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1.樋野芽朔とシロの場合

 薄暗い路地に、小雨が降る。真冬の雨は冷たい。

 雪になることもなく、大雨になることもなく、かといって止むこともなく。

 少年は重い足を引きずるようにして歩く。重いのは右足だけで、左足は何ともない。

 右足膝から下の間隔がほとんどなかった。それもそのはず、ちょうど膝のあたりが元の半分の太さくらいまでひしゃげている。ただし、そこから出ているのは血ではなく青白い火花だ。


「なんでこんな日に限って雨なのやら」


 基本的に外装はいくら濡れても問題は無い。しかし損傷部位はなるべく水に晒したくない。

 少年は、はあ、と溜息をついて少し足を速めた。




 『阿栗工房』という看板が掛けられた雑居ビルの前で少年は立ち止まった。看板の下の方には小さな文字で「アンドロイドの修理承ります」と添えられている。

 中に入るべきか、少し悩む。でもあまり悩むことに意味のある状況ではなかったことを思い出した。

 どのみち少年には、進むか死ぬかくらいの選択肢しか残っていなかった。

 くだんの工房が入っているのはビルの三階のようだった。少年は外付けの階段に足を掛ける。錆びた階段の軋む音がした。

 三階まで上がるのにかなり時間がかかった。視界にノイズが混じる。やはりおとなしく雨宿りでもしておくべきだったかもしれない。

 しかしそんなことを言っても後の祭りである。少年は三階の非常口と思しきドアの前に立った。ご丁寧に、こちらのドアにも『阿栗工房』という看板が出ている。

 少年はドアをノックした。






「あーめあーめふーれふーれかーあさーんがー」

「ヒノメうるさい」


 ぴしゃりと遮られて、樋野芽朔は顔をしかめた。室内にくぐもった雨音が響いている。


「何さー」

「仕事の邪魔。ガキはあっち行ってな」


 作業着姿の女性が煙草をふかしながら椅子の上でふんぞり返っている。煙草をふかしている以上仕事中でないことは確実だ。黒い髪を二つ括りにした姿は年相応とは言い難いが、この人の場合妙に似合うから不思議だ。


「嘘だ。仕事してない」

「黙らっしゃい。雨だから仕方ないだろ」

「嘘だね。昨日天気よかったのに仕事なかった」

「じゃああんたが仕事探してきな、樋野芽」

「どこのバイトでも雇ってもらえないんだもん…」


 朔は頬を膨らませてソファの上で膝を抱えた。一応スカートなので、スカートごと膝に抱え込んでいる。胸のあたりまである黒髪が膝の間に滑り落ちる。

 彼女――阿栗に悪気が無いことは十二分に承知しているが、居候の身としてはその指摘は厳しい。

 朔が落ち込んだことに気づいたのか、阿栗があたふたと言い繕う。


「いや、まあお前はまだ子どもだし、ゆっくりでいいよゆっくりで」


 子ども扱いして、ともう一度頬を膨らませて、それから阿栗に見えないように小さく笑った。


 雑居ビルの三階に入ったこの『阿栗工房』は、家電製品からアンドロイドの修理まで幅広く請け負う修理業者だ。「女の子なら仕事なんてそこそこにお嫁に行って云々」という思考の父親に反抗する形で、自費で工学を学んでこの工房を開くに至ったらしい。実に阿栗らしいとしみじみ思う。しかし、場所は寂れた路地裏、経営者は無名の女性技師となるとどうしても他の修理業者に比べて不利である。無論、阿栗自身もそのハンディは重々承知のうえであり、「今すぐじゃなくても結果的に父親を見返せたら満足なんだよ」と笑っていた。

 もともと応接室として作られたのであろうこの部屋は、阿栗の私室兼喫煙室と化していた。部屋の中央にローテーブルがあり、それを挟んで向かい合う形でソファが据え付けられている。ここまでは通常の応接室のようだが、壁際の本棚には阿栗の趣味である少年漫画がぎっしりと詰め込まれ、ローテーブルの上に置かれた灰皿にはいつからあるのかわからない吸い殻が山盛りになっている。

 これでもまだ綺麗になった方だった。朔がこの工房に来た時は、吸い殻は灰皿に収まっておらずそこら中に散乱しており、漫画も同様にテーブルやソファの上に積み上げられ、工房の主の脱ぎ捨てた衣類やカップ麺の空き容器までもが点在し、とどめにそれらの上にうっすらと埃が積もっていた。見かねた朔が大掃除をする羽目になった。今でも定期的に掃除をしなければ、すぐに逆戻りの兆候が見られる。

 阿栗は、仕事面では本当に優秀で几帳面だが、その代償と言わんばかりに己の生活には無頓着なのだ。その証拠に工具入れや作業室はいつ見ても埃一つ無い。

 朔が今腰掛けているのはその応接室のソファだった。

 窓を叩く雨音は、聞こえていることを意識しなくなるほど単調だった。


「雨やまないかなー」


 何気なく口にしたその言葉に阿栗は律儀に返してくれた。


「明日は晴れの予報だってさ」

「そっか」


 朔は短く応えて、応接室から続く台所に入った。この工房は阿栗の仕事場兼住居なのだ。

 そろそろ夕食の準備をする時間だった。冷蔵庫を開く。朔がここに来た時点では、冷蔵庫は電源すら入っておらずインスタント食品の収納棚として機能していた。今は朔の買いそろえたお安い食品が並んでいる。

 いくつか食材を取り出して、調味料の棚を見たときに朔の手が止まった。

 

「あ」

「どした」

「醤油と砂糖が無い。買ってくる」


 朔はそれだけ言って、洗濯機にひっかけてあったコートを羽織って玄関の方へ向かった。靴箱に立てかけてある鼠色の傘を手に取る。


「三十分くらいで帰るからー」


 玄関から、最奥の応接室にいる阿栗に向かって言った。


「はいよー」


 不愛想な声で返された。





 傘を差して長靴を履いて、近所のスーパーまで小走りで向かう。斜め掛けにした小さな鞄が歩調に合わせて揺れる。 

 鞄のファスナーは少しだけ開いていて、そこからイヤフォンのコードが朔の耳に向かって伸びている。残念ながら、音楽は流れていないが。



 スーパーの自動ドアをくぐり、買い物かごを手に取った時、店内の違和感に気が付いた。

 朔の視界に入った客の大半が、統制のとれた軍隊よろしく等速で歩き、迷うことなく商品を手に取っては機械的に買い物かごに放り込んでいる。

 少しだけ驚いて、すぐにわかった。彼らは皆アンドロイドだ。

 買い物を楽しむ、という感覚はいまだ存続しているものの、なるほど雨の日にまで自ら店に繰り出すほどの猛者はいないらしい。

 近くにいた店員さんが、朔の反応に気が付いたのか声をかけてきた。


「いらっしゃいませ」

「あ、えと、こんにちは」

「驚かれましたか?」


 何を、とは言われなくてもわかる。


「いえ…でもこんなに多いと迫力ありますねえ」

「でしょう。雨の日はいつもこうですよ」


 神野研究室という会社の販売した家庭用アンドロイドが爆発的に普及してからもう五年近くになる。

 研究室、という名前が付いていることからわかる通り、起業メンバーは大学の研究室の人間で、その研究室で開発したAIプログラムを応用した結果がこれらしい。

 いまや人間とアンドロイドの数の比率は2:1程度にまで近づいている。町を歩く者の三人に一人はアンドロイドなのだ。

 神野研の出したアンドロイドは発売当初、生身の人間と本当に見分けがつかなかった。

 彼らは人間と同じように話し、笑い、そしてそれぞれに自我を持っていた。しかしそれが、アンドロイドと人間の境界を脅かすのに時間はかからなかった。

 結局発売から半年程度で、アンドロイドに居場所を追われて路頭に迷う人間が続出するという問題が深刻化した。

 事態を重く見た神野研は、アンドロイドに感情を持たせないことを決めた。

 それまでに販売されたアンドロイドは一体の例外もなく処分対象となり、結果として感情を持たないアンドロイドだけが残された。

 その結果が、今のこのある意味不気味な風景である。

 別に見るのが初めてというわけではないが、いくらでも見ていたいものでもない。

 朔はなるべく早く買い物を済ませようと早足で店内を回った。





「ただいまー」


 必要なものを買いそろえて工房に戻った。奥の応接室から「はいよー」という気の抜けた返事が飛んでくる。

 傘をたたんで、靴を脱いで玄関から上がり、コートを脱いで元のように洗濯機に引っかける。

 その時、コートの裾に引っかかって、ずっとつけっぱなしだったイヤホンが片方外れた。鞄の口から力なく垂れ下がるそれを朔は無表情に眺めた。

 朔はこの工房に来てから、入浴時以外この鞄を手放したことが無い。


「………えっと…」


 数秒間、どう対応していいのか判断ができなかった。

 覚束ない手つきで、外れた方のイヤホンの先を手に取る。それを、耳に付ける。


「あ、そっか」


 独り言を言って、何事もなかったように立ち上がる。玄関でずっとしゃがみこんでいる朔を訝しんでか、奥から阿栗が出てきた。


「ヒノメ?」

「何でもない」


 朔はへらっと笑って答え、今しがた買ってきた調味料を抱えて台所に向かった。

 


 工房の裏のドアがノックされたのは、それから十五分ほど経った後だった。

 朔がちょうど鶏肉を焼き始めたときだったので、台所は決して静かではなかった。最初は聞き間違いかと思った。しかし確かにノックが続いている。

 裏のドアは応接室に直通している。手を離すわけにもいかなかった朔は応接室の阿栗に向けて叫んだ。


「阿栗ぃ-!誰か来てないー?」 


 しかし応接室から返事は無い。大方居眠りでもしているのだろう。


「あーぐーりー」


 もう一度呼ぶが、やはり無反応だった。

 朔は阿栗を起こすのを諦めて、コンロの火をいったん消してから台所を出た。

 応接室に入ると、案の定工房の主はソファの上で惰眠をむさぼっていた。しかも大の字である。

 やれやれと呟きながら、勝手口に向かう。扉にはめ込まれた擦りガラスの向こうにうっすらと人影が見える。

 もう一度ドアがノックされた。


「はーい」


 朔は返事をしながら扉を開いた。

 そして少なからず驚いた。


 扉の向こうに立っていたのは、朔とそう変わらない背格好の、おそらく十代半ばくらいの少年だった。傘を差してこなかったのか、頭から足の先までずぶぬれで、少し長めの髪の先から水が滴り落ちている。

 しかし、朔が驚いたのはそこではない。その少年の右足が青白い火花を放っていたことだ。人間ではありえない。

 そして、その少年がどこか泣きそうな「表情」をしていたことだ。正規のアンドロイドではありえない。

 どう声をかけたものかと考えていると、少年の方が先に口を開いた。


「あの、突然お邪魔してすみません。俺の感情を消してもらえませんか?」





 少年はシロと名乗った。犬の名前みたいだねとうっかり口にしてしまった朔は、居眠りから覚めたばかりの阿栗に拳骨をお見舞いされた。

 そして今、応接室のテーブルを挟んで、阿栗とシロが向かい合わせに腰掛けている。朔はシロの後ろに立って彼の頭をガシガシとタオルで拭いていた。


「で、シロだっけ?」


 阿栗が少し硬い口調で切り出す。


「はい」

「感情を消してほしいって?」

「はい」

「まず質問だけど…お前はなんで自分に感情があると思うんだ?普通のアンドロイドは感情を持たされていないはずだろ?」


 それは確かにそうだ。だからこそ朔もさっきその矛盾に驚いた。朔はシロの髪を乾かす作業に専念しているふりをして話に耳を傾けている。

 シロは少しの間をおいて答えた。


「それは……俺が、神野研が制作工程を変えるより前に製造されたアンドロイドだからです」

「え」


 ほら、と言ってシロは着ていたパーカーの襟を引っ張って見せた。

 アンドロイドは右肩の真上辺りに製造年月日が記載されている。シロの場合も例外なく、肌の上に直接数字の羅列が印字されていた。朔も阿栗に便乗して肩口を覗き込む。


『20XX0531』


 アンドロイドに感情を与えないことが定められたのは、同年の六月からだ。つまり、その前日に製造されたシロは、感情を付与された最後の旧式ということになる。

 それを見てもなお阿栗は腑に落ちない様子で質問を重ねた。


「……旧式はもう全て処分されたはずだろう?警察まで協力して…」

「俺は、それを逃れるために新型と偽って販売されるように仕向けました。出荷前にこのままでは在庫が全て処分だという噂を工場で聞いて、それで新型の在庫に侵入しました」

「またアクティブだな。それで?」

「……思ったより上手く行きました。実際、この五年近く、俺を買った家族は俺のことを疑いもしませんでした。俺も感情の無いふりを続けて…」

「でも、ばれたわけか」


 シロははっとしたように顔を上げた。


「その右足といい今の駆け込みといい。何かあったんだろ?」


 阿栗はこういうとき憐れむような聞き方を絶対にしない。むしろずけずけとストレートに切り込んでくる。自分の時もそうだったなと朔は少し懐かしさを覚える。

 シロは一瞬ためらうようなそぶりを見せてから、口を開いた。


「はい。今朝、家族の人間と一緒に買い物に出かけたのですが、乗っていた車が猫を撥ねてしまったんです」

「猫?」

 

 朔はシロの顔を真上から覗き込むようにして尋ねる。シロは心持ち視線を上に上げて続けた。


「はい。それで俺は車を飛び出して猫を助けに行きました」

「で、ばれたわけか」

「はい。その直後に車で轢かれました。気味が悪い、とのことで」

「で、そこから逃げてきたと」

「はい」


 シロは淡々と話す。しかしその表情が徐々に強張っていっているのが朔にはわかった。

 それを知ってか知らずか、阿栗は容赦なく話を進める。


「まあ、経緯はわかった。で、感情を消してほしいっていうのはどういうことだ?」

「それは……」

「感情さえなくなれば元の家に戻れると思ったか?」

「……」


 図星だったらしい。シロは黙り込んでしまった。


「あまりこういうことを言いたくはないけど…正直、元の生活に戻るのは厳しいと思うぞ?仮に感情を消せたとしても、だ」

「…わかっています」

「じゃあなんで」

「わかってはいるんですけど……ほかに生き方がありません。俺たちには感情はあるのに自分の生き方を決める力は無いんです」

「……じゃあ死ねば?」


 阿栗の放った一言で、部屋の空気が凍り付いた。


「ちょっと、阿栗?」


 朔が思わず割って入るが、阿栗は止められなかった。


「お前が言っているのはこうだよ。生き方がわかんないからどうにかしてください。ふざけるなよクソガキが」


 阿栗は立ち上がると朔の制止など気にも留めずにずかずかとシロに歩み寄り、作業服のボケットから取り出したバールの持ち手の方をシロの耳に突き付けた。空いている方の手でシロの頭を掴んでいる。


「お前知ってるか?アンドロイドってこうやって突き刺したら簡単に壊れるんだ。頭部の電子機器に修復不可能なダメージを負う、つまり死ぬ」

「ちょ……」


 それまでほぼ無表情に近かったシロの顔が露骨に引き攣る。

 阿栗はそれにも構わず続ける。


「生き方がわからないんだろ?じゃあ別にいいだろ。よし、死ね」


 バールを握る阿栗の手に力が込められた。

 



 ばきっ、という金属質な音がした。

 阿栗が一つ大きな溜息をつく。その右手にはまだバールが握られている。ただしそれは中ほどで大きくねじ曲がっていた。

 ねじ曲がったその先はシロの左手が握っている。アンドロイドの膂力は人間のそれをはるかに超える。

 シロの声が沈黙を破る。


「俺、は……まだ、死にたくないです」

「ふうん。じゃあどうしたい?」


 阿栗がひん曲がったバールを器用に片手で回しながら尋ねる。


「死ぬのが怖い……勝手に作られて、勝手に感情を付けられて、それから死ねって……そんなの受け入れられるわけないじゃないですか…!」


 絞り出すように言ってから、シロははっきりと断言した。


「俺は、生きたいです」


「よし、決まり」


 阿栗は満足そうに大きく頷くと、使い物にならなくなったバールをポンと放った。天井をかすめて放物線を描いたそれは、壁際の廃材入れに綺麗に飛び込んだ。


「お前は今日からここの雑用係二号だ」

「へっ?」


 シロの口から始めて間抜けな声が漏れた。無理もないと朔は思う。朔自身、半年ほど前に同じような経緯で雑用係一号になった身だ。その時は工房の窓から危うく転落死させられそうになった。

 懐かしさに、つい口元が緩む。そっと肩掛け鞄の紐を握り締める。

 この工房の主はがさつで口が悪くて自堕落な生活ばかり送っていて、それでも本当に生きたいと思う者を必死で救おうとする優しい人だ。朔はそんな阿栗のことが好きだった。


  


 阿栗はシロを工房に迎え入れるにあたって、二つ条件を付けた。

 まず、朔と同様に工房の雑用、もとい大半は後先考えずに散らかしまくる阿栗の後始末をすること。

 そして、シロの顔を変えること。

 感情を持ったアンドロイドを通報せずにかくまうことは、それだけで違法行為なのだ。阿栗はシロを表向きは通常の人間として扱うことを決めた。それにあたって、万一シロが彼の正体を知る人物と接触する機会があっても問題にならないようにするために、この処置は必要だった。

 シロは顔を変えるのは構わないが、どうしてそこまでしてくれるのか、と問うた。当然の疑問だ。阿栗は細かいことを気にすんなと笑うだけだった。阿栗がここまで底抜けにお人好しな理由は朔にも実はわからない。

 シロは今一つ腑に落ちない様子だったが、それ以上何かを言うことは無かった。




 顔を変えられたシロは、前よりは幾分年上の、柔和そうな青年に見えた。阿栗曰く、「余ってる顔パーツを合わせたらこうなった」とのことだが、絶対に阿栗の趣味が入っていると朔は思う。前に彼女が読んでいた雑誌の表紙の芸能人がこんな顔だった。

 シロは今、その綺麗な顔を盛大に歪めていた。買い物を終えて工房に帰ってきた直後のことだ。右膝の損傷は阿栗によって跡形もなく修理されている。

 シロの渋い表情に気付いて、朔は声をかけてみた。


「シロ、どうしたの」

「……十五分前には綺麗だったのですが」


 十五分前、というとシロがスーパーに出かける直前か。


「あー無理無理。阿栗がいたら十分で散らかるから」

「……そうですか…」


 シロは買ってきた食材を冷蔵庫に放り込んでから、呆れたような顔で掃除を始めた。部屋荒らしの主犯は久しぶりに修理の依頼が来たとかで五分前に慌ただしく出かけて行った。

 さすがというか、シロの雑用処理能力はかなり高い。シロが来てから朔は料理以外のほとんどの雑用を彼に任せるようになった。料理は朔が作る方が阿栗の口に合うらしく、依然として朔の役目である。

 黙々と掃除を進めるシロの姿を眺めながら、朔は邪魔にならないようにソファの上で膝を抱えて座った。

 シロが不意に口を開いた。


「あの」

「ん?」

「朔は、俺が気持ち悪いと思わないんですか?」


 唐突に何を言うのかと思ったが、すぐに理解した。前のシロの持ち主は感情を持つアンドロイドを気味悪がったのだ。

 朔は正直に答える。


「別に思わないけど」

「…そうですか」

「だって、生きてるんだから感情くらいあったっていいじゃん」

「……」


 シロはそっぽを向いて押し黙ってしまった。無表情を装っているものの、照れくさそうな表情が垣間見えた。

 その横顔を眺めながら、朔は率直な印象を言葉にした。


「シロって本当に人間みたいだね」


 旧式のアンドロイドが禁止されたのは四年以上前、朔がまだ小学校に通っていたころだ。当時の記憶はあまり鮮明ではない。感情のあるアンドロイドをしっかりと見るのは今が初めてと言って差し支えなかった。

 シロは首を傾げた。


「それはまあ…そういう風に設計されたものですから」

「そうなんだけどさ、何か不思議。金属部品の組み合わせでそういうことができるって」

「俺から見たら人間の方が不思議ですよ」

「え?」

「設計もされてないのに一人一人違う感情を持ってる。作り自体は全員同じなのに、持っている感情は一人一人違う。俺にはそれが不思議です」


 意外なことを言われて、朔は少し目を見開いた。でも、反論は無かった。


「そうだね。不思議だ」


 そう返して、小さく笑った。

 でも、全ての人間が正常にそれを持って生まれてこられるとは限らないのだ。きっとシロはそれを知らない。


 

 片づけが終わろうとしたとき、工房の電話が鳴った。朔が受話器を取ると、それは阿栗からだった。


『あ、ヒノメか』

「あれ、どうしたの?今修理の仕事でしょ?」

『そうなんだけど、思ったより壊れ方がひどくてさ。持って行ったパーツだけじゃ足りねえんだよ』

「あらら」

『で、今作業中断するの面倒くさいんだわ。悪いんだけど朔お前持ってきてくれないか?作業室入って突き当たりの棚にある箱』

「いいけど。場所は?」

 

 阿栗は修理依頼のあった場所を告げると早々に電話を切った。人使いが荒いなあと思いながら作業室に入って、阿栗の要望の品を探した。

 探し当てて、げっそりした。

 軽く「持ってこい」何て言うから、手軽に持ち運べるものだと思っていた。しかしこれは、どう見ても朔一人でどうにかなる代物ではない。

 一抱えほどもある段ボールに、アンドロイドの胴体のパーツが一式収められていた。試しに持ち上げようとしてみるが、数センチ浮かせるので精いっぱいだった。異様に重い。

 朔は自力で運ぶことを早々に諦めてシロに救援を乞うた。シロは一つ返事で承諾して、軽々と箱を持ち上げて見せた。


「じゃ、道案内は朔にお任せします」

「…私も筋トレしようかな」


 ぼやきながら、朔は出かける支度をした。

 斜め掛けにした鞄をいったん下ろしてコートを羽織り、もう一度鞄を掛け直す。その様子を見ていたシロが不思議そうに言った。


「朔」

「ん?」

「どうして、いつもその鞄を?」

「ああ、これ?」


 朔は言われて初めて意識したような素振りで鞄を見た。実際は、そのうち訊かれるだろうという覚悟はしていた。

 鞄の中身を取り出して見せる。朔の耳から伸びるイヤフォンのコードの接続先だ。それは一見すると携帯型音楽プレイヤーのような、片手サイズの黒い筐体だった。

 シロがその箱をしげしげと眺める。


「……これは?」

「シロの頭の中にもあるモノだよ。アンドロイドの感情制御装置。生体用に改造はしてもらってるけど。このコードで脳と電気信号をやり取りできるようになってるの」


 言って、イヤフォン――のような形状の端子に触れて見せる。


「え」


 シロは少し考え込んでから、こう言った。


「……貴方はアンドロイドですか?」

「違うよ。私は人間。でも生まれつき感情が無かった」


 もう少しわかりやすい言い回しができれば良いのだが、端的に言うとやはりこうだった。



 朔は幼少期から友人や親の言っていることが理解できないことが多かった。

 友人が何かに付けて泣いたり笑ったりするのが不思議で、理由を聞くと友人の親に変な目で見られた。

 幼稚園で飼っていたウサギが死んだとき、周りのみんなが大泣きしている真ん中で、お母さんと買い物に行く約束があるから先に帰りますと言ったら先生になぜか怒られた。

 先生からその話を聞いた母親は恐ろしい物でも見るような目で朔を見て、それ以来必要以上に朔に話しかけなくなった。

 父親は残業だ何だと言って家に寄り付かなくなった。

 それは小学校に上がっても変わらなかった。

 運動会で、クラスのみんなを応援しなくてはいけない理由がわからなかった。

 勉強の成績はかなり良かった。どうしてそんなに勉強ができるのかと聞かれたけど、先生に言われたことを言われたとおりにやっているだけだった。どうしてそんなに勉強する時間があるのかと聞かれて、ほかにやりたいことが無いからだと答えると変な目で見られた。

 運動会でクラスのみんなを応援する理由がわからなかった。

 クラスメイトが転校するときにお別れ会を開く理由がわからなかった。

 日曜日が楽しみで月曜日がつまらない理由がわからなかった。そもそも楽しいとつまらないがわからなかった。

 わかっているのは、それらを人に尋ねると変な顔で見られるということだけだった。

 他は何もわからないまま中学に上がった。

 担任は朔をアンドロイドみたいだと言った。朔が小学生の頃に発売されて、半年ほどで感情を廃止された機械の名前だ。

 言われて初めて気が付いた。

 朔には感情が無かった。

 家に帰って、その発見を母親に披露した。何かが変わるかもしれないと思っていた。

 しかし、母親の反応はこうだった。


「今さら気が付いたの!?近所の人もみんな言ってるわ!あそこの娘さんはマネキンだって!親の育て方が悪いんだって!あれならまだアンドロイドの方がましだって!」


 そう言って、父親が大切にしていた高価な灰皿を朔に向かって投げつけた。

 朔はそれを冷静に避けてから、どうするべきか考えた。顔の真横を通過した灰皿は壁に当たって砕け散った。破片が足元に散らばった。

 最後の破片が床に落ちるころには、朔の中で一つの結論が出ていた。

 母親が喚く理由はわからない。ただ、母親をそうさせているのが自分の存在だということはわかる。そして十数年間自分の養育費を払ってきたという点において、両親には恩を感じるべきだということも理解できる。

 だから、


「お母さん。私、家を出ていく」


 それだけ言って、家を出た。蒸し暑い夏の夜だった。

 電車を乗り継いで、できるだけ家から遠いところへ行こうとした。

 工房のあるこの町に転がり込むまでの間、誰にも引き止められなかった。後でニュースを見て知ったことだが、朔の捜索願はその日の夜に出されていた。ただし、両親は「娘は家の近くの山に出かけた」と証言しており、なぜか見当違いの場所を捜索する羽目になった捜索隊は当然何も発見できず、ついには捜索は打ち切られていた。両親には朔を連れ戻す気が無かったのだ。それはある意味朔の判断が正しかったことの裏付けでもあったが。

 手持ちのお金が無くなるまで電車とタクシーを使って、お金が無くなってからも丸一日歩き続けて、工房の近くまで来たところで空腹で動けなくなった。そこを阿栗に見つかった。


「何だお前。家出?」


 阿栗の第一声はそれだった。朔は何も答えなかった。

 阿栗は溜息をつくと朔を工房に連れて行った。事情を訊くでもなく夕食を出してくれた。インスタントラーメンだったが。

 その日の夜のニュースで、くだんの捜索情報が流れた。さすがの阿栗も驚いたらしく、事情を問いただした。

 朔はそれまでにあったことを全て話した。そして最後にどうしたらよいのかわからない、と付け足した。

 阿栗はしばらく考え込んでいたが、唐突に朔の服の襟首をつかんで窓際まで引きずっていった。窓から朔の上半身を突き出して、冷めた声で言う。


「このまま落っこちたらどうなるかくらいわかるよな?」

「この高さで、頭から落ちることになるから、即死する。運が良くても重体になる」


 窓の下は暗闇に包まれて見えない。朔は淡々と答えた。すると阿栗は鬼のような形相になった。


「お前のそういうところが気に入らん。生きたいのか死にたいのかくらいはっきりして見せろ。そうしたら私もお前のことをどうするかもう少し真剣に考える気になれる」


 ぱっ、と阿栗は躊躇いなく朔の身体を突き落とした。

 眼下の暗闇が一気に眼前に迫る。

 その時朔は、なぜか悲鳴を上げた。嫌だ、と。



 気が付くと、埃っぽい布団の中に埋まっていた。屋内ではない。周囲を見回してそこが粗大ごみ置き場だと悟る。知っていて落としたのだろう。

 頭上を見る。寂れた雑居ビルの三階の窓からこちらを見下ろしている人物がいる。室内の明かりで逆光になって顔は見えないが、シルエットで先ほど自分を突き落とした人物だとはわかる。

 頭上から声が降ってくる。


「おーい、生きてるかー」


 生きている、と答えようとして、自分の異変に気が付いた。

 涙が流れていた。物心ついてから初めてだった。

 どうしてだろうと考える。人が泣くのは感情が高まった時だ。

 

 今、死ぬのが怖いと思った。そして、生きていたいと願った。


「私……感情ある……?」


 呟いたその涙声を工房の主は聞き逃さなかった。頭上から再度声が降ってくる。


「当たり前だろ。じゃなきゃ家出なんてするか。無感情ぶりやがって。………で、どうする?今なら雑用係を募集しないでもないが」


 朔はその日から『阿栗工房』の雑用係になった。

 工房の主である阿栗はまず、アンドロイド用の感情制御装置を人間である朔に使用できるように改造した。詳しいことはわからないが、本来脳内で行われる電気信号のやり取りを代替させ、イヤフォン型のコードで朔の脳にそれを伝える仕組みらしい。

 阿栗曰く、疑似的であっても感情を経験し続ければ、少しは朔自身にも変化が起きるのではないかとのことだった。

 それからは、目の前の全てのことが色鮮やかに見えた。

 テレビや小説、誰かとの会話、毎日着る服、目の前の雑用、朝起きること、歩くこと、そして今ここにいること。その全てが楽しかった。

 何かお礼をしたいと言うと、阿栗は「雑用だけしとけばいい」と照れくさそうに言った。

 

 



「だからね、シロ」


 朔は重い箱を持ったまま突っ立っている目の前のアンドロイドに向かって言った。


「私はシロの感情を気持ち悪いとは思わない。むしろ――」


 羨ましいと思う、と付け加えようとしてやめた。それは彼にとってあまり心地の良い発言ではないような気がして。





 一つだけ、朔は阿栗に隠し事をしていた。

 阿栗に感情をもらった朔は、嬉しいと同時にそれを手放すことを恐怖するようになっていた。





 シロに荷物持ちをしてもらって、工房を出かけた。阿栗が出かけたのは工房から歩いて二十分程度のところにある駄菓子屋だった。最近、足を悪くした店主の代わりに店番用としてアンドロイドを購入したのだが、昨晩の店じまいの時に飲酒運転の車に当て逃げされたらしい。

 蛇行した細い路地を抜けて店の近くまで歩いて行くと、店の前で作業着姿の阿栗がしゃがみ込んでいた。路上にブルーシートが広げられ、電源を落とした状態のアンドロイドが横たえられている。衣類は着ておらず、胴体部分の外装が取り外されていた。朔が素人目に見てもわかるほど、胴体内部の金属部品が無残に変形している。

 店番用、というと野暮ったい印象だが、看板娘として購入したのだろう。少女型の可愛らしいアンドロイドだ。それだけに腹部の損傷が痛々しい。


「阿栗」


 朔が声をかけると、阿栗が顔を上げた。頬に付いた機械油が夕陽を受けて金色に光る。


「お、悪いねー助かったよ」


 阿栗はシロから箱を受け取って、もう一度修理待ちのアンドロイドに向き直った。あの箱を難なく受け取れるあたり、阿栗もなかなかの怪力である。

 

「さて、これで直せますよ」


 阿栗の言葉はアンドロイドの隣でどこか呆然してと立ち尽くしている駄菓子屋の店主に向けられたものだった。店主は白髪と白髭をたくわえた温厚そうなおじいさんで、右手で杖をついている。

 その言葉を聞いて安心したのか、店主は人心地着いたように溜息をついた。そして朔とシロの姿を見て、何か思いついたような顔で店の奥に入っていった。

 再び店先に戻ってきた店主の手には、小袋入りの菓子が山盛りになった小さなカゴが提げられていた。店主は朔とシロの前まで来て、そのカゴを差し出した。


「君たちが阿栗さんのお手伝いさんだね。どうもありがとう。好きなのを持って行きなさい」

「いえ、そんな。私たちは単に部品を届けに来ただけですし」

「まあ遠慮せずに」

「…じゃあお言葉に甘えて」


 朔はカゴの中のお菓子を一通り見て、老舗メーカーのキャラメルを選んだ。店主は当然のごとくそのカゴをシロにも差し出す。

 シロは一瞬ためらうようなそぶりを見せたが、すぐに「いただきます」と言って朔と同じものを選んだ。彼は表向きは人間ということで通っているのだ。


「もうちょっと時間かかるから、先に帰っとけ」


 阿栗は朔たちのほうに向けてそう言って、損傷したパーツを取り外しにかかった。朔は阿栗に言われた通り、シロとともに工房に引き返すことにした。




 帰りは行きとは違って、川沿いの道を歩いて帰ることにした。行きは大箱を抱えていたため人通りの少ない裏道を選んだのだ。

 夕陽でオレンジ色に染まった道を、並んで歩く。特に話すことも無いので、阿栗にはもう少し自主的に整理整頓をしてほしいという愚痴をこぼしながら帰った。

 帰路の中ほどまで来た頃だろうか。不意に、シロが先ほどのキャラメルを差し出した。


「え?」

「俺は食べられませんので」

「あ、そっか」


 朔はシロの手からキャラメルの包みを受け取り、中身を口の中に放り込んだ。甘い味が広がる。包み紙の方は鞄に放り込んだ。

こつん、と何かが朔のつま先に当たった。目線を落とすと、そこに転がっていたのは野球ボールだった。


「すいませーん」


 声に顔を上げると、朔たちのいる道よりも少し低いところ、河川敷で野球帽姿の男の子が手を振っていた。その少し向こうに立ってグローブを付けているのは父親だろうか。親子でキャッチボールでもしていたのだろう。一瞬眩しそうな目で彼らを見てしまい、慌ててそれを頭の片隅に追いやった。

 朔はかがんでボールを拾うと、少年の方に向かって投げた。そのつもりだった。しかし狙いを逸れたボールは少年の頭上を越えて川に向かって飛んでいった。

 あ、と四人分の声が重なる。

 朔は勉強こそできるものの、運動神経に関しては平均よりも酷いのだ。

 どぼんと音を立てて、ボールは川に飲み込まれた。


「わーっ!ごめんなさい!」


 朔は大慌てで道と河川敷を繋ぐ坂道を駆け下りる。少年とその父親は川べりに立って唖然としている。


「ちょ、私取ってきますんで!」

「へっ?」


 少年がぽかんとしている横で、朔はスカートの裾を少したくし上げた。こんな日にスカートをはいてしまった今朝の自分を内心で呪う。そのままそっと川に足を入れようとして、後ろからシロに止められた。両腕を掴まれて身動きが取れない。


「シーロー、放してー」


 じたばたと無意味な抵抗を繰り広げてみると、耳を掴まれたウサギになったような気分がした。


「俺が取ってきます。あのですね。朔が川に入ると二次災害が起きる気がするので」

「……むぅ……」


 反論に詰まり、しぶしぶ朔はシロにボールを取ってきてもらうことにした。シロがボールの落ちたあたりに足を進める。水深は割と深いようで、シロの膝のあたりまで水に浸かっている。確かに朔が入ると流されていたかもしれない。

 上着の裾が水に浸かりかけていることに気付いて、シロは上着を脱いで朔のほうに放った。朔はそれを少々危なっかしい手つきで受け取る。

 ややあって、シロが無事川底からボールを拾い上げた。シロは自分が水から上がるよりも先に、ボールを少年の方に放った。少年はそれをグローブでしっかりと受け止める。

 朔は岸に戻ってきたシロに上着を返した。


「……ありがと」

「どういたしまして」


 シロは上着を羽織り直して、靴の中に溜まった水を無造作に捨てた。それでも履き心地が悪いようで、足元を見て難しそうな顔をしている。


「あの、ありがとうございました!」


 少年が駆け寄って来て、わざわざ野球帽を脱いで頭を下げた。

 朔は反射的に何かを返しそうになったが、少年の言葉がシロに向けられていることに気付いて口をつぐんだ。

 シロは一瞬きょとんとしたのち、


「いえ、こちらこそ妹が失礼を」


 と、朔の方をちらりと見て言ってのけた。少年が軽く吹き出す。朔は頬を膨らませて上目遣いでシロを睨んだ。


「……運動は苦手なの!」


 言い訳にもならない言い訳を述べてみる。少年がさらに笑いだしそうな気配がしたので、朔はシロの上着の裾を掴んでずんずんと歩き出した。


「ほら、もう帰ろ!阿栗より先に帰ってなかったら心配かけるでしょ」


 自分より後に工房に来たシロに妹呼ばわりされたことが少し悔しくて、朔はあえて年上ぶった口調でそう言ってみた。

 引きずられるままについてきながら、シロはまだ笑っていた。口の中のキャラメルはいつの間にかなくなっていた。

 再び道に戻ると、先ほどまで町中を照らしていた西日はいつの間にか建物の陰に隠れていた。東の空から群青色が広がっていている。本当に早く帰らないと阿栗に怒られそうだ。朔は少し歩調を速めた。それに合わせてシロもついて来る。水の溜まった彼の靴からぐじゅぐじゅという音がする。


「何か、たまにシロが本当に人間な気がする」


 思いついたことを再度正直に言ってみた。


「はは」

「もう。私は真剣に言ってるんだから」


 朔は肘でシロの脇腹を小突いて、それから小さく笑った。




 結局それから二度ほど赤信号に引っかかり、工房に戻ったのは空全体が群青に覆われたことだった。東の方からさらに暗い、夜の色が迫ってきている。

 朔とシロは雑居ビルの外付け階段を伝って三階まで上がった。初めにシロが上がってきたところだ。見上げると三階には既に明かりが点いている。阿栗の方が先に帰ったらしい。

 早く食事を作らないとまた阿栗が騒ぎ出すなあ、なんてことを放しながら、錆に浸食された階段を上る。


「……あれ?」


 二階と三階の間の踊り場で、朔はおかしなことに気が付いて立ち止まった。さっき雑居ビルの駐車場の前を通ってきたが、阿栗の使う軽トラは帰ってきていなかったような気がするのだ。


「朔?」


 シロが下から声をかけてくる。朔はシロに事情を説明した。シロも首を傾げる。


「お客さんが来て待ってる、ということはないですか?」

「ない…ことはないんだけど、私鍵閉め忘れたかな」

「……いえ、閉めていました」


 アンドロイドの記憶は正確なはずだ。ということは、阿栗以外の誰かが勝手に工房に入っているということになる。


「…泥棒…?」


 思いついて口に出してみて、ぞっとした。それに気が付いたのか、シロが朔を追い越して三階に向かう。


「シロ?」

「俺が先に入ってみます。警察を呼ぶわけにもいきませんし」

「それもそうね…」


 朔も、シロの背中に隠れるようにしながら上へ向かう。

 三階に辿り着くや否やというところで、階下から声がした。


「おい!いたぞあそこだ!」


 驚いて足元を見下ろす。外付け階段の足場の隙間から、青い制服に身を包んだ警官が見えた。手に付けた腕章には『違法アンドロイド対策課』の文字が見えた。警察内部で違法アンドロイドを取り締まるために新設された部署だ。

 違法アンドロイド――例えば、シロのような。


「なんで…!」


 ばれた経緯はわからない。ただ、彼らの狙いは一つしか考えられない。

 数名の警官が階段を荒々しく上がってくる。


「シロ!早く中に入って!」


 朔はシロを半ば突き飛ばすようにして、工房の裏口から彼を中に押し込んだ。続けて自分も中に入り、内側から鍵を掛ける。

 外からドアを無理やりこじ開けようとする声が聞こえた。力任せにドアが叩かれる。その音から逃れるようにして、朔とシロは応接室まで駆け抜けた。

 しかし応接室に入ると、そこにも既に数名の警官が待機していた。腕には外の彼らと同じ腕章を嵌めている。

 背後で裏口がこじ開けられる音がした。前にも後ろにも進めなくなり、朔はその場に立ち尽くした。シロも同じように色を失くした表情で固まっている。

 応接室にいた警官の一人が警察手帳を示しながら淡々と言った。


「…警察署違法アンドロイド対策課の山根です。先ほど近隣住民の方から、息子と河川敷で遊んでいたところアンドロイドと思しき青年と遭遇したとの通報がありました。何でもその青年は人間と同じように感情豊かであった、と。その外見的特徴からこちらの工房の職員ではないかと思いお邪魔したのですが…心当たりはありますか?」

「……」


 すぐに察しがついた。さっき川に入って上着を脱いだ時だ。あの時製造番号が透けて見えたのだろう。

 そういえば、あの父親はシロが川に入ってから一度も口を開いていなかった。驚いていたのか、あるいは恐れていたのか。いずれにせよあの時点で既に終わっていたのだ。シロの服を調べられたら川に入っていたことなどすぐにばれる。

 もはや逃げ道は無い。

 朔は眩暈を感じてよろめいた。もう、本当に終わりなのか。阿栗の怒声を聞きながら過ごす日々も、シロと一緒に工房を片付ける日々も、何かを感じていられる時間も。

 危うくへたり込みそうになった朔の肩を、シロが無言で支えた。見上げると、シロもかなり混乱をきたしているようで、焦りが顔ににじみ出ていた。


「シロ…」


 山根と名乗った警官は朔たちの行動には構わずに続ける。彼は隣に立つ部下と思しき警官に何かを指示した。その警官は胸ポケットから懐中電灯のようなものを取り出して朔たちのほうに向け、数秒待ってから言った。


「こちらの娘さんはアンドロイドではないようですね。そっちの男の方は完全にアンドロイドですが」


 部下の報告を受けた山根は朔に向かって、それまでよりはいくらか口調を和らげて言った。 


「さて、そちらのお嬢さん。あなたは一体このアンドロイドとは――いや、ここの工房長とはどういう関係ですか?調べたところ秋野阿栗氏には娘はいないようですが」


 朔は何も答えなかった。答えたところで朔たちにとって不利な証言しかできないし、どのみち少し調べれば朔の素性などたやすく暴ける。

 山根は朔への詮索は早々に切り上げて、シロの方に向き直った。


「まあいいでしょう。あなたには後でお話を伺います。まずはそちらのアンドロイドを引き渡してください」

「……嫌です」


 朔はこれには答えた。何か妙案があるわけではない。単に思ったことを答えただけだ。


「逆らうのか?」


 山根の横にいた部下が、胸ポケットから黒い銃を取り出して構える。通常の警官に配備されている拳銃とは別物だ。旧式アンドロイドの処分が決定し、違法アンドロイド対策課が設置されたと同時に開発された、対アンドロイドに特化した電子銃。阿栗曰く、内蔵された加速器で加速させた電子を射出し、それによって瞬間的に発生する強磁場でアンドロイド内部の電子機器を破壊する仕組みらしい。

 一人目に倣って、部屋にいた警官全員が電子銃を構える。その銃口は、一つ残らずシロに向けられていた。


「そんな…」


 朔は肩掛け鞄の紐を握り締めた。こんな時、阿栗がいたらどうしただろう。

 その時、ふと自分が工房に来た日のことを思い出した。


 もしかすると、いけるかもしれない。


 朔は、自分の肩を支えていたシロの腕を逆に掴み返して、一目散に窓に向かって駆けだした。


「朔!?」

「あ、オイ!」


 シロと警官たちの声が重なる。

 それには構わず、シロを先行させる形で走る。電子銃は人体にもある程度は害になる。人間が間にいる状況では下手に発砲はできないはずだ。


「シロ、飛び降りて!!」

「はあ!?」


 出かけるときに換気のために開けておいたその窓は、幸い今も全開だった。朔は今一つ状況を理解できないままに窓枠に足を掛けたシロを、窓から押し出した。人間なら死ぬ高さだが、アンドロイドは上手く着地すれば多少の落下は問題にならない。

 命の危険があるのはシロだけだ。そしてシロだけ逃がそうと思えば、これが最善だった。


 シロの足が窓枠を離れたのを確認して一瞬気を緩めた時、ぱん、という音が響いた。電子銃の銃声だ。


 でも、シロは室内の警官から狙える場所にはもういない。狙いは当然逸れている。

 ろくに狙いを定めずに撃ち出されたそれは、朔の鞄に直撃した。


 イヤフォン型のコードを通して、朔の頭に衝撃が走った。シロを押し出した体勢のまま平衡感覚が失われる。


「おい!馬鹿なんで撃った!」


 山根の怒号が聞こえる。ぐらりと傾いた朔の身体は、そのまま窓の外に転がり落ちた。



 

 落下する感覚はほんの一瞬で、気が付いた時には雑居ビルの粗大ごみ置き場でシロに受け止められていた。幸い朔にもシロにも怪我らしい怪我はない。


「朔!」


 シロが血相を変えて朔の顔を覗き込む。朔は自分の身体が動くことを確認してから、「大丈夫」と答えて自分の足で立った。


「……?」


 焦げたようなにおいに気が付いて、肩から提げた鞄に目をやる。黒煙が上がっている。鞄を開く。黒い筐体が火花を放ち、先ほど入れたキャラメルの包み紙を焼いていた。さっきの電子銃の一撃で完全にいかれたらしい。

 発火の危険がありそうだったので、鞄ごと地面に放り捨てて、上から足で何度か踏んだ。ばきっという音を最後に、火花が止まった。

 その様子を見ていたシロが引き攣った顔で言った。


「朔、それ…阿栗さんが作ってくれたんじゃ…」

「うん。でももう壊れたから」


 淡々と答えて、違和感に気が付く。朔の中には確かにそれを大切にしていた記憶があるのに、他人の記憶を貼り付けたような気がして全く実感が伴わないのだ。

 そう、久しぶりの感覚だった。感情が動かないという感覚。


「それよりもシロ、シロは逃げた方がいい」


 見上げると、外付けの階段を伝って警官たちが降りてくるところだった。電子銃の射程範囲は数メートル程度しかないのでまだ撃ってくることは無い。しかしじっとしていたらそれも時間の問題だ。


「朔はどうするんですか」

「私は……どうしようかな」


 咄嗟に応えることはできなかった。どうしたい、ということを考えられなくなっていた。ほとんど反射的に動いたので、先刻までの自分の記憶も辿れない。だから、どうするべきか、ということを考えることにした。


「…残念だけど、工房にいられなくなったら他に行くところが無いから。それならここで警察に保護してもらうのが私の最善だね」

「そんな…」

「じゃあね、シロ。さようなら」


 朔はごみ置き場に座り込んで、ひらひらと手を振った。しかしシロが走り出すことは無かった。


「シロ?」


 シロは朔の眼前に突っ立ったまま、笑っているような――あるいは泣き出しそうな顔で言った。


「なんというか、皮肉ですね」

「何が?」

「俺は感情があることを疎まれて、あなたは感情が無いことを疎まれて」

「…」

「本当に…どうしろっていうんでしょうね」



 ぱん、という銃声が暗い路地裏に響いた。


 

 電子銃の直撃を食らったシロの頭部は、電気的負荷が限界に達したのか、小さな爆発を起こしてそのパーツを飛び散らせた。

 そのうちいくつかが座り込んだままの朔のスカートの上にぽろぽろと振って来て、ワンテンポ遅れて頭の無くなったシロの身体が覆いかぶさってきた。押し倒される形で、ごみ置き場に仰向けに倒れる。重い。当たり前だ。アンドロイドなんて表面の人工皮膚を除けばほとんど金属製なのだ。

 このまま放置したら息が苦しい。そう思った朔はその身体を押しのけようとした。動かない。もう少し力を入れてみる。それでも動かない。

 路地の向こうから警官たちが駆けてくる。違法アンドロイドの停止を確認とか何とか、業務的な言葉が飛び交う。

 山根が朔の身体の上からアンドロイドの残骸をどかそうとした。助かったと思った。

 でも、朔の腕は何故かその残骸を抱きしめて離さなかった。


「君…」


 山根が複雑な顔をする。

 朔は、自分の行動の意味が分からなくて呆然とした。その視界があっという間に滲んでくる。

 涙が、頬を伝って次から次へと零れ落ちていた。


「何でも、ありません…」


 答えてみたもののやはり涙声だ。朔はアンドロイドの背中に回した腕を離して、両手で顔を覆った。その隙に山根が今度こそアンドロイドの残骸をどかす。

 朔は山根の手を借りて上体を起こした。


「私、何で泣いてるんでしょう?」


 朔は率直な疑問を目の前の山根にぶつけた。山根はどうしてそんなことを訊くのだという顔をしたが、律儀に答えてくれた。


「それは……俺が言うのも何だが、我々が君のアンドロイドを壊したから…悲しいんじゃないのか」


 言われて、山根の肩越しにもう一度アンドロイドの残骸を見た。ちょうど到着した回収車に乗せられるところだった。それから振り返って、手元に転がっている鞄を見た。黒煙はすっかり止まって、半年間使い続けたイヤフォンのコードはところどころ被膜がはがれて中の導線が見えていた。


 ふと、身体の中身が抜け落ちるような感覚に襲われた。

 疑似的であっても感情を経験し続ければ、少しは朔自身にも変化が起きるのではないか、という阿栗の推論は正しかったらしい。もしくは、この半年の経験がそうさせたのかもしれない。


 そうか、これが「悲しい」――


 朔の中にずっとあった空洞が、灼けるように熱かった。

 朔がその中に求めたものは、あんなにも楽しくて、こんなにも痛い。

 


 まるで生まれたての赤ん坊のように、町中に響き渡るほどの声で哭いた。











「姫野桜子。十四歳。半年前に行方不明になり、以後発見されないまま捜索が終了――。これは君だね?」


 警察署の一室で、パイプ椅子に腰かけた山根が問うた。向かいに同じように座った朔――桜子はふるふると首を横に振った。泣き腫らしたのか、目の周りはどこか腫れぼったい。


「私は樋野芽朔です。阿栗とは親戚で――」

「残念だが、そういう人物の存在は確認できていないんだ。それに、当時の君の同級生たちが君の顔をみて本人だと証言してくれている」

「……阿栗は、どうなったんですか」


 桜子は話を逸らした。山根はやれやれと言った風に頭を掻くと、桜子の質問に答えてくれた。


「……詳しいことは言えんが、あれから行方知れずだ。違法アンドロイドを匿った上に人間用に感情制御装置を不正改造したんだ。罪は逃れられないが…」

「そうですか」


 桜子は短く応えて、俯いた。山根は少しためらうような素振りを見せてから、こう言った。


「実はその…君のご両親なんだが、君のことを引き取りたくないと言っているんだ。どういうわけかね」

「でしょうね」


 これは簡単に予想できることだった。そもそも嘘の情報を流してまで捜索活動を滞らせた親だ。今さら見つかったって困りこそすれ喜びはしないだろう。

 


 桜子は十四歳という年齢と、問題になったアンドロイド及び感情制御装置が既に処分されたことから、今回の件について一切罪に問われることは無かった。ただ、工房が閉鎖され両親にも拒絶された結果、行き場を失くして警察署で保護されていた。

 事件解決への指示を取った責任からか、山根は仕事の合間を縫って桜子の様子を見に来る。他の署員から聞いた話だと、桜子の引き取り先を探してくれてもいるらしい。

 


「…君、感情が無いんだってな」


 不意に山根が言った。他人からここまで率直に言われるのは阿栗を除けば初めてだったので、桜子は少し目を見開いた。


「ええ。全く無いわけではないようですが…ですから阿栗があの装置を」

「……今でも、感情があった方が良いと思うか?」

「…どういうことですか?」


 桜子は質問の意図がわからずに問い返した。山根は腕を組んで難しそうな顔をして言った。


「俺は正直…今混乱しているんだ。どうするのが君にとって一番良かったのかわからなくてね」

「…私にもわかりません。ただ…」

「ただ?」


 山根が先を促す。桜子は少しだけ視線を横に逸らして続けた。


「何も感じなくて良かった頃は平和で楽で――死ぬほど退屈でしたよ?」


 桜子はそう言って笑って見せた。その目尻からまた、一筋涙が零れ落ちた。 


 

 

 


 










 

 

  















 

 



 




 




  

 


 

 

 


 


 



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