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パチパチと薪の爆ぜる音で目が覚めた。
あたりは暗く、暖炉の火だけが部屋の中を照らしている。エセルは首を回してあたりの様子を伺おうと思ったが、途端にぐらりと頭の芯が揺れて動けなかった。
「う……」
思わず唸って顔をしかめると、白くて冷たい手が彼の額に触れた。
「エセル? 気がついた? クリニャン砦に帰ってきたよ」
その声にゆっくりと振り向くと、心配そうな表情の女がひとり。
「リサ、エセル気がついたのか?」
「みたい。シドニー、ロビン先生呼んできて」
そのやり取りに、彼女の他にも人がいた事に初めて気がついた。バタバタと出ていく足音がして、柔らかい声が「エセル」と呼んだ。
「具合はどう?」
「ああ――――目が回る」
「エセルは直撃を受けたみたいだから。いま、ロビン先生が来るわ。もう大丈夫よ」
そう言ってエセルの額の汗を絞った布で拭いてくれた。
「それで……」
「ああ、バロウス達はほとんど捕まえたよ。魔術師がひとり逃げちゃって捕まえ損ねたけど。捕まえた奴らはローガンの隊が一足先に王都に連れて行った。キャリガンたちに事後処理してもらって、シドニーたちはここの砦の護衛」
「すごかったぜ、リサは! 相変わらずのパワー!」
ちょうど戻ってきたシドニーが会話に割り込んだ。後ろにはいかつい老人がいる。
ロビン先生、とリサが呼んだ。
「おう、どれ大将。見せてみな」
ロビンがエセルの診察を始めた後ろでシドニーが止めどなく話し続けている。
「エセルが気を失ってからはリサの独壇場でさ。あの大人数全部をカバーする防御結界かけながら敵方のバロウス以外に麻痺の魔法かけたんだよ。バロウスの奴、それ見て縮み上がっちゃってさあ! おっかしかったぜ、リサがひと睨みして奴に手を向けただけでヒイヒイ泣き出しやがって。そこを狙って全員捕縛の魔法だよ。なあリサ、麻痺の魔法でバロウスも一気に倒さなかったのって、ありゃやっぱり」
「もちろん嫌がらせ。だって、エセルにあんな真似してあの程度で済ませただけでありがたいと思って欲しい」
ぷう、とリサが頬を膨らませるのをシドニーがにやにやと見ている。そこへ診察を終えたロビンが声を掛けた。
「おう、要は雷撃のショックと疲労だな。ショックの方はたいしたことなさそうだ。むしろ疲労の方が強えくらいだわ。寝てりゃ治る。おうリサ、しっかり面倒みてやるんだぞ」
リサが頷くのを見届けてロビンは部屋を出て行った。
「エセル、どう? おなかすいてたりしない?」
「いや……それより」
「それより?」
エセルは少し気まずそうな顔で言葉を続けた。
「君たちは誰で、ここはどこだ?」
どうやら雷撃のショックでエセルが記憶を失ったらしいという話は瞬く間に砦中に広がった。
ロビンの提案で、必要最低限の情報を与え、あまり細かいことは伝えず、必要に伴って徐々に伝えようということになった。とりあえずエセルには名前、このクリニャン砦に常駐する部隊の大隊長であること、記憶を失った原因、そしてリサという婚約者がいることを伝えたが、エセルは案の定少し混乱しているようで、今はベッドで休ませている。
その隣の部屋で集まったリサ、シドニー、キャリガン、ロビンは示し合わせたようにため息をついた。
「うん、まあこればっかりは日にち薬だからなあ。のんびり静養させて記憶が戻るのを待つしかねえだろう」
医者には不必要な太い腕を組んでロビンが難しい顔をした。
「同じ衝撃を頭に与えたらぱっと治っちゃうとかないんすかね、ロビン先生」
「シドニー、物騒なことを言うな」
「だってよう、キャリガン、かわいそうじゃないか。2年だぞ、2年。エセルの野郎は2年もリサを思い続けて、やっとリサが帰ってきたと思ったらすっぽり記憶がなくなっちまった。報われねえじゃないか----あ、違うよ、リサのせいだなんて思ってねえよ」
「そうですよ、リサ、気に病んじゃいけません」
リサが暗い顔で俯いたので、シドニーもキャリガンもあわてて慰めに回る。けれどリサは「違うよ」と苦笑しながら顔を上げた。
「あのね、私もまる1日くらいだけど記憶を失ってたから、不安な気持ちがわかるなあと思ったの」
「リサも?」
「うん。日本に送り返されたショックなのかな、こっちにいた間のことを全部忘れちゃったの。
ものすごい不安だよ。自分が何をしていたのかどうしても思い出せないのって、足下にぽっかりあいた穴をのぞき込んでるみたいで」
「うええ」
高所恐怖症のシドニーがひどい顔をした。が、高いところは平気なキャリガンは冷静に話を続ける。
「でもリサ、君は記憶を取り戻したんだよね? どうやって?」
「あ~……うん、エセルへの愛の力で!」
「はいはい、それは置いておいて」
「ひど! 嘘じゃないのに!」
要は遠藤に押し倒されたショックで記憶が戻ったわけだから、あながち間違いではない。
「じゃあ逆にどうして記憶を失った?」
「----ああ、そうだよね。最初っから説明しないとね」
あのとき。
マリエラ侵攻軍の指揮官であるノックス公爵を追い詰め、リサとエセルは彼ののど元に剣を向けていた。ノックス公爵の周りにいたのは数名の小姓と----ひとりの魔道師だった。
だがこの魔道師は小姓たちに紛れていて、それとはわからず。
ノックス公爵を追い詰めて気がそれたほんの一瞬に、その魔道師は闇の魔法をエセルに向かって放ったのだ。
リサはそれを庇う形で飛び出し、結果記憶を失い界を渡ってしまった。
そして、リサ自身は一日で記憶を取り戻したのだが――――
「あっちの世界はね、魔素子がないのよ」
リサはため息をついた。
魔素子。それは、世界中の物質、空間に充満している物質。魔術師は魔素子を媒介として自身の魔力を放出し、魔法を行使する。魔素子がなければ魔法は発動できない。
「えっ、じゃあリサ、どうやって帰ってきたの?」
「うん、着ていた服をね。バラした」
「服?!」
「要はフローダルの物質には魔素子があったわけよ。私が日本へ渡った時に着ていた服や装飾品はフローダルで入手したものでね。つまり」
「魔素子を含んでいた、と」
そう。日本で魔法が使えず愕然としていたリサの魔力に反応したのは、洗濯機の中に入れてあった服だった。トリップして日本へ渡ったあと、記憶を失ったリサは、習慣的に服を脱いで無意識に洗濯機に放り込んでいたのだ。気がついて慌てて回収したのは言うまでもない。
「キャリガン正解。だから、細かく切り刻んだ服とバラバラにした首飾りのビーズなんかを手で並べてね。物理的に魔法陣を描いたわけ。でも、大変だったよ。それにまる1日かかっちゃった」
「無茶苦茶だ……!」
話を聞いていた三人は呆れてものが言えなかった。通常、魔法は魔力で魔法陣を描いて行使するもの。この時魔法陣は魔素子に描かれると言われている。それをこの女は魔素子が含まれるものを並べて作ってしまったのだ。
けれどこの臨機応変さ、柔軟な思考こそがリサを最強たらしめたものだとシドニーもキャリガンも理解している。それにあの1年でリサは実戦経験も積んでいる。
「無敵だ……!」
「無敵じゃないよ。無敵だったらあのとき闇の魔法なんて喰らわなかった」
その場にいる全員が嘆息した。ひとりはあのときを思い返し自分の至らなさに、後の三人は「こいつ全然わかってねえ」的なあきらめに。
「おう、まあ、いずれにしてもだな。エセルの大将にはしばらく仕事は出来ねえだろ。でも、体が戻ったら日常生活は普通に過ごさせろ。無理に思い出させようとするな。おう、いいか?」
ロビンの言葉に三人は深く頷いた。
リサは、フローダルから着て帰ってきたショールを広げ、その上に切り刻んだ布やビーズを使って魔法陣を描きました。正確さも求められるため、なかなか巧くいかなかったようです。