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とある海辺の街、その海を臨む一角に、一軒の喫茶店がある。
喫茶室『枝』
ある日どこからかやってきた男が、空家を改装し、始めた店。
その男は、熊のような巨躯に、太い手足、そしてライオンの鬣のような髭と短髪といった風体で、一見恐ろしさを覚えるが、対照的にその瞳はつぶらで、純粋そのものといった優しさを湛え、深い色に満ちている。
よくよく見れば、やや猫背で、丸まった巨躯に威圧感はなく、むしろその瞳から見え隠れする優しい雰囲気、イギリス紳士のように着こなしたワイシャツとベストからは清潔感を感じるが、けれど筋肉でパンパンになっているという一種のアンバランス感。そして折り目正しい接客に、やがて街の人々は彼の喫茶店を訪れるようになっていた。
「マスター、紅茶はあるかい?」
入り口のドアベルが鳴って、やってきたのは、近くで夫婦で農園を営む中年の男性。元々、この空家の持ち主であったためか、開店以来の常連である。
「おはようございます、タイナカさん。今日はアールグレイの葉ですが、よろしいですか?」
低く、聞いていて心地の良い声が男の問いかけに答える。
「なんでもいいよ、マスターの淹れる紅茶はなんでも美味しいからね」
「はあ、恐縮です」
タイナカ、と呼ばれた男性はにっこりと笑って、カウンターに座った。
中肉中背で、顔は陽に焼けて黒い。朝早くから農園の仕事をしてきたのだろうか、麦藁帽子を被ったその額には、汗が浮かんでいた。
注文を受けたマスターによって、手際よく抽出された水色の紅茶が、白地に花をモチーフをとした青い釉薬が鮮やかな陶器に注がれる頃、もう一人の訪問者があった。
「おはようございます、私はコーヒーを」
「おはようございます、奥様。いらっしゃいませ」
タイナカの妻であった。夫の方もそうであるが、中年相応の年輪が顔に刻まれてはいるものの、身奇麗にしていて、老いを感じさせない。とはいえ、年齢相応の落ち着きがあるから、若さとはまた違う雰囲気を纏っていた。
マスターはティーセットを持ったまま折り目正しく礼をして、彼女を迎え入れる。その所作の中でも、紅茶の湖面が揺れることはなかった。
タイナカ夫婦は隣り合って座り、それぞれ出された紅茶とコーヒーをゆっくりと飲む。何を喋るわけでもないのに、夫婦はお互いを時折ちらりと見やってはニコリと微笑んでいた。
そんな夫婦の様子を、マスターもまた目を細め、微かに笑みを浮かべて眺めている。言葉はないけれど、緩やかに時間は流れ、やがて、二人の持つカップの底が見えた頃、もう一人の訪問者が飛び込んできた。
「お父さん! お母さん! 『枝』にいくなら誘ってっていったでしょ!」
勢い良く開け放たれたせいで、ドアの上部に据え付けられたドアベルがけたたましくなる。そこにいたのは、学校の制服と思われる紺のセーラー服に、長い髪を後ろでまとめたポニーテール、幼さの残る顔をした少女だった。少し頬を膨らませて、カウンターの中年夫婦を上目遣いに睨んでいる。彼女は夫婦の娘なのだ。
「おはようございます、イクミさん。これから学校ですか?」
乱暴な訪問に、一瞬そのつぶらな瞳をぱちくりさせていたが、改めて新たな訪問者に恭しく礼をするマスター。
「あ、おはよう」
イクミと呼ばれた少女は、そんなマスターの丁寧な礼を一瞥すると、タイナカ夫婦の隣に座る。
「もう、ホントもう! あ、マスター、私カフェオレで」
「かしこまりました」
一体何が面白くないのか、イクミは頬を膨らませながらプリプリとして、けれど、カフェオレの入ったマグが出されると一転して満面の笑顔を浮かべて、カップを口元へと運んでいた。
「んー、うまちー」
一口飲み終えたイクミが、鼻先を上げて、首を揺らすような仕草をすると、ポニーテールがその名の通り、尻尾のように揺れる。
「うま、ち?」
イクミの様子を見ていたマスターが、聞きなれない言葉に小首をかしげる。
「うまちー! マスター知らないの?」
「馬の血のようだ?」
「違う!」
カウンター席から腰を浮かせたイクミの手の甲が鋭くマスターに向かっていって、その目の前で止まる。
「おいしい、おいちー、ってのとうまいを掛け合わせた、んだと思うんだけど、今流行ってんのよ。マスターだってテレビ……」
解説しながらイクミはあたりを見回すが、目的の物が見当たらない。
「先日、壊れました」
「な、なんですと?」
イクミはかつてテレビがおいてあったはずの場所を凝視するが、当然そこにテレビが置いてあるわけでもなく、代わりによくわからない工芸品が並んでいた。
「なに、あれ」
「私の手作りで」
「そうじゃなくて!」
イクミがまたも頬を膨らませてマスターを睨んだ。思えば、彼がこの街に現れ、喫茶店を開いてから十余年、両親と共に定期的に訪れていたが、テレビがなくなるという異常事態は初めてだった。
ある日忽然と現れた世界樹によって、世界が終末に向かってから、はや数百年が経ち、終末を受け入れたほとんどの人類は、文化や技術を発展させる事も衰退させることもなく、穏やかに過ごしてきた。
テレビやラジオを始めとした、様々な生活様式は世界樹が現れた当初と、そう代わり映えはしていない。
発展する事も衰退する事も拒否した人類は、ただそのままで自分の生死を受け入れて生きてきたのだ。
田舎に位置する、この海辺の町では、見られるテレビの局はそう多くはない。
それでも全国的な番組は網羅しているし、イクミもまた、テレビや携帯といったメディアの影響を強く受ける年頃であるから、欠かさず見る番組だってあった。
幼い頃、両親に連れられて、父や母の膝の上で、マスターのカフェオレと一緒に、この『枝』の古いテレビを一緒に見た記憶もある。
その頃からすれば、自分は大きくなったと思うし、両親は少々老けた。けれど、この『枝』の店構えや雰囲気、そしてマスターもまた代わり映えしない。
だからこそ、テレビがなくなったというのはイクミにとっては一大事とも言える変化であった。
「新しいの買わないの?」
「あまり見ないので、よいかな、と」
「マスターだけのテレビじゃないでしょ!」
「ええー……」
拳を腰に当てて、口を尖がらせたままでイクミは見上げるようにマスターを睨む。そのイクミの理不尽な言葉に、マスターは頭をぽりぽりと掻きながら苦笑を浮かべていた。
「これで、だめ、ですかね?」
マスターは元々テレビが置いてあった所に代わりにおいてある、自作のよくわからない工芸品を手に取り、ニカリと笑って見せるのだが、
「だめです」
「ええ……」
イクミに即拒否をくらって、しょんぼりとしてしまっていた。
マスターとイクミの慎重さは三十センチはあろうかというほど大きなものだが、しゅんとするマスターはイクミと同じくらいか、それよりも小さく見えてしまい、普段の巨躯から繰り出される折り目正しい堂々とした姿とは対照的であった。
「こーら、イクミ、マスター困ってるじゃない。テレビは誰か要らない人がいないか聞いてみるから、それでいいでしょう?」
「うー……そうやってマスター甘やかすー」
そういう母の言葉に振り返ったイクミは、半眼でその母を睨む。
「そりゃー、こんないい男、滅多にいないからねえ」
「おっ、なんだ母さん、浮気か?」
「また馬鹿なこと言ってる」
小さくなるマスターと、半眼のイクミを置いて、夫婦はカラカラと笑い声をあげた。
「恐縮です。もし、ありましたら、よろしくお願いします」
呆れるイクミの横で、マスターは小さくなったまま、けれど、丁寧に礼をしてみせた。そんなマスターに「おう、まかしときな」とタイナカがサムズアップしてウィンクする。その妻も楽しそうに微笑んでいた。
「あ、学校行かなきゃ」
突然、ハッとしたようにイクミが席に戻って、少し冷めたカフェオレをぐいっと飲み干す。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい」
イクミは、入ってきた時と同じように、勢いよくドアを開けると、三人の「いってらっしゃい」を背に受けて、飛び出すように駆けて行ってしまった。
イクミがいなくなって、急に静けさを取り戻した店内は、落ち着いたような、けれど少し物足りないような。イクミの背中を見送って、やれやれ、と言った風にタイナカが肩をすくめると、奥方がそんな夫の様子に、ふふ、と微笑む。マスターもまた、目を細めてイクミの背中を見送っていた。
「もう十八、ですか。早いものです」
しばらくの間を置いて、夫婦に向き直ったマスターがゆっくりと口を開いた。
「ああ、そうだなあ、はええはええ」
「私達も歳を重ねたねえ」
相変わらず笑みを湛える夫婦の言葉に、自然とマスターからも笑みがこぼれる。何がおかしいとかそういうことではないのだが、何故だか自然と笑みがこぼれるのだ。この二人にはそういう雰囲気というか間合いがあるのだろう。
「二人とも、そんなに変わってない様に思えますが……」
「体力は大分落ちたな」
「小じわが増えた」
そこまで言って、三人は再び笑いあう。ここ最近はこのやり取りが定番になっていたからだ。
「まあ、俺らはお前さんやイクミよりか早くいなくなるし、この世の終わりに立ち会う事もない」
一頻り笑った後で、タイナカが妻と、マスターを順繰りみて、最後に窓の外に見える世界樹に視線を移した。
「綺麗だよなあ、特にここからみるあれはよ。俺らが生まれた頃から見てる景色だけど、本当にあれが世界を滅ぼすなんて思えねんだよなあ」
「随分感慨深げに言うのね。最近は」
タイナカがぼやくように言うと、その妻はコロコロと微笑みながら、けれど同じように世界樹へと視線を移していた。
「まあ、俺らにせよ、イクミにせよ、世界の終わりに立ち会うことなんかないだろうから、ほんと他人事のように感じるんだろうな。ただ、普通に生活してて、世界の終わりなんて感じる事はないしな」
「そうね、毎日の畑仕事とイクミの事で私たちは一杯一杯ですもの」
タイナカがニヤリと口角をあげると、同じくその妻も笑みを浮かべた。とても、一杯一杯には見えない、穏やかな雰囲気を持った二人に、マスターもまた、目を閉じて口元を綻ばせた。
人は、状況を受け入れて、昇華できる、強い生き物。この二人もまた、終末を受け入れた人々、終わりが来ることを知ってなお、生きることを諦めなかった人々の末裔なのだ。
『終末を受け入れて尚、生を諦めぬのは、滑稽か。いや、美しいばかりだ。生き抜く意思がある限り、人は、何者にも負けぬ。それは、美、そのものだ』
かつて、どこかで聴いた言葉がマスターの脳裏をよぎる。
ゆっくりと終末へと向かう世界。
その中で人々は、生を受け、死んでゆく。
滅びる事が運命付けられた世界で、何ゆえ人は、こうも穏やかに生きていけるのか。
目の前の夫婦、娘のイクミ。彼らの生きる姿にこそ、その答えがあるかもしれない。
生真面目な瞳は、談笑する夫婦に、彼らを育んだ先祖や大地に、尊敬の念を抱いてやまない。