一章:揺らぐ時
前作「箪笥の奥から……」の続編となります。
前作を読まずとも内容はわかりますが、読まれた方がより楽しめると思いますので、是非一読を。
見えない色
第一章:揺らぐ時
「おかあさん。あれは何て書いてあるの?」
「あれはね、図書館って書いてあるのよ。たくさん本が置いてあるのよ」
「絵本も置いてある?」
「置いてあるわよ。今度一緒に行こうね」
目の前の座席には、母と思しき女性とその娘だろう、五歳くらいの女の子が微笑ましい会話を交わしていた。横掛けの座席で上半身を捻り、無理な姿勢で窓の外を眺める母親に対して、娘は座席に膝立ちで窓の外を見ている。
通勤時であれば、険のある無数の視線が直ちに親子をずたずたに貫いてしまうだろうが、今は平日のしかも正午を少し回った時間だ。他の乗客は、老婆や、定年退職を迎えたのだろうか、初老の男。それに職業不明の男女が数人乗っているに過ぎない。
老婆と初老の男は、目を細めてその光景を見守っていて、その眼差しには、まるで自分の孫を見るかの様な慈愛が満ちていた。きっと彼らにも孫や子供がいて、年に一度会えるか会えないかの自分の孫の姿と、目の前の少女の姿とを、重ねて見ているのだろう。
俺にもいつか子供や孫が出来て、それを眩しそうに眺める。そんな日が訪れのだろうか。俺は、これから先起こるであろう不確かな自分の未来に対して、想像した。しかしその想像は、どれもが現実味を欠いていて、自分がこれから経験して行く事だとは、到底思えなかった。普通に大学に行き卒業する。そして普通に就職。普通に結婚。普通に子が出来親となる。普通普通普通普通普通……。
「次は三ノ宮――三ノ宮――」
無明の闇に囚われそうになった意識が、車内アナウンスによって呼び戻される。窓の外に見える景色がゆっくりと流れて行き、やがて体に不快な衝撃を残して、電車は停車した。
その日は、町田と栄子と俺の三人で集まり、三ノ宮で遊ぶ約束をしていた。町田も栄子も同じ大学で知り合った友人で、他にも大学の友人はいたが、卒業と同時に、就職だの実家に帰るだのと、様々な理由により皆ばらばらになっていった。そんな中、町田と栄子だけは、俺と同じ様にこの街に残っていて、卒業後もよくつるんではバカを言い合ったり、酒を飲んだりする、そんな関係を続けていた。
今日は、度重なる不採用通知に打ちひしがれていた俺を、二人は励ましてくれるつもりらしい。町田から突然かかってきた数日前の電話は、わざとらしいと感じる程に明るく、俺の気持ちを慮ってくれているのだろうという事が分かった。その気持ちが嬉しい反面、少し放って置いてくれと言う気持ちも有ったが、心配してくれている友の申し出を、無下に断る事に気が引けてしまい、結局俺は今、二人との待ち合わせ場所に向かっていた。
待ち合わせ場所は、街の中心であるセンター街。では無く、センター街の裏に有るユザワヤ前。
何故街の中心で、且つ分かりやすいセンター街を待ち合わせ場所にしなかったのか。それには理由が有った。三ノ宮は地方都市とは言え、それでも兵庫県随一の街と言うこともあり、それなりに人は多い。そしてセンター街は、その名が表す様に、街の人の大半が集まる通りだ。
今日遊ぶ予定の栄子には、あまり人には言いたく無い秘密が有る。共感覚。世間ではそう呼ばれているもので、脳が勝手に幻覚のようなものを見せるのである。例えば、言葉や音そして文字などに、色が付いて見えたり、味を感じたりする人間が、この世には存在する。
ある研究では、共感覚の人間に特定の対象物――例えば、その人間が文字に色を感じるのならば文字を見せ、その時の脳の反応をモニターしたところ、本来であれば反応するはずの無い、色を識別する脳器官が反応したと言う。彼らの大半は、その現象が普段の生活に影響する事は少ないが、稀にその症状がひどい人達もいて、通常の生活を送れない人もいるのだそうだ。
栄子の秘密。それは、共感覚の持ち主であること。しかし、栄子の持つものは、普通の共感覚とは少し違うらしい。栄子には、人の想いや念が、そして物に篭った強い想いや念が、色として見えるのだそうだ。だから、人の多く集まるセンター街などに行くと、色の氾濫が脳内で起こり、吐き気を催す程なのだと栄子は言う。
にわかには信じられる話では無いが、栄子が、そう自分で言い張るのだから仕方がない。栄子の言葉を証明するには、先述の研究の様に、脳をモニターするしかないが、そんな伝手も財力も、俺は持ち合わせていない。それにその事を、栄子自身が望まないだろう。何しろ他人にはその事を隠しているのだから。
ちなみに、物の想いや念の強さが色の濃さにつながり、その色には全て意味が有るのだと、栄子は言う。例えば、危険なのは黒い色だとか、癒しの色は黄色だとか、俺も全てを理解している訳では無いが、とにかくそういう事らしい。
俺はセンター街を行き交う人の流れを横断し、人気の無い小道に入ると、待ち合わせ場所である、ユザワヤに向かう。人の溢れるセンター街も、一本道を外れれば、先程までの喧騒が嘘の様に人がまばらになる。これが、三ノ宮が地方都市と呼ばれる所以だろう。
一度、従兄弟の住む東京の渋谷へ行った事があるが、路地裏であろうが何だろうが、人のいない場所を探す事は、不可能なのでは無いかと思った事がある。きっと栄子は、あの街には住めない。
客が入っているのを見た事が無く、何故潰れないのかが分からない、不思議な金物屋やハンコ屋を横目に目的の場所に着くと、そこには既に栄子が待っていた。腕時計を確認すると、まだ約束の時間には五分程余裕が有った。
「ごめん、待たせた? て言うか町田は?」
俺は栄子に駆け寄ると、努めて明るく声を掛け、辺りを見回す。町田の姿は無い。栄子は俺の方を見ずに、通りの向こう側を見ながら「別に待ってへん。町田はまだみたいやわ」と言った。
栄子の声の調子は、いつもと変わらない。下手に心配や励ましの声を掛けられると、どう反応したらいいか分からなかったから、正直俺は安心した。それに、町田が遅れるのはいつもの事だ、気にはしない。
栄子は俺が来てからも、じっと通りの向こうを見ている。一体何を見ているのか。俺はそれが気になり、栄子の見ている方を見る。そこには、取り立てて目に付く物は無く、信号待ちをしている車と、何人かの通行人。そして立ち並ぶオフィスビルが有るだけだった。
「栄子、何見てんの?」
「んん? あの向かいにビル二棟見えるやん? あの間の道見える?」
栄子は、さして大きくも無いビルを手で示すと、俺の方に向き直った。
「また黒いとか言うんちゃうやろな」
「ちゃうねん。あっこな、なんにも色が見えへんねん。普通ちょっとくらい何か色が有るもんなんやけどなあ――」
「ごめん、悪い! 待った?」
栄子の声をかき消す様に、大きな声が被ってくる。そこには若干人相の悪い男が駆けて来ていた。町田だ。俺はいつもの事だと思い、許そうと思ったが、ちょっとだけ嫌みを言ってやった。
「町田。自分から誘っといて遅れるとかどうよ?」
「ごめんごめん! ジュースおごるから許してや!」
「お前、ジュースだけで済むと思ってるんか?」
町田はあからさまに嫌そうな顔をする。
「冗談や。町田が金持って無いんは知ってるわ」
町田は数ヶ月前、ある事件をきっかけに、せっかく決まった縁故の就職先を不意にして、この神戸に帰って来た。
そのある事件と言うのは、町田が勤めていた会社の寮に、夜な夜な怪しい音が鳴り響くと言った、よく有る怪談話なのだが、要するに町田はそれが怖くて逃げ出したのだ。
しかしその良く有る怪談は、よく有るお馴染みの、実のところは何も有りませんでした。めでたしめでたしとは終わらず、その時は、俺と栄子も町田に駆り出され、俺が怪しげな手を見たり、栄子は黒い色が見えるとか言い出したり、とにかく散々な目に遭ったのだ。だから、町田が逃げ出した事を俺は馬鹿に出来ない。
とにかくそんな事が有り、紆余曲折を経た後、町田は今、バイトをしながら時間があればパチスロなどに入り浸っている。そしてそんな事をよくよく考えてみれば、町田は俺なんかよりも、さらに過酷な立場にいるのでは無いかと思い、先日の電話はただ単に、自分がナイーブになっていたが為に勘違いしたのかと思い直した。そもそもにして町田は、それほど空気を読める人間では無い。
「てかさっきから自分ら何見てんの?」
いつの間にか町田は、自動販売機で三人分のジュースを買っていて、それを俺と栄子に渡しながら言った。掌に、冷んやりとした感触を感じ、渡されたジュースを見る。ラベルには『チェリオ・ライフガード』とギザギザとしたフォントで書かれてあった。
「なんでチェリオやねん。もうすぐ十二月が来るんやで、せめてホットにしてくれよ町田」
「おごりやねんから文句言うなよ。俺はチェリオが好きやねん。栄子も飲んどるやないか」
栄子を見ると、すでに飲み干したのか、空き缶入れに缶を捨てているところだった。早く無いか? 飲むの。
「それより、自分らさっき何見よったん?」
俺は町田に、先ほど栄子から聞いた事をそのまま伝えた。
「何それめっちゃおもろそうやん! 行ってみようや!」
町田は話の内容に興奮したのか、辺りに響くくらいに大きな声を上げた。大声を訝しんだ街行く人が、町田の事を、可哀相な者でも見るかの様な目で見ながら通り過ぎて行く。可哀相は言い過ぎか。
「栄子どうする?」
「……うーん。任せる」
何も色が見えない事が腑に落ちないのだろう。栄子は町田の提案を判断し兼ねている様だ。しかし、そこに危険な色どころか何も見え無いのであれば、危険も何も無いだろう。それに、街中に突然現れた不可思議な現象に興味を持たない者はいない。
「じゃ、予定変更してあそこ行ってみるか」
俺はいつの間にか、栄子の持つ不可思議な目に対して、何の疑問も抱いていない事に気が付いた。そちらの事の方がよっぽど不可思議な現象なのに。
俺達は、目の前の信号が変わるのを待ち、ビルの隙間に向かった。その時俺は、手の中に有るライフガードを飲むかどうか迷ったが、取り敢えず後で飲もうと思い、グレゴリーのナップザックに入れた。
「何か見える?」
俺は栄子に尋ねる。
「うーん。何も無い。やっぱりなーんも」
栄子は、何の変哲もない道をたっぷり五分は睨んだ後言った。
俺達の間を、冷たい風が道の奥に向かって、吸い込まれる様に吹き抜けて行く。道の真ん中で砂埃が、何をしているんだ? 来ないのか? と言う風に、一度だけ手招きの様なつむじを作ると、それもまた道の奥へと吸い込まれていった。
栄子の顔には、どうにも釈然としないとはっきりと書いてあった。俺にも何か見えないかと目を凝らして見たが、そこは、特にこれと言って不思議なものは無い、何処にでも有るただの細い道だった。
「なぁ、突っ立っとってもしょうが無いから行ってみようや」
ただ立っている事に飽きたのか、町田は言った。
「そうやな、行って見るか」
俺達は、そう言って細い道を進み始めた。と言っても、ここは神戸の中心街三ノ宮。いきなり予想外の危険が襲って来るなんて事は無いだろう。数ヶ月前に町田の寮で見た光景が脳裏に蘇り、俺は身を震わせた。
三分程道を進んだところで、栄子が何故かそわそわし始めた。きょろきょろと辺りを回しては首を捻る。それを見て、俺は昔飼っていた『リブ』と言う犬を思い出した。
リブはシベリアンハスキーで、大型犬のわりには体がそれほど大きく無く、俺の幼少時代の良き遊び相手だった。
リブの好きな遊びの中に、ボール遊びがあったのだが、それは、俺が投げたボールをリブが口で拾い、咥えたまま、俺の手元に持って来ては落とす。そんな他愛も無い遊びだった。そのボール遊びをしている最中に、ボールを投げたふりをしてそのまま背中に隠すと、リブは、おかしいな? 有るはずなのにな? と言った風に、地面の匂いをくんくんと嗅いでは首を振るのだ。栄子が今とっている仕草は、何処かそれに似ている。そんな気がした。
「どうかしたか?」
「――何でも無い」
栄子がすげなく言うので、俺は放って置く事にした。町田を見ると、周りに人がいないからだろうか、鼻歌を歌いながら呑気に歩いていた。もう一度栄子を見ると、やはり、しきりに首を傾げていた。
通りには、時折スナックであるとか、喫茶店であるとかの看板が出ていたが、どの店も、閉まっているのか潰れているのか分からないが、人の気配は全く無かった。スナックはともかく、喫茶店までもが閉まっているとはどう言う事なのか。もしかして、今日が平日だから閉まっているのだろうか。……いや、違う。ここは三ノ宮の中でも、会社の集中しているオフィス街のはずだ。仕事をしている人達や、営業の人間目当てに、喫茶店は営業していなければならないはずだ。働いている人達……。
不意に就職活動の事が頭をよぎる。家に届いた不採用通知の山。どうにか就職への糸口でも掴めないかと、未練がましく机の引き出しにしまってある。
「磯野? 大丈夫?」
気が付くと栄子が俺の方を見ていた。俺は余程思い詰めた顔をしていたのだろう。栄子は心配そうな顔をしていた。
「おお、大丈夫やで! ちょっと考え事しとってん」
やはり二人は、俺の事を心配して遊びに誘ってくれたのか……。
「町田、栄子、ありがとな」
「お、おう。まあな。何か知らんけどまかしとけや」
栄子は少し笑って前を向いた。町田は挙動不審にぎこちなく言って笑った……?
「――町田、何で今日遊ぼうって言うたん?」
「いや、あの、前磯野に貸りてた、あれあの……」
俺が町田に貸した――何だ? 俺は町田に何を貸したんだ?
「プレステ3やねんけど、ちょっと調子が悪い言うか、電源が入らん様になってもうたって言うか……」
「思い出した! あれお前に貸してたんやった! お前電源入れへんてそれ、壊れてるん違うんか?」
「まあ――平たく言うたらそうやな」
「平たくも何も壊れとるや無いか!」
「いや、待て! 落ち着け磯野! せやから今日はお詫びのつもりでやな……」
くそう、俺の感謝の気持ちを返せ。
やたらと静かだな。俺がこの道を歩いていて思った感想だ。人がいないにしても、全くいないと言う事は無いはずだ。普通、どんなに静かな場所にいたとしても、例えば上映前の映画館などだが、人工的に外部の音を遮断している様な場所でも、僅かな音もしないと言う事は無いはずだ。例えばそれは、何か機械のモーター音であったり、物が動いた時に生じる摩擦の音であったり、衣擦れの音であったり、人が生活する上で必ず音は生じる。ましてやここは街の中の通りで、車も走っていれば人も大勢いるはずなのに、そう言った類の音が一向に聞こえて来ないのだ。
この道で聞こえて来るのは、俺達三人の歩く足音と、町田の調子外れな鼻歌だけ。この道は何かがおかしい。栄子の態度を見ずとも、俺もそう思い始めていた。
「この道、どこまで続いてるん?」
不安そうな声で、栄子は誰に尋ねるともなく呟いた。その問いに答えられる者はいない。なぜなら、俺も町田もこの街の出身ではない。ここに今いる三人の中では、質問を口にした栄子だけが、この街で生まれ育った唯一の人間だからだ。その栄子が分からないと言うのだから俺達に分かろうはずも無い。とは言え、三ノ宮はそんなに広い街では無い。普通に歩けば、二十分程度で北から南へも、東から西へも行ける。こと道へ入って俺達が歩いたのは、せいぜい十分くらいなものだろう。そう思い、俺は腕時計を確認した。
「どうしたん?」
栄子の声に、自分が立ち止まっている事に初めて気が付いた。
「栄子、町田。俺らって、この道に入ってからどんくらい経ったっけ?」
「さあ、十分くらいや無いか?」
「うちもそんなもんやと思うわ」
体感時間十分。俺もそんなものだと思っていた。俺は黙って腕時計を二人に見える様にして突き出した。栄子が息を呑む。町田があくびをする。
「どないしてん。時計くれるんか?」
俺は町田を無視して言った。
「俺らが待ち合わせしてたんは、昼の一時やったよな。それから町田が遅れて来たから……」
「磯野しつこいぞ、ジュースおごったったやんけ」
「うるさいな、町田はちょっと黙っててや。えっと、町田が十五分くらい遅れて来て、それからこの道に入ったのって一時半くらいやんな?」
「多分。――うちもちゃんと時計見た訳や無いからはっきりとは言えんけど、そんなもんやったと思う」
拗ねて足元の石を蹴飛ばす町田を放って、栄子が答えた。これはどう言う事なんだ。俺の腕時計は、二時四十分を指そうとしていた。この時計が間違っていないのならば、俺達は、二十分程度で縦横ともに歩いて回れるはずの三ノ宮の街を、南に向かってかれこれ一時間以上も歩いている事になる。
俺の時計は、セイコーのキネティック式だ。僅かな人間の動きをも感知し、半永久的に電池などの交換は必要無い。しかも、スリープ状態から復帰する際には、自動的に現在時刻に調整してくれる機能が付いている。時刻に間違いは無いはずだ。ならば、間違っているのは体感時間。しかし、三人が三人とも、同じ様に一時間の事を十分程度だと感じていた。そんな事があり得るだろうか。
不思議な道を発見し、それに対する昂揚感から、体感時間を短く感じたと言う事も、有るには有るかも知れないが、それにしても、一時間以上の時間を十分とは感じないだろう。
それともう一つ不思議な事が有る。三ノ宮と言う街は、よく、山側海側と呼ばれる。何故そう呼ばれるかと言うと、街の北側からは直ぐに六甲山が迫っており、南側にも同じく、直ぐの所に海が広がっている。もし本当に一時間も歩いているならば、俺達はもうとっくに海に着いていなければならない。
「今まで歩いて来て、道って曲がってたりした? それか、脇道とかって入ったりしたっけ?」
俺の問いに、栄子と町田は揃って首を振る。俺の記憶にも、道が曲がっていたと言う記憶は無いし、脇道に入るどころか、建物と建物の隙間すら存在しなかったはずだ。だとすると、やはり海に着いていなければおかしい。それに、そもそもにして建物の隙間すら無いとはどう言う事なんだ。この道は一体どうなっているんだ。
「なあ、磯野これ見て」
携帯電話の画面をこちらに向けながら栄子は言った。携帯電話の示す時間は、もうすぐ三時を回ろうとしていた。そして俺の時計も、やはり同じ時間を示している。
「やっぱり時計は合ってるみたいやな」
「違う。よう見て、電波や電波。圏外になってる。ここ、三ノ宮のど真ん中やで、ありえへんくない?」
「え?」
俺は、栄子の携帯電話を確認し、自分の物も確認した。確かに電波は圏外だった。
「町田、お前の携帯はどうなってる?」
「あかんわ、俺のも圏外やわ」
町田はポケットから携帯電話を出すと、俺に見える様にこちらに向けた。時間の感覚、距離感の不可思議、異様な静けさ、携帯電話の電波。この道は、何もかもがめちゃくちゃだった。
「なあ栄子、この道ってほんまに見覚え無いん?」
訊くだけ無駄なのだと言う事は充分に分かっていたが、俺は訊かずにはいられなかった。栄子は考え込む様に、自分のつま先を暫く見つめた後、口を開いた。
「あかん、全然分からへん。何にも思い出されへんし、よう考えたらこの道の入り口も初めて見た様な気がする」
覚悟していた答えだとは言え、改めて聞かされると、胸の中に失望の念が広がるのを、俺は抑える事が出来なかった。しかも、この街で生まれ育った栄子の言葉だけに、その言葉の重さはひとしおだった。場に、鉛の様に重い空気が立ち籠めていく気がする。
「なあなあ、もしかして俺らって迷子になってる? こんな年にもなって?」
重苦しい空気を打ち破る様に、町田は明るい声で言った。――こういう時、町田の存在はありがたい。少しだけ空気が軽くなったような気がした。だが、その場の空気が軽くなったからと言って、現状が何か変わった訳では無い。俺達はこれからどうすればいいのか……。
「なあ磯野、来た道戻れへん?」
「町田ァ。それが出来てたら誰も……あれ? 町田ナイス!」
進んでも終わりが見えないのならば、戻るしか無い。そんな当たり前の事に、俺も栄子もなぜ気付かなかったのか。多分二人とも、特異な状況に飲まれてしまっていたのだろう。
「町田! 中々ええ事言うやん!」
「当たり前やん! 俺一応大卒やぞ」
町田が代返塗れで、ほとんど授業に出ていなかった事を、俺は口には出さなかった。
俺達はそれから、来た道を戻り始めた。体感時間は十分なのに、時計の針は一時間強も進んでいたと言う得体の知れない現象の事を考えると、どれほど歩けば元の入口に帰れるのか、俺には全く分からなかった。それでも俺達は、歩く事を止める訳にはいかない。
「なあ磯野。うちらどのくらい歩いた?」
来た道を戻り始めてから、三十分は歩いただろうか、栄子が俺に話しかけてくる。栄子の言う「どのくらい」が、時間を示すのか、距離を示すのかが分からなかったが、俺は取り敢えず時計を確認した。
「――何でや。ありえへんやろ」
俺は思わず呟いてしまった。栄子が俺の時計を覗き込む。そして息を呑むのが分かった。時計の針は、三時五分を指し示していた。時計の秒針が一秒、一秒と静かに時を刻んでいく。
「何でや! さっき戻ろう言うた時、三時なるかならんかくらいやったのに、ありえへん! ほんまに栄子この道知らんのんか?」
俺は不可解な状況に耐え切れず、栄子に怒鳴る様に言ってしまった。
「何回聞かれても分からんもんは分からんよ! さっきから何か色とか見えへんか目凝らしてるのに何にも見えへんし、何にも分からへん!」
そして栄子もヒステリックな声を上げた。しかし、自分の取り乱した声を聞いた事で、少しだけ落ち着いたのか、トーンを落として栄子は続けた。
「――ごめん。うち、ちょっと怖なって来た。こんな事初めてや。いつもは色なんて見えへん方がええわて思うてたのに、色が無い事がこんなに怖いと思えへんかった」
「――こっちこそごめん。感情的になってしもた」
俺は取り繕う様に栄子に謝った。誰もが不安な思いの中、取り乱した事を恥ずかしく思った。
栄子は、今まで色を見る事で、その対象が危険かどうかを判断して来た。その色が突然消えてしまう。しかも危険な色どころか、何処にも何にも色が無い。想いや思念、人間の存在すら疑われるこの道。もしかしたらこの世に生きている者は、俺達三人だけになってしまったのか。と、そこまで錯覚させられる何かがこの道には有った。
「時間はもう当てにならんな。せめてどのくらい歩いたかだけでも分かったらな……」
「三キロくらいちゃうか?」
町田が軽い調子で言う。
「何でそんな事が分かんねん」
「これやこれ」
町田は携帯電話の液晶を俺に向けて見せた。そこには、『2563』と言う数字が書いてあった。
「……何これ?」
「俺の携帯、万歩計の機能付いてんねん。俺の歩幅がだいたい百二十センチやとして『2500×1.2』やから、単純計算で三キロや」
俺は成る程と思ったが、時計の狂いを思うと、素直に信じる事が出来なかった。
「町田。それちょっと貸してくれるか?」
「ええけど壊すなよ」
町田。お前がそれを言うかね。俺は、町田から携帯電話を受け取ると、上下に軽く振ってみる。
「おいおい! 磯野何してんねん! せっかく俺が苦労して付けた記録を」
町田を無視して、携帯電話の液晶画面を見ると、数字は『2572』となっていた。どうやら、三キロを歩いた事は間違い無い様だ。と言う事は、俺達はたった数分で三キロもの道のりを歩いた事になる。そんな事は通常あり得ない。やはりこの場所は、俺達が生活の中で常識として捉えている法則性を、完全に無視している。荒唐無稽な考えだが、最早今となっては、それを疑う事の方が、非常識な状況だった。
俺は町田に携帯電話を返すと、この奇妙な場所から脱出する為のヒントが何か無いかと考えた。
――携帯電話――歩いた距離――自分の居場所。
「あっ」
「どうしたん?」
思わず漏れた声に栄子が反応する。
「GPSってあかんかな?」
俺は二人に向かって言った。
「おお! いけるんちゃう? 一回試してみようや!」
俺は自分の携帯電話を取り出すと、デフォルトで装備されている機能の、MAPソフトを起動させた。液晶画面の中心で、歯車の様なアイコンがくるくると回り、現在の俺達の周辺地図を検索している。町田と栄子は、知らず知らずのうちにだろう、俺の携帯電話の液晶を覗く様に頭を近付けてくる。
――長い。くるくると回る歯車は一向に地図を表示しない。
「あっ」
三人は同時に声を上げた。液晶画面には『現在地を特定出来ません。現在地を表示するには、ネットワークに接続してから検索ください』とあった。自然と三人の肩が落ちる。
「なんでや! GPSって人工衛星からの電波で場所特定するんちゃうんか?」
俺はそう言って空を仰ぐ。通りを挟み込むビルや建物の間から、この場所に入り込む前と変わらない青い空が見えた。
「多分あかんと思う」
栄子が自分の携帯電話を操作しながら言う。
「うち授業で聞いた事あんねん。携帯の演算能力だけやったら、人工衛星の電波処理すんのにえらい時間かかるって。せやから、衛星から受け取った電波を一旦携帯会社のホストに送って、それを計算した結果を通信しながら場所特定するんやって。だから、圏外やったらこの機能は使われへん。……はずや」
「そんなん知ってるんやったら、早く言うてくれたらいいやんか」
栄子に当たっても仕方が無い事は分かっているのに、俺は強い口調で言ってしまった。
「しゃあないやん。今思い出してんから……」
「まあまあ、喧嘩してもしゃあないやん。こんな時こそ協力しなあかんやろ」
町田には恐怖心と言う物が無いのだろうか。それとも鈍いだけなのだろうか……。いや、怖く無いはずは無いのだ。
以前町田は言っていた。「俺暗いのん苦手やねん」と。だがそれだけの理由で、この異様な状況を、明るい雰囲気に変えようと振舞う事は、中々簡単に出来る事では無い。嫌な物は嫌。そこに、自分の信条は何があっても曲げないと言う町田の強さを垣間見た気がした。
一見とっつきにくそうな風体をしているが、その実付き合ってみれば、底抜けに明るい。嫌な物は嫌だと突っ張ねる事の出来る強さは、ともすれば我儘とも取れるが、この状況下にあっては、町田の訳の分からないキャラクターがありがたい。
「ごめん。栄子」
「いや、ええよ。それよりうち、ちょっとお腹空いて来たわ」
栄子が努めて明るく言ったのが分かる。きっと、栄子もまた強いのだ。栄子に言われて、自分も何となく腹が空き始めている事に気が付いた。
「確かにな、次もしどこか看板があったら扉叩いて見るか」
俺達は、得体の知れない道を再び歩き始めた。
暫く進むと、普段ならば見向きもしない様な「BAR」の看板があった。看板の灯りは付いていない。分厚そうな扉には、会員制と書かれた金色のプレートが打ち付けてあり、俺達の事を拒絶しているかの様に鈍く光っていた。
扉の取っ手はレバー式になっていて、真鍮で出来ているのだろうか、黄金色に光っている。その少し上に『セールス・勧誘お断り』と書かれたプレートと、呼び鈴が付いていた。
来る時に、こんな店があったかと二人に聞こうと思ったが、それを聞いたところで状況が好転するとは思えず、俺は黙って呼び鈴を押した。カスッと言う、古びたプラスチックが擦れる特有の音がして、呼び鈴のボタンは俺の指を押し返す。
俺は息を殺し、少しの音も聞き漏らさない様に、扉の向こうに耳をそばだてた。扉が分厚いからなのか、誰もいないからなのかは分からないが、中からは、少しの音も聞こえてこなかった。
俺はもう一度呼び鈴を鳴らし、さらに扉をノックする。
「すみません。ごめん下さい。誰かいますか?」
俺は、扉の向こうに誰かがいる事を期待し、大き目の声で話し掛けた。圧倒的な沈黙に胸が押し潰されそうになる。無駄とは分かりつつ、俺はいつもの癖で、時計を確認した。時計の針は、主人のあずかり知らないところで必死に頑張ったのだろう。午後六時を示していた。
俺は空を見る。この時期であれば、午後六時ともなると薄暗くなっていてもおかしくは無いはずだが、空は、先程見た時とほとんど変わらず、清々しいまでの青さを保っていた。
それからどれだけ待っても、「BAR」の扉が開く事は無かった。俺達は、「BAR」に入る事を諦めて、その場を後にした。それから何軒かの店の扉を叩いたが、結果はどれも同じで俺達は次第に口数を減らしていった。
「闇雲に歩いても仕方が無いな。取り敢えず休憩しようや」
俺は二人に言うと、そのまま地面にへたり込んだ。地面に触れている部分から、冷んやりとした感触が伝わって来て、体の熱が次第に奪われていく。俺は、身震いを一つした後目を瞑った。
結局あれから、何軒の店のドアを叩いただろうか。始めのうちこそ丁寧に声を掛けていたが、何軒ドアを叩いても全く反応が無い事から、声を出す事すら億劫になってしまった。そして終いの方には、どうせ誰も出て来やしないだろうと、店の前を通っても足も止めずに、ノックと言うよりは、ドアを叩きながら歩く様になっていた。
ピンポンダッシュよりも達の悪いその行為は、結局ここには、自分達しかいないのだと言う事を、確認する為だけの作業になってしまった。
砂を踏む音が聞こえ目を開けると、町田と栄子も俺のすぐ近くに腰を下ろしているところだった。近くにいるのに、俺も町田もそして栄子も、三人が三人ともお互いの目を見ようとはせず、それぞれが思い思いの方向を向いていた。
俺は、果てしなく続く忌々しい道を、ぼんやりと眺める。道は僅かに湾曲しているのだろうか、三百メートル程先から見えなくなっていた。
俺は、子供の頃に遊んだ『スーパーマリオブラザーズ』と言うファミコンのゲームを思い出す。
あのゲームの最終ステージは、迷宮の様になっていて、正しく道を選ばなければ、タイムアップになるまで、延々と同じところをぐるぐると回り続ける事になる。
俺達が今置かれている状況は、まさしくその最終ステージと同じなのではないか。――いや、それよりも悪いかも知れない。ゲームの中では、正しい道を選びさえすればゴールに着けるが、俺達がいるこの場所では、正しい道どころか脇道すら無いのだから。それに、ゲームの中ではタイムアップになりゲームオーバーになったとしても、プレイヤーの身に危険が及ぶ事は無い。
俺達にとってのタイムアップとは、それはイコール死だ。そしてそれがゲームオーバーだ。
頭の中で、場違いに軽妙な音楽が流れ、ゲームの主人公マリオが、お手上げのポーズをとった後、燃え盛る火の海に自ら飛び込んで行った。
真っ黒な画面の中に、白く抜かれた『GAME OVER』の文字が浮かび上がり、ビープ音で構成された悲しげなレクイエムが流れる。
「なあ磯野……」
栄子は俺の事を呼ぶと、何故か分からないがそのまま黙り込んだ。栄子の顔を見ると、何か不味い物でも食べた様な苦い顔をしていて、その言葉の先に有る物が、良い物でない事が分かった。
「何?」
「あんな、これ言おうか言わんとこうか迷っててんけど……」
そこまで言うと、栄子はまた言い淀んだ。
「なんやなんや、愛の告白でもすんのか?」
嫌味ったらしく茶々を入れる町田を睨むと、栄子は続けた。
「この道に入る時に、何にも色が無いって言うたやんか」
俺は黙って栄子の言葉を待つ。
「うちの見る色ってな、何て言うか、強い想いや念が篭ってる物だけやなくて、あんたらや他の人にも色が付いて見えるって前に言うたん覚えてる?」
忘れるはずが無い。何しろそのおかげで、俺と町田は栄子に命を助けられた事が有るのだから。
「覚えてるで。それがどうかしたんか?」
「うん……実はな、色が付いて見えるんはな、人間だけ違うねん。生きてるもん全部に色が付いて見えんねん。例えば、犬や猫、虫に植物。生物として分類されるもんは何かしらの思いって言うか感情を持ってて、それがうちには色になって見えるんやと思うんやけど……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、いきなりなんの話やねん。それ今の状況に関係あんのか?」
「――多分、有ると思う」
栄子は少し考えた後、自信が無さそうに言った。関係が有るか無いか。よくよく考えてみれば、どうにもならない今の状況に於いて、それはどうでもいい事なのかも知れない。それに、関係の有る事だろうが無い事だろうが、話しをすると言う事は、精神衛生上良い事だろう。栄子の色の話も気になる。
「そうか。でも植物や虫にも感情があるって何で分かるん?」
「分からんよそんなん。うち、植物や虫と話しした事無いし。でも、今までの経験て言うか、それで何となく分かるんやけど、本能て有るやん?」
「俺は蟲と話が出来る! 蟲笛使うて、王蟲操れるぞ!」
町田が急に素っ頓狂な声を上げた。
「町田、黙れ。……それって、例えば食欲とかそう言うの?」
俺は町田を一喝すると栄子に言う。町田は拗ねてその場に横になった。
「食欲って言うか、生きたいって言う生存本能かな? 虫とか植物って、多分複雑な感情は無いんやと思うねん。シンプルに、生きたいって言う本能とかしか無いんやと思うわ。でな、その生きたいって言う本能の色は、多分赤い色やねん。ほんで、その赤い色って……」
「ちょ、もうちょいゆっくり話してくれ、ついて行かれへん。その、赤い色が、何で生きたいって言う本能の色って分かるん? 虫や植物と話し出来へんのやろ?」
俺は、一旦栄子の話を遮ると口を挟んだ。
「まあ、確かにうちは虫とは話出来ん。でも、人とやったら話出来る。うちな、ちっちゃい頃お婆ちゃんの病院に見舞いに行った時に、沢山の赤い色見てん。お婆ちゃん結構病気重かって、その時の医者の話によると、お婆ちゃんの余命は、後一年も無いて言うてたらしいわ。お婆ちゃん、病院入院した時からほんのり赤くなってたんやけど、それから見舞いに行く度に、生きたい、まだ死にとう無い言うてうちに言うねん。そしたら生きたいとかまだ死なれへんとか言う度に、赤い色は濃くなっていってたわ。その時は、お婆ちゃん何で赤いんやろって思ってたんやけど、周りの入院してる人達見たら、みんな赤いねん。病院におって、生きたく無い、死にたいなんて思ってる人なんて、あんまりおらんやん? ほんでな、思いの強さが色の濃さにつながってるって話、前にしたかな?」
俺は黙って頷いた。
「最期な、葬式の時、お婆ちゃん真っ赤やった。燃える様な激しい赤。その時うち気が付いてん。ああ、お婆ちゃんよっぽど死にく無かったんやなって」
栄子はそう言うと、少し俯いた。家族の死は辛い物だ。しかも、その死の今際の感情まで色から読み取れてしまう栄子からすれば、これほど辛い事は無いはずだ。
「栄子……」
俺は、その後に続く言葉を見つけられなかった。
「でっ? その虫がなんちゃらって言う話はどうなってん」
町田は、手で頭を支え横になった、タイの仏像の様な姿勢で言った。お前は釈迦か何かか。
「あ、話逸れすぎて忘れてたわ」
栄子は少し笑って言うと、話を続けた。
「生きたいって言う本能が赤い色って事は、これで分かったと思うんやけど、その赤い色って結構目立つねん。植物とかは、自然に身を任せてるからかそないでも無いんやけど、虫とかって、弱肉強食の世界におるっちゅうか、本能むき出しの世界に住んでるやんか? だからか分からんけど、結構激しい赤い色やねん。でもな、この道に入ってからそんな激しい赤を一つもうちは見てない。考えられる? こんな街中で、ゴキブリどころか蟻すらもおらへんなんて。それに、草の一本かて生えてない。そんなんあり得へんやろ?」
俺は背筋にそら寒い物を感じていた。人がいないと言う事には、釈然としないながらも何と無く受け入れ始めていた。だが、人間どころか虫や植物、生きている者が全く存在していない世界。こんな恐ろしい事があるのだろうか。
よく映画などに出て来るゴーストタウンと言う物が有るが、この世界はそんな物の比では無い。動植物が存在しないと言う事は、食べ物も存在しないと言う事なのでは無いのか。俺はその考えに至った時、急速に食べ物への飢えを感じ始めた。
「でな、もう一つ言わなあかん事があんねん」
栄子の言葉を聞いて、これ以上何が有るのだと思ってしまう。
「うちらな、この道入ってから少しずつやねんけど、色が薄くなってきてんねん」
「それってどう言う事」
栄子は一つ頷くと、そのまま話し始める。
「これは、うちなりに考えて出した答えやねんけど、うちらの思いとかの存在が、薄くなっていってるん違うんかな」
栄子は、色の濃さはそのまま想いの強さに繋がると言った。俺は今、生きたいと本気で願っている。ならば、激しい赤い色になっているのではずなのでは無いか?
「栄子、俺は今何色や?」
「磯野だけずるいわ、俺も見てくれよ」
町田よ……。
「磯野はちょっと薄い赤い色。町田は……ちょっと薄い青やな。あんた何にも考えてへんやろ」
町田は、えへっと言う感じの笑を浮かべた後「腹減ったなあ」などと言いながら仰向けに寝そべった。
「栄子、何でや。俺今、めっちゃ強く生きたいって思ってるんやで? 思いの強さが色の濃さに繋がるんやったら、俺の色は激しい赤色と違うんか?」
「磯野。多分な、この場所では想いの強さとか関係無いと思うねん。さっきも言うた様に、うちらの考えとか関係無く、想いとか念とかそう言う存在ごと薄れていってる気がすんねん。まあもしかしたら、うちの目が、何かの原因で普通になっていってる可能性も有るかも知らんけどね」
俺は栄子の話を聞いた後、町田と同じ様に、地面に横になった。想いや念の存在が薄くなるとは、どう言う事なのか。そしてもし、その存在が消え失せてしまうと、俺達はどうなってしまうのか。
「あかん。ちょっと頭休ませるわ」
俺はそう言うと、ナップザックを枕代りにして目を瞑った。側でガサゴソと音がするので目を開けると、栄子も横になっていた。辺りには、何時の間に眠ったのか、町田のいびきが響いていた。
どれくらい眠ったのだろうか、俺は震えるほどの寒さに目が覚めた。目を開けると、相変わらず青い空はそこにあり、自分が元いた世界が、夜なのか昼なのかも分からなかった。
俺は体を起こすと辺りを見回す。町田と栄子は相変わらずそこにいて、静かに寝息を立てていた。久しぶりに腕時計を見る。時間は深夜の三時を示していた。なぜ見てしまったのか。時計を見た後で後悔する自分がいた。
相変わらず辺りは、シンと静まっていて、僅かな音すらしない。しかし、時間の概念が狂ってしまうと言うのは、何とも不便なものだ。これではカップラーメンですら作る事が出来ない。
食物の記憶が蘇り、体が反応する。なぜ食べ物の事をなど考えてしまったのか。俺は食物の事を忘れる為に、もう一度時計を見た。一つ確かめてみたい事が有ったのだ。
時計は少し目を離した隙に、三十分も進んでいた。俺はそのまま時計を見つめ続けた。瞬きもせずに――。
秒針は静かに時を刻んでいる。一分、二分、三分――。十分まで数えたが、時計の針は、ついに不審な動きを見せることは無かった。時計の針は今、午前三時四十三分を示している。
俺は、乾いた目を潤す事と、ある実験の為に目を閉じた。そのまま十秒ほど数える。――そして目を開けた。時計の針は、午前三時五十六分を示していた。
「十秒で十三分か……」
俺は独りごちて再び目を閉じた。そして先程と同じ様に、十秒ほど頭の中で数える。音の無い世界での十秒は、永遠とも感じられた。次に目を開けた時には、時計の針は午前三時五十七分になっていた。
今度は同じ十秒でも、一分しか進んでいない。やはり、時の進み方に法則は無い様だ。しかし、一つ分かった事が有る。時計は、こちらが見続けている間は正確に時を刻むのだ。そして目を離した隙に、好き勝手な動きを取り、時を進めている。
自分の腕に付いている時計が、急に得体の知れない生き物になってしまったかの様な、不思議な感覚に陥った。
俺は腕時計を外し、ナップザックの中に放り込んだ。正確な時を刻まない時計など、見ていても忌々しいだけだ。しかし時計は、見ている間だけその動きは確定する。その事を頭に思い浮かべた時、不意に、大学でのある講義が思い出された。
「先生。と言う事は、箱の蓋を開けるまで、猫は半分死んでて半分生きてるってことですか?」
教壇に立つ、藤川准教授に向かって俺は質問する。バスケットコート程もある教室の席は、半分も埋まっていなかった。
「この方程式の値を、数字で表したならそうだ。猫は『0.5』生きているし、死んでもいる」
「『0.5』生きているとか意味が分かりません。それは、半死半生ということですか?」
放射性物質を検知する機械が反応し、箱の中に毒ガスが充満していく。俺は、箱の中で息も絶え絶えになっている猫を想像した。斜め後ろの方から「あかん、可哀想過ぎて想像でけへん」と言う小さな声が聞こえた。
「それは違う。半死半生と判断で来ている時点で、猫の状態は確定しているから、それはすでに観測した事になる。そうでは無くて、箱の中では、生きている猫と死んでいる猫が、同時に存在している状態だ。分かり難いだろうがそう言う事だ。……まあと言っても、正直正確なところは俺にも分からないし、今現在も答えの出ていない、非常にあやふやで厄介な問題なんだがな。そもそもにしてシュレーディンガー自身も、自分でこの方程式を提示しておきながら、結局は自分の出した答えを、訳の分からない物として否定している」
藤川准教授は、参ったと言わんばかりの溜息を吐き、教室内を見渡した。
「先生。この実験って、結局猫はどうなったんですか?」
先ほど、可哀想と言う声が聞こえた辺りから質問が上がる。俺は少しだけ体を捻り、声の主を確認した。そこには、顔色を少し悪くして、気分の悪そうな女学生がいた。
藤川准教授は、一瞬不思議な物でも見る様な目をした後、声を上げて笑った。
「すまない。笑うつもりは無かったんだが、えーと、君は……」
「鍋島です」
女学生は即座に答える。藤川准教授は、手元の名簿を見た後視線を戻した。
「鍋島君か。君は優しい子だね。猫はどうなったかだったかな。まず僕の専攻は、量子力学だと言う事を思い出して欲しいのだが、そもそもにしてこの実験の話は、波動関数の収縮に於ける観測理論に対して、シュレーディンガーが皮肉で考え出した、猫の思考実験なんだ。だから、こんな実験は実際には行われていないから安心たまえ。もしかしたら、君には倫理学の方が向いているのかもしれないね。――よし、今日のところはこれまでにしよう。分からない事があったら後で私の部屋に来たまえ。ゆっくりと話をしようじゃないか」
藤川准教授はそう言うと、教室を出ていった。斜め後ろを見ると、鍋島と名乗った女学生は、それでも納得がいかないと言う顔をしていた。
その後俺は、しばらく考えた後藤川准教授の部屋に行ったのだが、そこには鍋島が先に来ていて、相変わらず藤川准教授に、猫が可哀想だと舌鋒鋭く迫っていた。俺はそれを見て、行きがかり上仕方がなく場を宥めたのだが、結局俺の聞きたい事は、聞けず終いになってしまった。
「ちょっと落ち着けって。先生も言うてたやんか、実験は机上の空論で、実際には猫は死んで無いんやって」
「そんなん分かってるよ。うちかてあほちゃうわ。うちが怒ってるんは、なんで猫を引き合いに出したんかって事や。猫が可哀想やろ」
俺と鍋島は、教授室を出てキャンパスの中を歩いていた。
「そんなん、藤川先生に言うてもしゃあないやん。まあ取り敢えず、何か飲み物でも飲んで落ち着こうや」
「うわっ、何それ。ナンパ? このタイミングで?」
「いやちゃうし、なんでそうなんねん」
「分かってるって、冗談や。変な色も見えんしな。取り敢えず自己紹介しとくわ。さっき聞いたと思うけど、うちは鍋島栄子って言うねん。あんたは?」
色? 色って何だ? 色気とかの色か?
「俺は磯野って言う……」
「うわっ、磯野って! カツオやん! カツオって呼んでいい?」
「なら俺は、お前の事花沢さんて呼ぶぞ」
「うちそんな不細工違うし。それやったらまだ中島のがいいわ。まあ、あんたの事は磯野って呼ぶことにするわ」
そんなくだらない遣り取りをするうちに、お互い猫の話は忘れてしまった。
「シュレーディンガーの猫か……」
見ていない時には、無茶苦茶な動きをする時計の針。そしてひとたびその動きを確認しようとした瞬間から、何事も無かったかの様に、通常の動きを始める時計の針は、正に箱の中にいる猫の様な物だった。ただ、この時計の示す結果は、シュレーディンガーの猫の様に、ただ単純に生きているか死んでいるかの二通りでは無いが。
この揺れ動く時間の実験結果は、今ここで起きている不可思議な現象を、紐解く何かにはなり得ないだろうか……。
「シュレーディンガーが何やて?」
栄子の中で、あの時の怒りは風化していないのか、不機嫌そうな声を上げながら体を起こした。
「起きたんか?」
「今、シュレーディンガーとか何とか言うてなかった?」
俺は、今考えていた事を栄子に説明しようか迷ったが、上手く説明出来る自信が無かったのと、また猫が可哀想だ何だと言い出されるのが嫌で、胸の中にしまう事にした。
「そんな事言うて無いで。それよりちょっと寒く無いか?」
俺は、話をはぐらかす為に話題を変える。栄子は、俺の事を訝しむ様な目で睨んだ後、返事をする代わりに、身を縮めて二の腕をさすった。
栄子の目は、俺の中に有るものを、どう読み取ったのだろうか。そこに少しだけ恐れを感じてしまう。こう言った感情が、栄子の事を傷つけてしまう。それは分かっていたが、湧き上がって来るものは仕方が無い。
しかし、話題を変える為に寒いと言ったが、本当に寒い事は確かだ。何故こんなに寒いのか。俺は、寒さの原因を探す為に空を見上げた。
空は相変わらず青く、夜になる事を忘れたかの様だった。環境は変わっていないのに、この道に入った直後よりも、明らかに今の方が寒い。これは一体どういう事なのだろうか。
「なあ磯野。さっきから何か風吹いてない?」
栄子は尚も腕をさすり、辺りを見回しながら言った。
「風? そら外におるんやから風くらい吹くやろ」
「いや、この道に入ってから風なんか一回も吹いてない。よく感じてみて?」
栄子に言われて、この道に入ってからの事を思い出す。意識していなかったから定かでは無いが、確かに風を感じた事は無い様な気がする。もしかして栄子の言う風が寒さの原因なのか? 俺は目を瞑り、少しの違和感でも感じ取れる様に、全身の肌に神経を集中させた。ピンと張り詰めた空気。聞こえて来るのは、自分の呼吸音と心臓の音だけ。さらに神経を集中する為に、俺は大きく息を吸った。
感じる……。確かに感じる。ゆっくりと、体に纏わり付く様に、空気が全身の肌の表面を舐めていく。風と呼ぶには余りにも頼りない空気のうねり。俺はこの場所に入り込む前に見た、小さなつむじ風を思い出した。
「栄子、これって?」
栄子は黙って頷く。
「おい! 町田! 起きろや! 行くで!」
町田は、異国の言葉を発しながら起き上がる。
「あれ? AKBは?」
町田はどうやら『あははの国』へと旅立っていたようだ。勇者町田よ、時を逃してはならぬぞ。




