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ざく、とブーツが深い雪に沈み、エセルバートは大きく息を吐いた。とたんに目の前で息が白くなる。明け方は日の光に晒されてきらきらと輝いていたから、今はそれがない分気温が上がったのだろう。それでも雪の積もった森の中を歩くのは寒い。降っていないのがせめてもの救いだが、それも時間の問題だろう。空は鈍色が広がっていて、重たく雲が垂れ下がってきている。
「大隊長! 伝令であります!」
伝令役の若い兵士がエセルに向かって大きな声を出した。振り返って目を合わすと、相手は一瞬びくりとしたが、すぐに報告を始めた。
「ピオ峠を越えた向こう側の麓に多数の馬の足跡を発見! 西の方角へ向かっているそうです! 現在キャリガン小隊長が小隊をつれて追跡中!」
「わかった。」
エセルがひとこと返事をすると若い兵士はピッと背筋を伸ばして敬礼し、走り去っていった。
「シドニー、聞いたか」
「はい」
呼ばれたシドニーはすぐエセルの前へ来た。シドニーは赤毛ののっぽで明るいムードメーカーだ。
「西、ということはやはりトリンへ逃げ込むつもりか。となると、ピオ峠からストウールの森を抜けるな。キャリガンが追っているから、俺はキャリガンを追って合流する。兵を数名貸してくれ。で、シドニーは――――」
「ストウールの森の手前で待ち伏せっすね」
「よし、行くぞ」
臙脂色のマントをばさりと翻して歩き出したエセルを、伝令役の若い兵士は緊張した面持ちで見ていた。
「ボリス、伝令ご苦労さん」
同僚の兵士に肩を叩かれ、若い兵士―――ボリスは大きくため息をついた。
「いやあ緊張した。おっかねえからは、大隊長は」
「無口だし、仏頂面だしな! でも、あの人のおかげでうちの部隊は極端に死人が少ねえ。俺はエセルバート大隊長の部隊で幸運だったと思ってるよ」
「俺もだ。あの鬼神のごとき強さは半端じゃねえぞ」
エセルの左頬には大きな刀傷がある。それをはじめとして全身に傷跡があるのだが、背中側にはほとんどない。戦士として勇猛果敢に先頭に立って戦い、味方を背後に庇う――――その雄々しさに兵士たちは皆エセルバートに憧れるのだ。
「かっこいいよなあ」
「ああ、男の中の男ってのはああいう人を言うんだろうな」
そんな二人の話の腰を折るように、後ろからくすくすと笑い声がした。
シドニーだ。
「知らぬが仏とはこのことだねぇ」
「小隊長? 何のことですか」
ボリスの質問は見事に無視され、シドニーは面白そうに笑いながらぽつりとこぼした。
「まあ、そのおかげで俺たちは心強いがね。戦が収まった後の方が俺は怖いや」
「は?」
シドニーは知っている。エセルのあの態度は、大隊長としての矜持ももちろんあるが、半ば自棄に近いことを。大切な人を失って自暴自棄な戦い方をするエセルをシドニーたちが止められずにいるうちに、エセルは戦での功績で望まないままみるみる出世してしまった。おかげで大勢の部下を得て、責任感の塊のような男は無謀な戦いをすることが出来なくなってしまったのは昔からの親友であるシドニーやキャリガン、そして今は彼らが常駐しているクリニャン砦を守って留守番しているローガンにとっては幸いだったが。
(あれがフラれ男のやけっぱちだとわかったら、士気がさがりまくりだろうなあ)
エセルは振られたわけではないのだが、結婚式の前日の戦いの中で花嫁は行方不明になってしまった。もう2年も前の話になる。
だからシドニーは知っている。戦のないときのエセルの腑抜けっぷりを。部下の前では見せないが、友の前ではすっかり無気力になってしまうのだ。
そうなると実に手のかかる親友を思って小さく嘆息すると、シドニーは自分の隊に作戦を伝達するべく歩きだした。
稀代の魔術師リサの協力で隣国マリエラの侵略を退けて2年。
そのときにマリエラと内通していた貴族の大半は粛正されたが、まだ残党が現在でも残っている。今、エセルたちが追いかけているのはその残党だ。その中でも特に大物、財務大臣をしていたバロウスは粛正を怖れ逃げ出しどこかへ潜伏していたのだが、どうやらフローダル・マリエラ両国と国境を接するトリンへ向かって亡命を企てているという情報が入り、エセルたちは捜索に出て来ていたのだった。
ぬかるんだ道を急ぎ、エセルたちはしばらく後にキャリガンたちと合流した。
「よくないですね」
キャリガンが渋い顔でエセルに報告した。
「バロウスが連れている面々に、数名の魔術師がいます。それが結構使える奴らでして、めんどくさいことに」
面倒くさいどころの話ではないのだが、キャリガンは肩をすくめて見せた。エセルの部隊には魔術師はいない。広域を攻撃できる魔法など使われたら、如何に歴戦の騎士たちといえどもひとたまりもないのだ。バロウスが護衛に魔術師を連れているという情報はなかった。エセルはその警戒を怠った自分に舌打ちした。
「となると、なんとか魔術師を先に無力化するしかないわけか」
エセルは大急ぎで戦略を練った。頭の中で様々な可能性がひしめき合い、消えていく。
そのときだった。
ガガガッと激しい音がしてものすごい衝撃がエセルたちを襲った。体どころか脳の奥まで揺さぶる衝撃に、全員悲鳴を上げる間もなく次々に地面に倒れ伏していく。
(雷撃……!)
雷の魔法で攻撃を受けたと理解したときにはエセル自身もぬかるみの中にべしゃりと倒れ伏していた。鼻の奥で焦げ臭いような匂いがしている。意識はなんとかあるのだが、体はどうにも動かない。
そこへ遠くから声が聞こえた。
「やった、やったぞ! ひゃはははははっ!」
「なりませんバロウス様! 今すぐここから逃れましょう!」
「何を言う、ここでエセルバートの奴を仕留めておけば」
「いいえ、一刻も早く逃げるのが先です」
「うるさい! おい、このすきに奴らを仕留めるのだ」
エセルは「まずい」と必死に体を起こそうとした。なんとかしないと隊は最悪全滅になる。
(動け----動け!!)
ぎりぎりと体中の筋肉に力を込め、意思の力だけで体を動かす。やっとの思いで肘を立て上半身を起こす。いつの間にかちらちらと降り出した雪がなけなしの体力を奪っていくのが憎たらしい。
「化物か……! あの雷撃を喰らって」
「こ、殺せ! 早く!」
慌てたように魔導師がエセルに向かって手をかざした。攻撃魔法を撃とうとしているようだ。
(ここまでか……!)
エセルはギッとバロウスを睨みつけた。
けれど心の中に浮かぶのは、大切な女性の面影だった。
(リサ――――)
もう一度会いたかった。もう一度触れたかった。
せめて、無事だけでも確認したかった。
2年前の戦いで、エセルを庇い闇の魔法を浴び、そのままかき消すように消えてしまったリサ。
もう一度あの優しい声で名前を呼んで欲しい。
その瞬間、魔術師の手が光り、凝縮されたエネルギーが打ち出され----
エセルの目の前ではじけて飛んだ。
「ちょっと、突然何してくれるのよ」
「!」
「まったく、こっちに着くなり攻撃魔法とかワイルドだわ。誰よ、あんた」
聞こえてきた声はこの2年決して忘れることのできなかった声。なんとか視線を動かすと、そこには----
「リ……サ?」
「エセル!」
リサだ。リサが戻ってきた。
その安堵感に、駆け寄ってくるリサの姿がどんどん暗くなっていって、エセルは気を失った。