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ーー赤竜を下して数時間後。
太陽が沈み、夜の帳が下りた頃。
自分は茫然自失状態に陥っていた。
(こ、ここは地球ではないのか!?)
付近で一番高い樹に登って満天の星空を眺めること数刻、いくら目を凝らしても見知った星座が一つも存在しない。
それどころか月が2つも浮かんでおり、いくら頭を捻ってもこの星が地球ではないという結論以外に至らなかった。
(もしや宇宙人に違う惑星に連れて来られた? いや、そんな馬鹿な!しかも、それでは赤竜を屠った魔法の力に説明がつかん……)
様々な仮説を立てては、それを次々と否定していく。
もしゃもしゃと赤竜の肉を咀嚼しながら思考を巡らせる。
幸いな事に、ここら一帯は赤竜の縄張りであったのか大型の生物が近付いてくることはなく、落ち着いて考える時間の余裕があった。
(異なる世界……?)
結局悩んだ末に出した結論は、自分でも正気を疑う荒唐無稽なものだった。
しかしーー
(馬鹿馬鹿しいなどと、笑い飛ばす事はできんな……)
身体を巡る魔力を集めて火をイメージすると、シュッと音を立てて指先に小さな炎が宿る。
赤竜の魔力を吸収したことで獲得した力なのか、何故か炎を自由自在に操る事ができた。
さながら魔法のようなその現象を前にして、この場所が異世界であるという説が絶対に有り得ないと、断言できるはずもなかった。
自分は病室で命を落として、魂だけが天国や地獄のような別の世界に移動した。
理屈ではなく直感でしかないのだが、そう考えると何故か不思議としっくりくるのだ。
(しかし、それではわしは死んだことになってしまう……、やはり認めたくはない……、結論付けるのはまだ早いはずじゃ……)
結局、何一つ確かな事は分からなかった。
ーー翌日。
植物の蔦を腕と樹の幹に巻き付け命綱代わりにして、地上から数十メートル程の高さにある枝の上で眠っていると、足下から騒がしい音が聞こえてきた。
(朝っぱらからうるさいのう……)
瞼を開けて欠伸を噛み殺ながら眼下を覗くと、そこには赤竜の死体に群がる野性動物達の姿があった。
観察すること暫く。
頭の中に浮かんだのは昨日と同じ考えだった。
(やはり、ここは異世界かの?)
緑色の巨大狼、紫色の馬、赤色の蟻など、元の世界では考えられない色彩の生物ばかりがそこかしこから集まってくる。
それだけならまだ理解できる。
しかし狼は3つ首のケルベロスで、馬は背に翼が生えたペガサスで、蟻の体躯は2メートル近くある。
どう考えてもおかしい。
(奇妙奇天烈な……こやつら元の世界と何か関係があるのか?)
地球の生物に見られる外見を有しつつ、それでいてどこか異なった特徴を持つ生物達を見て再び思考の渦に入ってしまいそうになるが、その寸前で押しとどまる。
今は考えるより他に優先すべきことがあったのだ。
(食料を横取りされるのは見過ごせん……)
赤竜との戦いは命懸けだった。
片腕を奪われて、一時は身体を丸ごと飲み込まれた。
死闘と言ってもなんら遜色のない闘いであり、一歩間違えば今頃自分は赤竜の腹の中にいたはず。
だというのに、眼下の動物達が何の苦労もせず死肉を啄んでいるのは到底見過ごせるものではない。
そもそも、右も左も分からない森の中で獲得した貴重な食料を奪われるのは死活問題だ。
(蹴散らしてくれる!)
昨日の戦闘中の赤竜の姿を思い浮かべながらスゥッと深く息を吸い込み、それに魔力を混ぜて一気に吐き出す。
ーーゴオォォォォ!!
刹那、小さな口から出た灼熱の息吹が地面に衝突するとともに燃えり広がり、赤竜に群がる生物たちを焼き払う。
動物達が炎に抱かれてもがき苦しみ絶叫をあげる光景は阿鼻叫喚の地獄絵図のようだ。
(逃げるならそれも良し。向かってくるのであれば容赦せん)
そのまま魔力を身体に纏って樹の枝から飛び降り、数十メートル下の地面にフワリと着地する。
早速近くにいたケルベロスが涎を垂らしながら襲いかかってきたので側面に回りこんで胴体を蹴りあげると、一切の抵抗なくその肉が抉れた。
動きを止めた隙に掌に魔力を集めて掌底を放つと、ケルベロスは粉々の肉片になった。
(わしを敵と認識したか……)
次々と襲いかかってくる異形の動物達。
しかし、赤竜と比べると塵芥の魔力しか持たない動物達は軽く小突くだけで刈り取れる程に脆かった。
(いくらなんでも弱すぎる。これではまるで蹂躙じゃが……いや、命の奪い合いに情けは無用か……)
あまりの手応えのなさに肩すかしと、軽い罪悪感を覚えつつも自らを戒めて、最後の一匹を血の海に沈めた時、がさりと背後の草陰から物音が聞こえてきた。
(生き残りがおったか)
殆んど魔力を感じないが、そこに何かが居る。
どうせ襲いかかってくるのならば、一思いにここから全力の息吹を撃ち込んで苦しまずに仕留めてやろう。
そう思い、スゥッと息を吸ったところでーー
「わーわー!ちょっと待った!」
「む!?」
おっかなびっくりといった調子で慌てて草陰から飛び出してきたのは外見10歳くらいの小さな少女だった。
このような場所で少女に遭うなど予想外の展開だったが、まさか肺に貯めた灼熱の息吹をそのまま吹き掛けるわけにもいかず、咄嗟に空に向かって火炎放射を放つ。
ーーゴオォォォォ!!
「うわ、危な……」
その光景を見てゴクリと息を呑む少女。
たが驚いたのは此方も同様だった。
少女は短く肩の辺りで揃えられた金髪と、ぱっちり大きな青眼から快活そうな印象を受ける可愛らしい容姿をしてはいるがーー何故かその背中に透き通った巨大な四枚羽が生えており、更に体躯が20センチ程しかなかったのだ。
造形は人と同じで、縮尺だけを小さくした美しい少女。
物語に出てくる小人のような謎生物が、羽根を動かす事なく魔力で宙に浮かび、いきなり眼前に飛び出してきたのだ。
驚かない訳がない。
「……おぬし、何者じゃ?」
いつでも動けるよう、身体に魔力を漲らせて警戒しながら問い掛ける。
「ふっふーん、よくぞ聞いてくれました!わたしの名はアルティシア、旅する大妖精ーー気軽にアルテって呼んでね!」
「む……妖精じゃと……?」
軽く目眩がした。
意味が分からないーーのではなく、その真逆。
恐らく異世界の存在である自称妖精アルテと会話が成立しているというこの状況が明らかにおかしかったから。
いつの間にか幼女の身体になっていた事もそうだが、全く知らない筈の知識ーー異世界言語が頭の中にあり、しかもそれを完璧に理解しているという有り得ない事態。
無意識のまま、自分の口から自然と異世界言語が出たことに薄気味の悪さを感じつつ、今度は試しに日本語で話し掛けてみる。
《おぬし、日本語は通じるか?》
「ん? あなたなに言ってるの? 何かの詠唱?」
「いや、何でもないのじゃ……」
どうやら会話が成立するのは、身に覚えがない内に習得していた謎の異世界言語だけらしい。
まるで勝手に記憶を弄られたかのような不快感に、顔を顰めずにはいられない。
黙りこんでいるとアルテが指を口に当てて不思議そうに近寄ってくる。
「どしたのそんな顔して、もしかしてお腹でも痛いの? ちょっと見せてねー!」
「なっ……!?」
あまりにも自然に近付いてきたので対応が遅れてしまい、アルテがバスローブの隙間から中に入り込むのを許してしまった。
モゾモゾと肌の上を這いずり回る感覚にぞわりと鳥肌が立つ。
「っ……纏わり付くでないっ……!それに、どこを触っておる!」
「げっへっへー、なかなか初心な反応ですなー!」
生暖かい人肌の感触が、始めはへその辺り、それから助骨、胸骨と、どんどん上に登ってくる。
「っ……さっさと離れぬかっ……!」
「むふふー、良いではないか良いではないか!」
「ぁ……!!」
しまいには膨らみかけのなだらかな双丘を撫でてくるアルテ。
幼女の身体に与えられる未知の刺激に、思わず声が漏れてしまう。
どう考えてもアルテは善意で診察しているというより、故意に人様を辱しめて楽しんでいる。
「このっ!」
さすがに我慢ならずに変態妖精を捕まえて、がっしりと両手で拘束した。
「ぐえぇっ!」
見た目が可憐な妖精にあるまじき呻き声が聞こえたが無視する。
そこまで強く掴んでいないので痛みがあるはずもない。
手を離せば再び同じことを始める気がして、それは嫌なのでこのまま会話することにした。
「……おぬしには色々と聞きたい事がある」
「はいはーい!じゃあわたしもあなたに聞きたい事があります!まずは、恋人が居ないかどうかとか!」
「……」
案の定けろりと何事もなかったかのように掌の内ではしゃぎ始めたアルテ。
最初に聞きたい事が恋話かと呆れそうになったが、何にせよ興味を持ってくれたことは会話の糸口としては有り難い。
先程受けた変態行為の件は一旦、頭の奥の引き出しにでも仕舞い込んで、話を続ける事にした。
「質問に答えてもよいが、色々と聞きたいのはわしとて同じ。ゆえに……交互に質問し、それに答えていくというのはどうじゃ?」
「それでいいよー!で、恋人はいるのっ!?」
何の駆け引きも無くあっさり提案を受け入れたアルテ。
本当に分かっているのか疑わしいが、こちらから提案した以上は先に質問に答えるべきだろう。
少しだけ勿体ぶろうか迷ったが、恋愛の情報など大したものでもないので試しに与えてみる事にした。
「そのような者はおらん、わしは独り身じゃ」
「むふふー、そっかそっか!」
何がそんなに嬉しいのか、アルテは目を細めてご機嫌そうな笑顔になった。
「じゃあ今度はあなたの番だねっ!」
「む……」
案外まともに話を理解していた事に驚いた。
いや、こう言うと失礼だとは思うが、初対面でいきなり胸元をまさぐるという変態行為をされて色々不安だったので、キチンと会話が成立していた事が分かってホッとした。
(さて、何から問うたものか……)
顎に片手を当てて長考する。
今までのやり取りから、恐らくこの自称妖精は機嫌次第で嘘八百を並べ立てる気がした。
悪意というより、からかい目的で話をはぐらかす、いたずらっ子ような雰囲気を持っている。
なので自発的に質問を受け付けてくれた事は大きい。
鼻唄を歌い出しそうな程にご機嫌な様子を見るに、今ならばつまらない嘘を付くとは思えない。
(ま、それもいつまで持つかわからんか……)
何を聞くか暫く悩んで、結局アルテの気が変わらない内に重要な事から優先して問いかけることにした。
そして、最も聞きたかった内容を口にする。
「異なる世界……こことは違う、異世界についておぬしは何か知らんか?」
それに対してアルテはーー
「へぇ、そういう質問が出るって事はまさか……」
一瞬、寒気がする笑みを浮かべた後、焦点が合っていない虚ろな瞳で見つめてきた。
赤竜と相対した時のような敵意や悪意を感じることはないが、先程までのおちゃらけた雰囲気とはまるで違う。
(こやつ、何をしておる……?)
アルテの豹変ぶりに驚いている間に、宝石のような蒼い瞳にどんどん魔力が集まっていく。
やがて何かに気付いたのか、アルテはハッと目を見開いた。
「すごいすごいっ!本当にあなたはこの世界の人じゃないんだ!異世界の存在なんて珍しい!」
どうしてその結論に至ったのかさっぱり理解出来ない。
何かしら根拠となるものを見付けたらしいが、眼に魔力を集めると何かが視えるのだろうか?
そう思ってアルテと同じ様に魔力を瞳に集めてみたが、見えたのは周囲を漂う魔力の流れだけだった。
諦めてアルテに目を向けると、何故かドヤ顔していた。
「ふっふーん、あなたには無理だよ!わたしの眼が特別なのだ!なんたって魂を視れるからね!」
「魂を……」
「例えば、えーっと……あなたの魂年齢は109歳だね!」
「っ……!?」
何気なく言われた言葉にビクっと身体が震えた。
恐らく前世では、100歳で命を落としたであろう自分。
そして今は年端もいかない幼女姿になっている。
その2つの人生を足せば、アルテが言う109歳だとしてもなんらおかしくはない。
というより、現在の幼女の見た目からは絶対に出てこない現実的な数字だった。
(本当に……わしは、死んだのか……? 本当に……そう、そうじゃ……確かに命を落とした……いや、わしは何故それを知っておる……?)
今まで推論の域を出なかった自身の死を認めるという事は、これまでの人生との別離を意味していた。
かつての自分は消えてなくなり、もはや違う人間になった。
それを意識した途端、胸の中にぽっかりと穴が空いたような、抗いがたい喪失感に支配される。
どうにか死の間際の出来事を思い出そうとするが、上手くいかない。
(何故死んだ……いや、違う……あれは…………ぐっ……!?)
無理に過去を思い出そうとすると、激しい痛みが全身に走った。
汗が吹き出て、脚がガクガクと痙攣を起こしている。
その様子に気付かずアルテが何か喋っているが、頭に入ってこない。
「異世界の事は、昔1度だけ異世界人を見た事があるけど……、うーん、ごめんよく覚えてない!」
「……」
「次の質問はわたしの番だね!むふふー、聞きたいことは一つ!わたしと契約する気はないかなっ!?」
「……」
「契約が不安なら、今だけ期間限定あなた有利な条件でも可だよ!どうしてもって言うなら条件付きの従属契約でも……って、どしたの!?苦しそうだけど、本当にお腹が痛かったの!?」
「……う」
「う?」
「……うぅ……ひっく……うあぁぁぁ……!!!」
涙が溢れてきた。
ポタポタと大粒の雫が頬を流れ落ちる。
「だ、大丈夫!?」
泣き顔を見られたくなくて咄嗟に涙を手で拭う。
何度も何度も拭うが、決壊したダムのようにこぼれた涙が止まらない。
事態に付いてこれず目の前でアルテがおろおろしているが、取り繕う余裕もなかった。
「……っ……なんで……なんでっ……嫌ぁ……!」
幼子のように激しい感情に振り回される自分と、それを冷静に鎮めようとする年老いた自分。
2つの自分が混ざり鬩ぎ合い、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「うあぁぁぁ……!!」
全身から力が抜けてペタンと尻餅を付いてしまう。
アルテが目の前で叫んでいるが、何も耳に入ってこない。
割れそうな頭の痛みとともに視界に映る景色の色が塗り潰されていく。
全てが黒色に染まりゆく世界。
意識を失う寸前に見たのは、虹色に輝く美しい光だった。