている男は、身を乗り出し、高橋と言う男の元に詰め寄る。
「――げんちゃん。もう潮時じゃって。ダムもほとんど完成間近じゃし、ここにおる者も、ダム建設にはもうほとんど反対しとらんのじゃ。後は……」
「何言うとんなら高橋! いい加減な事言うとったら承知せんど! おい杉山! おめえも何か言うちゃれ!」
不意に話を振られた杉山と言う男は、しどろもどろになりながら「いや」とか「あの」とか言葉にならない言葉を発する。
「杉山おめえ――」
げんちゃんと言う男はコの字に並んだ男達に一人ずつ目を向けるが、そこに座る男のほとんどは、目も合わせず俯くだけだった。中には目を逸らさない者もいるが、それでもその眼差しには、憐憫の色が見て取れた。
高橋と言う男は、『ほとんどの者が』と言ったが、どうやらげんちゃんと呼ばれる男以外は、ダム建設反対運動に、もうそこまでの熱を持ってはいない様だった。
「おめえら、自分らの育った町がどうなってもええんか! わしらの田圃が、家が、水の底に沈むんやぞ! それがどう言う事か分かっとんか!」
男の声が虚しく部屋に響き渡る。それに対して声を上げようとする者は誰もいなかった。
「もうええ! おめえらにはもう何にも言わん! 早ようこの家から出ていけ! でもな、これだきゃあ覚えとけよ! わしは、最後の一人になってもこのダム建設には反対し続けるけえな!」
コの字の席に座った男達が、一人また一人と席を立ち、げんちゃんと言う男に背を向け、俺に目をくれる事も無く、部屋から出て行く。そして、最後まで残っていた高橋と言う男は「わしらも生きて行かにゃあいけんのじゃ。げんちゃんも将来の事しっかり考えてな」と言うと、部屋を後にした。
部屋の中には、俺とげんちゃんと言う男だけが取り残され、空虚な空間を作り出していた。
「何でなら――皆この町がどうなってもええんか。何でなら――」
男が呟くと、急激に世界は暗転し、渦を巻く様に崩壊していく。そして俺もその渦の中に巻き込まれ、これは何かと考える間も無く、渦の中心に飲み込まれていった。
「はらやまさん。もうそろそろいい返事聞かせてもらえませんかね。もうこの辺りじゃはらやまさんだけなんですけどね」
俺は、先程の屋敷の玄関に何故か立っていた。玄関には、スーツを着た、いかにも役所勤め然とした男が、懐柔の言葉を発していた。
それに相対する様に、先程げんちゃんと呼ばれていた男が、野良仕事をする様な格好で立ち、手には鎌を持っていた。玄関の表札には、日本家屋にしっくりと来る力強い字体で『原山』と書いてある。原山の原の一文字を取ってげんちゃん。多分そうなのだろうと、俺は勝手な推測を立てた。
季節は春だろうか、玄関口から、新しい草花が芽吹く、そんな高揚感を誘う香りが、風に乗って運ばれてくる。原山は、スーツの男の言葉に答える代わりに、鼻から大きな溜息を吐いた。
「原山さん、分かりました。これから言う事は誰にも言わないで頂きたいのですが、原山さんにだけ特別に、よその家にこちらが提示している額の、三割増しの金額を用意致します。どうです? 悪い話ではないでしょう」
スーツの男は、確信に満ちた口調で言うと、これ以上は無いといった感じの笑顔を原山に向けた。スーツの男が提示した案は、おそらく初めから用意されてあったものなのだろう。
玄関口には、春の長閑さを象徴する様に、暖かな陽光を浴びた数羽の雀が、人間には窺い知る事の出来ない、地面に有る小さな何かをしきりに啄んでいた。その場に有る何もかもが間抜けな間を取り、風景の全ては『平和』と言う二文字で構成されていた。ただ原山一人を除いて。
原山の手に持つ鎌が小刻みに震えているが、スーツの男はそれに気付かず、相変わらず平和な笑みをたたえたままだった。
「……しが……に……」
原山は、顔に刻まれた深いしわと、さほど変わらない小さな切れ込みの様な口を僅かに開くと、何かを呟やいた。
「はい?」とスーツの男が答える。
「……んなにわしは物欲しそうな顔しとる様に見えるんか? 金さえ積みゃわしが首を縦に振ると思うたんか? 言うてみいや」
原山の顔付きがあまりに平常だからか、語気があまりにも平常だからか、言葉に含まれる険は、スーツの男には伝わらなかった様だった。ただ、長閑さの象徴であったはずの雀達は、原山の尋常では無い怒気を敏感に感じ取ったのか、何時の間にか姿を消していた。
「いや、そう言う訳では無いですよ。ただね、原山さんの郷土愛の強さに対して、何か形で応えられないかと、そう我々も考えてですね、分かりやすい形としてまあその、お金と言う形でですね……」
何かが素早く空気を切り裂く様な、細く鋭い音が土間に響き、男の声はかき消された。一瞬何が起こったのか俺には分からなかったが、スーツの男の頬に、一筋の赤いものが走っている。それがすべてを物語っていた。スーツの男にも、何が起こったのか分からなかったに違いない。顔には先程から浮かべたままの、薄笑いを張り付かせていた。
原山が、狙ってそうしたのかそれは誰にも分からないが、一つ言える事は、スーツの男は一歩違っていれば、この世に遺せたものが、その薄笑いだけだったと言う事だった。
「帰ってくれ」
スーツの男の頬に流れる血を見て、幾分か落ち着きを取り戻したのか、原山はそう言うと、屋敷の奥へと歩いていった。
「原山さん! はらや……うわっ! 何だこれは!」
頬に伝う血に気付き、スーツの男は激しく狼狽した。
「こんな事をしてただで済むと思っているんですか! 原山さん! これは事故では有りませんよ! 事件です! 然るべきしっ……」
屋敷の奥から、先程原山が持っていた鎌だろう、それがスーツの男の足下に、甲高い金属音を立てて転がった。
スーツの男はそれを見て、身に降りかかるかも知れない狂気を読み取ったのか、青い顔で屋敷から逃げる様に立ち去った。
原山は、スーツの男の言う通りただでは済まないだろう。俺は、スーツの男を見届ける為、玄関の外へと移動した。スーツの男は虚勢を張るかの様に、靴の音を、必要以上に辺りに響かせ去っていった。
原山の屋敷の外では、いつの間に舞い戻って来ていたのか、数羽の雀が地面の上で戯れていた。屋敷の周りに目を向けると、ここで今起こった出来事が嘘で有るかの様な、長閑な光景が広がっていた。
鳥は囀り、草木は咲き乱れ、野山に走る風の足跡は、この場所が水の底に沈む事を、静かに否定している様にも思えた。
俺は、原山の様子を見に行こうと思い、玄関へと足を踏み入れたその時だった。またもや世界は渦を巻き、暗闇へと飲まれていった。俺はまたかと思い、その渦への流れに身を任せた。
そうか、これは原山と言う男の過去の出来事で、俺はそれを追体験しているのだ。その事に気が付いたのは、原山の顔を真正面からまじまじと見たからだった。
原山はいつも無愛想で、常に眉間にしわを寄せ、口数は少なく必要以上の事は話さない。原山は、俺達三人に猪汁を振舞ってくれたあの老人とよく似ている。そう。きっと原山は、若かりし頃のあの老人なのだ。そして今原山の元へ、犯した罪を償わせる為に、司法の手が及ぼうとしていた。
穏やかでは無い空気を纏った男が二人、屋敷の玄関先で原山の名を呼んでいた。男達は、一見会社勤めの様なスーツを着ていた。一人は、三十代半ばくらいで、もう一人は、それよりは年上に見える。男達の纏う空気は、平和な日常に生きる俺達のそれとは明らかに違っていて、どこか殺伐とした物を全身から放っていた。確かめずとも分かる。警察だ。
警官達の声は緊張を孕んでいて、どこか、原山が出て来るのを恐れている様にも感じられた。もしかするとあのスーツの男が、原山の事を気の狂った男だとでも吹き込んだのかも知れない。
原山はどうするのか。まさか、先程の様に鎌で――。だめだ。警官にその様な事をしてしまっては何もかもがお終いだ。俺は何時の間にか、原山に感情移入してしまっていた。
屋敷の奥から、襖の開かれる音と激しく床を踏み鳴らす音が、玄関に向かって近付いて来る。警官達の表情に、緊張の色が浮かぶ。原山が何をしたのか知っているのだから当然だ。
「原山さんだめだ!」
俺は聞こえるはずも無いのに、屋敷の奥に向かって叫んだ。玄関の土間には、先ほど原山が放った鎌が鈍く光っていた。警官達はそれに気が付くと、年上と見られる方が、もう片方に目で合図し、鎌を拾わせた。
鎌には僅かでは有るが、その切っ先に赤黒い染みを付けていた。あのスーツの男の血に違いない。それを警官達が確認し、ビニール袋に入れたその時、大きな足音を立てて原山は現れた。
原山は、そのままの勢いで警官二人に近付くと、たじろぐ警官達を尻目に、土間に飛び降り頭を地面に擦り付けた。
「頼む! わしが悪かった! わしが悪いけえ許してくれ!」
原山は土下座をしていた。原山に驚かされた警官達は、腹いせのつもりか、顔に嫌らしい笑みを浮かべると、しばらく無言で原山の事を見下していた。原山はなおも地面に向かい、悔恨の念と赦しを請う言葉を、繰り返し吐いていた。
「原山たける!」
警官に名を呼ばれた原山は、肩をピクリと震わせる。警官は、胸ポケットから何やら書類を取り出し、それを読み上げる様にして言った。
「きさまを傷害容疑で逮捕する! 立て!」
「だめじゃ! わしが捕まってしもうたら、この町は水の底に沈んでしまう! それだけはだめじゃ! 頼むけえそれだけは勘弁してくれえ!」
原山は、血が出るのでは無いかと思う程に、額を地面に擦り付け、なおも懇願した。だがその願いも虚しく、原山は引き摺られる様にして連れて行かれてしまった。
原山のいた場所には、血で濡れた砂利が残されていた。その血で濡れた砂利を見ながら俺は考える。何が悪いのだろうか、誰が悪いのだろうかと。原山? 警官? スーツの男? それともダム建設を了承した他の町人なのか? それともダム建設を推進し始めた国? 俺には分からなかった。
全ての思惑や責任は、道端に捨てられたタバコの様だった。雨に打たれてふやけ散らばり、粉々になった思惑や責任は、あやふやで掴みどころが無く、何が原因で何が悪いのか、全く分からなかった。ただ一つ言えるのは、この町は、遅かれ早かれ水の底に沈んでしまうのだろうと言う事だけだった。
俺は玄関の土間に立ち、屋敷の外に広がる日本の原風景とも言える自然に、目をやった。そこには、力強く生きる生命そのものが有った。失っていいものなど一つも無い、だがしかし、抗う事の出来ぬ大きな力に、目の前に有る奇跡の様な光景は、儚くも失われてしまうのだ。
そして俺はまた、暗く渦を巻く世界に飲まれていった。次に見る景色は、どの様なものなのだろうか。俺は渦に巻かれながら、なんと無くそんな事を考えた。
空の高い所で一羽の鳶が大きく円を描き、人間のちっぽけさを嘲笑うかの様に一際甲高く鳴いている。
原山は、足下に有る手頃な石を拾うと、届くはずも無いのに、鳶に向かって空高く石を放った。石は、鳶の遥か下の方で緩やかに速度を落とすと、放った時と同じスピードで落下して行った。そして石が落ちたその先には、深く大きな湖が広がっていて、突如として落下して来た石に驚いたのか、臆病なカイツムリ達が、水の中に姿を消した。
「お父さん――もう沈んでしもうたもんはしょうがねえがん。もう行こうやあ。さちこも一緒に住んでもええて言うてくれとるんじゃし、いつまでもこんな所に来とっても仕方が無かろう」
原山に向かって中年の女性が言った。話し振りからすると、原山の奥さんだろうか。
「おめえにわしの悔しさが分かってたまるか! 訳が分からんうちに警察に捕まって、出て来てみたら、いつの間にか全部が手遅れになっとった。大事なもんを一つも守れんかった。わしが何をした言うんじゃ。真面目に働いて築き上げて来たもんが全部この水の中じゃ! わしが何をした言うんじゃ! わしが、わしが――」
原山の声は、湖と山の中に吸い込まれる様に消えていった。自分の父親程の年の男が、人目も憚らずに慟哭している様は、俺の胸の中に激しい痛みを植え付ける。
俺は原山の事を見ていられなくなり、目を閉じた。不意に、自分の周りの空間があやふやになる感覚に襲われ、上も下も分からなくなった。しかし直ぐに、あの暗い渦なのだと気が付き、俺は目を瞑ったまま流れに身を任せた。
俺は渦に巻かれながら考えた。これは夢なのだろうかと。いや、夢で無くて何なのだと言うのか。夢だとしか言いようの無い、不思議な体験をしてなお、夢だと言い切れない説得力がこの夢には有った。
どう言えばいいのだろうか。よく夢には色など無く、匂いや味もしないと聞くが、この夢にはリアルにそれらが感じられたのだ。雪の冷たさや青さ。人の放つ独特の匂いや温もり。草花の芽吹く瞬間の高揚感を伴う香り。他にも五感で感じた全てが、この夢を夢で無いと訴えていた。しかしこれが夢で無いのならば、町は確かに水の底へと沈んだ。だが、俺が眠る前に猪汁を食べた家は、水の底に沈んだはずの屋敷に極似していた。これはどう言う事なのだろうか。
俺は混沌とした思考の中で、目を開けた。目の前には、薄暗い部屋の中で、行燈の儚げな明かりに照らされた天井が浮かんでいた。ここは水の底なのか。それとも……。
「磯野。――起きてる?」
栄子の声に、俺の思考は途絶えた。
「起きてるけど? て言うか、今目が覚めた」
「うちも今目が覚めた。――うちな、今夢を見てん。しかもすごいリアルな夢」
栄子の言葉に、俺は何故か驚かなかった。
「――俺も見た。ここは水に沈んだ町なんやな」
「うん――」
栄子も俺の言葉に驚いた様子はなく、あらかじめ分かっていたかの様に応えた。水に沈んだ町。本来ならば立ち入る事は不可能なのに、俺達は何故かその町にいて、こうして布団を並べて横になっている。
俺は老婆の言った、この世界は忘れ去られた町を喰っていく。そしてどんどんこの世界に、忘れ去られた町を増やしていく。と言う言葉を思い出していた。
水に沈んだ町ならば、人の目に触れる事も無いし、人々の記憶から消えていくのも時間の問題だろう。この町はこの世界によって喰われてしまったのだろうか。
布団の擦れる音が聞こえる。俺は首を回し音のする方を見た。栄子は寝返りを打ち、俺の方を向いていた。
「どないしてん?」
「この町の想いが悲し過ぎて寝られへん」
この町の想い――。老婆はこの世界に想いなど存在しないと言った。なら何故栄子は『想い』と言う言葉を使うのか。
「色、見えるんか?」
「うん。見える。ここに来てから、うちの目いつも通りや。でも、この町は悲しい色してる。特にあのお爺さんが――」
あの老人の想い。何故この町に『想い』が残っているのかは分からない。でも、その理由はあの老人に有るのではないかと俺は思った。誰がこの町を忘れようとも、あの老人だけは忘れていないのでは無いだろうか。その強い想いが、この町の『想い』を繋ぎ止めているのでは無いだろうか。俺にはそう思えてならない。
「悲しいな……」
俺は栄子に言った。栄子は、俺に応える代わりに、また寝返りを打つと、仰向けになって「もう寝よか」と言った。そして俺は再び眠りに落ちた。それから俺が、あの原山の夢を見る事はもう無かった。
雀の鳴く声で俺は目が覚める。障子が明るい色に染められて、朝の訪れを知らせていた。しかしまだ朝が早いのか、障子は薄っすらと青味がかっていた。俺はモゾモゾと布団から抜け出すと、伸びをしながら部屋の中を眺める。隣で眠っていたはずの、栄子の姿はすでになく、町田はまだ眠っていた。
「おい町田。起きろって」
町田を揺さぶりながら、俺は声を掛けた。町田は目を擦りながら、むくりと体を起こすと、一言「腹減った」と言った。
「何が腹減ったやねん。早よ起きいや」
そう言えば、町田は夢を見ていないのだろうか。
「町田。昨日の夜お前夢見たか?」
「夢? そう言や見たな。AKBとNMBが騎馬戦やってたわ。そん中で俺は何故か審判やってたな」
「そうか。良かったな」
町田は原山の夢を見ていないのか。
「おう、お前が起こさへんかったら、勝ったチーム全員と、ハワイ旅行に行くはずやってんけどな」
何故か町田は、原山の夢を見ていないらしい。いや、むしろそれが普通なのかもしれない。俺はしゃべり続ける町田を放って、昨日猪汁を食べた居間へと向かった。
「おい、磯野! お前が話振ってんやろ?話の途中でどっか行くて、失礼やろ……」
町田が後ろでまだ何かを言っていたが、俺はそれを無視した。居間へと向かう途中、失礼かとは思ったが、ここに来てからまだ見ていない部屋を俺は覗き見た。そこには、俺が夢で見たのと寸分違わぬ部屋が有った。
ダム建設反対の集会を開いていた部屋。そしてそこに至るまでに、凍える様にして俺が通った廊下。やはり夢は現実の物で、この屋敷は、本当ならば湖の底に沈んでいるはずの物なのだ。
居間へ通じる襖を開けると、そこには栄子がいて、朝食の準備をしていた。
「おはよう。……爺さんは?」
俺は、部屋の中を見て老人がいない事に気付き、栄子に訊いた。
「――ああ、磯野か。おはよう。畑見てくるって言って出て行ったわ」
栄子は、準備の手を止めると俺に向かって言った。
「お爺さん、昨日の残り食べといてって言うてたから、今準備しててん。もうすぐ出来るから待っててや」
そう言うと栄子は、再び朝食の準備を始めた。俺は栄子の背中に「ちょっと表見てくる」と声を掛け、居間を後にした。
居間を出る時、栄子は一瞬不安そうな顔を俺に向けていた気がしたが、俺は気にせずそのまま玄関に向かった。
玄関に着くと、夢で見たのと同じ様に、雀達が地面で何かを啄んでいた。土間には、俺達三人の靴が綺麗に揃えて並べられていて、俺は自分の靴を履くと、そのまま表へと出た。
表に出ると、夢で見たあの美しい野山が視界全体に広がり、その山の裾野には、広大な田畑が広がっていた。そしてその中に一人、あの老人が野良仕事をしている。
老人に声を掛けようとして、俺は何故か声を飲み込んだ。目の前に広がる広大な自然。それは夢で見た光景それに間違いは無い。だが、何か何処か違う。何が違うと言うのだろうか。違和感の原因を探し、俺は注意深く景色を眺めた。
「何か――青い?」
思わず口にした青いと言う言葉に、俺の意識は、より青い色を認識する様になる。
「おかしいな。何でや」
俺は目を擦り、再び景色に目をやるが、やはり景色は薄っすらと青かった。それは、そこかしこに青い物が有ると言う訳では無く、まるで目の前に、薄い水色のフィルムが貼られているかの様に、見える物全てが青味がかっていた。
俺は屋敷を振り返る。屋敷も青い、地面も、田畑も、雀も、山も野原も、全てが薄っすらと青かった。
俺は空を仰ぎ見た。
「これは! これはどう言う事や……」
「すげー! 何やこれ! 磯野何やこれ! どうなってんの?」
突然背後から聞こえた町田の素っ頓狂な声に、俺は後ろを振り返る。
町田は俺と同じ様に空を見ていた。空には、老婆が無いと言っていた太陽が浮かび、俺達や地上に有る物全てを照らしていた。しかしその太陽は、まるでプールの底から仰向けに太陽を見ている様に、ゆらゆらと揺らめいていた。そうまるで水の中から見ている様に。
ここはやはり水の底だったのか――。
俺達のいる地上の遥か上空では、分厚い水で出来た層が有り、それは不思議な光景だった。しかし同時に、そんなあやふやな物が空に浮かんでいると言う事に、俺は少なからず恐怖を覚えた。
俺の後ろでは、なおも町田が騒がしく騒いでいる。その町田の声に気が付いたのか、老人が屈めた腰を伸ばしこちらを見ると、作業の手を止めそのままこちらに歩いて来た。
「おめえら起きたんか。ほんで朝飯は食うたんか?」
老人の問いに俺は首を横に振った。
「ほうか。朝飯食うたら、おめえらに聞きてえ事が有る。じゃから飯食うたらまたここに来てくれ。わしはここで畑仕事しとるけえの」
そう言うと老人は、騒いでいる町田と、その町田が指差している空を見ると、また畑へと戻って行った。老人は、この空を見て何を思うのだろうか。それとも何も思わないのだろうか。
「見た? あの空」
俺と町田が戻るなり、栄子は言った。
「見た。あの空。って言うかあの水、凄い。何が何やらもう訳が分からん」
栄子が不安そうな顔をしていた理由は、あの空が原因らしい。それもそうだと俺は思う。あの空を見て平常でいられる者などいるのだろうか。いつ落ちて来ないとも知れない、あの大量の水。それが常に上空に有るのだ。もしあの水がここに落ちて来たならば、俺達は、あっという間に溺れてしまうだろう。
「それより早く朝飯食おうぜ。爺さん、聞きたい事有る言うてたやん」
ここにあの空を見ても動じない人間が一人いた。町田だ。
「何それ?」
栄子が町田に訊く。
「いやさっき表で爺さんが俺らに言うてん。聞きたい事が有るから、飯食うたら出て来いて」
「そうなん? 磯野」
「そうやな。爺さんそう言うてた。でもそれよりも、こっちの方が訊きたい事だらけやけどな」
老人は、俺達に何を聞きたいと言うのだろうか。それに、あの老人が原山であるのならば、何故ここにいるのだろうか。夢で見た原山は、湖の畔に確かに立っていたと言うのに。
俺達は、それから黙って朝食を食べた。町田以外は。町田、黙って飯を食え。俺は心の中で呟いた。
――屋敷の外に出ると、相変わらず老人は野良仕事に精を出していた。そして俺達の事を認めると、また先程と同じ様に、こちらに向かって歩いて来た。
「朝飯は食うたか?」
「はい。美味しく頂きました」
栄子が代表して応える。
「ほしたら、中に入ろうか」
老人はそう言うと、屋敷の中へと入って行った。老人の手には夢で見た物とよく似た鎌が握られていて、俺と栄子は顔を見合わせた。
「あの、昨晩は泊めていただきありがとうございました」
俺は、台所に立つ老人の背中に向かって声を掛けた。
「ちょっと待ちんせえ。今お茶淹れるけえ」
老人は、無骨な外見とは裏腹に、てきぱきとした几帳面な動きで、お茶を用意する。そして俺達の前に並べると「茶菓子はねえから干し芋でええかのう」と言い、俺達の返事も聞かずに、干し芋を盛った皿を、卓袱台の真ん中に置いた。
「あの昨晩は……」
「ええ、ええ。堅苦しいのは嫌いじゃけえ。それよりおめえらどこから来たんなら」
老人はそう言うと、お茶を一口啜った。栄子は俺を見て頷く。俺に答えろと言う合図だろう。町田を見ると、干し芋に齧り付いていた。
「どこからって言ったら良いのか、それが自分達にも分からないんです。湖の水に触れたら何故かここにいて、と言うより、ここが何処なのかも分からないんです」
湖と言う言葉を言った時に、老人の表情は若干曇ったが、俺が言い終わると、老人は言った。
「ここは苫畑町じゃ」
「苫畑町ですか……」
俺は、夢の中で見た『苫畑ダム建設阻止……』と言う横断幕を思い出した。――やはりここは。
「たまあにのう、おめえらみてえにここに来る人間もおるんじゃけど、大概がびしょ濡れでのう、何でか知らんのじゃけど何時の間にかおらんくなるんじゃわい。飯食え言うても何にも言わん。服着替え言うてもうんともすんとも言わん。死んだみてえな白い顔して、生きとるんか死んどるんか分からん目えして、ふらふら、ふらふらしながら歩いとる。そんな危ねえ奴はほっとけんけえ、家に入れるんじゃけど、次の日にはおらんなっとる。じゃけえここに来てまともに話出来たんはおめえらが始めてじゃ」
老人は少しだけ愉快そうに言うと笑った。びしょ濡れの死んだ様な顔をした人達。もしかしたら、彼らは苫畑ダムの湖で溺れ死んだ人達ではないだろうか。溺れて亡くなり、そして行き着いた場所が、ここだったのではないだろうか。俺はそんな気がした。
「あの、あなたの名前はもしかして、原山さんと言うのでは無いですか?」
老人は驚いた様に目を見開いた。
「おお、何で知っとんなら。確かにわしは原山じゃ。もしかして、この町に住んどった奴等の子供か?」
「いえ、違います。あの夢で……」
そこまで言って、栄子が首を振っている事に気が付いた。言うなという事だろうか。
「夢?」
老人が不思議そうな顔をする。
「あいや、違います。表札を見たんです」
「そうか。わしはてっきり、また昔の奴等が帰って来るんかと思うたわ。ほうか。違うんか」
老人は淋しそうに言うと、またお茶を啜った。
「あの、ここには他に人は住んでいないのですか?」
栄子が老人に訊いた。
「――住んどらん。昔ダムが出来るじゃ何じゃあ言う話があってのう。この町は、ダムの底に沈むんじゃあ言うて役所の人間が言いにきたんじゃ。それを聞いて皆どっかに行ってしもうた。でものう、わしがそれを阻止してやったんじゃ。お陰でこの町は、ダムの底に沈むどころか、ダムすら建っとらん。おめえらも外見たじゃろ。どこにもダムなんか無かったろうが」
老人は得意気に言った後、淋しそううな顔をした。
「でものう。出て行ったもんは帰って来んかった」
老人の淋しそうな声に、俺は声も出なかった。
「――でもさあ。ダムは無いけど空は凄えよな。あれどうなってんの?」
間の悪い町田の声が沈黙を破った。何故か栄子の顔が曇る。
「空?」
「そう空。何か水の中から見てるみたいな事なってるやん。爺さんあれどうなってるん?」
「何を言うとんじゃ? 空は普通じゃねえか」
少し狼狽した様に、茶碗を持つ老人の手が震えた。
「町田!」
栄子が諌める様に言った後、町田の方へ身を乗り出す。町田はびっくりしたのか、手に持っていた干し芋を取り落とした。
「ええ。嬢ちゃんええから」
老人は栄子を遮ると続けた。
「おめえら何か知っとんか? この町の事。――わしもアホじゃねえ。ここに誰も住んどらんのは、わしもちいとおかしいと思うとった。他の住人はともかく、わしの嫁ですら何時の間にかおらんようになっとる。何時の間にかじゃ。そんなんおかしかろう。わしはずうっと一人じゃった。何か知っとるんなら話してくれえ」
俺と栄子は顔を見合わせた。そして栄子は顔を伏せる。俺に言えという事なのだろうか。この何も気付いていない老人に、何も知らない老人に、残酷な現実を俺の口から――。
老人を見ると、俺の目をまっすぐに見つめていた。幾星霜もの年月を重ねた、老人独特の全てを見透かす様な、それでいて包み込む様な眼差し。俺は、この老人の前では嘘をつく事が出来ない。そう悟った時、自然と口から言葉がこぼれ出ていた。
「――夢で、夢で見たんです。この町の運命を」
老人は黙っている。どうやら俺の話が終わるまで何もしゃべらないつもりの様だ。俺は、夢で見た事を仔細漏らさず老人に話した。老人は、時折顔をしかめたり、唸る様な声を上げていたが、基本的には俺の言葉に静かに耳を傾けていた。
話の途中から、何故か栄子がそわそわし始め、周りの様子を仕切りに気にしていたが、俺は気にせず老人に語り続けた。
「磯野。ちょっと、ちよっと待って」
「なんやねんもうすぐ話し終わるから……」
「ええから、ちょっと静かににして! 音聞こえへん?」
「音?」
その場にいる全員が、栄子の言う音が何なのか知る為に、耳をそばだてた。
「外から聞こえて来るのう」
老人は、年の割に耳の聞こえは良いのか、そう言うと立ち上がり、そのまま表へと向かった。俺達三人も慌てて老人に続く。
「栄子。何の音や」
老人の後に続きながら、俺は栄子に訊いた。
「分からへん。でも、磯野が夢の話をし始めた時くらいから、急に周りの色が不安定になり始めてん」
「それで自分そわそわしてたんか」
「おお! 何じゃこりゃ!」
一足先に、屋敷の外に出た老人が大きな声を上げる。表に出て見て、目の前に広がる光景に、俺は言葉を失った。そこには、視界いっぱいに広がるダムが突如として現れていた。
「何でじゃ! こんなもん朝には無かったはずじゃ! おめえら何したんなら!」
老人が憤怒の形相で俺達に叫んだ。
「俺達は何も……」
「うるせえ! おめえら以外に誰がおるんじゃ! おめえらが来るまでこんなこたあ無かったんじゃ!」
「磯野あれ――」
栄子が俺の服を引っ張り、老人の手を指差している。老人の手の中に、あの夢で見た鎌が形作られていく。
「何で? さっきまであんなの持ってなかったのに」
「多分ここに有る物全部、あのお爺さんの『想い』で出来てるんやわ。だから、磯野が夢の話したから、お爺さんが自分の中で拒否し続けてた現実に気付き始めたんやわ。だからダムが急に出来たり……」
「何やねん栄子! それ俺が悪いみたいやんか!」
「どう言う事なら。やっぱりおめえら何かしたんか?」
ドスの聞いた声に俺は老人を見る。
その手には、既に完成した鎌が握られていて、老人は、みるみるうちに若返り、夢の中で見た原山とそっくりになっていた。
「何じゃおめえら。何か言うてみいや! おめえらやっぱりダム推進派の差し金じゃろうが!」
「違います! 聞いて下さい!」
俺は原山となった老人に叫んだ。
「何が違うんなら!」
原山が鎌を持ち上げる。
「この町はもう……」
「あかん! 磯野!」
栄子が俺を遮る。
「もうなんなら!」
「もう沈んでいるんです!」
「あかんて!」
俺と栄子が同時に言葉を発したその時、何かとてつもなく大きな、排水口の詰まりが取れた様な、そんな不快な音が辺りに響いた。
「おい磯野! あれ!」
町田が空を指差し叫んだ。俺達は、空が歪むのを見た。いや正確には、空に浮かぶ大量の水の塊が、うねるのを見た。
「ありゃあ何じゃあ!」
原山が空を見て言う。
「あかん。早よ逃げな、うちらあの水に巻かれてまう! 町田! 磯野! 早う逃げるで!」
栄子は言うが早いか、走り始めた。
「逃げるてどこに!」
俺は、走る栄子の背中に向って叫んだ。
「水の来ん所! ダムやダム! ダムの上!」
栄子は振り返りもせず、走りながら叫んだ。
「おい栄子待てって!」
町田が栄子を追って走り始める。原山は、相変わらず空を見上げたまま立ち尽くしていた。
「原山さん! 早く! 早くここから逃げないと、ここもじきに水の底に沈みます!」
原山は既に、老人へと戻っていた。原山は、呻く様に頷くと、俺の後を走ってついて来た。
栄子と町田は、既に随分先の方まで走っていた。俺は、時折原山を振り返りながら走った。だが、老人となった原山の足は圧倒的に遅く、ついには立ち止まってしまう。
「原山さん!」
俺は原山に駆け寄った。
「原山さん何やってるんですか! 早くしないと!」
「ええ。もうええ。わしはここに残る。何もかも思い出したわ……」
「そんなの後で聞きますから早く!」
老人の手を取り、駆け出そうとしたその時、俺はまた、あの夢で見た暗い渦に飲み込まれた。
「何でこんな事になってしもうたんかねえ」
白い無機質な壁にリノリウムの床、そして一度嗅いだら忘れる事の出来ない独特な薬品の匂い。ここは……病院?
「何でお父さんこんな事したんじゃろうか。いくら郷を守りてえから言うてやり過ぎじゃわ」
目の前で、見覚えの有る中年の女性が誰かに向かって話している。この女性は確か、原山の奥さん。奥さんは、誰に向かって話しているのだろうか。話し振りからすると原山の様だが。
奥さんの見ている方を見ると、幾つものホースが上から下へと垂れていて、何かの薬品が上から下へと流れていた。そしてそのホースの繋がれた先には原山がいて、ベッドの傍には、何かの数値を表す計器が並んでいた。
「奥さんちょっと」
病室の入り口から男が呼ぶ。俺はこの男に見覚えが有る。確か原山を捕まえに来た警官では無かっただろうか。
「何か分かったんじゃろうか」
奥さんは、病室を出るなり言った。
「ここではなんですので、是非署の方へ」
「ええです。どうせ誰も聞いとりゃせんのじゃし。それに、お父さんの所から離れるわけにもいかんから」
警官は困った様に頭を掻くと、周りに誰もいない事を確認した。
「筆跡鑑定の結果、あの遺書は原山さんの物に間違いないとの事です。本当にこんな事になってしまい……」
「もうええです。何となしに分かっとったけえ。それよりもう帰って下さい。お父さんの所に戻らにゃいけんけえ」
奥さんは警官を遮りるとそう言った。
「いや、あのしかしですね……」
「何でこんな事になってしもうたんかねえ。うちらは静かに暮らせとったらそれで良かったんじゃけどねえ」
奥さんは静かに言った。それは刑事にもう何も言うなと言っている様にも聞こえた。
「分かりました。今日は帰ります。今回は何と言うか、ご主人様は本当に残念……」
「残念とか言わんで! まだお父さんは死んでねんじゃけえ!」
「いや、そう言うつもりでは」
「もうええけえ帰って! うちも忙しいんじゃけえ!」
奥さんの剣幕に押される様に、警官は帰っていった。奥さんは、警官がいなくなるまで見送ると、そのまま踵を返し原山の元へと戻った。
「お父さんの気持ちが少し分かったような気がするわ。――お父さんも、こんな気持ちで郷を守ろうとしとったんじゃねえ。――今度は、うちがお父さんの事守っちゃるけえね」
奥さんの目に涙が溜まり頬を伝うと、そのままリノリウムの床に落ちて小さな音を立てた。
「でも、死んでしもうたら何にもならんが――」
そう言うと奥さんは、原山の眠るベッドに崩れ落ちる様に突っ伏し、嗚咽を漏らした。
「晶子――」
背後から声が聞こえ、振り返るとそこには老人になった原山がいた。俺は何故か驚く事はなく「原山さん――」と呟く。
「兄ちゃん。兄ちゃんが見た夢言うんはこれか?」
原山は、ベッドの方を向いたまま独り言の様に言うと、一歩ベッドに近付いた。
「――はい。でも、これは僕が見た夢の続きみたいです」
「ほうか。わしは、何ちゅう馬鹿な事をしたんかのう。――全部思い出してしもうたわ」
原山はもう一歩ベッドに近づき、言葉を続ける。
「わしはあのダム湖に飛び込んだんじゃ。郷を守れんかったけえ、ダム作った奴等に、死んででも見せ付けてやりたかったんじゃ。おめえらがわしを殺したんじゃあ言うてのう。――わしはほんまに中途半端じゃな。死のうとしても死ねんと、中身の無い空っぽの身体で、この世にしがみ付いとる。これじゃ晶子も可哀想じゃ」
原山は奥さんの肩に手を置いた。奥さんはそれに気が付く事なく、なおもベッドに突っ伏したままだった。
「――兄ちゃんのう。……さっきはすまなんだの。兄ちゃんらが来てくれたお陰で、わしの帰る場所がやっと分かったわい。わしは晶子ん所に帰るわ」
原山がそう言うと、病室の風景がビデオの早回しの様に高速で動き始め、ベッドの上の原山は、俺の隣にいる老人の姿へと近付いていく。そして隣にいたはずの老人は、まるで水の中に有る氷が溶ける様に、その存在を薄めていった。
「原山さん――」
俺が呟くか呟かないかの瞬間、病室の時間の進行は、ゆっくりと元の動きを取り戻し始め、そして流れる様に元に戻った。
俺はベッドの方へと近付き、原山の様子を見る。原山の傍に有る計器は特におかしな動きはしていない。しかし、俺は見た。微かに原山の指が動くのを。原山の奥さんは側にいるが、それに気付いている様子は無い。早く、早く気付いてあげてくれ。俺がそう心の中で呟いた時、俺はまた暗い渦に飲まれた。
「おい! おい磯野! 起きいや!」
体に感じる激しい揺れと町田の声に、俺は眩暈を覚えながら目が覚めた。
「あれ? 原山さんは?」
「知らん! どっか逃げたんちゃうんか! それよりお前何しとんねん! こんな時に寝るなや! あほか!」
「あほてお前! そんな……」
「そんなんどうでもいいから早く!」
絶叫にも近い栄子の叫びを聞き、俺は、自分達の置かれている状況を思い出した。なおも眩暈で揺れ動く視界をずらし、俺は背後を見る。水は俺達の本当にすぐそばにまで迫っていた。これでは町田にあほと罵られても文句は言えない。
俺は、勢い良く体を起こすと、全力で走り始めた。ダムまでの距離は目測でおよそ二百メートル弱。俺達は間に合うのか?
津波の速度は、水深十メートルで毎秒十メートルも進むと聞いた。人間に置き換えると百メートルを十秒で走ると言う事だ。――俺は考えるのを止めた。今はそれどころでは無い。ひらすらに走らなければ、あの水に飲まれる。
ふと振り返ると、水は低く唸る様な音を上げながら、俺達の背後五百メートル程にまで迫っていた。俺はもう振り返る事も止めた。無駄な思考や行動は、余分なエネルギーを消費するだけだ。今の俺達に、そんな余ったエネルギーなど存在しない。ただ前を向いて走れ! 心の中で自分に激を飛ばした。
「あかんもう無理や!」
町田が嘆く。
「そんなん言うとらんと走れ!」
「うっさい磯野! お前が寝てたからや!」
「喧嘩なんかしてんと、早く走り!」
栄子が怒鳴る。水はもうそこまで来ている。背後から聞こえる音で分かる。がくがくと力が抜けそうになる脚を、何とか気力で持ち上げる。ダムまではあと五十メートル。
「くそ! あかん。ほんまに足が無理や!」
前を走る町田のスピードが、目に見えて遅くなり俺に並ぶ。
「頑張れ町田! もうすぐや!」
「頑張ってるわ!」
ダムはもう本当に手の届く所まで来ていた。
「あれ? 階段は?」
前を行く栄子が、垂直に立ちはだかるダムを見上げながら声を上げる。俺は、はたと気が付いた。この町は水の底に沈んだ町。つまりこちら側は水が溜まる側で、人間が活動する事など想定されているはずはない。つまり、階段は無い。
その事実に気付いた時俺は戦慄した。遥か上方には水の吸い込み口の様な物が有り、その側に梯子らしき物が有るが、空でも飛ばない限り、そこに到達する事は不可能だ。
「何でや! ここまで来たのに!」
激しく水がぶつかり合う音と飛沫く音で、大量の水が背後から迫って来るのが分かる。
俺達はここで溺れ死ぬのか。
「栄子! 磯野! こっちや!」
諦めかけたその時、後ろから少し遅れて来た町田が叫んだ。町田はそのままダムの正面を逸れて、脇の方へ駆けて行く。その先に有るのは鬱蒼と茂る草や木だ。
「おい! 町田! そっちは……」
そう言いかけて俺は口を噤んだ。迷いの無い町田の足取りは、何かを知っているそれだった。
「栄子! 行くで!」
町田に賭ける! 俺は心の中でそう叫んだ。町田を追って茂みに体を投げ込む。明らかに人の手の入っていない茂みは、俺達の行く手を容赦なく阻んだ。
「くそ!」
いつ終わるとも知れない険しい茂みと、背後から迫る水が木を薙ぎ倒していく音とで、俺は苛立ち悪態を吐く。しかしその悪態も、水の立てる轟音にすぐに飲み込まれる。本当にこっちで良かったのか? 町田どうなんだ? 町田に賭けたはずの覚悟の心が、急に揺らぎ始める。
「町田ぁ!」
俺は業を煮やし、町田向かって叫んだ。
「見えた!」
俺の声を打ち消す様に、先頭を行く町田から声が上がると、不意に茂みが消え、目の前にコンクリートで舗装された急な斜面が現れた。
「こっからダムの上に登れるはずや!」
町田は、言うが早いか斜面を駆け上り始めた。斜面には階段の様な物は無いが、規則正しく並んだ正方形の窪みが有り、俺達はそこを這う様にして登った。
水は音を聞かずとも分かる程に、俺達に接近していた。弾ける飛沫が、俺達の頭の上から激しい雨の様に降り注ぐ。身体が悲鳴を上げ動くのを辞めろと抗議するが、精神力で俺は動き続けた。止まれば死ぬ。頭の中に有るのはそれだけだった。
「あかん磯野!うち無理かも!」
下から栄子の声がする。俺は栄子を振り返った。栄子の顔はかなり辛そうだったが、それよりも深刻なのは水の高さだった。水は何時の間にか栄子の足首までを飲み込んでいた。
上を見ると、町田は俺達の様子に気付いていないのか、留まる事なく斜面を登っていた。ダムの頂上まではあと三十メートル程。だがしかし、吸水口の高さまで登れば、水の登って来る速度は遅くなるはずだ。吸水口まではあと約十メートル。
「栄子! あと十メートルや! 頑張れ!」
「あかん。足がもう動かへん。無理や」
栄子の心は折れてしまったのか。俺は悪態を一つ吐くと、栄子のいる場所まで斜面を下りた。苦労して登った斜面を下りるのは、登る時以上の苦痛だった。
「ほら! 手え掴まれ!」
「ごめん磯野――」
栄子が手を掴みながら小さな声で謝る。
「ええから! 落ち着いて足を上げるんや!」
栄子の手を掴むとすぐに、俺の足も水に浸かった。足下でうねる水の流れは足の自由を奪い、確かに心が折れそうになる。しかも、何百メートルも全力で走った後ならば尚更だ。
それでも動かなければ死ぬ。
「こんな所で死んでたまるか!」
俺は全身を使って栄子と自分の体を上へ上へと引き上げた。水の勢いは地上を這うよりは遅いが、それでも確実に俺と栄子の身体を飲み込んでいく。
身体が水に飲まれるのに比例して、手足の動きは加速度的に鈍くなる。俺は吸水口を横目で見た。後五メートル。
水は既に腰の位置にまで達していた。腰の下でうねる水は、まるで生き物の様に俺達の身体を絡め取ろうとする。それはさながら、獲物を狙う捕食者の様だった。
「喰われてたまるか!」
俺は叫び渾身の一手を振り上げる。水を吸った衣服が身体に纏わり付き、俺の動きを愚鈍にさせる。
「もう少しや! 頑張れ!」
町田が吸水口の高さから手を延ばして叫んでいる。あと少し、あと少し。俺は心の中で祈る様に呟き続けた。町田の延びた手にあと数十センチと言う所まで身体が達した時、水は俺の首にまで迫っていた。栄子に至っては、常に顎を上げていなくては呼吸もままならない程だった。
「もう少しや栄子! 頑張れ!」
俺は天に向かって叫んだ。栄子は聞こえているのかいないのか、声にならない声を上げた。
町田の手に、俺の手が触れたその時、俺は助かったと思った。その油断がいけなかったのだろうか。身体が水の中から半分ほど引き揚げられた次の瞬間、水では無い何か別の物が体に触れる感触を感じた。そして栄子を掴む手が引っ張られたかと思うと、俺の手は、水の中を彷徨った。
「栄子? どこ行ってん! おい町田! 栄子どこや!」
俺は残りの半身を水の中から引き抜くと、水面に目を走らせた。
「町田! 栄子がおらん! 何かに引っ張られた!」
「あかん、無理や。あんなん無理や――」
町田を見ると、ガタガタと震えながら湖の一点を見つめていた。町田の視線を辿り、それを俺は見た。そこには何か大きな影がいて、栄子を水の中に引き摺り込もうとしている様に見えた。
「何やねんあれ!」
「分からん。いきなり近付いて来たか思うたら、栄子の事絡め取って行きやがった。ほんでその時、俺、あれと目が合うてん。あんな目、俺、あかん。思い出しただけでも――」
町田が何を見たかは知らない。でも俺は、あれから栄子を取り戻さなくてはならない。栄子は、俺達のいる場所から五メートル程離れた場所で、何か大きな物に翻弄されるかの様に水の中をくるくると回っていた。
ダムの水は、吸水口に達したからなのか分からないが、もう大きく水位を上げる事は無い様だった。
「くそ!」
覚悟を決める為に大声で叫び、俺は濡れた服を脱ぎ捨て、再び水の中へ飛び込んだ。それほど水泳が得意な訳では無い。それでも俺はそれに向かって泳いだ。
相変わらず水の動きはうねる様な動きで、時折俺の体は、自分の意思とは関係無い方向に流されそうになる。俺はがむしゃらに腕を振り足をバタつかせ、栄子の元に辿り着く。
「おい栄子!」
俺の呼びかけにも、栄子は全く反応せず、虚ろな目をただ空へと漂わせていた。そして時折栄子の身体は、大きく水の中に沈む。
「くそ! 何やねん!」
俺は水の中に潜ると、栄子を引き摺り込もうとしている存在を確かめた。ダム湖の水は怖いほどに透き通っていて、それの存在を、俺に否応なく見せ付けた。それを見て俺の体は萎縮する。それは絶望的に巨大で醜悪な形をしていた。
体と呼ぶ事が正しいのか分からないが、それは全体が黒く、見た目は淡水魚の鮒に似ていた。しかし、鮒に似たそれの大きさは、現実の鮒よりも遥かに大きく、体の全長は五メートルは有った。そしてその至る所から、黒い人間の手足の様な物が無数に生えていて、ウゾウゾと不気味に動き回っていた。
本体から生えた数本の黒い手は、栄子の体をしっかりと掴み、今にも水の中に引き摺り込もうとしている。俺はその見た目の醜悪さに吐き気を覚える。
一度水面から顔を出し、大きく息を吸ってから再び俺は潜った。そして黒い手の化け物に近づく。栄子を掴む手を何とかしなくては。俺は、栄子に伸びた手の一本に掴みかかる。黒い手はぬるぬるとしていて、上手く掴めなかった。
俺は掴む事を諦め、水の中で手刀を振り下ろした。水の中では大した威力は無いが、それでも何度か振り下ろすと、黒い手は栄子を放した。
だめだ、息が続かない。俺は水面に顔を出すと、素早く息を吸いまた潜った。そして残りの手にも同じ様に手刀を振り下ろす。同じ動作を繰り返し、栄子を掴む手も、後残す所二本と言う段になって、俺の体が大きく沈むのを感じた。体から力が抜ける。見ると足に何本かの手が絡み付いていた。
俺は力の限り暴れ、それを振り解こうと悶える。しかし、手の力が強いのか、掴まれる事により、力を失うのか分からないが、手は解けようとはしなかった。
とにかく栄子だけでも。俺は栄子に伸びた残り二本の手に手刀を下ろす。俺の手刀は、当初のそれよりも明らかに力を失っていたが、化け物は栄子への興味を失ったのか、栄子の体を放した。
俺は、自分の足に絡みついた手を振り解く為に、水の中で体をくの字に曲げ、足を掴む手の指を一本ずつ剥がし始める。しかし手の力は凄まじく、それを剥がし取る事は容易では無かった。一本剥がしてはまた掴まれ、そして剥がす。それの繰り返しに俺の気力は萎える。
もうだめだ。そう思った時、化け物に顔の様な物が付いている事に気付いた。顔は手や足の付け根に埋もれる様にして有り、一つや二つでは無かった。それこそ全ての手足の付け根に顔は付いていた。顔の一つ一つは、男であったり女であったり子供であったり、様々な性別年齢のものが有った。そしてその中の一つの目を見た瞬間、俺の気力は完全に萎えた。
この世の全てに絶望した様な目。この世の全てを怨む様な目。町田が無理と言った意味が分かった。この目を見て絶望しない者はいない。俺の口から最後の空気が漏れた。
視界の端に栄子が水に浮かんでいるのが見える。俺の絶望的な状況と裏腹に、水の中から臨む太陽は、幻想的で美しかった。
『俺はあかんけど、お前は助かってくれ。町田。後は頼む』心の中で呟いた。
その後俺は、上も下も分からなくなり、強力な力で引っ張られたと思った時にはもう意識が無くなっていた。




