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気が付けば見知らぬ場所にいた。
身体中の痛みで意識が覚醒した自分は、呻き声をあげながらも周囲にきょろきょろと視線をさまよわせる。
(……うぅ、何処じゃここは?)
視界には生い茂った木々。
木洩れ日が殆んど射し込まない密集した植物群は南国の密林を彷彿させた。
(森……いや……?)
ジメッと蒸し暑い気候や、そこかしこから聴こえる不気味な獣の嘶きから察するに、どうやらここは日本ではないと予想出来る。
予想は出来るのだが……では、何故自分はこんな場所に倒れていたのだろうか?
頭の中が疑問符で一杯になる。
自分は日本生まれの日本育ちであり、生まれてこのかた日本から一歩も外に出たことはなく、昨日もいつも通り日本で過ごしていたはず。
当然のことながら海外旅行に出た記憶など一切無い。
かといって鼻孔を刺激する甘い香りや、風が頬を撫でる感触、身体中に走る痛みなど、全てに臨場感が有りすぎてこれが夢だとは思えない。
しかし、夢でないとすれば、眼前に広がる異国の地としか思えない光景をどう解釈すれば良いのか分からず、堂々巡りになって頭が混乱してしまう。
(ま、まずは……落ち着かねば……)
そう言い聞かせるが、時折聞こえてくる狂暴そうな野生動物の雄叫びが自分の足を竦ませて、ガリガリと精神を削っていくのがわかる。
ここがもし本当に南国の密林だとすれば、近くの茂みの中から突然、毒蜘蛛や毒蛇などの危険な生物が飛び掛かってくるかもしれないし、そうでなくとも肉食動物が自分を捕食しにくるのは時間の問題だろう。
ゾクリ……
現状を再確認した途端、日本では感じたことの無い強烈な悪寒が全身を駆け巡った。
もしも獣に襲われれば、その先に待っているのはーー
(死ぬ……? わしが、こんな所で……?)
ぶるぶると身体が震え出す。
以前から死ぬことは覚悟していたというのに、この期に及んで怖いと感じている。
というのも、自分は今年で100歳になる老人であり、身体の衰えとともに寿命が近付いていることは常々理解していた。
そこで遺書をしたためて財産の分配など死後の諸々の事を含めて身辺整理を終わらせ、唯一の心残りだったペット達の世話も親族に引き受けてもらった。
後は病室でゆっくりと余生を過ごして、穏やかに息を引き取るはずだった。
なのにーー
(食い殺されるのは……嫌じゃ……!)
何故こんな何処とも知れない陰鬱な森で、獣の餌などどいう悲惨な最後を迎えなければならないのか。
いざ実際に死と云うものが分かりやすい形で間近に迫ってみると、まともな精神状態のままでいられるはずがなかった。
いくら死を覚悟しようとも、恐いものはどうしようもなく恐いのだ。
「グルオォォォォオオ!!!」
(な、なんじゃ……今の叫び声は……!?)
思考に没頭していると、鳥類の鳴き声のようでいてどこか異なる、おぞましい咆哮が辺りに響き渡った。
それも今まで聴こえてきたのものと違って、かなり距離が近く、声の主が居る場所から50メートルも離れていないだろう。
(ここから逃げねば……)
恐怖に駆られてドクンドクンと激しく胸打つ鼓動を服の上から押さえつけ、咄嗟に立ち上がろうと震える足腰に力を込めた瞬間ーー
「むおっ!?」
勢いが付きすぎて無様にも背中から転んでしまい、その時初めて自分の身体に起きている異常に気が付いた。
「こ、声が……それに、瑞々しいこの肌はいったい……!?」
まず自分の喉から発せられたとは思えない高く可愛らしい声に驚き、次いで年齢から鑑みて有り得ない程に潤いを感じさせる若々しい肌に暫し呆然となる。
雪のように白い肌には皺ひとつ見付からず、軽く撫でると絹のような滑らかな触り心地だった。
また、髪も異様に長く伸びており、腰まで届く程の白亜の長髪になっている。
「い、いや……今はこのような事を気にしておる場合ではなかったのじゃ……!」
明らかに身体がおかしいが、自身にいったい何が起こったのか確認している時間は無い。
今しなければならないのは、一刻も早くこの場を立ち去る事だ。
身体が軽いのは好都合と急いで立ち上がり、獣の声が聴こえてきた方向から遠ざかるように走り出す。
枯れた倒木を一足で跨ぎ、茂みを悠々と飛び越え、凄まじい速度で疾走する。
(これは……やはり夢なのか……?)
身体は羽のように軽く、一切の老いを感じさせず思い通りに動く手足はまるで子供時代に戻ったかのようで、先程までの恐怖を忘れて感動してしまう。
身体の奥底から何か暖かい力が湧いてくる。
このままどこまでも走って行けそうな全能感に包まれて気分が高揚していた。
全力疾走することおよそ10分が経過した頃。
「はぁ……はぁ……」
清涼な泉を見付けてふと足を止めた。
幅20数メートル程の小さな泉は遠目から分かるほど綺麗に透き通っており、幸運なことに近くに大型の野生動物はいない。
水場は野生動物が集まるという点で危険ではあるが、この機を逃せば次にいつ水分補給が出来るかわからない。
どうすべきか逡巡したものの、結局喉を潤したい欲求に負けてふらふらと泉に近付き、水面に映った自身の姿を見てーー自分の目を疑った。
(なっ……わしが童女になっておるじゃと!?)
そこには齢10前後と思われる可愛らしい幼女がいた。
雪のように白い肌。そして一切の穢れを知らない純白の髪を腰まで伸ばした絶世の美幼女。
その均整のとれた容姿は、眉目秀麗な顔と磨き抜かれた宝石のように澄んだ紫瞳が相俟って、まるで理想を詰め込んだ精巧な人形のようだ。
一瞬見間違えかと疑ったが、力を込めただけで折れてしまいそうな程に細い手足は自分の意思のままに動く。
何度も目を擦って確認してみても行き着く結論は同じ。
病室で身に付けていたバスローブを身に纏ったまま、どういうわけか幼女の姿になっていた。
(どういう事じゃ……やはりこれは夢……? いや、しかし……)
混乱しながらも泉の水を手の平で掬い、口元に運んでゴクゴクと音を立てて飲む度、火照った身体が心地よい涼しさに満たされていく。
その感覚は到底夢とは思えないものだった。
(よくある手法ではあるが、試してみるかの……)
今の時点でこれが夢でなく現実であるとほぼ確信していだが、最後の確認のため、思い切り自分の頬を手で抓る。
「痛っ……!」
すると当然のように頬に痛みが走って、思わず声が漏れた。
水面を確認すると涙目になった幼女が映っている。
ここまでくれば、もはや疑いようもなかった。
(これは現実なのじゃな……)
正直に言えば到底受け入れがたいが、何時までも現実から目を逸らしていても始まらない。
頭をぶんぶん左右に振って気持ちを切り替えて、これからの事を考える。
まずはその場でピョンピョン跳ねて筋肉の疲労具合を確かめる。
(幸い……と言っていいのか分からんが、この身体は見た目より壮健じゃ。移動に関しては特に問題なかろう)
これが元の老体であれば、まともに歩くことも出来ずに絶望していたところだが、幼女の身体は10分近く全力疾走したにも関わらず快調のままで、息も軽く乱れる程度で済んでいる。
(とはいえ、これからは闇雲に動くことは避けるべきじゃな……)
現時点の所持品は身に纏っているバスローブだけ。
猟銃の一つでもあれば話は違うのだろうが、襲われた時に身を守る物が何一つない以上、無闇に動き回って万が一にでも危険な生物に遭遇すればその時点で死は確実だ。
また、まともな狩りや採集の経験などもないので食料を確保することは難しいだろう。
数日以内にこの森から脱出出来なければ、これまた飢えて死ぬ可能性が非常に高い。
最悪な現状を見つめ直すと再び不安に駆られて落ち着かなくなり、宛もなく動き出したくなるが、その衝動をグッと堪える。
(今すぐこのような森から抜け出したいが……そのための指針が何も無いのは不味い……)
逸る気持ちを抑えて、どうにか最善の方法を模索する。
最悪なのは、方角も分からず道に迷って同じ場所をぐるぐると彷徨うこと。
現時点で目印になりそうなものは、太陽か夜空の星くらいしか思い付かない。
(夜じゃ……まずは夜まで体力を温存して……)
「グルォォオオオ!!!」
(っ……!?)
不意に背後から獣の唸り声が聴こえてきた。
(まさか、わしを追ってきおったのか!?)
咄嗟に近くの木陰に身を隠して、手に汗握りながら周囲の様子を窺う。
息を殺して音源の方向を目を凝らして観察すること十数秒。
やがて姿を現したのはーー体躯20メートルを悠に超えるであろう巨大な赤蜥蜴だった。
(な、なんじゃあやつは!?)
驚愕のあまり、思わずゴクリと息を呑む。
生物として異常な大きさもさることながら、その赤蜥蜴の背に常識では考えられないものが生えていたから。
(あ、有り得ん……あの生き物は空想上のものであって、現実に居るわけがなかろう……!)
頭で必死に否定しようとしても、目をこすって何度見直しても結果は変わらない。
眼前に現れたのはーー
ーー所謂、竜と呼ばれる生き物だった。
需要はどこ……?