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視線の先には、何かを探すようにキョロキョロと首を回す赤竜。
何か、とは十中八九自分の事だと分かってはいるが、それは出来れば外れて欲しい予想だった。
狂暴な肉食動物が無力な人間を追ってくる理由など、喰うため以外に思い付かない。
(あの様子……恐らく赤竜はまだわしを見付けておらんはずじゃが……どうすべきか……)
今すぐに走ってこの場を離れるべきか、このまま居場所がバレない事を祈って息を潜めてやり過ごすべきか逡巡する。
しかし、それが不味かった。
手遅れになる前に、一目散に逃げるべきだった。
「グルォォオオオ!!!」
(……っ!?)
赤竜が咆哮をあげると、身体の中を不快な何かが通り抜ける感覚がした。
そして自分が隠れている方向を、瞳孔が縦に細長い爬虫類特有の瞳がジッと見つめて、赤竜がニヤリと顔を歪ませた。
竜の表情など理解できるはずもないのだが、何故だか嗤ったように見えた。
まるで獲物を発見した狩人のような、その異常な行動に背筋が凍り付きそうになる。
(に、逃げねばっ!!)
慌てて木陰から飛び出し赤竜に背を向けて疾走するが、数歩進んだ時、またしても背後から強烈な悪寒を感じた。
今度こそ第六感が最大級の警鐘を鳴らしている。
この感覚は無視すべきでない。
異様な力の高まりのようなものを感じて、走ったまま顔だけ後ろに向けると、赤竜が深く息を吸って腹がパンパンに膨らんでいるのが見てとれた。
(まさか、そんなことあるわけがーー!?)
そう思いながらも嫌な予感がして、咄嗟に身体を投げ出し地に這いつくばる。
ーーゴオォォォオオ!!!
刹那、赤竜の口から発せられた灼熱の息吹が自分の真上を通過した。
「熱っ……!」
走り続けていれば今頃丸焦げにされていただろう。
ぎりぎりの所で命拾いしたが、危機は去っておらず、状況は先程までより更に切迫している。
間一髪吹き荒れる炎を躱す事には成功したが、荒れ狂う熱気が立ち上がることを許してくれない。
(くっ……このままでは焼け死ぬ……)
深く息を吸えば肺がやられるかもしれないと思い、浅い呼吸に切り換えて地面に蹲った状態でひたすら耐え続ける。
時間の流れがやけにゆっくりに感じる。
映画や漫画といった創作の世界の竜が吐くような、圧倒的な熱量を感じさせる火炎放射が轟々と音を響かせ、密林の一角を焦土に変えていく。
その理不尽で圧倒的な力を目の当たりにして、恐怖や怒りが綯交ぜになった複雑な感情が込み上げてくる。
(な、何故わしが、このような理不尽な目に遭わねばならん……?)
走馬灯のように思い浮かぶのは、これまでの人生。
自分は決して聖人君子ではないが、獣に食い散らかされるような無惨な最後を迎えなければならない程の悪行に手を染めた事はなかったはず。
むしろ今までの人生を思い返せば、理不尽な目に遭っても負の感情を押し殺して、努めて善人で在ろうとしたはず。
にも関わらずこの仕打ちは到底許容出来るものではなかった。
(わしがいったい何をした……? 穏やかに息を引き取りたいという、最後の願いすら叶えてはならんのか!?)
パチパチと燃え盛る木々を横目に思考が黒く塗り潰されていくが、灼熱の息吹は一向に止む気配を見せず、逃げることはおろか未だ立ち上がる事すらままならない。
熱い、苦しい、痛い、怖い、それらの感情はやがて纏まって1つになる。
(死にたくない……死ぬのは嫌じゃ……!!)
ドスドスと足音を響かせ、赤竜が炎を吐きながら近付いてくる。
気が付けば赤竜が顎を大きく開いて目の前に迫っており、急いで立ち上がるが、何処にも逃げ場はなかった。
「っ……!!」
そのままバクンと赤竜の口に含まれて、視界が暗転した。
生暖かい感触とともに左腕の感覚が無くなった。
「腕がぁぁ!!!?」
ほぼ丸のみにされて命だけは助かったものの、左肩から先の部位を丸ごと失った。
腹の中では身動きが取れずに、鼻につく異臭や、ヌメヌメと気色悪い感触が肌に這う度、頭がおかしくなりそうな不快感が身体中を駆け巡る。
(痛い痛い痛いっ!!ふざけるな畜生めが……!!)
内心で悪態を付くが、そうしている間にも身体から力が抜け落ちていく。
正確には血液と共に、身体を流れる何か暖かいものが吸われていくような感覚があった。
(あ……あ……何かが奪われてゆく……?)
それは森を全力失踪した時に身体の奥底から感じた暖かい何か。
赤竜が火焔を放つ時に感じた力の高まり。
それらの正体はわからないが、もしも名前を付けるならば魔法のような力、魔力が相応しいはず。
その魔力を自身と赤竜から感じた。
(もしや……この赤竜と同じ事が出来るやもしれん……?)
突拍子もない思い付きではあった。
それでも、藁にもすがる心境で再度意識を集中すると、確かに赤竜が焔を吐いた時に感じた力と同じ力が自分に宿っていることがハッキリ分かった。
そして、その力が刻一刻と千切れた左腕の傷口から零れ落ちて失われていくことも。
(このまま力尽きるくらいならば……!!)
痛みを押し殺して身体を巡る魔力を操ろうと試みる。
肺を中心にして全身に太い管が通うことをイメージすると、それに従って魔力が流れ始める。
次第に魔力が集まっていくのがわかる。
(ぐっ……これで失敗すれば……恐らく死ぬじゃろうな……)
本当に赤竜と同じ事が出来るか半信半疑ではあるが、他に助かる道はない。
意識が朦朧としてきた。
もたもたと魔力を集中させている内に、今度は集めた魔力まで吸われそうになり、慌てて口から解き放つ。
(南無三……)
魔力を一気に放出して、赤竜の身体のある一点にぶつける。
小さな口にから出たのは、先程目にした灼熱の息吹そのものだった。
「グルォォオオオ!?」
業火が大きく赤竜の腹を貫いて、苦悶の咆哮をあげる。
(う、上手くいったか……?)
攻撃したのは赤竜の身体から最も魔力を感じる場所。
普段であれば厳重な膜で護られたその部位は、偶然にも魔力を吸うことに夢中で無防備になっており、赤竜は魔力の貯蔵庫ーー魔石を傷つけられ、慌てて体内の異物を吐き出した。
「クゴッ……!」
「けほっ……けほっ……」
べちゃっと体液まみれで外に吐き出された次の瞬間、赤竜の尻尾に叩き付けられて身体が大きく弾き飛ばされる。
「かはっ……!?」
そのまま背中から木に打ち付けられて口から吐血するが、咄嗟に魔力を身体に纏っていたおかげで致命傷にはならなかった。
ゆらりと立ち上がり、赤竜を睨み付ける。
「この蜥蜴が……よくも……やってくれたのう」
何故赤竜が執拗に追い掛けてきたのか、今ならばその理由が理解出来た。
魔力が欲しかったのだろう。
上質な魔力を持っているにも関わらず、それをまるで使いこなせていない無力な人間など、赤竜にとって都合の良い餌にしか見えなかったはず。
「……覚悟せい」
だが、立場は完全に逆転した。
赤竜は先程までの強烈な威圧感ーー魔力を纏っていない。
たったそれだけのことで20メートルを超える巨体がやけに矮小な存在に見える。
今なら勝てる、不思議とそう確信した。
生身の赤竜と魔力を操り身体を強化できるようになった人間、どちらが強いか結果はすぐに出た。
「はあぁぁぁっ!!」
「グルォォオオオ!」
雄叫びをあげながら突進してくる巨体を、身体をしならせ高く跳躍し赤竜の背部に飛び付くことでやり過ごし、腕に魔力を集めて力任せに両翼を毟り取る。
「逃がさん!」
そのまま暴れる赤竜の傷口に手を突っ込んでグチャグチャと掻き回す。
悲痛な叫びが森に響き渡り、冷静さを失って暴れる赤竜。
その隙に地面に飛び下り、死角に回って前足と後ろ足の計4本に次々と蹴りを加えていく。
「グルルォォォ!!」
「くっ……!!」
噛み付かれてはたまらないので、常に赤竜の首の動向に気を付けて安全地帯に移動する。
そして再び魔力を纏って蹴りを加える。
何度も何度も、赤竜の脚が砕けて崩れ落ちるまで延々と同じことを繰り返した。
ーー数分後、赤竜は翼をもがれ、全ての脚をへし折られた無惨な姿に変わり果てていた。
腹にはこちらの灼熱の息吹で貫いた大穴があるので、赤竜側の灼熱の息吹は完全に封じたはず。
「ぜぇ……ぜぇ……これで無力化したはずじゃ……」
そう口に出したのも束の間、今度は赤竜の手足が淡い光を放ち、少しずつ傷口が修復されていく。
「なっ!?」
苦労して戦闘力を奪ったというのに、回復されてはたまらない。
「ま、またしても魔法を使っておるのか!?」
こちらもいい加減体力が底を尽きかけていた。
それに、赤竜に食いちぎられた左腕の痛みを気合いで紛らわせるのも限界だった。
気を抜けば今すぐにでも倒れてしまいそうな中、どうすればこの化物を倒せるか考えた所で、またしても突拍子もない事を思い付く。
(魔法で傷口の治療が出来るのであれば……わしも同じ事が出来るのでは……?)
ものは試しとばかりに、食いちぎられた左肩の傷口に魔力を集めてみると、にょきにょきと勢いよく腕が生えてきた。
「ひっ!?」
その冗談のような光景に暫し唖然としてしまう。
恐る恐る、新しく生えてきた左腕を右手の指でつついたり捻ったりしてみると、触覚や痛覚が確かに存在した。
拳を閉じて開いてを繰り返しても、どこにも違和感がなかった。
信じがたい事に、一瞬で完治してしまったらしい。
(げ、現実のようでいて、この不思議な力だけはどうにも現実離れしておるのぅ……)
今度は赤竜に近付いて、淡く発光する魔力の流れを操作してみると、魔力が自分の身体に流れ込んでくる。
これもつい先程赤竜にやられた事だ。
魔力の強奪。
赤竜が奪った魔力を、今度はこちらが奪い返す。
これまた上手くいった事にほくそ笑みながら集めた魔力を肺に集中させて、口から一気に解き放つ。
「今度こそ……くたばるがよい!!」
「グルァァァ……ァァ…!!」
ジュっと、音を立てて赤熱の光線が赤竜の頭を貫いた。
赤竜はくぐもった呻き声をあげて数秒の間ビクンビクン身体を痙攣させた後、ピクリとも動かなくなる。
「げほっ……少々……疲れたのう…………」
死闘を終えて、大の字で地面に転がる。
意図せず当面の食料は確保したが、体力の消耗が激しくて1歩も動けそうになかった。