モフの勇気
「ハァ、ハァ、ハァ」
トーマは人間達を引き付けるため、森の中を走り回っていた。
人間達は武器を手にし、獣を位置を探るための道具、気配消す道具を駆使して、トーマを追い詰めていく。
「くそ、人間めっ。以前より、追跡能力が上がってやがる」
当初は、遺跡から離れるように誘導するつもりだけだったが、いつのまにかその余裕を失い、人間達の包囲網から逃れられなくなっていた。
「こうなったら、一番弱そうな人間を狙って、力づくでも突破するしかっ」
足を止めて、人間達の様子を観察する。
四匹の人間の中で、身体が一番小さくひ弱そうな奴に目を付けた。そいつは他の人間とは違い、気配を消すことなく、たどたどしい動きを見せている。
「よし、あいつのいる場所からっ」
トーマは小さき人間を目指して、森を駆け抜けていく。
人間は茂みの向こうにいる。こちらには気付いていない。
トーマは茂みから飛び出して、人間を威嚇した。
「グオォッ!」
「ひっ!」
小さき人間は驚き、腰を抜かした。
(いまだ、この隙にっ)
人間の横を通り抜ける瞬間、その人間と目があった。小さき人間は、恐怖に凍る目を見せている。
それをトーマはフンッと鼻で笑い、颯爽とその場を去ろうとした。その去り際に、小さき人間が手にする武器を見た。
恐ろしき人間の手に収まっているのは、忌まわしき獣を狩るための道具ではなく、ただの棒きれ。
「えっ?」
棒きれで狩りを行っていたことに、トーマは驚きの声が漏れた。足を止め、小さき人間を見ると、その人間の身体には無数の傷があった。
(こいつ、奴隷か……こいつは囮っ!)
トーマは慌てて身を翻すが、時すでに遅し。
三方向から、網が放たれる。
「クソッ!」
すぐに飛び上がり、網を交わそうとしたが、一つの網が左後ろ脚に絡まってしまった。
トーマは自慢の牙で網を食い千切ろうとするが、網は丈夫で中々千切れない。
気配を消していた残りの人間達が姿を現し、身動きが取れないトーマの前に立った。
「この、人間共めっ!」
トーマは人間達に向かって吼える。
人間はその姿をニヤつき眺めながら、獣を狩るための武器を、トーマに振り下ろした……。
古城の遺跡。
もはや城は、その形をとどめてはいなく、荒れ果てた石畳の上に風化した石像や石柱が転がるのみ……。
崩れ落ちた巨石の隙間に、地下へと続く道があり、その先にモフの世界に通じる門がある。
しかし、モフは遺跡の内部に入らずに、外でトーマを待っていた。
リフォンには中で待っているように言われたのだが、どうしてもトーマを外で待っていたかったのだ。
「遅いね、トーマ」
「そうね、何やってんだか」
遺跡に着いてから、かなりの時間が経っている。
でも、トーマは来ない。
「トーマはどんな用事があったの?」
「さぁね」
モフの質問に、リフォンは何事もないような素振りを見せる。
だけど、モフにはそれが少し変に感じてた。
モフの胸の中のざわめきはずっと続いている。
「ねぇ、リフォン。何か隠してない?」
「何を言ってるのよ、もう」
「でも、んっ!?」
モフの耳がピクリと動く。耳は森の方向を向いた。
「どうしたの、モフ?」
「今、聞こえた。トーマの声が……」
「何を言ってるの、そんな声聞こえないわよ」
「ううん、聞こえた。僕の耳はすっごくいいんだ。ねぇ、トーマはどこで何をしているの?」
「それは……」
「あ、また、聞こえた……この声は、悲鳴っ!? トーマっ!」
「待ちなさい、モフ!」
リフォンの呼び止める声も聞かず、モフは駆け出す。トーマの元へ……。
モフは森の中を駆けていく。
(トーマの声はこっちの方向から聞こえた。うん?)
モフは立ち止まり、周囲の地面をクンクンと嗅ぐ。
(変なにおい、にんげん? くんくん、こっちだっ!)
モフは人間の匂いを追っていく。
(こっちだ、こっち。トーマの匂いも混じってる!)
モフには、トーマの匂いが強烈に感じ取れた。
それはそれは、とても濃く、強い匂い。
(トーマ、怪我をしてる。早くっ!)
トーマのいる場所を目指す。
(あそこだ、あの茂みの向こう側にトーマがっ!)
走る勢い殺すことなく茂みに突っ込み、その先へと飛び出した。
モフが見た、茂みの向こう側の光景…………それは凄惨たるものだった。
「トーマ……」
トーマが体中から血を流している。
傍には人間達がいて、トーマを縄で縛りつけ、まるで物を扱うかのように引き摺っていた。
人間達は、突如現れたモフの姿を見て、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに厭らしい笑みを浮かべ、モフに近づいてくる。
モフに気づいたトーマが、弱々しく声を上げる。
「モフ……ばか、逃げろ」
「トーマ……」
「何をやってるの!? 逃げなさい、モフッ!」
空の上から激しい羽音と共に、リフォンが人間に襲い掛かった。
襲われた人間はリフォンを追い払おうと暴れ回るが、リフォンは鋭い爪やくちばしを使い、そう簡単には追い払われまいとする。
しかし、別の人間がリフォンを棒で叩き落としてしまった。
地面に叩きつけられたリフォンは、なんとか羽を使い上半身だけを上げるが、それ以上何もできない。
その哀れなリフォンの姿を見て、人間達は笑い声を上げる。
モフはその光景を、怯え、見ていた。
身体中がブルブルと震えて、力が入らない。
恐怖に怯えるモフを、人間達が指を差して笑う。
一人の人間がゆっくりと近づいていくる。
人間の手には、獣を狩るための道具が握られていた。
モフは、その手を見て、記憶の霞の向こうにいる何かを思い出す。
(あれは、こわい手。くろいかげ……こわい、だけど……ぼくは、あの時!)
「ヴォン! グルルルゥ!! ワンッ!!」
モフは地面を蹴り上げて、武器を手にした人間に飛び掛かった。
驚いた人間は武器を振り回す。
その動きをものともせずに、人間へ圧し掛かる。人間はモフの巨体に押されて、地面に倒れ込んだ。
モフは人間の顔の傍で、牙を露わとして激しく吠えたてた。
「ワンワンワンワンワンワンッ!」
別の人間が武器を手にして、モフに襲い掛かってくる。
モフは身体を跳ね上げて、武器を持っている手に牙を立てた。
「ウグゥッ~」
「ひぃぃぃぃっ」
牙は腕に深く食い込み、人間は情けない声を上げる。
モフは牙を離して、地面へ降りた。
そして、唸り声を上げながら、牙を見せて、ゆっくりと人間たちへ近づいて行く。
その姿に怯えた人間は、武器を放り出して、何度も転げながら逃げ出していった。
「モフ……」
「あなた……」
トーマとリフォンは、モフの変わり様に驚きの声を上げる。
モフはトーマとリフォンを見つめる。そして……。
「ああ~、こわかった~」
モフはいつもの様子に戻り、緊張が解けたのか、その場にぺたんと伏せた。
そのモフを見て、トーマとリフォンは笑い声を上げる。
「お前なぁ、ははは」
「まったくねぇ。ふふふ」
トーマとリフォンの笑い声に、モフは疲れた様子を見せながらも、尻尾をパタリパタリと振って応えた。
「しかし、モフもなかなかやるなぁ」
「そうねぇ、トーマはだらしなく人間に掴まっちゃたのにね」
「うるせぇよ。ったく、無駄に丈夫な縄使いやがってっ」
トーマは自分を縛っている縄にかじりつき、その戒めを解こうとする。縄は丈夫であったが、何度もトーマの鋭い牙に擦りつけられ、徐々にほつれてきた。
「後ろ、絡まってるわよ」
絡まっている縄の部分は、リフォンはくちばしを使い、丁寧にほどいていく。
「よしっ、ようやく自由に動けるぜ」
縄の戒めから解かれたトーマは前足を揃えて、腰を後ろに引き、背を反るように伸ばした。
「どうやら、怪我は大丈夫そうね」
トーマはあちこち傷を負い、血を流していたが、命に別状はなさそうだ。
「ああ、まぁな。この程度なら。リフォン、お前こそ大丈夫か? 派手にブッ飛ばされたみたいだけど」
「ちょっと羽が痛むけど、まっ、概ね問題なしね」
「そうか。モフ、お前はどうだ?」
トーマ、伏せたままでいるモフに問いかけた。
しかし、モフは返事をしない。
「モフ?」
トーマとリフォンは、モフの様子がおかしいことを心配して近づいた。
「モフ……お前っ!?」
「モフ!?」
トーマとリフォンから、驚きの混じる悲痛な声が飛び出す。
モフの腹部は真っ赤に染まり、地面には血が広がっていた。
すぐさま、トーマとリフォンはモフの傍に寄り声を掛ける。
「くそ、なんて出血だ! 腹にでかい傷がありやがる」
「人間に組みついた時にやられたのねっ。モフ、大丈夫!? 私たちの声聞こえる!?」
「う、うん、きこえてるよ」
モフは声に反応して、よろよろと立ち上がろうとした。それをトーマが大きな声を上げて、止めようとする。
「バカ、無理をするな。今、動いたらっ!」
「で、でも、おうちに帰らなきゃ……」
モフはなんとか身体を起き上がらせると、ふらりふらりと身体を左右に揺らせながら、遺跡に向かい、歩き始めた。
「待て、モフッ」
「やめなさい。止めても無駄よ、トーマ」
「何で止めんだよ! このままだと、モフがっ!」
トーマはリフォンを激しく睨みつける。
そんなトーマを、リフォンは静かに見つめ返した。
「トーマ」
「リフォン……」
トーマは、リフォンの悲しげな表情を見て、それを悟った。
「行かせてあげましょう。あの傷では、もう」
「そんな……くそっ! モフッ!」
トーマは、身体を引き摺るように歩いていくモフを追いかけて、その横に並んだ。
そして、モフを支えるように、モフの身体に寄り添う。
「トーマ……」
「遺跡まで、遺跡まで連れて行ってやる。絶対にっ」
「うん、ありがとう」
「全く、しょうがない二匹ね」
リフォンが反対側にまわり、トーマと同じようにモフに寄り添い、その身体を支える。
モフは虚ろな瞳でリフォンを見つめる。
「リフォン……羽が汚れちゃうよ」
「バカね、こんな時にそんなこと気にしないの……行くわよ」
「うん、トーマ、リフォン、ありがとう」
モフはトーマとリフォンに支えられながら、遺跡へ、家へ、ご主人様に会うために歩き始めた。
モフの体に負担にならないように、慎重に歩いていく。だけど、あまり時間がない。出血はなおも続いている。
「モフ、頑張れ。もう少しで遺跡だぞ」
トーマは気力だけで歩きづつけるモフに、励ましの言葉を掛ける。
モフは、朦朧とする意識の中で、ご主人様のことを思い出していた。
「トーマ。僕ね、思い出したんだよ。なにが起こったか……」
「モフ、あまりしゃべるな」
「あの時、わるいにんげんにご主人様が襲われたんだ。大きいくろいかげは、手に怖いものを持っていた。ぼくは怖かった。でも、ご主人様を守るため、勇気を出したんだ」
「そうか、立派なやつだ。だから、もう静かに……」
「くろいかげの手は、こわい手だった。でもね、にんげんの手は、本当は優しいんだよ」
「わかったから、お願いだ。もう、しゃべらないでくれ」
トーマは目を潤ませる。
言葉を出せば、それだけ体力が失われる。
しかし、たとえ喋らずにいたとしても、その先にあることは避けられないだろう。
トーマはゆっくりと俯いていく。
モフを家に帰してあげたい……。
今日、出会ったばかりの獣。
そいつは純真で、ちょっと間抜けな奴。
だが、いつのまにかトーマにとって、大切な友達になっていた。
「トーマ、遺跡に着いたわよ」
リフォンの言葉が耳に届き、トーマは顏を上げた。
「聞こえたか、モフ。遺跡だ。あの中に入れば、家に帰られるんだぞ」
「……うん、もうすぐ、会えるんだ……ご主人様……」
ほんの微かであったが、モフの足取りに力が蘇る。トーマとリフォンは、モフの両脇をしっかりと支えて、遺跡の中へと入っていった。
モフの世界へとつながる門がある、地下の部屋へと到着する。その部屋には、複数の石柱が立っており、石柱の中心には奇妙な紋様が描かれてあった。
その紋様からは、キラキラと青白い光が漏れ出している。
トーマはモフに声を掛ける。
「モフ、到着したぞ。あそこだ、あそこに行けば、帰れるぞっ」
「…………っ」
「モフ? モフ、モフッ!?」
モフは目を閉じ、ぐったりとして反応を示さない。その様子にトーマとリフォンは声を荒げた。
「モフ、しっかりしろ! 大好きなご主人様に会うんだろ!!」
「そうよ、目を覚ましなさい! あと少しなんだから!!」
モフの耳がピクリと動く。
「ご、ご主人、さま……」
モフは弱々しく声を漏らし、目を開けた。
安堵した様子でリフォンが優しく声を掛ける
「そうよ、ご主人様があの先にいるのよ。もうちょっとだから、頑張って」
「うん……」
モフはトーマとリフォンから離れて、青白い光を上げている紋様へ向かう。
その途中で、がくりと膝が落ち、倒れそうになった。
トーマは慌てて、モフに近づこうとするが、それをリフォンに止められる。
「モフッ!」
「ダメよ、トーマっ。これ以上先に行けば、巻き込まれる」
「だから、なんだってんだ! たとえそうなってもモフをっ!」
「バカなこと言わないでっ」
「だ……だめ、だよ」
今にも消え去りそうなか細い声が、トーマとリフォンの争う声を止めた。
「モフ……」
「モフ、あなた……」
「トーマもリフォンも……ずっと仲良しでいてね」
「ああ、もちろんだ」
「ええ」
トーマとリフォンの返事を聞いて、モフは嬉しそうに「ワン」と吠えた。
「トーマも、リフォンも……いい子だから……ご主人様に……会って、欲しかったなぁ」
「ああ、俺も会って見たかったぜ。お前みたいな間抜けに優しくしてくれる、そんな変わった……優しい良い人間に」
「まぬけは、ひどいよぉ……いろいろ、ありがとう。それじゃ、またね」
モフが紋様の中に入ると、モフは光と混じり合い、そこには初めから何も無かったかのように消え去ってしまった。
残されたトーマとリフォンは、その場でずっと光に消えたモフの姿を見ていた。
リフォンが言葉を漏らす。
「会えるといいけど……あの傷じゃ」
「会える!」
「トーマ!?」
「モフがあんなにも会いたがってたんだ。絶対に会えるに決まってるだろ!!」
「……ええ、そうね。会えるわ、必ず」
トーマとリフォンは時を忘れ、いつまでも門の向こうを見続けていた。
モフ、モフ、モフ、モフ!
誰かがモフの名を呼んでいる。
モフには、その声の主がすぐにわかった。
ずっとずっと、聞きたかった声。
(ご主人様……)
声に反応して、ゆっくりと目を開ける。
モフはご主人様の膝の上に顔を乗せていた。
瞳を動かして、大好きなご主人様を見つめる。
ご主人様は涙を流している。
(どうして、泣いてるの、ご主人様?)
モフは、瞳をチラリと動かす。
霞む景色の中に、くろいかげが見える。
しかし、くろいかげは、他のにんげんたちによって取り押さえられていた。
(そっか、もう大丈夫なんだ。よかった……)
モフはご主人様を見つめながら「クゥ~ン」と甘える声を上げた。
ご主人様はモフの頭をゆっくりと優しく撫でる。
その手はとても温かく、心地の良いもの。
(ほら、にんげんの手って、とてもよいもの。うれしいな、うれしいな……)