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見えない色  作者: かつを
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二章:狭間堂

 第二章:挟間堂


 生温い風は、一度感じてしまえばあたかも当然の様な顔をして、俺の体を撫で回す。全身の神経が逆立ち、僅かな気流の変化も逃さない。一瞬のうちに、俺の体は別のものへと変わってしまった様だ。


 静かに神経を集中して、風の向かってくる方向を見極める。俺は、初めの一歩を慎重に踏み出し栄子を見た。栄子の目は、合っていると無言で語りかけていた。栄子には何かが見えているのかも知れない。間違いない。俺は風を見失わぬ様、慎重且つ大胆に歩き始めた。


 それは、高層ビルの間に渡された、一本の細いロープの上を渡る感覚に近かったかも知れない。一歩間違えば、そこには死が待っている。命懸けのタイトロープ。頭の中で駆け巡る思考。


「見逃すな!」「生きろ!」そんな言葉が何度も何度も目の前に現れては消えて行く。栄子の目に映る今の俺は、さぞかし赤い事だろう。


「おい! 磯野! こっちはさっき戻って来た道やぞ!」


 町田の声に耳を傾ける余裕は無い。俺は、ひたぶるに風の声だけを聞きながら突き進んだ。間違いない。俺の本能は告げている。これこそが生き延びる道だと。


 数時間、いや、数分前かもしれないが、俺達の駆け抜けた道を逆に進んで行く。数多の扉を素通りしながら、俺は本能のままに身を任せた。そして……。風は不意に途絶えた。


 何故だ。今の今まで旧知の親友の如く纏わり着いていた風が、一瞬のうちに消えてしまった。俺は道を間違ったのか? 自分自身に問いかけながら、栄子の方を見る。栄子は静かに首を振る。何故、何故そんな顔をする。


 俺はもう一度深く息を吸い、全身に駆け巡る酸素の流れを意識しながら、神経を集中した。――何故。何処へ行った。お前は俺の友達いや親友じゃなかったのか? それとも、甘い吐息で俺達を惑わせるだけ惑わせといて、いざとなったら裏切る悪魔だったのか?


「磯野……」


「うるさい! 今大事なところやねん! ちよっと黙っといてくれや!」


「落ち着けや磯野! 何でもかんでも一人で抱え込むな! 俺の話を聞け!」


 くそっ! 何なんだ町田! お前は何で邪魔するんだ。助かりたく無いのか。


「こっち見ろや! あれ見てみんかい!」


 町田は俺の事を乱暴に揺すると、無理矢理に頭を捻じった。俺は苛立ちながらも、町田に向けられた方向を見た。一体何だって言うんだ。


「磯野、栄子。あれ見えるか? あれ、明かりちゃうんか」


 町田の言う方向には、確かに明かりの様な物があった。それは儚く揺らめく蝋燭の様な頼りない灯りだった。


「人……がおるんか?」


 俺の質問に誰も声は上げない。やるべき事は分かっている。俺達は走った。


 瞬きはしない。揺らめく灯りは、目を閉じた瞬間に、何処かへ行ってしまいそうな程頼りない光だった。助かるかも知れない。いや、絶対に助かる。不意に現れた一条の光は、俺達の目の前を照らす、小さな太陽の様に思えた。


 目がカラカラに乾き、涙が滲み出て来る。いやもしかしたら、安堵の思いから自然に流れた物かも知れない。しかしそんな事はどうだっていい。ただ助かりたいと言う全身全霊の命の叫びを、俺達は足に乗せて走った。


 灯りの有る場所に辿り着いた時には、三人とも顔をぐちゃぐちゃにして、肩で息をしていた。体に纏わり付く風の流れが不意に蘇る。そしてその風は、ゆっくりと明かりの灯っている窓の隙間に吸い寄せられていった。


「さっきここ通った時、こんな店有ったか?」


 町田が俺と栄子に聞いてくる。俺と栄子は、有った様な無かった様なと、曖昧な返事をした。有ったかも知れないが、少なくとも俺は覚えていない。いや、そもそもにしてこの店には看板が無い。看板も無いのに店と言うのはどうかと思うが、それでもそこには目立ち難くはあるが、ショーウインドウの様な物が有ったり、何かよく分からない物に値札が付いていたりして、やはり店としか形容出来ない外観をしていた。


 俺は、はやる気持ちを抑えてゆっくりと店の入り口を観察した。明かりの灯っている窓は、湖面の様にうねうねと歪んでいて、中を窺い知る事は出来ない。ただ、光の揺らめきから、その灯火は蝋燭かランタンの様な物では無いかと推測出来る。


「栄子、何か見えるか?」


 俺は後ろで様子を窺っていた栄子に聞いた。


「どうやろ。薄っすらと何か色が見える様な気もするんやけど、もしかしたら違うかも……」


 栄子の目は、もしかしたらここに来て、その力を失いつつあるのかも知れない。


 俺は窓の横にある扉を見た。それは古めかしい様な、それでいて新しい様な不思議な雰囲気を持つ木で出来ていた。一見しただけでは他の扉と大差無いのだが、よくよく観察して見ると、所々朽ちている様な所も有り、またその逆に、今ニスを塗り終えたと言ってもおかしくないほどの光沢を保った部分も有った。


「おい、磯野」


 町田が痺れを切らした様に話し掛けて来る。分かっている。俺は町田に頷くと、扉を叩く為に腕を振り上げた。


「待って!」


 俺の拳が、扉に達するかしないかの瞬間だった。俺の腕は栄子によって掴まれ、行き先を見失った拳は、扉には当たらず空を切る。


「何すんねん?」


 俺はそう言いながら栄子の方に振り返った。栄子は俺の方を見ず、何か恐ろしい物でも見る様な目で、俺の奥に有る、扉の少し下の方を見ていた。町田の方を見ると、町田も同じ様に扉を見ている。俺は二人の視線を辿った。そしてその視線が交差しぶつかった先には、先程までは無かったはずの、拳大の穴が空いていた。


 俺の立っている場所からでは、穴の中は覗けない。二人の見ている物を見ようと思い、俺は体を引いた。穴の奥からは、落ち窪んだ眼窩の中に、埋もれる様にしてある黒い双眸が俺達の事を睨め付けていた。


 異常。頭の中にその二文字が躍り出る。多分ここにいる者は異常だ。


「誰だい。人を変な風に見るのは。全部聴こえてるよ」


 突然の声に俺は体を強張らせた。俺は咄嗟に栄子を見る。栄子は何も分からないと言う風に首を振り、後ずさった。俺もそれに倣おうとした時、再び扉の向こう側から声が聞こえて来た。


「待ちな! あんたらどっから来たんだい? こんな所に来るなんて、普通じゃ無いね」


 嗄れた声は独特の震えを持ち、頭の中に直接話しかけてくる様な、そんな不思議な声だった。そしてどうやら声の主は老婆の様だった。


「入んな」


 俺達が何も言えないでいると、中から声が聞こえ、油の切れた様な音を立て扉は開く。少しだけ開いた扉の隙間から枯れ枝の様な腕が覗き、俺達に手招きすると、そのまま扉の奥に消えて行った。俺達は、恐る恐る扉を開け中に入って行く。


「あの、ここって……」


 扉を閉めながら声を掛けるが、そこにいたはずの老婆は、すでにそこにはいなかった。


 中に入ると、すぐ目の前に通路が有り、その両脇には、雑多な物が天井に届きそうなほどうず高く積まれていた。


 その通路は、人が一人通れるかどうかと言ったくらいの細さで、気を付けて通らなければ、両脇に積まれた物を崩してしまいそうだった。そして入り口の横を見ると、俺達が目指して走って来た灯りがあった。


 灯りは、アンティークなランタンの中で宙に浮いていて、生き物の様に身をくねらせている。そして大きさは、ピンポン球くらいだろうか。しかしそれは、蝋燭の炎の様に上に立ち昇るのでは無く、まるで線香花火の中心に有る玉の様な形をしていて、表面がゆっくりと蠕動していた。


 ランタンの横の窓を見ると、先程感じた風が隙間から吹き込んでいるのだろう。綿ぼこりの様なゴミが、窓の内側に向かって静かにたなびいている。そしてその風が大きく吹き込むのに合わせて、玉の様な光は、風を巻き取る様にうねり回転していた。


 思わず俺は、ランタンに顔と手を近付けた。顔と手に、赤外線ストーブの様なじんわりとした熱を感じる。


「それに触るんじゃないよ!」


 突然老婆の鋭い声が飛んで来て、驚いた俺はランタンに軽く触れてしまった。ランタンに触れた瞬間、風鈴の音の様な澄んだ音色が辺りに鳴り響く。そしてランタンの中で、光の玉が激しく震え始め、音も次第に大きくなっていく。


 俺はそれを見ながら、何も出来ないでいた。触るなと言われた訳の分からない物に、故意では無いにしろ触れてしまった。それの対処法など分からない。


 まごつく事しか出来ない俺の足下で、大きな舌打ちが聞こえたかと思うと、次の瞬間には目の前に大きな黒い布が広がり、ランタンの上にふわりと覆い被さった。風鈴の様な音は、くぐもった音に変わり、次第にその音は小さくなっていった。


「――まったく、死にたいのかい?」


 何時の間にいたのか、俺の腰程しか背丈の無い老婆が、俺の顔を見上げていた。咄嗟の事に、俺は声を出す事すら出来なかった。


「なんだい、助けてやったのに礼の一つも言えないのかい。時代は変わったのかねえ」


 そう言うと、小さな老婆はくるりと踵を返し、通路の奥へと静かに消えていった。


「あっあの、ありがとうございます」


 俺は、忘れていた言葉を思い出したかの様に言うと、後ろの二人を見た。町田は物珍しそうにその辺に有る物を見ていて、栄子は肩を竦めた。


 俺は町田の部屋を思い出した。町田の部屋は訳の分からない物の宝庫だ。町田にとってみれば、ここは宝箱の中みたいな物なのかも知れない。


「中に入って来な。その辺の物に勝手に触るんじゃないよ」


 老婆の声が、店の奥から聞こえて来る。俺達は体を横にして、両脇に積まれた様々な物に、触れない様気を付けて進んだ。


 通路は五メートル程も有り、そこを抜けていくと、外から見ただけでは窺い知れなかった店の中が見えて来る。


 店の中は、驚くほどに広かった。天井はゆうに三メートルは有り、敷地の広さは二十畳程も有るだろうか。とにかく、もしここに何もなければドッヂボールくらいなら出来るだろう。しかしそこには、何も無いどころか恐ろしい程に物で溢れていた。


 極彩色のガラス玉に、何処の国の物か分からないお面。本物かどうか分からないが、二ツ首のトカゲの置物。他にも、何に使うか全く想像もつかない物が所狭しと置かれ、広いはずの店内は、それらの物のせいでひどく狭く感じられた。


 そこに有る物は、何故か懐かしくも有り、同時に新しくも有った。俺達はそれらを見ながら、しばらく何も言えずにその場に立ち尽くした。


「あんた達どっから来たんだい? ここにどうやって入った?」


 どこからとも無く老婆の声が聞こえる。俺は店の中を隅々まで見渡した。


「あの、すみません。あなたは誰なんですか? それにどこにいるんです? 姿を見せてもらえませんか?」


 老婆の姿が見えない事で、言いようの無い不安を感じる。よもやあの小さな老婆が、いきなり襲って来たりはしないだろうが、それでもあり得ない事が立て続けに起こっていたせいで、俺は、目の前で起こる全ての事に怯えていた。


「ふん、質問に質問で返す。いい心がけだねえ」


 嫌味を含んだ老婆の声が、店内に響き渡る。そしてその声に呼応するかの様に、店の中に有る幾つかの物が、小刻みに震え始めた。様々な音が賑やかしくそこかしこで鳴り始め、俺達はそれらを目で追った。


 完全に剥製だと思っていた巨大なオウムの嘴が開いたり閉まったり、何故か天井から吊り下げられている薬缶の蓋がカタカタなったり、さながら地震でも来たかの様な騒ぎだった。


 町田はうっとりとした目でそれらを見ている。栄子は、目をしきりに瞬かせている。


「おい、栄子。大丈夫か?」


 俺は栄子に声を掛ける。


「急に色が――。目が、痛いくらい」


 そう言うと栄子は目を押さえ蹲まった。


「おい! 栄子! 大丈夫か?」


「黙りな!」


 突然の大声に、俺は飛び上がる程に驚いた。何時の間に現れたのか、小さな老婆は、店内の物を睨め付けていた。どうやら俺に対して発した声ではないようだ。大騒ぎしていた物達が急に静かになっていく。


「どうりでここに来れた訳だ。あんた、色見の眼だね。どれ、見せてご覧」


 老婆は栄子の側に跪くと、先程までとは打って変わり、優しげな声を掛けた。栄子はそっと目から手を離すと、辺りを窺う様に、薄っすらと目を開けた。


「もう目を開けても大丈夫だよ」


 不安そうな表情の栄子を、労う用に老婆は言った。それを聞いて安心したのか、栄子がゆっくりと目を開けると、老婆は栄子の両頬に手を当て、正面から覗き込む。


「随分溜まってるねえ。辛いだろうに」


 俺はこの時見た光景を一生忘れる事は無いだろう。


「これをご覧」


 老婆はそう言うと、何時の間に持って来たのか、入り口に有った物とそっくりなランタンを手にしていた。ただ、先程の物とは違い、中に有る物は光の玉では無く、黒く鈍く光っていた。


「それは?」


 俺は、好奇心に負けて老婆に話し掛ける。


「説明は後でしてやるよ。先ずはこの娘が先だよ」


 そう老婆は言うと、ランタンの下部に付いている摘みを捻り、小さな蓋の様な物を取り外した。そしてそれを栄子の方に向ける。栄子は老婆の動作を、ただ見つめていた。そして、差し出されたランタンを、老婆に言われるがままに見つめ始める。


 どれくらい見つめていただろうか。突然栄子の瞳孔が大きく開き、虹彩の色がめまぐるしく変わり始めた。それを見て俺は、誰かが栄子の目に、見えない手で次々とカラーコンタクトを重ねている。そんな様子を想像した。


 町田が「おお……」と声を上げる。ランタンを見ると、中の黒い玉がゆっくりとうねり始め、小刻みに震え始めていた。


 薄っすらと――目を凝らしていなければ見逃してしまうくらいの、本当に朧気で糸の様に細い靄が、栄子の目から紡ぎ出されていく。


 靄は様々な色をしていて、まるで栄子の目から虹が紡ぎ出されている様に見えた。靄が、先程老婆が開けたランタンの下部の穴に吸い込まれて行く。


 ランタンの黒い玉は、喜んでいるかの様にその全体を大きく蠕動させ、栄子の目から紡ぎ出された靄を巻き取る様に回転し始めた。そして黒い玉は、その黒い色を虹色へと変えていった。




 あの黒かった玉は、栄子の目から色を吸い取るだけ吸い取ると、満足したかの様にくるくると色を変え、周りを七色に照らしていた。


 老婆はランタンの穴を蓋で塞ぎ、そのまま自分の傍に置き、俺達に決して触らぬ様にと釘を刺した。俺はその玉を見ながら、幼い頃祖母の家で見た、盆提灯を思い出していた。


 仏壇の横で、くるくると回転しながら色を変える盆提灯は、幼い頃の俺を魅了した。それを俺は、よく飽きる事も無く、いつまでも見ていたものだった。


 老婆は古ぼけた長椅子を指差し「立ち話もなんだから座んな」と言った。そしてそのまま、俺達の向かいに座った。俺は背中に背負ったナップザックを床に下ろすと、老婆に倣い座った。


「さてと、これであんた達が何でここに来られたのか何と無く分かったよ」


「あ、あの。さっき言ってた色見の眼って何なんですか? それと、私の目に何をしたんですか?」


 幾分か顔色を取り戻した栄子が言った。目が痛いと言い出した時の顔色が、まるで死人の様に青かったのが嘘の様だ。


「色見の眼。それはねえ、色の覚知者が持つ眼の事を言うんだ」


「覚知者?」


 三人は声を合わせる。


「その名の通りだよ。覚知した者。つまり、色を覚った者さ。あんた、物や人の『想い』が見えるだろう?」


「はい。見えます! これって何なんですか?」


 栄子は興奮気味に答えた。それはそうだろう。何しろ、栄子の持つ不可解な目の事を知る人間に、初めて出会ったのだから。


「何かと言われると、説明が少し難しいね。どう言やいいかね――」


 老婆は少し考えた後続けた。


「まず人間には五感てのが有るのは分かるね? 視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚。あんたはその中の視覚、特に色に対しての感覚が人よりも敏感なんだ。だから、物に篭った『想い』や、人の『想い』に色が付いて見えちまうんだよ。ところで、あんたのその眼は生まれ付きかい?」


 栄子は、少し思い出す様に首を傾げると「多分」と言った。


「そうかい。そりゃあこんなにも溜まるはずだ」


 老婆はランタンを見る。


「――『想い』ってのは、結構厄介な物なんだ。いや、覚知者にとっては厄介と言った方がいいかね。よく、人の『想い』ってのは生きてるなんて言う輩がいるがね、あれは強ち間違った事じゃ無いんだよ。『想い』が本当に生きてるかどうかなんて、わたしには分からないけどね、それでも生きてるとしか言えない様な、そんな性質を持ってることは確かだね」


 想いが生きている?


「『想い』ってのは、分かりやすく言うとね、寄生虫や、ウイルスに近い性質を持っているんだ。『想い』は感染するんだよ。そして寄生する」


 感染、寄生。その穏やかでは無い言葉に、俺は眉根をひそめた。


「心配しなくてもいいさ。感染って言っても、普通の人間からしたら大したもんじゃない。ほら、貰い泣きってのが有るだろ? あれがそうさ。他人の悲しいって感情や嬉しいって感情が『想い』となって感染した結果、何故か涙が出ちまう。その程度さね」


 老婆は俺の想いを汲み取ったのか、言葉を付け足した。


「でもね、覚知者にとってみたら溜まったもんじゃないんだ。『想い』が寄生虫やウイルスに近いってさっき言ったがね、奴らは見られてるって分かった瞬間に、その見ている覚知者に対して、感染した後寄生するんだよ。分かるね? 覚知者の中に『想い』は宿るんだ。あんた、色を見て気持ち悪くなった事は無いかい?」


「はい。人混みに行った時や、嫌なモノの色を見た時に、吐きそうになったりします」


 老婆は静かに頷いた。


「それが、感染だよ。まあ、感染しても害の無い『想い』も有るがね、巷に溢れてるのはあんまり良い物は無いからね。医者に罹る訳にもいかないだろうし、辛かっただろうに」


 老婆はそう言うと、虹色に光る玉を見つめた。


「あの、それで私の目はどうなったんですか?」


 栄子は老婆に向かって言った。


「ああ、忘れるところだったね。年は取りたく無いもんだね」


 年――。この老婆は一体何歳くらいなのだろう。手の甲や顔に刻まれた深い皺は、老婆の過ごして来た年月を容易に想像させた。


「レディに対して失礼な事考えてんじゃないよ」


「何で……」


 俺と町田が同時に声を上げた。町田も同じ様な事を考えていた様だ。


「わたしはね、聴覚の覚知者なんだ。あんた達の考えてる事なんてすぐに分かるよ。わたしにとって『想い』は全て音に聞こえるのさ。あんた達からは細くて失礼な音がキンキン聞こえるよ」


 俺は扉の前で聞いた「全部聴こえてるよ」と言う言葉を思い出した。


「それであの時……」


「そう言う事だよ。……さて、話が逸れたね。あんたの目の中にはね、生まれてからこれまでに見た『想い』が棲み着いてたんだ。それをこいつに喰わせたのさ」


 老婆は、ランタンを目の高さにまで持ち上げると、少しだけ揺らした。ランタンから澄んだ音が鳴る。中の虹色に光る玉は素早く明滅して、くるくると色を変えた。俺は何故か、玉が『迷惑だ』と言っている気がした。


「婆さん。それ何なん?」


 町田が、興味津々と言う感じで老婆に聞いた。


「婆さんて言うんじゃないよ。失礼な子だね。――これはね『夢喰み』って言うんだ。モノの『想い』を喰べて育つ、ちょっと変わった生き物だよ。わたしら覚知者は『想い』からの感染は避けられないからね。たまにこの生き物に『想い』を喰べさせてるのさ。でなけりゃ、この娘みたいに気分が悪くなったり、運が悪けりゃ死んじまったりしちまう」


「死ぬ?」


 俺は思わず声を上げる。


「そうさ。『想い』の中には相当悪いのもいるからね。達の悪いのに罹られたら、そりゃ死ぬ事だって有り得るさ」


 俺は、栄子が度々言う黒い色の事を思い出す。栄子を襲う黒い『想い』とは何なのだろうか。


「すみません。聞いていいですか?」


 栄子は大学の授業でも受けているかの様に手を上げる。顔色は、先程よりも更に良くなっている。


「何だい?」


「あの、その『夢喰み』ですか。それってどこにでもいるんですか? それに、そこにいる夢喰みは、玄関の傍にいたのとは少し違うみたい」


 老婆は、栄子とランタンを順番に見てから言った。


「確かに玄関にいた夢喰みと、こいつは違う夢喰みだよ。玄関の夢喰みは、主に外の世界から風に乗ってやって来る『想い』を食べてる。こいつらは『想い』を食べる事によって光る性質が有るから、わたしは看板代わりに使ってるがね。光の色が違うのは、あんたが今まで溜め込んできてた想いが相当の量だったからだろうね。――こいつが欲しいのかい?」


 看板代わり。……やはりここは店なのか。俺は店内をぐるりと見回す。老婆の背後に古ぼけた板が有り、そこには『狭間堂』と書いて有った。この店の屋号だろうか。


「――はい。さっき夢喰みに色を食べてもらってから、目の奥にずっと有った重みが取れたんです。今、ものすごく気分が良いんです。まるで、産まれて初めてお母さんの顔を見た時みたいに」


 栄子は、少しの沈黙の後控えめに言った。


「ほう、産まれた時の事を覚えているのかい。……まあ、生まれ持っての覚知者なら有り得なくも無いね。さて、どうしたもんかね。夢喰みは何処にでもいると言えばいるし、いないと言えばいないんだ。あんた達『貘』を知ってるかい?」


 俺が貘と聞いて思い出したのは、いつの日か動物園で見た、アリクイに似た短足の動物の姿だった。


「知ってんで! 悪い夢を食う妖怪やな。俺フィギュア持ってるわ」


 俺は町田の家にある、冷蔵庫の上に飾ってあった、ガラクタの事を思い出した。あれは確か、町田の引っ越しを手伝った時だった。嫌がる俺に、町田は無理矢理にガラクタの説明をし始めた。その中に、熊の様な象の様な珍妙なガラクタがあり、それが『貘』だ何だと町田は言っていた様な気がする。


「そうだ。若いのによく知ってたね」


 町田は得意げにこちらを見ている。何故か腹が立つ。


「この夢喰みはね、『貘』の伝説の元になった生き物なんだよ。だから別名『貘丸』とも言うんだ。貘って言うのはね、元々中国発祥の妖怪でね。こんな話が有るよ。まあ年寄りの御伽噺とでも思って聞いとくれ。――あるところに、確か中国の何処かだよ。そこに大きな屋敷が有ったんだ。その家には、毎夜毎夜悪夢にうなされていた娘がいたんだそうだ。その娘はね、悪夢のせいで眠るのが怖くなっちまった。人間寝ないとどうなるか分かるかい?」


「俺はカラオケオールの後、テンション上がって牛丼が食いたなるで」


 それはお前だけだ、町田。


「幻覚を見る……」


 栄子は神妙な面持ちで呟く様に言った。


「――そうだね。幻覚を見る。そして眠れないと、最後には死んじまうんだよ」


 老婆は栄子を見ながら言った。俺はその眼差しを見て、昼間電車の中ので見た光景を思い出した。


「さて、続きだ。やがて娘は、さっき言った様に幻覚を見始めたんだ。そした、狂った様になっちまった。家の者はね、娘が、何か悪いモノにでも取り憑かれたと思ったんだね。国中にお触れを出したんだ。誰かうちの娘を助けてやってくれってね。助けてくれたら多額の褒賞を与えるってね。そこで、色々な輩がその屋敷を訪ねて来た。でも、結局誰にもその娘の事をどうにか出来る者はいなかったんだよ。そうなるといよいよ困った家の者はね、その娘をどう扱っていいか分からない。だからね、近隣の人達には娘は死んだんだって事にして、地下に座敷牢を作って、そこに娘を閉じ込めたんだ。娘はその座敷牢で、来る日も来る日も過ごした。悪夢が怖くて眠る事も出来ず、かと言って起きていても幻覚を見るから心が休まる時が無い。娘の神経はどんどん蝕まれていった。――あんたはもう分かってると思うけどね、娘は色見の眼を持ってたんだ」


 老婆は栄子に向かって言った。栄子も頷く。栄子も悪夢や幻覚を見ると言う事なのだろうか。


「昔の中国なんてね、戦争や争いが山程有ったから、そこいら中に悪い『想い』が有ったんだ。『想い』は覚知者である娘にどんどん寄生していった。結果悪夢を見るようになったんだ。だからね、座敷牢に閉じ込める事自体は悪い事じゃ無かったのかも知れないんだけど、少し遅かったんだね。悪い『想い』をたっぷり溜め込んだ状態で座敷牢に入った娘は、自分自身でも悪い『想い』を吐き出し始めた。何で私がこんな目に遭わなきゃならないんだ、何でこんな所に閉じ込められなきゃいけないんだってね。そして、娘の生み出した悪い『想い』はそのまま娘に跳ね返って来る。最悪の悪循環の環境が出来上がっちまったって訳さ。娘は一日中叫びまわり、もう誰の言う事も聞きゃしない。そんなになるまではね、日に何度か、食事やら何やらで座敷牢に誰かは行っていたんだけど、そんなになってからは、食べ物も牢から離れた所から放り込むようにしてあげたり、家の者ですら座敷牢に近付く事は無くなったんだ。もう娘がどうなっているかなんて誰にも分からない。ただ、叫び声が聞こえるから生きているって事だけは分かるんだけどね」


「ひどい――」


 栄子の目には涙が溜まっていた。自分と娘を重ね合わせているのかも知れない。


「確かにね。でも、誰にも責める事は出来ないよ。何しろ原因は誰にも分からないんだからね。それから何日も娘の叫び声は続いた。そしてある日、娘の叫び声がピタリと止んだんだ。家の者はね、娘の死を覚悟したんだね。赦しておくれと泣きながら娘のいる牢に行ったんだ。そこでその娘の家の者は予想外の物を見たんだよ。家の者は、娘の断末魔を想像して、恐る恐る牢に近づいた。でもね、そこには憑き物が落ちたような顔をして立ってる娘がいたんだ。そして娘は言ったんだ。夢を見たと。当然家の者は娘に聞いた。眠る事が出来る様になったのかってね。でもね、娘は分からないって言うんだ。夢だったのか幻覚だったのか。それで娘が見た物は何だって話になるね。娘はこう言ったんだそうだよ。夢かどうか分からないけど、体は熊で鼻は象、目は犀で牙は猪、手足は虎で尻尾は牛の不思議な生き物が現れて、悪い夢を食べてくれたんだってね。その話は、家の者だけでは無く近隣の者達の耳にも入った。それで、そんな妙な生き物がいるのかって話になってね、探したら南の方にバクって呼ばれる娘の話によく似た動物がいた。それで、その夢に出て来た動物は『貘』になった訳だ。それ以来、中国では悪い氣を祓う動物として毛皮を枕元に置いたりする民間伝承が広まったそうだよ。でもね、家の者は一つ隠し事をしていたんだよ。娘を牢から出す時、牢の中には恐ろしいほどの熱と光を放つ玉が有ったんだ。それが何だか分かるね?」


「夢喰み?」


 俺達はほとんど同時に言った。


「そうだ。家の者達はね、何とかしてその『夢喰み』を鉄の容器に入れて、家の宝として保管していたそうなんだけどね、その後その家に住んでいた者は皆廃人の様になったんだ。それでその夢喰みはどうなったかって言うとね、戦やらなんやらで紛失したんだとさ。この話から何が分かるね?」


「戦争はいけない事だ!」


 町田が即答した。老婆は「そうだねいけないね」と、孫を諭すように言った。


 恐ろしい程の熱を持つ。廃人。俺は、玄関で触れてはいけないと言われたランタンに、触れてしまった時の事を思い出した。あの時老婆は命を救ったと言った。


「もしかして、この夢喰みはかなり危険な物なんですか?」


「そうだね。かなり危険だね。使い方を間違うと、命すら危ないよ。夢喰みはね、言い伝えの貘とは違って、悪い『想い』だけを食べる訳じゃない。『想い』で有れば何でも食べちまうんだ。悪食なんだよ、こいつは」


 老婆は夢喰みを見ながら言った。


「でもそれだけじゃないよ。あんた分かるかい?」


 ずっと黙って考えていた栄子は老婆に促され口を開いた。


「夢喰みは、夢喰みがいる所は、強力な『想い』が有る所、もしくは『想い』が全く無い所。ですか? 例えばこの世界とか――?」


 老婆は顔のシワをさらに深い物へと変え不適に笑う。


「惜しいね。でもほとんど正解だよ。夢喰みはね、強い『想い』の有る所で産まれて、そこに有る『想い』を食い尽くした後、次の想いを求めて移動するんだ。ただ燃費が悪いからか、次の『想い』に辿り着く前にほとんど消えちまうがね。よく、墓場で人魂を見たって言う話が有るけど、あれは夢喰みだよ。死の今際の『想い』は強いからね。だから、夢喰みは『想い』の全く無い所にいるんじゃなくて、正確には『いた』だね。そう言う理由からこの世界に夢喰みが産まれる事は無いよ。ここにいる夢喰みは業者から買ったものさ」


 老婆が言う事が本当ならば、何故この世界に栄子の言う『色』が無いのだろうか。夢喰みが『想い』を食べたので無ければ、『想い』は一体どこに行ったのだろうか。


「この世界に『想い』が無いのはまた別の理由なんだよ」


 俺の心の中の問いに対して、老婆はほとんど考える事無く答えた。老婆は、俺の複雑な『想い』を聴いたのだろうか。


「なら、何故この世界には『想い』が存在していないんですか?」


 老婆はどう説明した事かと考え込むかの様に頭を抱え込む。そして、沈黙が訪れた。息の詰まる様な沈黙。その沈黙を破ったのは、またしても町田だった。いや、正確には町田の腹が鳴ったのだ。


「お前なあ。こんな時に……」


「こんな時て、しゃあないやろ。腹はほっといても減るねんから。だいたいにして、ここに来てから俺ら何にも食べてへんねんぞ。磯野も腹減ってるんちゃうんか?」


 確かに腹は減っている。ただ老婆の話に集中し過ぎていて、空腹を忘れてしまっていたのだ。


「なんだいあんたら。お腹が空いているのかい? ――ん? そうか、丁度いい事を思いついたよ。ちょっと待ってな」


 老婆はそう言うと、店の奥へと姿を消した。俺は、改めて店内を眺めた。店の中にある物は、本当に不思議な物ばかりだった。


 俺は長椅子から立ち上がると、そこかしこに有る、雑多な物に触れない様気を付けながら、商品らしき物を見ていく。何気なく商品の前に置いてある値札を読む。そこには、信じられない様な値段が書いて有り、俺は桁数を三度も数え直した。


 数字は間違い無く百万の位だった。何の変哲もない、ブリキで出来たロボットのおもちゃ。このおもちゃに、一体どれほどの秘密が隠されているのだろうか。


 俺は、他にも何か無いかと商品を物色する。小柄な老婆に合わせた通路なのだろう。商品を陳列している棚と棚の間は、体を横にしなければ、とてもじゃないが通れた物では無い。


 棚を一つまた一つと見ていく。おみくじの切れ端、当たっているのか外れているのか分からない宝くじ、海辺でよく見かける桜貝の貝殻……。それらは一見すると、子供の集めたガラクタの様に見える。しかし、その値札に書かれた値段は、とてもでは無いが、子供の手の届く物では無い。いや、決して届くものでは無い。


 宝物入れと書かれた、クッキーの空き缶に、無造作に詰め込まれたガラクタ。子供の頃よく遊んでいたあのクッキーの缶は、どこにやってしまったのだろう。俺は幼い頃を思い出し、母の朧げな面影を思い浮かべた。母と最後に会ったのはいつの事だっただろうか。


 ふと目の端に入った物が気になり、俺は足を止めた。そこには、綿の詰まった桐の箱に、少し大きめのビー玉がすっぽりと収まってあった。値札を見ると、今までの商品とは比べ物にならないほどの破格値だ。俺は桁を数えた。やはり他の物と比べても十分の一くらいの値段だ。


 俺は財布を取り出し、中身を確認する。商品の値段には、僅かに千円程足りない。――俺は何故財布を出したのだろう。俺はこのビー玉を、これを買う積もりなのか? もしかすると、他の高額な商品を見過ぎて、金銭感覚が麻痺してしまったのだろうか。


 これを買うという事は、明らかに馬鹿げている。頭では分かっているつもりだ。だが、何故か俺には、その何の変哲も無いビー玉が、気になって仕方がなかった。


「それを買うのかい?」


 不意に掛けられた声に俺は振り返る。そこには、白い布で覆われた籠を持った老婆がいて、俺の事を見上げていた。


「いや、そう言う訳や……無いです」


 老婆は、俺の顔をしげしげと見つめた後、足下をするりと抜けて行く。俺の胸の中に眠る声無き声は、老婆に聴き取られてしまっただろうか。想いを音で聴き取る老婆。もしかしたら、俺が自分自身でも気付いていない心の声を、老婆は知っているのかも知れない。


「ちょいと手伝っとくれ」


 先程まで自分が座っていた場所の辺りから、老婆の声が聞こえる。見ると老婆は、カウンターの裏から少し小ぶりな卓袱台を、引っ張り出しているところだった。


 俺と町田は、老婆の元に駆け寄ると、卓袱台を出すのを手伝った。折りたたみ式の卓袱台を出すと、老婆はその上に持っていた籠を置く。木で出来た卓袱台が、その籠の重さを示す様にぎしりと音を立てた。


「おっ! 婆さん何かくれんのか?」


「おい! 町田!」


 俺は厚かましく言う町田を諌めた。


「これをあげるよ。食ってみな」


 そう言って老婆は、籠を覆う白い布を取り去った。


 籠の中身は見るからに新鮮そうな、赤く色付いた林檎だった。ただ、俺には何故かその林檎が、美味しそうには見えなかった。


「おお、婆さん気前がええなぁ!」


 何故かは分からない。ただ、何と無くその林檎を食べてはいけない、そんな気がした。レストランに飾ってある、蝋で出来た精巧な食品サンプル。それに似た雰囲気が、その林檎には有った。


「ちょっと待てって」


 俺が止めるのも聞かず、老婆に言うが早いか、町田は林檎を手に取ると、そのまま齧り付いた。


「うえぇ! まじい! 婆さんこれ腐ってるやんか!」


 町田は林檎を口にするなり奇声を上げた。だから待てと言ったのに。老婆に毒林檎は付き物だろうが。


「おや、腐ってなんか無いよ。腐っては無いけど、不味いだけさ。この世界にある食べ物は、みんなそんななんだよ。この世界はね、時が揺らぎ続ける世界。時の狭間の世界なんだ。見た目はどうあれ、その揺らぎに味はついては来れないんだ。この世界では、一秒が数秒になったり数時間にもなったりするからね。人間が感じるはずの味とか匂いの概念なんかは、みんな時の狭間に転がり落ちていっちまう。でもまあ、栄養的な物は存在はするみたいだから、味さえ我慢すりゃ腹の足しくらいにはなるだろうよ」


 時が揺らぎ続ける世界。俺はこの店に入る前に見た、時計の針の動きを思い出した。


「確かに、時間の進み方はめちゃくちゃでした。でも俺の時計は、見ている間だけは、正確な時間を刻んでいました」


「――シュレーディンガーの猫」


 栄子が、忌まわしい物でも口にする様な口調で言った。


「シ、シュレ……シュトロハイムの猫? ジョジョ?  何? 栄子もう一回言うて」


 町田は空気を読まない。読めない。


「シュレーディンガーの猫! 頭がおかしなる実験の話! それに似てんの! この状況が!」


「おい、磯野。何で栄子怒ってんねん」


「中々いい線だね」


「お? 婆さんジョジョ知ってんのか?」


「見ている間は正確な時間を刻んでいる。よくそれに気が付いたね。少しは頭が回るようだ」


「俺を無視すんなや!」


「……でもね、似てるけどシュレーディンガーは少し違うかもね」


「知っているんですか? シュレーディンガーの猫の事を」


 老婆が意外な事を知っている事に驚き、俺は尋ねた。そして町田は、俺達に絡む事を諦めたようだ。やけになって林檎を食べている。


「知っているよ。わたしだってね、何にも知らずにこんな所にいる訳じゃないさ。この場所について調べられる事は、全部調べ尽くしたよ。だから、シュレーディンガーの猫の実験も一通り調べたさ。でもね、いろんな事を調べれば調べるほど、この世界の事はさっぱり訳が分からないね。この世界では、あんたらが元いた所の常識や法則なんて、ほとんど通用しないんだ」


 常識や法則が通用しない。それに、時の狭間って何なんだ。味や匂いの概念が転がり落ちる? 俺の頭の中は老婆の話に全くついていけなかった。


 俺の頭の中に、栄子の言葉が思い起こされる。


『想いとか存在が薄くなっていってるん違うかな?』


 ここに有る林檎は、時の狭間に味や匂いの概念を落としてしまったと、老婆は言った。時の狭間に転がり落ちていくのは、林檎の味だけなのか? 栄子が言ったように、俺達の存在感や『想い』なんかも、時が経つと共に時の狭間に転がり落ちていっているんじゃないのか?


「すみません。もしかしてここでは、味や匂いだけじゃなくて、『想い』何かも……」


 老婆は俺を遮る。


「これは推測なんだけどね、この世界では、『時』が意思を持っているんじゃないかって、そう思うんだよ」


 時が意思を持つ? そんな事が有り得るのだろうか。


「この世界に流れている『時』はね、普段わたしらが観ている間は、なんて事無い動きをして、わたしらの事を油断させるんだ。それでね、ちょいと見てないと、時間をめちゃくちゃにして味や匂い、そして覚知者だけが見る事の出来る『想い』なんかを掠め取っては、蝕んでいってるんじゃないかって思うんだよ。それを証拠に、この世界にはどんどんうらぶれた商店街や、人間達に忘れ去られた町なんかが増えていってる。この世界の『時』は、あんたらが元いた世界の、世界中に有る忘れ去られた空間の『想い』を、どんどん食っていっちまってるのさ。そして、ここに足を踏み入れた者も一緒に取り込んでいっちまうんだよ」


 あまりにも荒唐無稽で、おおよそ信じられるものでは無い老婆の話は、俺の頭をさらに混乱させた。だがしかし、歩けど歩けど終わりの見え無い道は、老婆の話を信じてしまいそうになる説得力が有った。


 俺は、人知れず消えていく町や、人のいなくなった商店街、異国のゴーストタウンなどを想像して、身体中に鳥肌が立つのを感じた。


「そんな、そんな事――」


 俺は、過疎化の進んでいる生まれ故郷を思い、思わず声を上げた。


「でもさー、そんなんいきなり町なんか無くなったら、いくら人おらん言うても、大騒ぎになるんちゃうか? それこそグーグルマップとか見てる奴が騒ぎ出すで。ここにあったはずの町が無いって」


 町田は、林檎を頬張りながら唐突に言った。見ると、不味いと言いながらも町田の前には、林檎の芯が三つも転がっていた。


 突然老婆が弾けるように笑い出す。


「そりゃそうだよ。現実の町が、本当に消えちまう訳じゃないよ。町の『想い』を蝕むだけだからね。この通りに有る物や建物はね、あんたらのいた世界に有った物達の『想い』だけ抜き取った残り滓みたいなものなんだよ。言ってみれば、物や建物の残像みたいなもんだ、もしくは亡霊かね。ここの世界は、あんた達がいた世界に恋でもしてるのかね? 羨んで欲しがってそして模倣してるのさ。何にも無いのっぺらぼうみたいな世界に、まるで化粧でもするみたいに『想い』を引っぺがして残り滓を貼り付けて――ここにある建物なんかは、みんな中身の無いハリボテなんだよ」


 老婆は言い終わると、さも愉快と言わんばかりにケラケラと笑った。俺は老婆の言葉を聞いて、密かに安堵の息を漏らした。


「でも、この店はハリボテなんかやない。ちゃんと存在してるし、色……『想い』だって存在してる」


 栄子の呟きに、老婆は笑う事を止めた。


「そりゃそうさ。ここはこの世界に有って、時の揺らぎの干渉を受けない唯一無二の場所だからね」

「それはどう言う事ですか?」


 俺は、老婆に訊いた。今まで老婆が語って来た『時の揺らぎ』と言う壮大な現象に対して、一部とは言え、例外的に干渉されない場所など有るのかと、矛盾を感じたからだ。


「さっき、『時』は観ている間はなんて事無い動きをするって言ったのを覚えているかい?」


 俺は頷いた。


「わたしは常にね、この店と、この店の中に有る物全てを観ているのさ」


 店に有る物全てを観る? 俺は首を巡らし、店内を見回した。


 無理だ。この店には物が多過ぎる。死角だらけで、一度に全てを、しかも常に観続ける事など不可能だ。


「何言ってんだって言う顔してるね。言い方が悪かったよ。正確には『観る』じゃ無くって『聴く』だね。さっきも言った様に、わたしは聴覚の覚知者だ。他の感覚の覚知者ならこうはいかなかっただろうが、わたしは直接見たり触ったりしなくても『想い』が常に聴こえてるんだ。だから、この世界の『時』はこの場所――わたしの耳の届く範囲には手が出せないのさ。あんた達、この店に入るまでやたらと寒くは無かったかい?」


「そう言えば、寒かった気がします」


 俺は、眠りから冷めた時に感じた、あの寒さを思い出した。原因不明の寒さは、この店に向かって吹いていた風のせいだと思っていたが。


「その寒さはね、あんた達が『時』に蝕まれていってた証拠さ。『想い』ってのは、生きる上での気力につながるんだ。ここにいる夢喰みと同じで、『想い』が有れば生きて行く事が出来るけど、薄くなっていっちまったら、最期には冷たくなって生きる気力も何にも無い、廃人みたいになっちまうのさ。今はどうだい? 寒くは無いだろう? わたしが常に聴いているからね。『時』も手を出せないのさ」

 老婆はちらりとランタンを見ると俺達に言った。ランタンの中では、相変わらず夢喰みが、くるくると色を変えていた。夢喰みから、何と無く熱を感じる。


 俺達は、知らず知らずの内にこの老婆に助けられていたのか。それを聞いて三人共が老婆に感謝の礼を述べた。


「別に助けた訳じゃないさ。勝手に聞こえて来るもんは仕方がないだろう」


 老婆はそう言うと、机の上に有る林檎を齧った。


「相変わらず不味い林檎だねえ」


 老婆は自分の齧った林檎をしげしげと見つめながら言った。


 俺も一つ林檎を手に取ってみる。別に老婆が食べたから安心したと言う訳では無い。不味いと言いながらも、三つも林檎を食べている町田を見て、食欲が抑えられなくなったのだ。


 俺は林檎の匂いを嗅いでみた。何とも無味乾燥な、埃っぽい匂いがする。そして次に俺は、恐る恐る齧り付いてみる。干からびた林檎を囓った時の様な、歯切れの悪い音がすると共に、口の中に果汁流れ込む。その味は何とも言えない味だった。例えるならば、大量の氷で薄くなった林檎ジュースに、更に水をたっぷり入れて薄めた、酸っぱい様な苦い様な、そんな味だった。


 見た目が美味しそうに見えるだけに、この林檎の味には悪意さえ感じられる。それでも、久々に口にする水分を体は求め続け、俺は気が付けば二つ目の林檎に手を伸ばしていた。


 俺の伸ばした手の横から、違う誰かの手が伸びる。見ると栄子だった。栄子は林檎を掴むと、眉根をひそめて、何かを見極める様に睨み付けた。


「何故この林檎は『時』に蝕まれているのですか? おばあさんが『聴いていた』のならこの林檎の『想い』は残ってないとおかしいじゃないですか。今目を凝らして観たんですけど、この林檎には全く生きようとする色が見えません。何故なんでしょう」


 栄子は、林檎を齧る事もせずにそのまま籠に戻した。


「この林檎はね、この世界があんたらのいた世界の物を真似て作った、林檎の亡霊みたいなもんだ。だから味も無いし、『想い』も無いよ」


 栄子に対して老婆は言った。町田を見ると、曲がりなりにも腹が満ちたのか、店内に有る物を、キラキラした少年の様な目で見ながら歩いていた。


「でもこの店の外には、草も昆虫もいませんでした」


 栄子の声に、俺は町田から目を離した。


「そりゃあんたが色を見て判断したんだろう? この世界には『想い』を持っていないだけで、ちゃんと生き物も存在するよ。何なら人間みたいな者だっているんだ。――ただし、中身も何にも無い、空っぽの亡者みたいな連中だけどね」


 亡者。俺はその言葉を聞き、虚無の目をして表の通りを徘徊する、ゾンビの様な者達を想像した。


「でも、ずっと歩いてたけど人間なんて見てません。この世界のモノに、いくら色が無いって言っても、昆虫や雑草じゃ有るまいし、人を見失う事なんて有り得ないです」


 俺は通りにいた時の、恐ろしいほどの静寂を思い出す。あそこには、人間のいる気配など皆無だった。栄子の言う事はもっともだ。『色』や『音』を感じる事の出来ない俺にでも、それくらいは分かる。この世界に、俺達以外の人間はいない。


「いるともさ。今は外が明るいからいないだけで、暗くなると何処からか奴らは現れるんだよ。そして、何をするでも無く辺りをうろつくんだ」


 老婆の声に迷いは無い。


「でも、全然夜になんてなりません。時計が当てにならないから分からないけど、ここに来て、少なくとも夜になっててもおかしく無いくらいの時間は経っているはずです。ここに本当に夜なんて来るんですか?」


 何故だろうか。栄子は老婆に対して、挑む様な言い方をする。


「誰が夜が来るって言ったね。わたしはね、暗くなるって言ったんだよ。この世界に昼や夜なんて概念は無いんだよ。ここに来て太陽を見たかい? 見て無いだろう。徐々に空が赤くなる夕暮れは? いいかい。この世界有る物は、うちの店の中を除いて、みんな何もかもが模倣品なんだよ。それにね、驚くほどにこの世界は気まぐれなんだ。さっきまで明るかったかと思えば急に暗くなったり、時には雨みたいな物が降ってきたりするんだ。わたしはここに長くいるからなんと無くその変化を読めるがね、昨日今日来たあんたらにこの世界の事は分からないよ。何度も言う様だけど、ここではあんた達が今まで見て来た様な常識は通用しないんだ」


 なぜか険悪になっていく二人の間で、俺は何も言う事が出来ず、救いを求める様に町田の姿を探した。


「あれ? 町田は?」


 俺は町田の不在に思わず声を上げた。老婆が辺りに目を走らせ、耳を器用にひくつかせる。そして小さく悪態を吐くと、玄関へと続く細い廊下の上を、滑る様に駆けて行った。俺と栄子は、辺りの物に触れない様に気を付け、老婆の後を追った。


 老婆に追いつくと、そこに町田の姿は無く、消えたランタンと開け放たれた玄関の扉が、町田の執った行動を示していた。玄関の扉の向こう側には、何時の間に暗くなったのか、『夜』が訪れていた。


「しまったねえ。あんたとの話に夢中になり過ぎて、わたしとした事が『想い』を聞き漏らしちまったみたいだね」


「町田は?」


 現状を見れば、町田の行動が火を見るより明らかなのにも関わらず、俺は聞かずにはいられなかった。


「見りゃ分かるだろうに。あんた達の友達は出て行っちまったよ。しかもご丁寧に、夢喰みまで持って行っちまった。さっき言った様に、夢喰みは危険なんだ。素人が簡単に触っていい物じゃ無いんだよ。こんな事ならあんた達の事なんか放っておけば良かったよ」


 俺は玄関から首を出し、素早く周りを見渡した。辺りには町田の姿も無ければ、ランタンの中の夢喰みが放つ明かりも見えなかった。


「まっ……」


 それは、町田の名前を呼ぼうとした瞬間だった。恐ろしいほどの力で、体が引っ張られ、俺は店の中に引き戻される。


「何やってんだい! さっきの話を聞いていなかったのかい? 近くに亡者がいたらどうすんだ! 大きな声なんか出すんじゃないよ! まったく」


 老婆は強い語調では有るが、潜める様な声で俺の事を叱った。


「亡者って、さっき何をするでも無くうろつくって……」


「そりゃこっちが何にもしなけりゃって事だよ! あいつらはね、中身の無い空っぽの存在なんだ! あいつら亡者からしてみりゃ普通の人間なんてね、真っ暗な森の中に光る明かりみたいなもんなんだよ! 虫が群がる様にして、あっと言う間に『想い』を喰われっちまう。それに、夢喰みまで――とにかく、あんた達の友達はもうだめだね。助かりっこ無いよ。次に会う時は良くて、廃人になってるね」


 そんな――。


 暗闇の中で、人の形をした何かに、町田が貪り食われている所を想像した。思わず吐き気が込み上げて来る。


「磯野! 行こ!」


 栄子が俺の手を取り玄関へと引っ張る。


「どこに?」


「町田を探しに行くに決まってるやん!」


「でも……」


「大丈夫やから! ほら行くで! お婆さん。町田がどっちに行ったかだけでも分かりませんか?」

 老婆は、栄子の事をじっと見つめると、フンと鼻を鳴らし「出て右だよ」と言った。




 店の玄関を一度抜けると、辺りには、墨で塗り潰された様な漆黒の闇が垂れ込めていた。背後で重い音を立て、店の扉が閉まるのを聞くと、途端に俺は、心細さで闇に押し潰されそうな気持ちになる。


 店を出る時に、栄子は「必ず町田と夢喰みを連れて帰りますから。まだ、おばあさんに訊きたい事も有りますし」と老婆に言ったが、それに対する老婆の言葉は、俺の心に深い闇を落とした。


「帰って来られたらね――」


 俺達二人を見送る老婆の目は、死に逝く者への手向けの眼差しに見えた。


「行くで」


 俺の迷いを断ち切る様に、強く栄子は言うと、おもむろに俺の手を握り歩き出した。栄子の手はとても冷たく、この世界の『夜』を体現しているかの様だった。


「栄子?」


「ええから喋らんと歩いて」


「いや、俺リュック店に置きっぱなし……」


「ええから! 大丈夫やから!」


 栄子の有無を言わせない強い語調に、俺は黙って従った。


 暗闇に目が慣れてくると、次第に見えなかった物が見えてくる様になる。初め感じた墨の様な闇は、何時の間にか深い藍色へと変わっていた。


 辺りが完全な闇で無いと言う事は、何処かに闇を照らすモノが有るのかと思い、俺は空を仰いだ。


 空には月こそ無いまでも、所々に小さくまたたく星が有り、そのせいかどうかは分からないが、空の色は、薄っすらとした青味を帯びていた。


 あの老婆の言う事が本当ならば、あの星でさえも、この世界が作り出した模造品なのだろうか。


「ここまで来たらもういいやろ」


 老婆の店から漏れる明かりが、空にまたたく星とそう変わらないまでに小さくなった頃、栄子は言った。


「ここまでってどう言う事やねん」


「うちらの話聞かれるかも知らんやん。で、磯野。あのお婆さんの言う事、全部信じてるんちゃうやろな」


「聞かれて困る事なんて有るんか? それに信じるも何も、ここに来てから初めて会った人やし、俺らここの事何にも分からへんし、助けてもらってんで? 信じるしか無いやん」


 栄子の口から溜息の様な、細い息が漏れる音が聞こえた気がした。栄子の顔色を見ようにも、俺の前を歩いているので、その表情を窺い知る事は出来ない。不意に手を引く力が緩んだと思うと、栄子は急に立ち止まり、俺の手を離した。


「あのお婆さんな、多分嘘ついてる」


 栄子は俺の方に向き直ると、肩越しに老婆の店の方を窺い、声を潜めて言った。


「何やねん急に、ほんで多分て何やねん。何で婆さんが俺らに嘘吐かなあかんねん」


 栄子の小声につられて俺も声を潜める。

「あんな、うちも全部が全部嘘やとは思うて無いよ。例えば、時が揺らぐって言うのもほんまやと思うし、時間が経ったら経つほど、うちらの想いなんかが時の狭間に転がり落ちてくってのとか、監視してたらそれを防げるって言う話もほんまやと思う。でもな、何かしっくりけえへん。はっきりどうとかこうとかは言われへんのやけど、何か何と無く、あのお婆さんの話には違和感があんねん」


「違和感てお前、そんなあやふやな理由で……」


「あやふやちゃう。うちな、あのお婆さんの色、なんぼ見ようとしても見えへんかってん。始めは、ここの訳分からん世界のせいかと思うてたんけど、そうや無かった。何と無く見た店の中の物も『想い』強そうなのは全部色が付いて見えた。もちろんあんたや町田の色も。だから、あのお婆さんが何考えてるんかとか、全然分からへんかってん。さっき磯野に言うたやん? 生きてるモノには全部色が付いてるって。いや、死んでたとしても、想いが強かったら色は残んねん。でも、あのお婆さんには色が無かった。あんな人は、うちが生まれてからこの方見た事無いわ」


 俺は、栄子を見る老婆の眼差しを思い出した。まるで愛しい者を見る様な、そんな慈しみに溢れた老婆の眼差しを思うと、どうしても老婆が悪い人だとは思えなかった。


「でも、あの人は……」


「分かってる。うちだってあのお婆さんには感謝してる。目の事だって本当に楽になったし、知らんかった事がいっぱい聞けてほんまに良かったって、そう思ってるよ。悪い人や無い。それを確かめたいから、あの店を出てん」


 確かめたいから店を出た? 栄子は何を言っている?


「この先で町田が待ってるはずやから、早く行こ」


 何故か栄子は町田の行動を知っていたかの様な口ぶりだ。


「町田がどこ行ったか知ってるんか?」


「知ってるも何もうちが町田に店出る様に言うたからな」


 俺には、栄子が何を考えているのか全く分からなかった。


「いつ?」


「あんたがおらんなって、お婆さんが林檎取りに行ってる時、『あのお婆さんは怪しい。うちらの事騙そうとしてるから、何かもらっても食べたらあかんで。うちがお婆さんに色々聞くから、その隙にこっそり逃げといて。店出たら右に向かっといて、うちらも後から行くから』って言うといてん。まさかランタンパクるとは思えへんかったけどな」


 しかし俺は、あの時町田が林檎を食べていたのを確かに見ている。


「――林檎な、あいつほんまアホやわ。いきなり食べ出した時には、ほんまにびっくりしたよ。毒なんか入って無いって事は何と無く分かってたけど、町田が不味い言うて林檎吐き出した時には、ちょっと焦ったわ」


 栄子は俺の考えを読み取ったのか、言葉を付け足した。


「でも栄子、町田がどっち行ったか婆さんに聞いてたやんか」


「あれな、お婆さんに『想い』の音がほんまに聴こえてるんか試したかってん。――お婆さん、ちゃんと聴こえてたみたいやわ」


「え? でもそれやったら栄子の考えてる事、婆さん分かってるん違うん?」


「それは多分大丈夫。もしかしたら、何と無くうちの考えてた事分かってたかも知らんけど、お婆さん分かって無いはずや。うちもそうやけど、色が見えるってだけで、詳しく何考えてるとかまでは分からへんねん。だからお婆さんもそんな感じやと思うねん」


 俺は、栄子の大胆な行動に驚いた。しかし、老婆の言った亡者の事がどうしても気になった。あの老婆の狼狽え方は、ただ事では無い。


「栄子。婆さん言うてたやん、亡者の事。俺が町田の名前言おうとした時の慌て方、あれ嘘ちゃうと思うんやけど……」


「ああ、あれな。嘘かほんまか分からんけど、多分大丈夫。もしかしたらやっぱり嘘で、亡者なんかおらへんかも知らんし」


「多分てお前……」


「大丈夫やって、うち切り札有るし。あっそれから、うちはあんたの色を『監視』するから、あんたはうちの手え握っといて。うちは自分の色自分で見る事は出来んから」


 栄子はそう言うと、俺の手を取り、奇妙な形で自分の手首を握らせた。栄子の手首からは、少し早めの脈が感じられた。


「磯野は色とか見られへんけど、『想い』って、感情とかと連動してると思うねん。んで、感情は脈拍の早さと連動してる。て事は、脈を看てたらうちの事『監視』してる事にならへんかなと、勝手にうちは思うてる。だから、絶対手離したらあかんで。じゃ、町田んとこ行こか!」


 栄子は『監視』する為と言い、俺を少し前に歩かせ、俺達は通りを進んでいった。


 相変わらず道は一本道で、脇道は無いが、所々窪んでいる様な箇所が有り、その物陰から老婆の言っていた亡者が現れるのではと、俺は恐る恐る歩いていた。しかし、いくつかの物陰を何事も無く過ぎて行くと、そのうちそんな訳の分からない存在は、始めからいないのでは無いかと思い始めた。


 気持ちが落ち着いてくるに連れて、急に意識がクリアになってくる。自然と俺の意識は、掴んでいる栄子の手首に向かう。脈の早さから感情が読み取れる。その事に何故か面映さを感じてしまう。


 どの位歩いただろうか。通りの両脇には、相変わらず人がいるのかいないのか分からない、明かりの点いていない建物がどこまでも立ち並んでいて、深夜の商店街を思わせた。ただ、深夜の商店街と違って、人の生活する物音は全く聞こえないが……。


「町田はどこまで行ったんやろ」


 いつまで歩いても、町田も夢喰みの明かりも見えない事で、俺は次第に焦りを感じ始めていた。


「分からへん。そんな遠くには行ってないんやと、思うんやけど――」


 栄子もさすがに心配に思い始めたのか、自信の無さそうな声で呟いた。俺達は、歩くスピードを次第に早めていった。


 息苦しくなるほどの沈黙は、通りの静寂と相まって、ただでさえ細い通りを、さらに細く感じさせた。今この場に有る音は、俺と栄子の足音と、二人の少し荒い息遣い、そして自分の心臓の音だけだ。


「町田ぁ?」


 俺は、どこまでも続く暗い通りに向かって声を掛けた。久しぶりに聞いた自分の声は、どこか他人と言うか、薄い壁を一枚隔てた所から聴こえた様な、そんな声だった。


「まさか方向間違ってるって事は無いやんな?」


 栄子を振り返りながら俺は言った。栄子は黙って、少し考えた様に首を傾げると、闇の中に向かって目を凝らす様に目をしかめた。


 俺は栄子の見ている方向を振り返り、何か見えるのかと、栄子に倣って目をしかめる。しかしそこに見えたのは、目をしかめた事によって少しだけ陰影を深めた、相も変わらぬ暗い通りの風景だった。


「あっ」栄子が声を上げる。


「どうしてん?」


「あの先、何か光って見えたような気がする。夢喰みの明かりかも……」


 栄子は闇の中を指さした。俺は栄子の指が示す方向にもう一度目を凝らしてみる。


「あっ、確かに何か光ったかも……」


 そこには確かに、極々小さな明かりがフラフラと揺れていた。俺達は手を繋いだまま、明かりに向かって走った。走りながら町田の名を呼んだ。


「町田!」


 明かりは、俺の声に驚いた様に、不意に通りの奥へと引っ込む。奥? この通りには脇道など無かった。通りに身を潜める事など出来はしない。


「町田!」


 俺は再び声を上げるが、明かりが見える事は無かった。仕方無く、俺と栄子は更に速度を早め、明かりの消えた辺りへと走った。


「確かこの辺で――」


「何これ?」


 俺と栄子は驚き立ち止まる。明かりが消えたと思われた場所に広がっていたのは、直径三キロメートルは有ろうかと言う程の湖だった。


 通りは、かなり急な下り坂となっていて、湖の中に向かって伸びていた。そして異様だったのは、通りだけでは無く、両脇の建物も、通りに合わせて不気味に歪みながら湖の中に沈んでいた事だった。


 湖の水は暗く、通りのその先を見る事は不可能に思えた。


「何やねんこれ。婆さんこんな事言うてなかったやん。て言うか、ここで道がこんな風になってるて事は、町田はどこ行ってん」


 栄子は、俺の問いに答える代わりに、俺から手を離すと、湖の方へと近付いていく。そしておもむろに手を差し伸べたかと思うと、湖の水に手を触れた。




 目は瞑ってはいなかった。いや、瞑ったのかも知れない。栄子が湖の水に手を触れた所は見ていた。そして、湖面に穏やかな波紋が立つのも見た。だが、その次の光景をどうしても思い出せない。


 それは、目を瞑っていてその瞬間を見ていなかった証拠なのでは無いか。と、俺はそう思うが、何より今大事な事は、栄子が目の前から一瞬にして消えてしまった事だ。


「栄子?」


 暗い世界に、俺の声は吸い込まれていく。辺りには何の音もしない。ただ俺の呼吸音と、次第に早くなる心臓の音だけが、体の中で大きく鳴り響いているだけだ。


「町田? 栄子? どこ行ってん? ――もうええって! そんなんええって! おもんないから出て来いって!」


 通りに反響した俺の叫び声は、そのまま行き場を失い、暗い空へと吸い込まれて行った。再び、耳鳴りがする程の静寂が辺りを埋めていく。


 その音が聞こえたのは、俺がその場に立ち尽くし、どうしたらいいのかと軽いパニックを起こしていた時だった。


 何か、柔らかい物が地面の砂を踏む様な、そんな頼りない音が背後から聞こえた気がした。この場所があまりにも静かだから聞こえた音。普段ならば絶対に聞き漏らすほどの微かな砂の擦れる音。もしかすると栄子は、俺の事を驚かせようと、素早く背後に回り込んだのでは? 俺はそう思い、背後を振り返った。


「栄子、もうええって……」


 どう形容すればいいのだろうか。目の前に立っていたのは栄子では無かった。人。そう、見た目は人のそれに近い。だが、身体は全体に黒味を帯びた灰色。そして、性別のはっきりとしないシルエットは、それを人と呼ぶ事を拒絶させる。頭の中に老婆の言葉が蘇る。


『虫が群がる様にして、あっと言う間に『想い』を喰われっちまう』


「亡者?」


 俺の声に反応するかの様に、それは足を踏み出した。柔らかい物が砂を踏む音。あの音は、目の前のこの『何か』が立てた音だった。


 俺は近づいて来るに合わせて後退りをする。何かは、俺が気付いたからなのか、大きな音を立て大胆に間を詰めて来る。そして、近づいてくるに連れて何かの顔ははっきりと見える様になって来た。


 その顔には、線の様な切れ込みが三本、人間であれば目と口の部分に当たる場所に入っていた。鼻に当たる部分には穴もなければ突起も無かった。


 俺は後退りしながら背後を見る。背後には、湖がもうそこまで迫っていた。何かがその切れ込みの様な口を大きく開き、俺に迫る。


 俺は何かの口の中に、黒く鈍く光る玉を見た気がした。それを俺はどこかで見た。そう思い、記憶に考えを巡らせようとした時には、世界はぐるんとひっくり返り、意識は真っ暗な世界へと転がり落ちて行った。


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