川のほとり
日がかたむいて空を茜色に染めはじめたところ、倉田は亜由美と二人で川のほとりに来ていた。
ホテルに荷物を置き、夕食までの時間散策しに来たのである。
野暮な衣服を脱ぎ捨て、おそろいの水色の浴衣に着替えたのは日常から旅立つための切符だったかもしれない。
あたり一面は緑が鮮やかで遠くからは虫の美しい鳴き声が彼らの耳朶を打つ。
川からは軽やかな水音とともに冷たい風が吹き付けてきて、二人の心身を涼しませる。
市街地の溶けそうになりそうな暑さとはまるで別世界だ。
豊かな自然が五感を通じて彼らの中に入り込み、彼らの心を洗い流してくれる。
「自然の恵みって言うのは何も水や食料のことだけじゃないのかもしれないな」
倉田が言うと亜由美もこくりとうなずく。
「来てよかったわね。まだ来たばっかだけど」
彼女はくすりと笑う。
春の日差しのような柔らかい表情に倉田は見とれる。
恋人の顔はどれだけ見ても見飽きないと彼は本気で思う。
彼らは有給休暇を利用してここにやってきたのだ。
普段はなかなか休みが重ならないため、こうして一緒に遠出したのはずいぶんと久しぶりである。
亜由美が川の中をのぞきこむと魚が数匹驚いたように逃げ出す。
その姿を倉田は頬をゆるめながら見つめる。
浴衣を着た自慢の恋人がそうしてたたずんでいる姿は、とても絵になる光景だった。
そのうち彼女は彼のその視線に気づき、小首をかしげる。
「どうかした?」
「いや、相変わらず君はきれいだなと思って」
「ありがとう」
恋人の褒め言葉を聞いた亜由美は恥ずかしそうに髪をそっと触った。
倉田は彼氏の義務として定期的に褒め言葉を言っているのだが、彼女はいつまで経っても慣れないようである。
その変わらぬ初々しさもまた彼女の魅力であろう。
「あなたに褒めてもらえるのが一番うれしいわ」
亜由美は恥じらいながらも、真剣なまなざしでそうつぶやく。
二人は自然と見つめ合っていた。
「君といられるのが何より僕はうれしいよ」
「私もよ」
唇からは甘い気持ちが飛び出し、空中でぶつかり合って融ける。
まるでその空気に照れたかのように草かげから虫が飛び立つ。
天上の神すら入り込めないように世界から切り離された、二人だけの国が織りなされている。
倉田はそっと亜由美の頬に触れた。
「くすぐったいわ」
彼女はそっと目を細めて抗議したものの、拒まずされるがままになる。
「すまない。でも君はここにいるのだとたしかめたくなってね」
「おかしな人。私はあなたの目の前にいるわ。そして隣を歩くの。これまでも。これからも」
彼女は照れくさそうに頬を朱色に染めたが、その瞳はまっすぐに彼に向けられていた。
倉田も己が奇妙な発言をしたという自覚はある。
「天女か妖精のようにきれいだから、ついね」
ごまかし笑いを浮かべながら言いわけを述べた。
「お上手ね」
亜由美はうれしそうにそれを受けとめる。
二人は仲よく川のほとりにしゃがみ、水の中をながめた。
手ですくってみようと触れるとまるで氷のように冷たく、倉田は思わず手を引っ込めてしまう。
「どうしたの?」
「あまりにも冷たくてちょっと驚いてね」
怪訝そうな彼女に彼はきまりが悪そうに口元をゆがめる。
「そうだったの。夏はどこま暑くて、水温もあがっていると思うのは私が無知なだけかしら」
「僕も無知だったよ。これだけ風が涼しいのだから、水がぬるい方がおかしいとさえ思わなかった」
二人はそう言いあうと静かにきれいに澄んだ水面に視線を戻す。
不意に亜由美がぶるりと体を震わせる。
だいぶ冷えてきたのかもしれない。
倉田は自分の茶羽織を彼女に着せてやる。
「ありがとう」
彼女は満開になったバラのような笑みを向けた。
「そろそろ戻ろう。十分涼は取れただろう」
「ええ」
すっかり汗が引っ込んだ二人はゆっくりと来た道を戻る。
どこか遠くから風鈴の鳴る音が聞こえてきた。